10/2 こども説教 ルカ7:36-50
『多くの罪をゆるされたから』
7:37 するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、38
泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。39 イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。40
そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。42
ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。・・・・・・47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。48
そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。49 すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。50
しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。 (ルカ福音書 7:36-50)
シモンという名前の一人のパリサイ人が主イエスを自分の家に招いて、いっしょに食事をしようとしました。シモンは主イエスにあまり親切にしなかったし、ほどほどの、ほんの少しのおもてなしをしただけでした。神さまに背くとても罪深いことをしたことのある女性もその家に入ってきて、大きな愛情と感謝の気持ちを主イエスに対して現しました。37-38節に書いてあるとおりです。「香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」。シモンは、こっそりと心の中で主イエスをバカにしました。39節。「なアんだ、このイエスという奴もたいしたことないなあ。神さまに背く悪いことをした女だと知らずに、あらあら、まあまあ」。41節からの主イエスとシモンのやりとりを見てください。主イエスは語りかけました、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
シモンは答えました。「多くゆるしてもらったほうだと思います」。誰でも分かります。そのとおりですね。47節、主イエスはおっしゃいました、「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(*)。50節。最後に、イエスは女にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。主イエスを信じる信仰がほんの少ししかないのに救われた人々もたくさんいます。それどころか、ほんの少しもないのに救われて、大きな祝福を受け取りつづけている人もいるくらいです。それでも、主イエスを信じる信仰こそが何より大切です。「あなたの信仰があなたを救った」とまで誉められ、大いに喜んでいただけた人は、聖書の中でも外でもほんのわずかしかいません。だから、もしあなたも、主イエスを信じる信仰によって救われたいと願うならば、この女性の信仰を見習って、自分のための良い手本とする価値があります。では質問。この女性の信仰はどういう信仰でしょうか? 『神さまが、こんな私をさえ、とてもとても愛して、すごく親切にしてくださって、神に逆らう罪深さも山ほどあったのにゆるしてくださった。ありがとうございます、ありがとうございます。ああ、嬉しい嬉しい嬉しい。本当に嬉しい』という信仰です。この一人の人は、頭のてっぺんからつま先まで全部、『そうされる資格も値打ちもなかったはずなのに、けれど神さまからとても多く愛された私だ。わあい、わあ~い、嬉しいなあ』という中身でできています。びっくりですね。
【補足説明】
(*)47節。「多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」。とても大事な急所です。注意して読みましょう。「~したら、~してもらえる」という交換条件や取り引きとはまったく違います。順序が逆なのです。『まず最初に、多くの罪をゆるされ、多く愛された。その恵みの結果として』多く愛することのできる人間にしていただいた、という意味です。よく分かりますか?
神は愛する相手を選んでおらず、無条件に、手当たり次第に、誰でも彼でも分け隔てなく愛そうとしつづけます。けれど、このシモンのように、神からの愛を受け取り損ねる者たちが数多くいます。その結果としてシモンは、神をも隣人をも愛することに失敗しつづけています。「私なんかは愛される資格がない」などと誰かが言います。そのとおり! 資格がなく、ふさわしくないのに、けれど愛された。だからこそ感謝して、大喜びに喜ぶことができるのです。あの女性のように。「神に感謝せよ。主をほめたたえよ」(詩103:1-2)と聖書が呼ばわりつづけるのは、このためです。受け取っている恵みを自分の魂に深々と刻み込み、神への感謝を覚えつづけるのでなければ、私たちもこのシモンのように批判がましく不満げで、心の冷え切った、さびしいクリスチャンに成り下がってしまうからです。魂も信仰も、いつの間にか枯れ果ててしまいます。恐ろしいことです。