みことば/2016,10,23(主日礼拝) № 82
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:1-14
日本キリスト教会 上田教会
『日曜日の願いと目的』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。2
パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。4
すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。6
あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。8
人の子は安息日の主である」。9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。11
イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。12
人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。13 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。14
パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
(マタイ福音書 11:3-12)
|
マタイ福音書12:1-14。安息日に起こった2つの出来事が報告されています。まず1-8節、主イエスと弟子たちが麦畑の間を通っていたとき、弟子たちが麦の穂を摘みました。それを見とがめた人々が主イエスに文句を言いました、「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。どういう教育をしてるのか、躾が全然なってないじゃないか」(2節参照)。少しの説明が必要です。私たちの国では、法律上また一般的な道徳として『他人のものである麦畑の麦の穂を勝手に摘んで自分のものとしたり、食べる』ことが問題になり、もしそれを誰かに見つかれば叱られたり、警察に捕まえられたりします。けれど彼らの国の法律では、それはゆるされています。なんと驚くべきことに、神の国の法律(=律法)では、貧しい者たちや腹を空かせた者、隣人たちに、困らない範囲で自分のものを分け与えよと命じていました。「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人(寄留者・きりゅうしゃ=外国から出稼ぎに来ている、心細く不安定な扱いを受ける労働者)と孤児と夫と死に別れた未亡人に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。・・・・・・あなたはかつてエジプトの国で自分自身が奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである」(申命記24:19-22)。欲張ってむさぼり尽くしてはならない。神さまからの憐れみを受けた者たちは、受けたその憐れみを仲間たちに差し出しなさいと。他のどこにもないほどの、寛大で思いやりにあふれた法律でしょう。これが、神からの律法の心です。
ですから彼らにとっての問題は、『安息日に働いている』という一点に集約されます。麦畑の件では、主イエスは仰いました。「神殿で神に仕えている祭司たちは供え物のパンを食べることがゆるされている。神殿よりも大いなる者がここにいて、彼ら弟子たちはその者に仕えている。しかも『主が好むのは憐れみであって、いけにえではない』と聖書に書いてある意味が分からないのか。人の子(=主イエスご自身のこと)は安息日の主である」(8節)。
『安息日』の意味を、ぼくが教えられて心に覚えこんできだ分だけ、今日すっかり全部お話します。安息日の『安息』の意味は、活動停止であり、何もしないことであり、自分が抱え続けた仕事や責任や使命などもろもろを離れ、すっかり手放すことです。はじまりは、世界創造の7日目です。その前の日の6日目には、神さまはご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と、大喜びに喜んでくださいました。7日目に、神さまご自身がご自分の仕事を離れ、安息なさり、お造りになったすべてのものとその日を祝福し、ご自分のもの(=聖別)とされた。それが、私たちと神さまとの出発点です。神さまがそうなさったので、この私たちもまた、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。それは活動停止であり、抱え持ったもろもろを手離して、脇に置く。そうして初めて、そこでようやく、お造りになったすべてのものを神さまがご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と神さまが大喜びに喜んでくださったこともまた、私たちの腹に据えられます(創世1:31-2:3)。ああ本当にそうだ、と。
やがて、しばらくの時をへて、奴隷とされていたエジプトの国を連れ出されたとき、荒れ野の旅が始まってすぐに人々は、「食べるものがない。うまい肉もない、飲む水もない」と不平不満を言い出します。葦の海を渡ったすぐ後、出エジプト記16章です。主なる神さまは人々をご自分の御前へと呼び集めます。叱りつけたり非難するためではなく、慈しみと憐れみをもって養うためにです。約束通りに、人々は天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされます。「私たちのやり方や考え方とはずいぶん違うことをなさる神だ。こういう神だったのか」と一同して皆でビックリ驚きたいのです。主なる神は仰いました。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」(出エジプト記16:12)。あの彼らもここにいるこの私たちも、誰でも皆同じです。天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされ、「ああ本当にそうだ。嬉しいなあ」と驚き喜ぶのでなければ、主が主であることを知るようにはならないのです。そのための、一日分ずつの天からの恵みのパンと肉と水。7日目に手を止めて、神さまをこそ仰ぎ見て、しかも十分に養われつづけていることを心に覚えて感謝をする。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします、と。『主が主であることを知る』ことこそ、今日にいたるまでずっと、習い覚えるべき教会教育の目標でありつづけます。これが、イロハのイです。
七日に一度の『安息日』という教育手段の広がりと展開。七年に一度の安息年へ、7年×7のヨベル年へ、さらに終わりの日に私たちがあずかるはずの神の安息へ(レビ記23:1-25,ヘブライ3:7-4:13)。創造の7日間に遡りつづけますが、それは、「神さまがご自分の仕事を離れ、安息なさり、祝福し、ご自身のものとして聖別なさった」ことに由来します。この私たちもまた、その神さまからの祝福を受け取って生きるために、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。安息しつつ、その只中で神さまにこそ目を凝らし、仰ぎ見る。神さまからの祝福に預かり、神さまのものとされる。なにしろ日曜日、なにしろ礼拝第一。かつても今も私たちが信仰をもって生きるための生命線でありつづけます。安息日の格別な幸いをぜひ分け与えてあげようと、神さまはあなたを待ち侘び、あなたを大歓迎なさいます。主なる神さまからの恵み、憐れみ、平和が、あなたとご家族の上にありますように。ぜひ、そうでありますように。
さて、9-14節。安息日の会堂に、片手の萎えた一人の人がいました。悩みと困難さと心細さを抱えた一人の小さな人が。その人は、神さまの憐れみを求めて、その憐れみのもとで生きてゆきたいと願って、その礼拝者たちの群れの中にいました。主イエスは、その人を、皆の真ん中に立たせます。「手を伸ばしなさい」とお命じになりました。伸ばすと、その手は元どおりになりました。また、手の萎えた人を癒してあげたとき、そこにいる人々にはっきりとおっしゃいました;「安息日に良いことをするのは正しいことである」(12節)。人々は黙り込みました。12節、「人は羊よりも優れている。羊の命を救うのがゆるされるなら、まして人の命を救うことが許されるのはなおさらではないか」。人を見て法を説く救い主です。人間が羊より優れて価値があるわけではありません。また、優れている存在なら救うに値するのか、劣った価値の低い存在なら神はそれを見殺しなさるのか? いいえ、そうではありません。羊も人も分け隔てなく、曜日に関係なく、かわいそうに思って救ってあげるのが御心にかなっています。念のために。
礼拝と安息日の遵守。それは、ものすごく大切です。神を愛し、隣人を自分自身のように尊べと命じる『神さまからの律法』もまた良いものであり、大切な生命線です。けれど、「それはなぜか。何のためか、どういう中身か」と立ち止まって問うことを忘れるとき、私たちはごく簡単に、『律法を重んじる人』から『律法主義者』へ、『形を重んじる人』から単なる『形式主義者』へと成り下がってしまいます。あるいは正反対に、それを横目で見て、何でも思い通りにすればいいという『好き放題主義者』へと。けれど元々、神を愛し、隣人を自分自身のように尊べと命じる『神さまからの律法』は、そのように暮らすことができればそれにまさる幸いはないほどの、飛びっきりの『福音』でさえあったのです。律法か福音か。いいえ、律法の中身こそ福音の中身そのものであったのですから。主イエスの弟子たちの素行の悪さを見とがめて人々が文句を言ったとき、彼らはとても大事な証言を主イエスご自身から聞いていました。「安息日に正しいことをするのは良いことである。しかも、救い主イエスこそが安息日の主であられる。安息日の主。つまり、一週間のうち一日分だけ主である。他の月曜日や火曜日には、水曜日や木曜日や金曜日には、私たちには別の主があると。まさか。世界創造の7日間がすべてを物語ります。繰り返しますが、6日目、神さまはご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と、大喜びに喜んでくださいました。7日目に、神さまご自身がご自分の仕事を離れ、安息なさり、お造りになったすべてのものとその日を祝福し、ご自分のもの(=聖別・せいべつ)とされた。神さまはご自分がお造りになったすべてのもの祝福なさったのですし、そのための格別な1日でした。安息日に手渡された祝福が、月曜日にも火曜日にも水曜日や木曜日や金曜日にも、朝にも昼にも夜更けにも及ぶようにと。その出発点、その根本の土台としての日曜日です。そのための、毎週わずか1時間半ばかりの格別な時間。むしろ、月曜日から土曜日までの私たちのいつもの168時間と30分ほど(24時間×7日-3/2時間)を、私たちがどのように生きるのかこそ、最重要の課題です。日曜の朝に受け取った主イエスからの恵み、憐れみ、平和を携えてゆき、1週間ずつを生きること。礼拝からそれぞれの現実生活へと送り出され、一週間ずつを生きて、また礼拝へと呼び集められ、また送り出され、そこで生きて、呼び集められてと一週間ずつ区切られながらつづくクリスチャンの生涯です。神さまからの祝福が、そのように、この私たちの一日ずつのいつもの暮らしぶりを用いても、この世界に及んでゆく(創世記12:1-9参照)。それこそが神さまご自身のご計画でありつづけます。取り分けられたわずか1週間に1日、それは全世界のための、7日間全部のための祝福の出発点でした。取り分けられたわずかな人々、私たちクリスチャンが神さまからの祝福を受け取って生きてゆくことの意味も、まったく同じでした。あなたやこの私を通しても! 地上のすべての生き物たちに祝福が及ぶ。祝福の源、土台、出発点にする。それが創世記12章1-3節の約束でした。アブラハムとサラ、彼らと子供たち孫たち、親戚一同のためなどというケチ臭い、ちっぽけな祝福などではなくてです。クリスチャンだけの、ではなくて。人間さまだけの祝福と恵み、ではなくて。すべての生き物たちへと広々と及ぶはずの(創世記1:31-2:3,同9:8-17,レビ記23:1-25,ローマ手紙8:18-23を参照)。
だからこそ、主の弟子たちはここにいるこの私たちのためにも告げ知らせたのです;救われるためには、この私は、どうしたらいいでしょうか。「洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。あなたの罪をゆるしていただきつづけ、互いにゆるしあって生きる者とならせていただきなさい。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも与えられているものなのです」(使徒2:37-39,同16:31)。もう一度、申し上げましょう。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなた自身も、あなたの家族も救われます。本当のことですよ。