◎とりなしの祈り
主なる神さま。「渇いている者はみな水に来たれ」と招かれました。「すべて重荷を負うて苦労している者は」(イザヤ55:1-,マタイ11:28-)と招かれました。あなたからのこの招きを、どうか、真実なものでありつづけさせてください。あなたのものでありますすべてのキリスト教会を、掛け値なく嘘偽りなく、そのような場所でありつづけさせてください。
なぜなら主よ。この国で貧しく心細く暮らす外国人労働者とその家族がいるからです。母子家庭の家族も、若者たちも老人の多くも、貧しいギリギリの生活を強いられているからです。原発事故がまだまだ少しも収束していないのに、なおそこで暮らさなければならない人々がいるからです。いつ大事故が起こっても不思議ではない土地に恐る恐る暮らしつづけている多くの家族がいるからです。原子力発電所で健康と命をむしばまれながら、使い捨てのように働かされている下請け労働者たちがいるからです。何十年もずっと植民地扱いされつづけ、沖縄の人々の願いと生活がないがしろにされています。日本人も外国人も、正社員も非正規雇用の労働者たちも踏みつけにされつづけ、おびただしい数の人々が、他所でもこの国の中でも、呻きつづけているからです。また、すべての教育現場と、医療機関と福祉施設で働く職員たちが健全な良心と十分な公正さをもって職務を担いつづけることができますように。子供を育てている親たちを顧みてください。だからこそ、あなたのものでありますキリスト教会と私たちすべてのクリスチャンたちが、あなたの御心にかなって働き、それぞれの家庭や職場にあっても世の中に対しても、世の光、地の塩としての役割を十分に果たすことができるように強く導いてください。この世の在り方と妥協せず、心を新たにされ、日毎に造りかえられ、何が神さまの御旨であるのか、何が良いことで、何がしてはならない悪いことなのかを弁え知る私たちとならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2016,10,16(主日礼拝) № 81
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:25-30
日本キリスト教会 上田教会
『疲れた者、重荷を負う者は』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。26
父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ福音書 11:25-30)
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まず25-27節。天の御父に向かって主イエスは語りかけています;「あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢いものに隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」。不思議なことです。神の国の福音を、受け取る者たちがおり、受け取らない者たちがいます。これを信じる者たちがおり、信じない者たちもいます。知恵ある者たちや自分で自分を賢いと思う者たちの目には、神ご自身の賢さや豊かさや、神が生きて働いておられることは隠されている、というのです。小さな子供のような者にだけ、それらは現されました。そうしたやり方はまったく神の御心にかなうことだったと、主イエスがおっしゃるのです。
なぜそうであるのかは、私たちにはよく分かりません。けれどなお、神の国の福音はその同じ一つのやり方で告げられ、手渡されつづけてきました。初めのときから今日に至るまで。私たちそれぞれが主イエスの福音を告げられ、手渡された仕方も、この通りでした。「私は知っている。私はけっこう賢い」と思っていたとき、その思い上がった私たちの目と心からは神の真実は隠され続けました。《知っている。賢い。取り柄があり、役に立ち、良いものをたくさん持っている私だ》とうぬぼれ、あるいは逆に、《あまり知らない。そんなに賢くもない。取り柄もなくあまり役にも立たず、取るに足りない小さな私だ》といじけました。私たちが根深く抱えたそうした自尊心と誇りとが、あるいは卑屈にいじけた思いが、私たちの目と心を眩ませつづけました。あまりに人間的で生臭すぎる私たちです。その中で、ほんの一握りの者たちは喜びに溢れました。あの貧しい女性ハンナのように、またあの最初のクリスマスの日々のマリアのように (サムエル記上2:1-,ルカ1:47-55)。身分の低い、下っ端の下っ端の下っ端のしもべのような私に主なる神さまが目を留めてくださった。これが恵みを恵みとして受け取る私たちのいつもの場所です。力ある神さまが、こんな私のためにさえ! 偉大なことをしてくださった。これが私たちのいつもの場所です。低くされていた私の顔と眼差しを、主が高く引き上げてくださった。これがいつもの場所です。飢えていた私を、主が良い物で満たしてくださった。受け入れるに値しない私を、なお主は受け入れ、私に対する憐れみをお忘れにならなかった。これが、主の憐れみを憐れみとして受け取り、恵みを恵みとして受け取って喜び祝うための、私たちの福音の場所です。
それにしても、「すべて重荷を負うて苦労している者は」(28節)と招かれるのです。誰でも皆、例外なく、一人残らずと招かれますが、ただし、それは「疲れた者と重荷を負っている者」でなければならないのです。同じように、「さあ渇いている者は、みな水に来たれ」(イザヤ書55:1)と招かれます。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、「ああノドがカラカラに渇いた。苦しい。水が飲みたい、飲みたい」と困っている者なら誰でも来なさい。つまり、ノドが渇いていないなら、おいしくて冷たい水を飲みたい、飲みたい、飲みたいと困っていないなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを休ませるためだからです。私たちの重荷を降ろさせてあげたいからです。ノドと魂の渇きを覚えている私たちを「さあ、いらっしゃい。あなたも、あなたもあなたも」と招くのは、冷たくおいしい水を腹一杯に飲ませてくださるためです。しかも無料で(イザヤ55:1-3,黙示録21:6,ローマ3:21-24)。あまりに出来すぎたうまい話なので、私たちにはなかなか信じられませんでした。何か裏があるんじゃないかと思っていました。クリスチャンの中にさえ、今なお、それを疑う人々がいます。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21:6)。その通りにしていただいているくせに、今なお、飲んだ水の代金を渋々ながら支払っているつもりの者たちさえいます。飲んだうまい水と引き換えに、汗水たらして働いてその代金を支払っていると勘違いしている者たちがいます。それでは、せっかくの恵みが台無しではありませんか。ねえ!
29節の「わたしのクビキを負いなさい」は、ちょっと難しい。どういうことでしょう。そして「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」。なぜ負いやすく、軽いのか。(何十年も昔の農家の普段の仕事ぶりを見たことも聞いたこともない人たちには、ていねいに説明しないと分かってもらいにくいでしょう。耕運機やトラクターの代わりに牛や馬を使っていました)牛や馬の首に渡す横木をクビキと言いました。昔は、それで二頭くらいずつ組にした牛や馬に農耕具を引っぱらせて、土地を耕したりしたらしいのです。あるいは、その横木に台車を結びつけて、牛や馬に荷物を運ばせたのです。あなたもその牛や馬のように、主イエスのクビキを負って、主イエスの畑を耕し、主イエスの荷物を運べと命じられています。どうしましょうか。もちろん、あなたの自由です。「そんなのは嫌だ」と言うなら、もちろん、そうしなくてもいいのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(28-30節)。この招きこそが、私たちを主イエスのもとへと招きつづけました。これまでもそうですし、これからもそうです。実にまったく、私たち人間は荷車を引っ張る牛や馬のようです。誰もが、それぞれの横木を首にかけられて、それぞれの荷車を引っ張りつづけて生きていきます。喜んで荷物を引っ張っている牛もいれば、そうではない牛もいます。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「自分はなんであんなひどいことをしてしまったんだろう。だめな私だ。どうしようもない私だ」という自責の念や後悔を引っ張って歩いている者たちもいます。「人様に恥ずかしくないような立派な生活をし、立派な仕事を成し遂げ、恥ずかしくない人間にならなければ」「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」と大きな荷物を歯を食いしばって引っ張りつづけている牛もいます。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物を、無数の牛や馬達が必死に懸命に引っ張りつづけています。それがこの世界です。「私の荷物は重すぎて、到底もう担いきれない。疲れ果てた」と溜め息をついている牛や馬たちの中の何頭かが主イエスの招きの声を聞き届けました。この私たちも、主イエスのもとに来てみました(『くびき』;政治的屈服、苦役、罪の重荷など、否定的な意味のたとえとしても用いられ、しかし同時に「主への服従」という肯定的・積極的な意味をも表した。昔から、「主のくびきを負い、主に従え」と命じられつづけ、けれど先祖と私たちは主ご自身のくびきを折り、捨て去り、主に背を向けつづけた。「主に反逆し、罪の中に留まることこそが、あなたがたを疲れさせる重荷ではないか」と預言者らは警告しつづけた。マタイ福音書 11:28-30は、主への服従へとあたらめて私共を招く。エレミヤ書 2:20,同 5:5,同28:13,哀歌 3:27,詩 2:3,日キ出版局の家庭礼拝暦(2016,10/10,同28の項目)を参照)。
皆さん。主イエスのもとに来て、主イエスのクビキを負い、主イエスの荷物を運びはじめた牛や馬たち。で、正直なところ、どうだったんですか? じゃあ、手を挙げてください。「約束どおりで、すっかり休めたし、主イエスの荷物はすごく軽かった」という牛は? 「いやあ、すっかり騙された。休むどころか、今までよりもっと何倍も重い荷物を背負わされ、馬車馬のように休む間もなくこき使われ、ひどい目にあった。だから疲れて疲れて仕方がない」という牛は? ――ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物はと~っても軽い》という王国なのです。王に命じられて調査員たちがこの王国全体を訪ね歩き、主イエスのところに来た牛や馬たちの一頭一頭に同じことを聞いて回っています。「で正直な所どうだったんですか?」と。王自身が案じていたとおりの、危うい調査報告が次々に寄せられました。困ったり苦しんだり、怒ったり苛立ったり悲しんでいる牛や馬たちがあちこちにたくさんいました。例えば、豊かな牧草が生い茂る幸いな野原には99頭の牛たちがいました。彼らは眉間にシワを寄せ、腹を立てて、「けしからん。一頭の迷子の牛を探しに行って、いつまでたっても飼い主が戻ってこない」とつぶやいていました。部屋をピカピカに掃除し、おいしい料理を作っていた牛は、けれど苦しげな淋しい顔をして、「私ばかりに働かせて、なんとも思わないんですか。他の牛や馬たちに手伝うように言ってください」と叫んでいました。また別の牛は、「何年も主人に仕えてきた。言いつけに背いたことは一度もない。それなのに」と暗い顔をして背中を向けるのです。また別の一群の牛たちは、「最後に来たあの生ズルくて要領がいい牛や馬たちはほんの一時間しか働いていない。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちとどうして同じ扱いをするんだ。それじゃあ、私たちの辛抱も苦労も丸つぶれじゃないか」と(ルカ10:38,15:3,26,マタイ20:10)。王国中から調査員たちが次々と戻ってきて、物悲しく淋しい報告を告げつづけます。その報告に耳を傾けながら、この王国の王様は心を痛めました。「なんということだ。一体どうしたらいいのか。ここは、《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国だったはずなのに。これでは、王国の看板も招きの言葉も嘘いつわりだったことになる。休ませてもらえるはずが、かえってここで疲れ果ててしまうなんて、それでは消費者を騙して儲ける悪質なペテン業者の商売と同じじゃないか」。あの柔和で謙遜な、とても素敵な王様の招きの言葉を、そして《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国の看板を、嘘いつわりにしてはなりません。
王のもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主が私の代わりに背負ってくださっている。だから軽いのです。私たちは働いてもいいし、休んでもいい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。けれど、一つだけルールがあります。ここは憐れみの王国であるというルールです。《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国でありつづけるというルールです。何をおいても何としてでも、この一つのルールだけは死守しなくてはなりません。それが嘘いつわりにならない範囲でなら、もし働きたいというなら、あなたは精一杯に思う存分に働くこともでき、誰に遠慮することもなく満ち足りるまで休むこともゆるされます。だから時々、特に働いたり担ったりするときに自分の顔つきを鏡で見て確かめてみる必要があります。仲間の牛や馬たちの顔つきや足取りにも目を留める必要もあるでしょう。眉間にシワを寄せて、困ったような物淋しいような難しい顔をしはじめるなら、一声かけてあげましょう。「いいから安め。横になれ」と。いつの間にか重くなってしまったその荷物を降ろさせてあげねばなりません。「とっても軽い。すごく軽い」と喜び祝って運べる場合にだけ、この私たちは! 主イエスの荷物を運ぶことがゆるされます。そうでないなら、指一本も動かしてはなりません。他の牛や馬たちをここに連れて来たければ連れてきてもいい。そうしたくなければしなくてもいい。ここが本当に嬉しく格別に安らかな場所だと分かっている者だけが、「来てみなさい。騙されたと思って、義理でもいいから。試しに一回来てみてください」と他の牛や馬を誘うことがゆるされます。そうでない限りは、一言も誘ってはなりません。「それで成り立つのか?」ですって。もちろんです。主ご自身とその教会を見くびってはなりません。なにしろ私たちの主なる神は生きて働いておられます。あなたのためにも、こんな私のためにさえ。だから立ち止まり、鎮まって耳を澄ませましょう。あなたの耳にも、王国の王ご自身の同じ一つの呼び声が聞こえますか。聞く耳があって、あなたにも、まだちゃんとはっきりと聞こえ続けていますか。主イエスはおっしゃいました;「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは、本当のことです。