10/16 こども説教 ルカ8:16-18
『もし光があるなら、燭台の上に置く』
8:16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。17
隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
(ルカ福音書
8:16-18)
16節を読みましょう。「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」。分かりやすいですね。もし、あなたが明かりをもっていて、それを灯したならば、それなら、せっかくだから燭台の上に置いて、部屋の中を明るく照らしたらどうですか。そのほうが気分がよくて、嬉しいでしょう? けれど、明かりを持っていなくて、たとえ持っていてももったいないから、減ったり無くなったりしないように引き出しの奥のほうに大事にしまっているっていうのなら、それはそれで結構です。あなたの好きなようにしたらいい。けれど、何のことを話しているのか分かりますか。これは、おしゃれで素敵なローソクのことじゃなく、長持ちするらしいLED電球のことでもなく、どんなカッコイイ照明器具のことでもなくて、また、「料理が上手とか。仕事がよくできるとか、なんでも知ってて頭がよくて教養たっぷりで、誰それさんはみんなに尊敬されている立派な人だとか、私はあまりそうでもない」などという人間同士のいつもの品評会のことでもなく(*)、そんなこととは何の関係もなく、ただただ神さまのことです。この私たち自身の才能だとか、「まあ素敵な賜物をお持ちで羨ましいわ」とか、賢さ、優秀さなどとは何の関係もない。そうではなくて、素敵な、とても心優しい、強くて愛情深くて親切で、とても頼りになる素敵な神さまのことですし、その神さまととうとう出会って、神様を信じて生きはじめたこの私たち自身のことです。じゃあ、一番大事なことをお話しましょう。救い主イエスはおっしゃいました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8:12)。
もし仮に、あなたが主イエスとすでに出会っていて、主イエスを信じて暮らしているのなら、素敵な明かりを持っている。他のどこにもない、その飛びっきりの明かりを、もし仮に、あなたが持っているのなら、せっかく点っている明かりを鍋の下やベッドの下や押し入れの奥深くに隠したり、わざわざその明かりを吹き消して引き出しの奥深くに隠したり、しまっておいたりしてもつまらない。その素敵な飛びっきりの輝く明かりは、灯して部屋を明るく照らしつづけても減って無くなったりはしません。かえって、増えて、大きくなって、ますます明るくなってゆきます。その逆に! どこかの暗がりに隠しておいたら、不思議なことに、それはどんどん小さくなって、消えてなくなります。もし、主イエスという方に出会って、信じているなら、あなたがその光を照り返して、自分の部屋やヨソの部屋や、道端やあちこちを照らす、素敵な明るい光に、あなたや私自身がなることができます。救い主イエスという光を反射して照り返す、そういう光の子供たちなのですから。素敵ですヨオ。「あなたがたは世を照らす光である」(マタイ福音書5:14)と主イエスが太鼓判を押してくださったのは、このことです。
【補足説明】(*)「人間同士のいつもの品評会のことでもなく、そんなこととは何の関係もなく」としばしば、わざわざ言い立てつづけているのは、クリスチャンにとっても、神を想いつづけることが難しいからです。いつのまにか思い煩いや悩みがイバラのように生い茂って、心の庭を薄暗くしてしまいやすいからです。誰彼が特にそうだというのではなく、誰も彼もが皆そういう性分を抱えています。せっかく神を信じて生きはじめたはずなのに、気がつくと、自分自身や周囲の人間のことばかり「ああでもない。こうでもない」と思い煩って、気に病みつづけています。「料理が上手とか。信仰深くて清らかで、神さまのことも教会のことも○△さんたちはよくご存知らしい。それに比べて、こんな私は。仕事がよくできるとか、なんでも知ってて頭がよくて教養たっぷりで、誰それさんはみんなに尊敬されている立派な人だとか、私はあまりそうでもない」などと指摘されて、自分自身に思い当たるフシがありますか。「人間のことばかり思い煩って、そのおかげで神を思う暇がほんの少しもない」(マタイ16:23参照)と厳しく叱られたペテロの病気を、この私自身も同じく抱えています。