2016年10月30日日曜日

10/30「傷ついた葦、くすぶる灯心を」マタイ12:15-21

                                         みことば/2016,10,30(主日礼拝)  83
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:15-21                      日本キリスト教会 上田教会
『傷ついた葦、くすぶる灯心を』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。                                          (マタイ福音書 12:15-21)


まず15-16節。多くの人々が主イエスに付いてきた。主イエスは彼らを皆いやした。けれど、病気を癒されたことや主イエスのことを他の人々に言い広めないようにと戒めた。――申し訳ありませんが、「人々に現さないように。言い広めないように」という、この謎めいた口止めをあまりはっきりと説明することができません。主の弟子たちに対しても他の人々に対しても、その口止めは一時的なものであり、やがてその口止めは解かれます。弟子たちも他の人々も、やがて救い主イエスのことを言い広めはじめるときが来ます。例えばキリスト教会のはじめの頃、この信仰が広まることを不都合に思う警察や支配者たちや役人や偉い議員たちなどから脅かされても、きびしく叱られても、たとえムチ打たれ牢獄に閉じ込められても、主イエスの弟子たちは涼しい顔をして、こう言い返しました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」。また、「ナザレ人イエス。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないのである」(使徒4:10-12,19-20と。なぜなら、キリストから注がれた愛が彼らに迫り、彼らを駆り立てて止まないからです(コリント手紙(2)5:14。わたしたちも、まったく同じです。
  さて17-21節で、預言者イザヤの語った言葉(イザヤ書421-4節)が引用されます。このような救い主がやがて来られると預言され、その預言は主イエスを指し示しています。「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている灯火を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。いためられ、傷つけられ、いまにもポッキリと折れてしまいそうな一本の葦。煙って、今にも消えてしまいそうな燈心。どういう意味でしょう。なんのことを言おうとしているのでしょうか? それは神さまへと向かおうとして、そうしたいと願いながら、けれども足踏みし、ためらい、行きつ戻りつしながらて立ち往生している魂です。すでに十分に受け取っているはずの恵みが、どうしたわけか弱々しい。神へと向かおうとする心が邪魔され、思い煩いと悩みの中で気を紛らわされつづけている。信じていないわけではないけれど、その信仰はあまりに小さく、弱々しく、頼りない。それはまるで傷つけられ今にもポッキリと折れてしまいそう一本の葦のようです。くすぶって消えかけている灯火のようにです。ほんのかすかな隙間風に煽られただけでも、今にも消えてしまいそうです。そのような危うい人々に対して、主イエスはとても親切で、憐れみ深い。その人々がかわいそうでかわいそうで、捨て置くままにしておけない。そういう救い主である、と預言者は告げます。たとえ今にもポッキリと折れてしまいそうだとしても、その弱々しい、その脆く危うい一本の葦は決して折られることがない。くすぶって、今にも消えてしまいそうだとしても、それでもなおその灯火は決して吹き消されない。それが、神の憐れみの王国の真実です。なぜなら、すでに十分な恵みを受け取りながらたやすくそれを見失い、手放してしまいやすいその人々を、信仰の弱く乏しい人々を、神へと立ち返ろうとする心が思い煩いと悩みのイバラに覆い尽くされてしまいやすい人々を深く憐れみ、滅びるままに捨て置くことなどとてもできないと惜しんでくださる救い主イエスだからです。
  どんな救い主であり、どういう救いがどのように差し出されつづけていると思っておられましたか? 「いためつけられて、今にもポキンと折れてしまうそうな一本の葦を、けれども折らない、誰にも折らせない」と断固として立ち塞がる救い主です。「くすぶって、ちょっとしたすきま風やそよ風にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯火をけれども消さない。誰にも吹き消させない」と断固としておっしゃる救い主であり、そのように差し出される救いです。人々から見下され、除け者にされていた取税人を憐れむ救い主であり、貧しく小さな者を慈しみ、罪人だと決めつけられていた者たちの友だちになってくださる救い主です。だからこそ、それまで神を知らなかった者たちも、神に見向きもしなかった者たちさえ、救い主イエス・キリストの名にこそ望みを置くのです。
  「今にもポキンと折れてしまうそうな一本の葦を、けれども折らない、誰にも折らせない救い主である」と、そのことをキリストの教会は聞き分けねばなりません。「くすぶっていて、ちょっとした隙間風やそよ風にも今にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯火を、けれども消さない。誰にも吹き消させない」という憐れみの救い主に、すべてのクリスチャンは、また救い主の名を慕い求めるすべての貧しく小さな者たちは、よくよく目を凝らし、耳を澄まさねばなりません。なぜなら、傷ついた葦とくすぶりかけた灯火は、自分から簡単にポキンと折れてしまいそうになり、せっかく残っている大切な残り火を「もうダメだ。どうせ私は」などと諦めて、自分自身で吹き消してしまうかも知れないからです。「私なんかが救われるはずがない。だって、私の信じる力は弱すぎるし、神さまのことをあんまりよく知らないし、自分勝手でわがままで人になかなか親切にできないし、こんな私じゃあ」などと恐れや心配に飲み込まれ、「どうせダメだ。無理だ」とがっかりしたり諦めてしまいそうになります。だから、その人たちには、ぜひこの『ポッキリと折れてしまいそうな一本の葦。くすぶって、今にも消えてしまいそうな灯火』のところを読んでもらいたいのです。こういう救い主か、本当にそうだったのかあと、ぜひその人たちにも知っていただきたいのです。なかなか分かっていただけないんですけれど、その人の信仰が大きくてしっかりしているか、小さくて弱々しいか、新しくて未熟か、古くて50年も60年もたっているか。そんなことと神の恵みとは何の関係もありません。だから、それは恵みなのであり、だから神さまからの憐れみの贈り物なのです。その人に芽生えた神さまへの信仰は、たとえとても小さくて弱々しくても、まだまだ新しくて未熟でも、その人は救い主イエスと出会って、イエスを知り、このお独りの方を信じて生きはじめることができます。本当のことですよ。
 はじめが肝心なので、例えばキリスト教入門講座の第一回目の授業ではこういうことを話します。「『神を信じる』ためには、すっかり頭を切り替えねばなりません。『私なんかに神が信じられるだろうか。どうしたら出来るだろう。どうしたら分かるだろうか。・・・・・・いいや無理だ』と、とくに長年生きてきた年配の方々は頭を抱えます。いいえ、違うのです。『今はあまり信じられないし、さっぱり分からないけれど、信じたい。分かりたい』と、もし願うなら、神さまが信じさせてくださいます。神さまこそが、こんな物分りの悪い私にも分からせてくださる。『この私が信じる。私が分かる。私が~できる』という何十年も体に染みついてきた《わたし中心・人間中心のモノの考え方》から、『神こそが信じさせてくださる。神が分からせてくださる。神が、こんな私にさえ、~させてくださる』という神中心の考え方へ この180度の、グルリとすっかり向きを変える方向転換も、私たち人間にはとうていできません。滝に打たれても、断食して色々と修行を積んでも難しい本を山ほど呼んでも、名高いご立派な大先生によくよく教えられても、とうてい辿り着けません。じゃあ、どうしましょう。いったい誰が、この私たちの頭をすっかり切り替えてくれるでしょうか。何十年も体に染みついてきた《わたし中心・人間中心のモノの考え方》から、『神が信じさせてくださる。神が分からせてくださる。神が、こんな私にさえ、~させてくださる』という神中心の考え方へ。――ただただ神さまこそが 移し替えてくださいます。聖書は証言します、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるに違いない」(ピリピ手紙1:6。楽しみに待ちながら、「神さま。わたしにも信じさせてください。分からせてください」と願い求めましょう。
 今にもポキンと折れてしまうそうな何本かの何十本かの葦たちよ。くすぶって、ちょっとしたすきま風やそよ風にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯火たちよ。何度でも申し上げましょう。その人の信仰が大きくてしっかりしているか、小さくて弱々しいか、新しくて未熟か、古くて50年も60年もたっているか。そんなことと神の恵みとは何の関係もありません。その人の信仰が十分に強くて大きくて、しっかりしているときに、そこでようやく主イエスはその信仰や悔い改めを認めて、50年も60年もたった古いヌカ漬けのようになってからようやくニッコリとほほ笑みかけてくださり、「よし」と喜んでくださるのでしょうか。いいえ、とんでもない。神について何も知らないこの世界が、キリストへと向かおうとする小さな弱々しい魂をあざけったり、バカにしたり、物笑いの種にしようとするとき、もし私たちがキリストへと向かおうとするその小さな魂を励ましたり、手助けしたりしようとしないなら、この私たちは大きな過ちを犯したことになります。神のことも聖書のことも知らない世界に向かって、私たちはローマ手紙5:6-11を読み上げましょう。晴れ晴れとして、声高らかに。その前にまず、なんとしても聞き分けなければならないポイントを先に言っておきます。神の愛が差し出されたタイミングとそのポイントです。この私たちがいつ、どういうとき、どんなものであるときに、神の愛が差し出されたのか。さあ聞きましょう。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。神さまからの愛を差し出され、受け取りはじめたのは、この私たち全員が《不信心。弱い者。罪人。神の敵》だったときにです。つまり、信じようとしてなかなか信じきれず、その信仰も弱くて乏しくて未熟で粗末だったときに。弱い私たちだったときに。神に逆らう罪人だったときに、それどころか罪人中の罪人、かたくなで強情な極悪人だったときに。神に逆らい、敵対する者だったときに。けれどなお、そのとき、そんな私共のためにさえもキリストが死んでくださった。そのことによって、神さまは、私たち罪人に対する愛を示し、差し出してくださった。十字架の上で流し尽くされたキリストの血によって、そこでようやく『よれでよい』(=義)とされ、神さまと仲直りさせていただいた私たちである。
  知るべき、魂によくよく刻んでおくべき真理は決して多くはありません。むしろ、ほんのわずかです。今にもポキンと折れてしまうそうな葦の茎たちよ。くすぶって、ちょっとしたすきま風やそよ風にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯心たちよ。救い主イエスは、あなたを誰にも折らせません。あなたの心に芽生えた、神へと向かう小さな灯火を、誰にも吹き消させません。かわいそうに思ってくださったからです。かわいそうでかわいそうで、放っておけないと憐れんだからです。その実態と中身は、いま読んで確かめたローマ手紙5:6-11です。もう何度も話してきましたけれど、忘れっぽい皆さんのために、また忘れっぽいこの自分自身のためにも 来週も再来週も、毎週毎週、このことばかりを語りつづけましょう。