10/23 こども説教 ルカ8:19-21
『神のもとにある新しい家族』
+オープン・チャーチでの話(10/23午後)
『間に合ううちに、手遅れになる前に』
8:19 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。20
それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
(ルカ福音書 8:19-21)
神さまと私たち人間とは、もともと親戚でもなく親子でもなく血がつながっているわけでもありませんでした。それなのに主イエスのおかげで、主イエスを信じる信仰によって、ただ神さまからの憐れみを受けて、私たちすべてのクリスチャンは神の子供たちとされました。神の子供たちとされた者同士は、神の憐れみのもとに一つの家族とされ、兄弟姉妹同士とされました。主イエスのおかげで、主イエスを信じる信仰によって、ただ神さまからの憐れみを受けてです(*)。主イエスを信じる信仰によってですし、神さまからの憐れみを受けたことが、この新しい家族の土台であり、中身です。つまり、もし、主イエスを信じる信仰がよく分からなくなり、神さまからの憐れみを受けたことを忘れ去ってしまうならば、『神の子供たち』であることも、『互いに兄弟姉妹であり、一つ家族である』ことも、中身のない、ただ形ばかりのものになってしまいます。
血のつながった親子や兄弟や家族以上に、神の恵みと憐れみのもとに置かれて、だから本当に家族である。これが大事です。21節に目を向けてください。主イエスははっきりとおっしゃいました、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。母と、兄弟姉妹たち。ここには父がいないことに気づきましたか。どうして、ここに父がいないのでしょう? 神の家族の中の父親は、天におられる父なる神ただお独りだからです。神ご自身のお働きと憐れみのもとでは、神を信じる私たち人間同士の中に、もはや父親や目上の叔父さん叔母さんの役割や父のような権威を担う者などいないし、いてはなりません。しかも兄弟同士の中では主イエスこそが一番上の長男です。他すべてのクリスチャンは大きいも小さいも先輩後輩もなく、何十年もずっとクリスチャンだとか昨日今日来たばかりの新参者だなどというつまらない区別はすっかり捨て去られて、みな年下の小さな小さな弟たち、妹たち(エレミヤ書31:33-34,マタイ11:11,同11:25,同18:3-4,同19:14)。これが大事です。「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。神の御言を聞いて行う者とは、神の御言を聞いて、その言葉を自分の心に刻んで、そこで示された神の御心に従って生きていこうとする者たちのことです。ずいぶん前のこと。年をとった一人のおじいさんが洗礼を受けてクリスチャンとされました。その息子は、ずいぶん前からクリスチャンです。父さんでもあるそのおじいさんは大喜びで自分の息子に語りかけました、「俺とお前とは親子だけど、今日からは兄弟同士でもある。しかもお前のほうがほんの少~しは兄貴分で、俺は弟だ。アニキ、よろしく頼みますよ」。
【補足説明/神の独り子イエスと、神の子供たちである私たち】
(*)当教会の「こども交読文」では、「イエス・キリストは 神の子ですか」「永遠の神の御子です」と対話し、さらにつづけて、「あなたは神の子ですか」「イエス・キリストのおかげで神の子にされました」と。聖書は、救い主イエスを『神の独り子』と呼び、それと共に、私たちクリスチャンを『神の子供たち』だと明言します。矛盾するようにも聞こえる言い方が並び立ちつづけます。恵みによって、主イエスを信じる信仰によって、神の子である身分を授けられた私たちです(ローマ手紙16:14-16,ガラテヤ手紙4:6を参照)。後から、神の子供としていただいた。けれど、実の子の扱いを受けている。親子の付き合い方もいろいろです。ローマ手紙16:16では、天の御父とあなたは今では、「アバ、父よ」と呼ぶ関係だと断言します。言葉を覚えたての小さな子供が、「おっとう。とうちゃん」などと呼ぶように、小さな子供の心で、安心して、すっかり信頼して、天の御父に呼びかけることができる。そういう親子にしていただいたと。僕を導いてくれた牧師は、「イエス・キリストの父なる神さま。それゆえ確かに私たちをあなたの子供たちとし、父となってくださった神さま」と、いつもいつも呼びかけていました。本当だなあ、と嬉しくなりました。
+聖書の話/伝道の書 12:1-2
『間に合ううちに、手遅れになる前に』
12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
(伝道の書 12:1-2)
(小学生、高校生たちに)君は何歳ですか。君は、君は? ぼくも、ほんの少し前には高校生や小学生だったし、もっと小さな子供だったし、オギャアと生まれたばかりの赤ちゃんでした。嘘みたいでしょ。しかもあっという間に年をとって今では頭の禿げたおじいさんになってしまいました。みなさんも、あっという間に年をとっておジイさんお婆さんになり、物忘れもひどくなり、腰も曲がって、やがて必ず死んでいきます。
ついこの間、ぼくが高校生だったころ、「神さまなんかいるのかいないのか分からない。もし神さまがいるとしても僕には関係ないや」と思いました。神さまを信じて生きるなんて、嘘っ八で弱い人間のすることで、自分は自分の目で世界を見て、自分の力で世の中を渡って行ってやると決心しました。神さまを信じない間ずっと、逆に何でもかんでも神さまのようになりました。周りにいる大きな強そうな賢そうな何でも出来そうに見える人間がまるで神さまのように見えたし、それに比べて、なんて小さな弱々しいダメな自分かとガッカリしました。少しでも周りの人たちから役に立つ立派な人間だと思われようと、無理に背伸びをし、上等な人間のふりを装いつづけました。調子がいい時には、自分がまるで神さまや強いボスにでもなったようなつもりになって、他の人を見下したり、バカにしたり、威張ったりしました。上がったり下がったり上がったり下がったりしつづけて、心の休まる時がありませんでした。それでずいぶん後になってから、30歳ころ、やっと神さまのところへ戻ってきました。それから今日まで30年近くたって58歳です。神さまのもとに戻って来られて、本当に幸せでした。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)と聖書は語りかけます。神さまがこの世界の全部を造ったし、私のことも神さまが造ってくださった。そのことを自分の心によくよく覚えておきなさい、と勧めています。そうでないと年寄りになってから、「わたしには何の楽しみもない」と言うようになってしまうから。あっという間に年をとっておジイさんお婆さんになり、物忘れもひどくなり、腰も曲がって、やがて必ず死んでゆくと言いました。嘘のような本当のことです。目もかすみ耳も遠くなり、物忘れもひどくなり、足腰弱って。若い元気な頃にできていたことが、一つまた一つと出来なくなります。ほとんどの人は、自分に何かができて、人様の役に立って、仕事ができて働けて、だから安心して嬉しく暮らしていると思いこんでいます。その安心材料は、やがて一つずつ、一つ残らずみんな、奪い取られてゆきます。そういうことを知っていますか? もちろん神さまを信じて生きていても、苦しいことや辛いことは次々とあります。神さまを信じていない人と同じくらいに。それでも大丈夫。それでも安心。もう知ってるかも知れないけど、実はね、生きているうちには嫌なことや苦しいこともたくさんあって、たびたびガッカリします。なんのためにいきているんだろうか。私が生きてたって、何の良いことも楽しみもないと思える日々もあります。それでもね、嫌なことに負けないくらい嬉しいことや楽しいことがたくさん待ち構えていますよ。とても困ったときにも、ちゃんと助けてくれる人たちがいます。神さまがこの世界の全部を造ったし、私のことも神さまが造ってくださった。だから、私が倒れるとき、私がボロボロになって壊れそうになるとき、いつでもどこからでも何度でも何度でも、その神さまこそが助けてくれる。そのことを心に覚えている人は、どんなに心強いことでしょう。「あなたの若い日に覚えよ」って書いてありましたね。何歳くらいまで? 遅くとも30歳か40歳くらいまでに。いいえ、若くたって小学生中学生くらいのうちから、心がすっかり挫けて年寄りになっている人もたくさんいます。間に合ううちに、手遅れになる前にです。
(2016,10,23
日曜午後、オープン・チャーチで)