2016年10月30日日曜日

10/30こども説教「風も水も主イエスに従う」ルカ8:22-25

 10/30 こども説教 ルカ8:22-25
 『風も水も主イエスに従う』

+上田駅前アピール 『一億まるごと大安売り社会』10/28

8:22 ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。23 渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。24 そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。25 イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。(ルカ福音書 8:22-25)

 主イエスと弟子たちはほんの小さな舟に乗って、「向こう岸へ。向こう岸へ」と何度もガリラヤ湖を渡りました。向こう岸には主イエスを待ち望む人々がいたからですし、ほんの小さな舟に乗って湖を渡ることこそがよい勉強になり、主イエスの弟子として日々を生きてゆくことの訓練となったからです。湖を渡ってゆく間に、主イエスはグーグーいびきをかいて眠ってしまいました。すると突風がビュービューと湖に吹き降ろしてきました。バシャアアン、バシャアアンと大きな波が打ち寄せ、なにしろほんの小さな舟でしたから波をかぶってたちまち沈みそうになりました。そこで弟子たちは大慌てで主イエスを起こしました。「先生、先生、わたしたちは死にそうです」24節)。主イエスは起き上がって、風と荒波とを叱りつけました。「静かにしなさい」。すると吹き荒れていた波も風も、しーんと静かになりました。主イエスは彼らに言いました。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。弟子たちは目をまん丸にして恐れ驚いて、互いに言い合いました。「いったい、このかたは誰だろう? お命じになると、風も波も従うとは」。
 キリストの教会と一人一人のクリスチャンは、昔も今も変わらず ちょうどこの小舟の中の弟子たちそのままです。大事なことを主イエスから教わったので、それをぜひよくよく覚えておくために、例えばこの教会でも、礼拝堂の正面の壁を『舟の形』に造っています。見るたびに、「ああ。あのとき、ああいうことがあった」と思い出すためにです。上田教会でも、またそれぞれの毎日の暮らしの中でも、突風がいきなりビュービューと吹き降ろしてきます。バシャアアン、バシャアアンと大きな波が打ち寄せます。なにしろほんの小さな舟に乗っているのですから、波をかぶってたちまち沈みそうになります。じゃあ、そのとき、私たちはどうしましょう。大慌てで主イエスのところに駆け戻り、必死にしがみついて、「先生、先生、わたしたちは死にそうです。助けてくださ~い」と叫ぶのです。主イエスは起き上がって、風と荒波とを叱りつけ、ザブザブ、バシャバシャと大騒ぎになっている私たちの魂をさえ叱りつけてくださるでしょう。「静かにしなさい」。すると、そこでようやく波も風も、私たちの心も、しーんと静かにしていただけるでしょう。遠い昔、預言者は言いました。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ書30:15と。アタフタオロオロする日々に、「わたしの信仰はどこにあるだろう?」と胸に手を当てて考えてみましょう。あのとき、弟子たちは案外ちゃんとしていましたよ。初めにアタフタしかけて、けれども主イエスがいっしょにいてくださると思い出しました。それで大慌てで主イエスのところに駆け戻って、主イエスにしがみつきました。本気で、必死になって、助けを主イエスにこそ求めました。「あなたがたの信仰はどこにあるか」。ありましたよ 彼らの信仰は、ちゃんとそこにあったじゃないですか。主イエスのところに。やったあ。上出来です。波も風も主イエスに従う。もちろん、この私たちもそうです。







 上田駅前アピール(10/28
『一億まるごと大安売り社会』

 大手町1丁目の日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。
 一ヶ月ほど前、926日に、安倍晋三内閣総理大臣の所信表明演説の模様が、テレビ各局で放送されました。「今この瞬間も、自衛隊の諸君が任務に当たっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全うする。その彼らに対し、今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか」。と、ここで自民党議員は全員起立して拍手大喝采をしました。彼らが極度の緊張に耐えている理由は、間近に迫っている南スーダンでの自分たちの戦闘行為です。11月にも青森駐屯地から陸上自衛隊の派遣が計画されており、実践的な訓練が始められます。きびしい戦闘の最前線に送り出されようとする当人たちは、恐ろしくて恐ろしくてたまらないでしょう。安倍晋三首相は、「日本は、国際社会の期待に応えなければならない。我が国の領土、領海、領空は、断固として守り抜く。強い決意を持って守り抜くことを、お誓い申し上げる」。その強い決意とは、自衛隊員たちに鉄砲と武器と弾薬を山ほど背負わせて、わが国の領土を守るだけではなく、危ない紛争地域のどこへでも送り出して、殺し合いをさせることです。ご存知ですか? 南スーダンでは政府軍も反政府の軍隊もどちらも、大勢の少年少女たちを駆り出して無理やり兵隊に仕立て上げています。その小さな子供たちと、私たちの自衛隊員は銃を向け合って殺したり殺されたりし合うことになります。なんと恐ろしいことでしょう(*1)「今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか」という首相の言葉に促されて、自民党議員が全員起立して拍手大喝采。この異様な光景を見て、野党議員の一人が「この国の姿とは思えない。まるで、どっかの国とそっくりだ」「どっかの国ってどの国のこと?」。海の向こうにも似た国がありますが、それより何より、71年前のわが国の戦時体制下とそっくり瓜二つです。驚きました。71年前の戦争中の、『兵隊さんよありがとう』(作詞、橋本善三郎。作曲、佐々木すぐる)の歌のようです。「兵隊さんよ、ありがとう」を、じゃあ今度は、『自衛隊員さんよ、ありがとう』と言葉を替えて、私たちは声高らかに歌うんでしょうか。肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのも、夕べ楽しい御飯どき家内そろって語るのも、お国のために戦った、お国のために傷ついた、お国のために戦死した自衛隊員さんたちのおかげです。ええ、嘘っ八じゃないですか。南スーダンの人々も、危ないからと次々と撤退しつづけているヨソの国々の軍隊も、みんな『日本の自衛隊員さんたちのおかげです』と全員起立して拍手大喝采するんでしょうか。違いますよオ その虚しいだけの人殺し行為は南スーダンのためではなく、その住民たちの平和と安全を守るためでもなく、日本のためでもなく、世界平和のためでもありません。ただアメリカさんとお金持ちと戦争で儲ける死の商売人の方々が大儲けをするためだけに利用されるんですから。71年前、そっくり同じ嘘っぱちの戦争に無理やり担ぎ出されて、一人の兵隊は「ああ騙されていた」と気がつきました。「お前らの命は一銭五厘の、召集令状のハガキ一枚の値打ちしなかい」と怒鳴りつけられたからです(*2)。「お前らの代わりはいくらでもいるんだ」とあざけり笑われたことを一人の兵隊は覚えています。「代わりはいくらでもいる」とあざけった伍長だか一等兵殿だかも、やっぱりせいぜい一銭六厘だか七厘程度です。安いなあ、大安売りだなあ人間の生命が。安売りされて、犬死に・無駄死にさせられて、ゴミ屑のようにドブに捨てられるのか。ゴミ屑扱いされながら、靖国神社に祀られて「お国を守って死んでくれてありがとう」と神様扱いもされるんですか。ずいぶん虫のいい話だ、とんだイカサマだ嘘っ八だ。あのときの彼らも、今の僕らも。上等兵殿~オ 正社員も部長も課長も係長も皆、せいぜい一銭六厘だか七厘程度らしいです、人間を粗末に扱うこの粗末な国では。あんたも 同じく一銭六厘だか七厘程度で安売りされて、ゴミ屑のようにドブに捨てられるんですヨオ。一億総活躍社会とは、このことです。その正体は、一億まるごと大安売り社会です。安全でもなく安心でもなく、とても危ない原子力発電所を次々と再稼働しつづけることも、原発事故が少しも収束していないのに安全安全と言い張るのも、同じです。誰も責任を負おうとしない。他人事で関係ないやと知らんぷりしている私たちも。福島や鹿児島や愛媛や静岡の住民たちが泣き寝入りしてくれているおかげなんですか。「本当はおっかない。恐ろしくて恐ろしくて夜も眠れない」と震えながら我慢してくれているおかげなんですね。一億総活躍。本当は、一億まるごと大安売り社会です。極度の緊張に耐えて踏みつけにされているその彼らに対し、私たち日本国民は全員起立して、バンザ~イと敬意を表して、拍手大喝采するんですか。いいえ、二度と騙されてはいけません。二度と、悪事の片棒を担がされてはなりません。しかも、あまりに無責任です。もし黙って見過ごすなら、犬死させられようとしている自衛隊員たちとその家族に対して、ないがしろにされつづける沖縄住民に対しても、福島、愛媛、鹿児島、静岡、新潟、北海道各地のとても危ない原発施設の地元で暮らす爺ちゃん婆ちゃん、中学生小学生、子供たちに対しても、この私たち全員はお詫びのしようもありません。
  ♪自衛隊員たちを犬死させるな 自衛隊員と家族を泣かせるな  戦争法制、絶対反対 駆けつけ人殺し、絶対反対 反対反対、絶対反対   反対反対、絶対反対! 戦争法制、絶対反対

  【参照/子ども兵の現実】(*1)
  (インターネット)ヒューマンライツウォッチ・国際人権NGO『南スーダン:子ども兵士の恐るべき日常』(20151218日)。何千人もの子どもが、政府軍および反政府勢力の指揮下で南スーダン内戦の戦闘に参加している。報告書「『僕たちも死ぬんだ』:南スーダンにおける子ども兵の徴募と動員」(全65ページ)は、子ども兵を動員している政府軍「南スーダン人民解放軍(SPLA)」、そして反政府勢力「反政府南スーダン人民解放軍 (SPLA-in-Opposition)」及びその同盟勢力の指揮官・幹部総勢15人以上の氏名を挙げている。本報告書は、強制徴募された子ども兵と、家族やコミュニティをまもるために志願した子ども兵の合計101人に行った聞き取り調査を基にしている。子どもたちは、家族から遠く離れ、何カ月も十分な食べものを与えられなかったことや、恐ろしい銃撃戦に参加させられて負傷したり、友人が目の前で殺された経験などを証言。また、学校に通うべき時期を無駄にしてしまったことへのくやしさの念を語っている。国連児童基金(UNICEF)の推定によれば、この内戦で約15,00016,000人の子どもが軍や武装組織に兵士として動員されている。南スーダン内戦は201312月、キール大統領及び現在では反政府勢力を率いているマシャール前副大統領に、それぞれ忠誠を誓う兵士たちが首都ジュバで衝突したことがきっかけで勃発した。戦闘が拡大するにつれ、両陣営とも一般市民を標的にするようになり、しばしば民族を理由にした凄惨な殺りくが発生。220万人あまりが避難民化しており、その大半は焼き討ちや略奪にあった町や村の住民だ。
   他に、(インターネット検索)『ニューズ・ウィーク日本版』;国連部隊は住民を守れ(2016,10,13)/住民に催涙弾、敵前逃亡、レイプ傍観――国連部隊の失態相次ぐ南スーダン(16,8,30)/邦人も避難へ、緊迫の南スーダン情勢と国連PKO(16,7,11)

   (*2)「一銭五厘」;「そのころ葉書は一銭五厘だった。兵隊は一銭五厘の葉書でいくらでも召集できるという意味だった。貴様らの代わりは一銭五厘でくるぞとどなられながら、一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた。へとへとになって眠った。一銭五厘は死んだ。一銭五厘はけがをした。片わになった。一銭五厘をべつの名で言ってみようか。〈庶民〉、ぼくらだ、君らだ」(『灯をともす言葉』花森安治,p172


10/30「傷ついた葦、くすぶる灯心を」マタイ12:15-21

                                         みことば/2016,10,30(主日礼拝)  83
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:15-21                      日本キリスト教会 上田教会
『傷ついた葦、くすぶる灯心を』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。                                          (マタイ福音書 12:15-21)


まず15-16節。多くの人々が主イエスに付いてきた。主イエスは彼らを皆いやした。けれど、病気を癒されたことや主イエスのことを他の人々に言い広めないようにと戒めた。――申し訳ありませんが、「人々に現さないように。言い広めないように」という、この謎めいた口止めをあまりはっきりと説明することができません。主の弟子たちに対しても他の人々に対しても、その口止めは一時的なものであり、やがてその口止めは解かれます。弟子たちも他の人々も、やがて救い主イエスのことを言い広めはじめるときが来ます。例えばキリスト教会のはじめの頃、この信仰が広まることを不都合に思う警察や支配者たちや役人や偉い議員たちなどから脅かされても、きびしく叱られても、たとえムチ打たれ牢獄に閉じ込められても、主イエスの弟子たちは涼しい顔をして、こう言い返しました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」。また、「ナザレ人イエス。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないのである」(使徒4:10-12,19-20と。なぜなら、キリストから注がれた愛が彼らに迫り、彼らを駆り立てて止まないからです(コリント手紙(2)5:14。わたしたちも、まったく同じです。
  さて17-21節で、預言者イザヤの語った言葉(イザヤ書421-4節)が引用されます。このような救い主がやがて来られると預言され、その預言は主イエスを指し示しています。「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている灯火を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。いためられ、傷つけられ、いまにもポッキリと折れてしまいそうな一本の葦。煙って、今にも消えてしまいそうな燈心。どういう意味でしょう。なんのことを言おうとしているのでしょうか? それは神さまへと向かおうとして、そうしたいと願いながら、けれども足踏みし、ためらい、行きつ戻りつしながらて立ち往生している魂です。すでに十分に受け取っているはずの恵みが、どうしたわけか弱々しい。神へと向かおうとする心が邪魔され、思い煩いと悩みの中で気を紛らわされつづけている。信じていないわけではないけれど、その信仰はあまりに小さく、弱々しく、頼りない。それはまるで傷つけられ今にもポッキリと折れてしまいそう一本の葦のようです。くすぶって消えかけている灯火のようにです。ほんのかすかな隙間風に煽られただけでも、今にも消えてしまいそうです。そのような危うい人々に対して、主イエスはとても親切で、憐れみ深い。その人々がかわいそうでかわいそうで、捨て置くままにしておけない。そういう救い主である、と預言者は告げます。たとえ今にもポッキリと折れてしまいそうだとしても、その弱々しい、その脆く危うい一本の葦は決して折られることがない。くすぶって、今にも消えてしまいそうだとしても、それでもなおその灯火は決して吹き消されない。それが、神の憐れみの王国の真実です。なぜなら、すでに十分な恵みを受け取りながらたやすくそれを見失い、手放してしまいやすいその人々を、信仰の弱く乏しい人々を、神へと立ち返ろうとする心が思い煩いと悩みのイバラに覆い尽くされてしまいやすい人々を深く憐れみ、滅びるままに捨て置くことなどとてもできないと惜しんでくださる救い主イエスだからです。
  どんな救い主であり、どういう救いがどのように差し出されつづけていると思っておられましたか? 「いためつけられて、今にもポキンと折れてしまうそうな一本の葦を、けれども折らない、誰にも折らせない」と断固として立ち塞がる救い主です。「くすぶって、ちょっとしたすきま風やそよ風にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯火をけれども消さない。誰にも吹き消させない」と断固としておっしゃる救い主であり、そのように差し出される救いです。人々から見下され、除け者にされていた取税人を憐れむ救い主であり、貧しく小さな者を慈しみ、罪人だと決めつけられていた者たちの友だちになってくださる救い主です。だからこそ、それまで神を知らなかった者たちも、神に見向きもしなかった者たちさえ、救い主イエス・キリストの名にこそ望みを置くのです。
  「今にもポキンと折れてしまうそうな一本の葦を、けれども折らない、誰にも折らせない救い主である」と、そのことをキリストの教会は聞き分けねばなりません。「くすぶっていて、ちょっとした隙間風やそよ風にも今にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯火を、けれども消さない。誰にも吹き消させない」という憐れみの救い主に、すべてのクリスチャンは、また救い主の名を慕い求めるすべての貧しく小さな者たちは、よくよく目を凝らし、耳を澄まさねばなりません。なぜなら、傷ついた葦とくすぶりかけた灯火は、自分から簡単にポキンと折れてしまいそうになり、せっかく残っている大切な残り火を「もうダメだ。どうせ私は」などと諦めて、自分自身で吹き消してしまうかも知れないからです。「私なんかが救われるはずがない。だって、私の信じる力は弱すぎるし、神さまのことをあんまりよく知らないし、自分勝手でわがままで人になかなか親切にできないし、こんな私じゃあ」などと恐れや心配に飲み込まれ、「どうせダメだ。無理だ」とがっかりしたり諦めてしまいそうになります。だから、その人たちには、ぜひこの『ポッキリと折れてしまいそうな一本の葦。くすぶって、今にも消えてしまいそうな灯火』のところを読んでもらいたいのです。こういう救い主か、本当にそうだったのかあと、ぜひその人たちにも知っていただきたいのです。なかなか分かっていただけないんですけれど、その人の信仰が大きくてしっかりしているか、小さくて弱々しいか、新しくて未熟か、古くて50年も60年もたっているか。そんなことと神の恵みとは何の関係もありません。だから、それは恵みなのであり、だから神さまからの憐れみの贈り物なのです。その人に芽生えた神さまへの信仰は、たとえとても小さくて弱々しくても、まだまだ新しくて未熟でも、その人は救い主イエスと出会って、イエスを知り、このお独りの方を信じて生きはじめることができます。本当のことですよ。
 はじめが肝心なので、例えばキリスト教入門講座の第一回目の授業ではこういうことを話します。「『神を信じる』ためには、すっかり頭を切り替えねばなりません。『私なんかに神が信じられるだろうか。どうしたら出来るだろう。どうしたら分かるだろうか。・・・・・・いいや無理だ』と、とくに長年生きてきた年配の方々は頭を抱えます。いいえ、違うのです。『今はあまり信じられないし、さっぱり分からないけれど、信じたい。分かりたい』と、もし願うなら、神さまが信じさせてくださいます。神さまこそが、こんな物分りの悪い私にも分からせてくださる。『この私が信じる。私が分かる。私が~できる』という何十年も体に染みついてきた《わたし中心・人間中心のモノの考え方》から、『神こそが信じさせてくださる。神が分からせてくださる。神が、こんな私にさえ、~させてくださる』という神中心の考え方へ この180度の、グルリとすっかり向きを変える方向転換も、私たち人間にはとうていできません。滝に打たれても、断食して色々と修行を積んでも難しい本を山ほど呼んでも、名高いご立派な大先生によくよく教えられても、とうてい辿り着けません。じゃあ、どうしましょう。いったい誰が、この私たちの頭をすっかり切り替えてくれるでしょうか。何十年も体に染みついてきた《わたし中心・人間中心のモノの考え方》から、『神が信じさせてくださる。神が分からせてくださる。神が、こんな私にさえ、~させてくださる』という神中心の考え方へ。――ただただ神さまこそが 移し替えてくださいます。聖書は証言します、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるに違いない」(ピリピ手紙1:6。楽しみに待ちながら、「神さま。わたしにも信じさせてください。分からせてください」と願い求めましょう。
 今にもポキンと折れてしまうそうな何本かの何十本かの葦たちよ。くすぶって、ちょっとしたすきま風やそよ風にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯火たちよ。何度でも申し上げましょう。その人の信仰が大きくてしっかりしているか、小さくて弱々しいか、新しくて未熟か、古くて50年も60年もたっているか。そんなことと神の恵みとは何の関係もありません。その人の信仰が十分に強くて大きくて、しっかりしているときに、そこでようやく主イエスはその信仰や悔い改めを認めて、50年も60年もたった古いヌカ漬けのようになってからようやくニッコリとほほ笑みかけてくださり、「よし」と喜んでくださるのでしょうか。いいえ、とんでもない。神について何も知らないこの世界が、キリストへと向かおうとする小さな弱々しい魂をあざけったり、バカにしたり、物笑いの種にしようとするとき、もし私たちがキリストへと向かおうとするその小さな魂を励ましたり、手助けしたりしようとしないなら、この私たちは大きな過ちを犯したことになります。神のことも聖書のことも知らない世界に向かって、私たちはローマ手紙5:6-11を読み上げましょう。晴れ晴れとして、声高らかに。その前にまず、なんとしても聞き分けなければならないポイントを先に言っておきます。神の愛が差し出されたタイミングとそのポイントです。この私たちがいつ、どういうとき、どんなものであるときに、神の愛が差し出されたのか。さあ聞きましょう。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。神さまからの愛を差し出され、受け取りはじめたのは、この私たち全員が《不信心。弱い者。罪人。神の敵》だったときにです。つまり、信じようとしてなかなか信じきれず、その信仰も弱くて乏しくて未熟で粗末だったときに。弱い私たちだったときに。神に逆らう罪人だったときに、それどころか罪人中の罪人、かたくなで強情な極悪人だったときに。神に逆らい、敵対する者だったときに。けれどなお、そのとき、そんな私共のためにさえもキリストが死んでくださった。そのことによって、神さまは、私たち罪人に対する愛を示し、差し出してくださった。十字架の上で流し尽くされたキリストの血によって、そこでようやく『よれでよい』(=義)とされ、神さまと仲直りさせていただいた私たちである。
  知るべき、魂によくよく刻んでおくべき真理は決して多くはありません。むしろ、ほんのわずかです。今にもポキンと折れてしまうそうな葦の茎たちよ。くすぶって、ちょっとしたすきま風やそよ風にも吹き消されてしまうそうな、あまりに脆く弱々しい灯心たちよ。救い主イエスは、あなたを誰にも折らせません。あなたの心に芽生えた、神へと向かう小さな灯火を、誰にも吹き消させません。かわいそうに思ってくださったからです。かわいそうでかわいそうで、放っておけないと憐れんだからです。その実態と中身は、いま読んで確かめたローマ手紙5:6-11です。もう何度も話してきましたけれど、忘れっぽい皆さんのために、また忘れっぽいこの自分自身のためにも 来週も再来週も、毎週毎週、このことばかりを語りつづけましょう。




2016年10月24日月曜日

10/23こども説教「神のもとにある新しい家族」ルカ8:19-21

 10/23 こども説教 ルカ8:19-21
  『神のもとにある新しい家族』

         +オープン・チャーチでの話(10/23午後)
『間に合ううちに、手遅れになる前に』


8:19 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。20 それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
(ルカ福音書 8:19-21

  神さまと私たち人間とは、もともと親戚でもなく親子でもなく血がつながっているわけでもありませんでした。それなのに主イエスのおかげで、主イエスを信じる信仰によって、ただ神さまからの憐れみを受けて、私たちすべてのクリスチャンは神の子供たちとされました。神の子供たちとされた者同士は、神の憐れみのもとに一つの家族とされ、兄弟姉妹同士とされました。主イエスのおかげで、主イエスを信じる信仰によって、ただ神さまからの憐れみを受けてです(*)主イエスを信じる信仰によってですし、神さまからの憐れみを受けたことが、この新しい家族の土台であり、中身です。つまり、もし、主イエスを信じる信仰がよく分からなくなり、神さまからの憐れみを受けたことを忘れ去ってしまうならば、『神の子供たち』であることも、『互いに兄弟姉妹であり、一つ家族である』ことも、中身のない、ただ形ばかりのものになってしまいます。
 血のつながった親子や兄弟や家族以上に、神の恵みと憐れみのもとに置かれて、だから本当に家族である。これが大事です。21節に目を向けてください。主イエスははっきりとおっしゃいました、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。母と、兄弟姉妹たち。ここには父がいないことに気づきましたか。どうして、ここに父がいないのでしょう? 神の家族の中の父親は、天におられる父なる神ただお独りだからです。神ご自身のお働きと憐れみのもとでは、神を信じる私たち人間同士の中に、もはや父親や目上の叔父さん叔母さんの役割や父のような権威を担う者などいないし、いてはなりません。しかも兄弟同士の中では主イエスこそが一番上の長男です。他すべてのクリスチャンは大きいも小さいも先輩後輩もなく、何十年もずっとクリスチャンだとか昨日今日来たばかりの新参者だなどというつまらない区別はすっかり捨て去られて、みな年下の小さな小さな弟たち、妹たち(エレミヤ書31:33-34,マタイ11:11,11:25,18:3-4,19:14。これが大事です。「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。神の御言を聞いて行う者とは、神の御言を聞いて、その言葉を自分の心に刻んで、そこで示された神の御心に従って生きていこうとする者たちのことです。ずいぶん前のこと。年をとった一人のおじいさんが洗礼を受けてクリスチャンとされました。その息子は、ずいぶん前からクリスチャンです。父さんでもあるそのおじいさんは大喜びで自分の息子に語りかけました、「俺とお前とは親子だけど、今日からは兄弟同士でもある。しかもお前のほうがほんの少~しは兄貴分で、俺は弟だ。アニキ、よろしく頼みますよ」。

   【補足説明/神の独り子イエスと、神の子供たちである私たち】
    (*)当教会の「こども交読文」では、「イエス・キリストは 神の子ですか」「永遠の神の御子です」と対話し、さらにつづけて、「あなたは神の子ですか」「イエス・キリストのおかげで神の子にされました」と。聖書は、救い主イエスを『神の独り子』と呼び、それと共に、私たちクリスチャンを『神の子供たち』だと明言します。矛盾するようにも聞こえる言い方が並び立ちつづけます。恵みによって、主イエスを信じる信仰によって、神の子である身分を授けられた私たちです(ローマ手紙16:14-16,ガラテヤ手紙4:6を参照)。後から、神の子供としていただいた。けれど、実の子の扱いを受けている。親子の付き合い方もいろいろです。ローマ手紙16:16では、天の御父とあなたは今では、「アバ、父よ」と呼ぶ関係だと断言します。言葉を覚えたての小さな子供が、「おっとう。とうちゃん」などと呼ぶように、小さな子供の心で、安心して、すっかり信頼して、天の御父に呼びかけることができる。そういう親子にしていただいたと。僕を導いてくれた牧師は、「イエス・キリストの父なる神さま。それゆえ確かに私たちをあなたの子供たちとし、父となってくださった神さま」と、いつもいつも呼びかけていました。本当だなあ、と嬉しくなりました。






 +聖書の話/伝道の書 12:1-2
  『間に合ううちに、手遅れになる前に』

             12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
(伝道の書 12:1-2

  (小学生、高校生たちに)君は何歳ですか。君は、君は? ぼくも、ほんの少し前には高校生や小学生だったし、もっと小さな子供だったし、オギャアと生まれたばかりの赤ちゃんでした。嘘みたいでしょ。しかもあっという間に年をとって今では頭の禿げたおじいさんになってしまいました。みなさんも、あっという間に年をとっておジイさんお婆さんになり、物忘れもひどくなり、腰も曲がって、やがて必ず死んでいきます。
 ついこの間、ぼくが高校生だったころ、「神さまなんかいるのかいないのか分からない。もし神さまがいるとしても僕には関係ないや」と思いました。神さまを信じて生きるなんて、嘘っ八で弱い人間のすることで、自分は自分の目で世界を見て、自分の力で世の中を渡って行ってやると決心しました。神さまを信じない間ずっと、逆に何でもかんでも神さまのようになりました。周りにいる大きな強そうな賢そうな何でも出来そうに見える人間がまるで神さまのように見えたし、それに比べて、なんて小さな弱々しいダメな自分かとガッカリしました。少しでも周りの人たちから役に立つ立派な人間だと思われようと、無理に背伸びをし、上等な人間のふりを装いつづけました。調子がいい時には、自分がまるで神さまや強いボスにでもなったようなつもりになって、他の人を見下したり、バカにしたり、威張ったりしました。上がったり下がったり上がったり下がったりしつづけて、心の休まる時がありませんでした。それでずいぶん後になってから、30歳ころ、やっと神さまのところへ戻ってきました。それから今日まで30年近くたって58歳です。神さまのもとに戻って来られて、本当に幸せでした。
 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)と聖書は語りかけます。神さまがこの世界の全部を造ったし、私のことも神さまが造ってくださった。そのことを自分の心によくよく覚えておきなさい、と勧めています。そうでないと年寄りになってから、「わたしには何の楽しみもない」と言うようになってしまうから。あっという間に年をとっておジイさんお婆さんになり、物忘れもひどくなり、腰も曲がって、やがて必ず死んでゆくと言いました。嘘のような本当のことです。目もかすみ耳も遠くなり、物忘れもひどくなり、足腰弱って。若い元気な頃にできていたことが、一つまた一つと出来なくなります。ほとんどの人は、自分に何かができて、人様の役に立って、仕事ができて働けて、だから安心して嬉しく暮らしていると思いこんでいます。その安心材料は、やがて一つずつ、一つ残らずみんな、奪い取られてゆきます。そういうことを知っていますか? もちろん神さまを信じて生きていても、苦しいことや辛いことは次々とあります。神さまを信じていない人と同じくらいに。それでも大丈夫。それでも安心。もう知ってるかも知れないけど、実はね、生きているうちには嫌なことや苦しいこともたくさんあって、たびたびガッカリします。なんのためにいきているんだろうか。私が生きてたって、何の良いことも楽しみもないと思える日々もあります。それでもね、嫌なことに負けないくらい嬉しいことや楽しいことがたくさん待ち構えていますよ。とても困ったときにも、ちゃんと助けてくれる人たちがいます。神さまがこの世界の全部を造ったし、私のことも神さまが造ってくださった。だから、私が倒れるとき、私がボロボロになって壊れそうになるとき、いつでもどこからでも何度でも何度でも、その神さまこそが助けてくれる。そのことを心に覚えている人は、どんなに心強いことでしょう。「あなたの若い日に覚えよ」って書いてありましたね。何歳くらいまで? 遅くとも30歳か40歳くらいまでに。いいえ、若くたって小学生中学生くらいのうちから、心がすっかり挫けて年寄りになっている人もたくさんいます。間に合ううちに、手遅れになる前にです。               
2016,10,23  日曜午後、オープン・チャーチで)



10/23「日曜日の願いと目的」マタイ12:1-14

                                         みことば/2016,10,23(主日礼拝)  82
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:1-14                       日本キリスト教会 上田教会
『日曜日の願いと目的』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。8 人の子は安息日の主である」。9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。11 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。12 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。13 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。                        (マタイ福音書 11:3-12)



  マタイ福音書12:1-14。安息日に起こった2つの出来事が報告されています。まず1-8節、主イエスと弟子たちが麦畑の間を通っていたとき、弟子たちが麦の穂を摘みました。それを見とがめた人々が主イエスに文句を言いました、「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。どういう教育をしてるのか、躾が全然なってないじゃないか」(2節参照)。少しの説明が必要です。私たちの国では、法律上また一般的な道徳として『他人のものである麦畑の麦の穂を勝手に摘んで自分のものとしたり、食べる』ことが問題になり、もしそれを誰かに見つかれば叱られたり、警察に捕まえられたりします。けれど彼らの国の法律では、それはゆるされています。なんと驚くべきことに、神の国の法律(=律法)では、貧しい者たちや腹を空かせた者、隣人たちに、困らない範囲で自分のものを分け与えよと命じていました。「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人(寄留者・きりゅうしゃ=外国から出稼ぎに来ている、心細く不安定な扱いを受ける労働者)と孤児と夫と死に別れた未亡人に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。・・・・・・あなたはかつてエジプトの国で自分自身が奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである」(申命記24:19-22)。欲張ってむさぼり尽くしてはならない。神さまからの憐れみを受けた者たちは、受けたその憐れみを仲間たちに差し出しなさいと。他のどこにもないほどの、寛大で思いやりにあふれた法律でしょう。これが、神からの律法の心です。
  ですから彼らにとっての問題は、『安息日に働いている』という一点に集約されます。麦畑の件では、主イエスは仰いました。「神殿で神に仕えている祭司たちは供え物のパンを食べることがゆるされている。神殿よりも大いなる者がここにいて、彼ら弟子たちはその者に仕えている。しかも『主が好むのは憐れみであって、いけにえではない』と聖書に書いてある意味が分からないのか。人の子(=主イエスご自身のこと)は安息日の主である」(8)
  『安息日』の意味を、ぼくが教えられて心に覚えこんできだ分だけ、今日すっかり全部お話します。安息日の『安息』の意味は、活動停止であり、何もしないことであり、自分が抱え続けた仕事や責任や使命などもろもろを離れ、すっかり手放すことです。はじまりは、世界創造の7日目です。その前の日の6日目には、神さまはご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と、大喜びに喜んでくださいました。7日目に、神さまご自身がご自分の仕事を離れ、安息なさり、お造りになったすべてのものとその日を祝福し、ご自分のもの(=聖別)とされた。それが、私たちと神さまとの出発点です。神さまがそうなさったので、この私たちもまた、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。それは活動停止であり、抱え持ったもろもろを手離して、脇に置く。そうして初めて、そこでようやく、お造りになったすべてのものを神さまがご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と神さまが大喜びに喜んでくださったこともまた、私たちの腹に据えられます(創世1:31-2:3。ああ本当にそうだ、と。
  やがて、しばらくの時をへて、奴隷とされていたエジプトの国を連れ出されたとき、荒れ野の旅が始まってすぐに人々は、「食べるものがない。うまい肉もない、飲む水もない」と不平不満を言い出します。葦の海を渡ったすぐ後、出エジプト記16章です。主なる神さまは人々をご自分の御前へと呼び集めます。叱りつけたり非難するためではなく、慈しみと憐れみをもって養うためにです。約束通りに、人々は天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされます。「私たちのやり方や考え方とはずいぶん違うことをなさる神だ。こういう神だったのか」と一同して皆でビックリ驚きたいのです。主なる神は仰いました。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」(出エジプト記16:12)あの彼らもここにいるこの私たちも、誰でも皆同じです。天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされ、「ああ本当にそうだ。嬉しいなあ」と驚き喜ぶのでなければ、主が主であることを知るようにはならないのです。そのための、一日分ずつの天からの恵みのパンと肉と水。7日目に手を止めて、神さまをこそ仰ぎ見て、しかも十分に養われつづけていることを心に覚えて感謝をする。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします、と。『主が主であることを知る』ことこそ、今日にいたるまでずっと、習い覚えるべき教会教育の目標でありつづけます。これが、イロハのイです。
  七日に一度の『安息日』という教育手段の広がりと展開。七年に一度の安息年へ、7年×7のヨベル年へ、さらに終わりの日に私たちがあずかるはずの神の安息へ(レビ記23:1-25,ヘブライ3:7-4:13。創造の7日間に遡りつづけますが、それは、「神さまがご自分の仕事を離れ、安息なさり、祝福し、ご自身のものとして聖別なさった」ことに由来します。この私たちもまた、その神さまからの祝福を受け取って生きるために、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。安息しつつ、その只中で神さまにこそ目を凝らし、仰ぎ見る。神さまからの祝福に預かり、神さまのものとされる。なにしろ日曜日、なにしろ礼拝第一。かつても今も私たちが信仰をもって生きるための生命線でありつづけます。安息日の格別な幸いをぜひ分け与えてあげようと、神さまはあなたを待ち侘び、あなたを大歓迎なさいます。主なる神さまからの恵み、憐れみ、平和が、あなたとご家族の上にありますように。ぜひ、そうでありますように。

  さて、9-14節。安息日の会堂に、片手の萎えた一人の人がいました。悩みと困難さと心細さを抱えた一人の小さな人が。その人は、神さまの憐れみを求めて、その憐れみのもとで生きてゆきたいと願って、その礼拝者たちの群れの中にいました。主イエスは、その人を、皆の真ん中に立たせます。「手を伸ばしなさい」とお命じになりました。伸ばすと、その手は元どおりになりました。また、手の萎えた人を癒してあげたとき、そこにいる人々にはっきりとおっしゃいました;「安息日に良いことをするのは正しいことである」(12)。人々は黙り込みました。12節、「人は羊よりも優れている。羊の命を救うのがゆるされるなら、まして人の命を救うことが許されるのはなおさらではないか」。人を見て法を説く救い主です。人間が羊より優れて価値があるわけではありません。また、優れている存在なら救うに値するのか、劣った価値の低い存在なら神はそれを見殺しなさるのか? いいえ、そうではありません。羊も人も分け隔てなく、曜日に関係なく、かわいそうに思って救ってあげるのが御心にかなっています。念のために。
 礼拝と安息日の遵守。それは、ものすごく大切です。神を愛し、隣人を自分自身のように尊べと命じる『神さまからの律法』もまた良いものであり、大切な生命線です。けれど、「それはなぜか。何のためか、どういう中身か」と立ち止まって問うことを忘れるとき、私たちはごく簡単に、『律法を重んじる人』から『律法主義者』へ、『形を重んじる人』から単なる『形式主義者』へと成り下がってしまいます。あるいは正反対に、それを横目で見て、何でも思い通りにすればいいという『好き放題主義者』へと。けれど元々、神を愛し、隣人を自分自身のように尊べと命じる『神さまからの律法』は、そのように暮らすことができればそれにまさる幸いはないほどの、飛びっきりの『福音』でさえあったのです。律法か福音か。いいえ、律法の中身こそ福音の中身そのものであったのですから。主イエスの弟子たちの素行の悪さを見とがめて人々が文句を言ったとき、彼らはとても大事な証言を主イエスご自身から聞いていました。「安息日に正しいことをするのは良いことである。しかも、救い主イエスこそが安息日の主であられる。安息日の主。つまり、一週間のうち一日分だけ主である。他の月曜日や火曜日には、水曜日や木曜日や金曜日には、私たちには別の主があると。まさか。世界創造の7日間がすべてを物語ります。繰り返しますが、6日目、神さまはご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と、大喜びに喜んでくださいました。7日目に、神さまご自身がご自分の仕事を離れ、安息なさり、お造りになったすべてのものとその日を祝福し、ご自分のもの(=聖別・せいべつ)とされた。神さまはご自分がお造りになったすべてのもの祝福なさったのですし、そのための格別な1日でした。安息日に手渡された祝福が、月曜日にも火曜日にも水曜日や木曜日や金曜日にも、朝にも昼にも夜更けにも及ぶようにと。その出発点、その根本の土台としての日曜日です。そのための、毎週わずか1時間半ばかりの格別な時間。むしろ、月曜日から土曜日までの私たちのいつもの168時間と30分ほど24時間×7日-3/2時間)を、私たちがどのように生きるのかこそ、最重要の課題です。日曜の朝に受け取った主イエスからの恵み、憐れみ、平和を携えてゆき、1週間ずつを生きること。礼拝からそれぞれの現実生活へと送り出され、一週間ずつを生きて、また礼拝へと呼び集められ、また送り出され、そこで生きて、呼び集められてと一週間ずつ区切られながらつづくクリスチャンの生涯です。神さまからの祝福が、そのように、この私たちの一日ずつのいつもの暮らしぶりを用いても、この世界に及んでゆく(創世記12:1-9参照)。それこそが神さまご自身のご計画でありつづけます。取り分けられたわずか1週間に1日、それは全世界のための、7日間全部のための祝福の出発点でした。取り分けられたわずかな人々、私たちクリスチャンが神さまからの祝福を受け取って生きてゆくことの意味も、まったく同じでした。あなたやこの私を通しても 地上のすべての生き物たちに祝福が及ぶ。祝福の源、土台、出発点にする。それが創世記121-3節の約束でした。アブラハムとサラ、彼らと子供たち孫たち、親戚一同のためなどというケチ臭い、ちっぽけな祝福などではなくてです。クリスチャンだけの、ではなくて。人間さまだけの祝福と恵み、ではなくて。すべての生き物たちへと広々と及ぶはずの(創世記1:31-2:3,9:8-17,レビ記23:1-25,ローマ手紙8:18-23を参照)

 だからこそ、主の弟子たちはここにいるこの私たちのためにも告げ知らせたのです;救われるためには、この私は、どうしたらいいでしょうか。「洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。あなたの罪をゆるしていただきつづけ、互いにゆるしあって生きる者とならせていただきなさい。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも与えられているものなのです」(使徒2:37-39,16:31)。もう一度、申し上げましょう。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなた自身も、あなたの家族も救われます。本当のことですよ。

2016年10月17日月曜日

10/16こども説教「もし光があるなら、燭台の上に置く」ルカ8:16-18

 10/16 こども説教 ルカ8:16-18
  『もし光があるなら、燭台の上に置く』

8:16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
                          (ルカ福音書 8:16-18

 16節を読みましょう。「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」。分かりやすいですね。もし、あなたが明かりをもっていて、それを灯したならば、それなら、せっかくだから燭台の上に置いて、部屋の中を明るく照らしたらどうですか。そのほうが気分がよくて、嬉しいでしょう? けれど、明かりを持っていなくて、たとえ持っていてももったいないから、減ったり無くなったりしないように引き出しの奥のほうに大事にしまっているっていうのなら、それはそれで結構です。あなたの好きなようにしたらいい。けれど、何のことを話しているのか分かりますか。これは、おしゃれで素敵なローソクのことじゃなく、長持ちするらしいLED電球のことでもなく、どんなカッコイイ照明器具のことでもなくて、また、「料理が上手とか。仕事がよくできるとか、なんでも知ってて頭がよくて教養たっぷりで、誰それさんはみんなに尊敬されている立派な人だとか、私はあまりそうでもない」などという人間同士のいつもの品評会のことでもなく(*)、そんなこととは何の関係もなく、ただただ神さまのことです。この私たち自身の才能だとか、「まあ素敵な賜物をお持ちで羨ましいわ」とか、賢さ、優秀さなどとは何の関係もない。そうではなくて、素敵な、とても心優しい、強くて愛情深くて親切で、とても頼りになる素敵な神さまのことですし、その神さまととうとう出会って、神様を信じて生きはじめたこの私たち自身のことです。じゃあ、一番大事なことをお話しましょう。救い主イエスはおっしゃいました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ福音書8:12
 もし仮に、あなたが主イエスとすでに出会っていて、主イエスを信じて暮らしているのなら、素敵な明かりを持っている。他のどこにもない、その飛びっきりの明かりを、もし仮に、あなたが持っているのなら、せっかく点っている明かりを鍋の下やベッドの下や押し入れの奥深くに隠したり、わざわざその明かりを吹き消して引き出しの奥深くに隠したり、しまっておいたりしてもつまらない。その素敵な飛びっきりの輝く明かりは、灯して部屋を明るく照らしつづけても減って無くなったりはしません。かえって、増えて、大きくなって、ますます明るくなってゆきます。その逆に どこかの暗がりに隠しておいたら、不思議なことに、それはどんどん小さくなって、消えてなくなります。もし、主イエスという方に出会って、信じているなら、あなたがその光を照り返して、自分の部屋やヨソの部屋や、道端やあちこちを照らす、素敵な明るい光に、あなたや私自身がなることができます。救い主イエスという光を反射して照り返す、そういう光の子供たちなのですから。素敵ですヨオ。「あなたがたは世を照らす光である」(マタイ福音書5:14と主イエスが太鼓判を押してくださったのは、このことです。



    【補足説明】(*)人間同士のいつもの品評会のことでもなく、そんなこととは何の関係もなく」としばしば、わざわざ言い立てつづけているのは、クリスチャンにとっても、神を想いつづけることが難しいからです。いつのまにか思い煩いや悩みがイバラのように生い茂って、心の庭を薄暗くしてしまいやすいからです。誰彼が特にそうだというのではなく、誰も彼もが皆そういう性分を抱えています。せっかく神を信じて生きはじめたはずなのに、気がつくと、自分自身や周囲の人間のことばかり「ああでもない。こうでもない」と思い煩って、気に病みつづけています。「料理が上手とか。信仰深くて清らかで、神さまのことも教会のことも○△さんたちはよくご存知らしい。それに比べて、こんな私は。仕事がよくできるとか、なんでも知ってて頭がよくて教養たっぷりで、誰それさんはみんなに尊敬されている立派な人だとか、私はあまりそうでもない」などと指摘されて、自分自身に思い当たるフシがありますか。「人間のことばかり思い煩って、そのおかげで神を思う暇がほんの少しもない」(マタイ16:23参照)と厳しく叱られたペテロの病気を、この私自身も同じく抱えています。


10/16「疲れた者、重荷を負う者は」マタイ11:25-30

 ◎とりなしの祈り

  主なる神さま。「渇いている者はみな水に来たれ」と招かれました。「すべて重荷を負うて苦労している者は」(イザヤ55:1-,マタイ11:28-と招かれました。あなたからのこの招きを、どうか、真実なものでありつづけさせてください。あなたのものでありますすべてのキリスト教会を、掛け値なく嘘偽りなく、そのような場所でありつづけさせてください。
 なぜなら主よ。この国で貧しく心細く暮らす外国人労働者とその家族がいるからです。母子家庭の家族も、若者たちも老人の多くも、貧しいギリギリの生活を強いられているからです。原発事故がまだまだ少しも収束していないのに、なおそこで暮らさなければならない人々がいるからです。いつ大事故が起こっても不思議ではない土地に恐る恐る暮らしつづけている多くの家族がいるからです。原子力発電所で健康と命をむしばまれながら、使い捨てのように働かされている下請け労働者たちがいるからです。何十年もずっと植民地扱いされつづけ、沖縄の人々の願いと生活がないがしろにされています。日本人も外国人も、正社員も非正規雇用の労働者たちも踏みつけにされつづけ、おびただしい数の人々が、他所でもこの国の中でも、呻きつづけているからです。また、すべての教育現場と、医療機関と福祉施設で働く職員たちが健全な良心と十分な公正さをもって職務を担いつづけることができますように。子供を育てている親たちを顧みてください。だからこそ、あなたのものでありますキリスト教会と私たちすべてのクリスチャンたちが、あなたの御心にかなって働き、それぞれの家庭や職場にあっても世の中に対しても、世の光、地の塩としての役割を十分に果たすことができるように強く導いてください。この世の在り方と妥協せず、心を新たにされ、日毎に造りかえられ、何が神さまの御旨であるのか、何が良いことで、何がしてはならない悪いことなのかを弁え知る私たちとならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




                               みことば/2016,10,16(主日礼拝)  81
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:25-30              日本キリスト教会 上田教会
『疲れた者、重荷を負う者は』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ福音書 11:25-30)

  


  まず25-27節。天の御父に向かって主イエスは語りかけています;「あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢いものに隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」。不思議なことです。神の国の福音を、受け取る者たちがおり、受け取らない者たちがいます。これを信じる者たちがおり、信じない者たちもいます。知恵ある者たちや自分で自分を賢いと思う者たちの目には、神ご自身の賢さや豊かさや、神が生きて働いておられることは隠されている、というのです。小さな子供のような者にだけ、それらは現されました。そうしたやり方はまったく神の御心にかなうことだったと、主イエスがおっしゃるのです。
  なぜそうであるのかは、私たちにはよく分かりません。けれどなお、神の国の福音はその同じ一つのやり方で告げられ、手渡されつづけてきました。初めのときから今日に至るまで。私たちそれぞれが主イエスの福音を告げられ、手渡された仕方も、この通りでした。「私は知っている。私はけっこう賢い」と思っていたとき、その思い上がった私たちの目と心からは神の真実は隠され続けました。《知っている。賢い。取り柄があり、役に立ち、良いものをたくさん持っている私だ》とうぬぼれ、あるいは逆に、《あまり知らない。そんなに賢くもない。取り柄もなくあまり役にも立たず、取るに足りない小さな私だ》といじけました。私たちが根深く抱えたそうした自尊心と誇りとが、あるいは卑屈にいじけた思いが、私たちの目と心を眩ませつづけました。あまりに人間的で生臭すぎる私たちです。その中で、ほんの一握りの者たちは喜びに溢れました。あの貧しい女性ハンナのように、またあの最初のクリスマスの日々のマリアのように (サムエル記上2:1-,ルカ1:47-55)。身分の低い、下っ端の下っ端の下っ端のしもべのような私に主なる神さまが目を留めてくださった。これが恵みを恵みとして受け取る私たちのいつもの場所です。力ある神さまが、こんな私のためにさえ 偉大なことをしてくださった。これが私たちのいつもの場所です。低くされていた私の顔と眼差しを、主が高く引き上げてくださった。これがいつもの場所です。飢えていた私を、主が良い物で満たしてくださった。受け入れるに値しない私を、なお主は受け入れ、私に対する憐れみをお忘れにならなかった。これが、主の憐れみを憐れみとして受け取り、恵みを恵みとして受け取って喜び祝うための、私たちの福音の場所です。
  それにしても、「すべて重荷を負うて苦労している者は」(28)と招かれるのです。誰でも皆、例外なく、一人残らずと招かれますが、ただし、それは「疲れた者と重荷を負っている者」でなければならないのです。同じように、「さあ渇いている者は、みな水に来たれ」(イザヤ書55:1)と招かれます。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、「ああノドがカラカラに渇いた。苦しい。水が飲みたい、飲みたい」と困っている者なら誰でも来なさい。つまり、ノドが渇いていないなら、おいしくて冷たい水を飲みたい、飲みたい、飲みたいと困っていないなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを休ませるためだからです。私たちの重荷を降ろさせてあげたいからです。ノドと魂の渇きを覚えている私たちを「さあ、いらっしゃい。あなたも、あなたもあなたも」と招くのは、冷たくおいしい水を腹一杯に飲ませてくださるためです。しかも無料で(イザヤ55:1-3,黙示録21:6,ローマ3:21-24あまりに出来すぎたうまい話なので、私たちにはなかなか信じられませんでした。何か裏があるんじゃないかと思っていました。クリスチャンの中にさえ、今なお、それを疑う人々がいます。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21:6。その通りにしていただいているくせに、今なお、飲んだ水の代金を渋々ながら支払っているつもりの者たちさえいます。飲んだうまい水と引き換えに、汗水たらして働いてその代金を支払っていると勘違いしている者たちがいます。それでは、せっかくの恵みが台無しではありませんか。ねえ
  29節の「わたしのクビキを負いなさい」は、ちょっと難しい。どういうことでしょう。そして「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」。なぜ負いやすく、軽いのか。(何十年も昔の農家の普段の仕事ぶりを見たことも聞いたこともない人たちには、ていねいに説明しないと分かってもらいにくいでしょう。耕運機やトラクターの代わりに牛や馬を使っていました)牛や馬の首に渡す横木をクビキと言いました。昔は、それで二頭くらいずつ組にした牛や馬に農耕具を引っぱらせて、土地を耕したりしたらしいのです。あるいは、その横木に台車を結びつけて、牛や馬に荷物を運ばせたのです。あなたもその牛や馬のように、主イエスのクビキを負って、主イエスの畑を耕し、主イエスの荷物を運べと命じられています。どうしましょうか。もちろん、あなたの自由です。「そんなのは嫌だ」と言うなら、もちろん、そうしなくてもいいのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(28-30)。この招きこそが、私たちを主イエスのもとへと招きつづけました。これまでもそうですし、これからもそうです。実にまったく、私たち人間は荷車を引っ張る牛や馬のようです。誰もが、それぞれの横木を首にかけられて、それぞれの荷車を引っ張りつづけて生きていきます。喜んで荷物を引っ張っている牛もいれば、そうではない牛もいます。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「自分はなんであんなひどいことをしてしまったんだろう。だめな私だ。どうしようもない私だ」という自責の念や後悔を引っ張って歩いている者たちもいます。「人様に恥ずかしくないような立派な生活をし、立派な仕事を成し遂げ、恥ずかしくない人間にならなければ」「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」と大きな荷物を歯を食いしばって引っ張りつづけている牛もいます。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物を、無数の牛や馬達が必死に懸命に引っ張りつづけています。それがこの世界です。「私の荷物は重すぎて、到底もう担いきれない。疲れ果てた」と溜め息をついている牛や馬たちの中の何頭かが主イエスの招きの声を聞き届けました。この私たちも、主イエスのもとに来てみました(『くびき』;政治的屈服、苦役、罪の重荷など、否定的な意味のたとえとしても用いられ、しかし同時に「主への服従」という肯定的・積極的な意味をも表した。昔から、「主のくびきを負い、主に従え」と命じられつづけ、けれど先祖と私たちは主ご自身のくびきを折り、捨て去り、主に背を向けつづけた。「主に反逆し、罪の中に留まることこそが、あなたがたを疲れさせる重荷ではないか」と預言者らは警告しつづけた。マタイ福音書 11:28-30は、主への服従へとあたらめて私共を招く。エレミヤ書 2:20, 5:5,28:13,哀歌 3:27, 2:3,日キ出版局の家庭礼拝暦(2016,10/10,28の項目)を参照)
 皆さん。主イエスのもとに来て、主イエスのクビキを負い、主イエスの荷物を運びはじめた牛や馬たち。で、正直なところ、どうだったんですか? じゃあ、手を挙げてください。「約束どおりで、すっかり休めたし、主イエスの荷物はすごく軽かった」という牛は? 「いやあ、すっかり騙された。休むどころか、今までよりもっと何倍も重い荷物を背負わされ、馬車馬のように休む間もなくこき使われ、ひどい目にあった。だから疲れて疲れて仕方がない」という牛は? ――ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物はと~っても軽い》という王国なのです。王に命じられて調査員たちがこの王国全体を訪ね歩き、主イエスのところに来た牛や馬たちの一頭一頭に同じことを聞いて回っています。「で正直な所どうだったんですか?」と。王自身が案じていたとおりの、危うい調査報告が次々に寄せられました。困ったり苦しんだり、怒ったり苛立ったり悲しんでいる牛や馬たちがあちこちにたくさんいました。例えば、豊かな牧草が生い茂る幸いな野原には99頭の牛たちがいました。彼らは眉間にシワを寄せ、腹を立てて、「けしからん。一頭の迷子の牛を探しに行って、いつまでたっても飼い主が戻ってこない」とつぶやいていました。部屋をピカピカに掃除し、おいしい料理を作っていた牛は、けれど苦しげな淋しい顔をして、「私ばかりに働かせて、なんとも思わないんですか。他の牛や馬たちに手伝うように言ってください」と叫んでいました。また別の牛は、「何年も主人に仕えてきた。言いつけに背いたことは一度もない。それなのに」と暗い顔をして背中を向けるのです。また別の一群の牛たちは、「最後に来たあの生ズルくて要領がいい牛や馬たちはほんの一時間しか働いていない。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちとどうして同じ扱いをするんだ。それじゃあ、私たちの辛抱も苦労も丸つぶれじゃないか」と(ルカ10:38,15:3,26,マタイ20:10。王国中から調査員たちが次々と戻ってきて、物悲しく淋しい報告を告げつづけます。その報告に耳を傾けながら、この王国の王様は心を痛めました。「なんということだ。一体どうしたらいいのか。ここは、《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国だったはずなのに。これでは、王国の看板も招きの言葉も嘘いつわりだったことになる。休ませてもらえるはずが、かえってここで疲れ果ててしまうなんて、それでは消費者を騙して儲ける悪質なペテン業者の商売と同じじゃないか」。あの柔和で謙遜な、とても素敵な王様の招きの言葉を、そして《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国の看板を、嘘いつわりにしてはなりません。

  王のもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主が私の代わりに背負ってくださっている。だから軽いのです。私たちは働いてもいいし、休んでもいい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。けれど、一つだけルールがあります。ここは憐れみの王国であるというルールです。《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国でありつづけるというルールです。何をおいても何としてでも、この一つのルールだけは死守しなくてはなりません。それが嘘いつわりにならない範囲でなら、もし働きたいというなら、あなたは精一杯に思う存分に働くこともでき、誰に遠慮することもなく満ち足りるまで休むこともゆるされます。だから時々、特に働いたり担ったりするときに自分の顔つきを鏡で見て確かめてみる必要があります。仲間の牛や馬たちの顔つきや足取りにも目を留める必要もあるでしょう。眉間にシワを寄せて、困ったような物淋しいような難しい顔をしはじめるなら、一声かけてあげましょう。「いいから安め。横になれ」と。いつの間にか重くなってしまったその荷物を降ろさせてあげねばなりません。「とっても軽い。すごく軽い」と喜び祝って運べる場合にだけ、この私たちは 主イエスの荷物を運ぶことがゆるされます。そうでないなら、指一本も動かしてはなりません。他の牛や馬たちをここに連れて来たければ連れてきてもいい。そうしたくなければしなくてもいい。ここが本当に嬉しく格別に安らかな場所だと分かっている者だけが、「来てみなさい。騙されたと思って、義理でもいいから。試しに一回来てみてください」と他の牛や馬を誘うことがゆるされます。そうでない限りは、一言も誘ってはなりません。「それで成り立つのか?」ですって。もちろんです。主ご自身とその教会を見くびってはなりません。なにしろ私たちの主なる神は生きて働いておられます。あなたのためにも、こんな私のためにさえ。だから立ち止まり、鎮まって耳を澄ませましょう。あなたの耳にも、王国の王ご自身の同じ一つの呼び声が聞こえますか。聞く耳があって、あなたにも、まだちゃんとはっきりと聞こえ続けていますか。主イエスはおっしゃいました;「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは、本当のことです。