2015年11月30日月曜日

11/29こども説教「ゆるされたバラバ、十字架につけられて殺された救い主イエス」マタイ27:11-26


 11/29 こども説教 マタイ27:11-26
 『ゆるされたバラバ、
 十字架につけられて殺された救い主イエス』

27:16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。18 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。26 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。(マタイ27:16-26)

 救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のことです。主イエスは裁判にかけられました。裁判長のピラトは主イエスを死刑にしなければならないようなどんな悪事も見つけることができませんでした。さて、基本的なことをおさらいしておきましょう――
 1.神さまにも周りにいる人間たちにも逆らって「私が私が」と自分勝手に頑固になることを、聖書では『罪』と言います。その罪が周りの人たちを苦しめたり困らせたりし、それだけではなく自分自身をも苦しめ困らせつづけます。救い主イエスは、そういう罪の言いなりにされている場所から私たちを救い出して、神さまの御心にかなって生きる新しく晴れ晴れした生活へと導き入れてくださいます(*1)
 2.人間は誰でも皆、神さまにも周りにいる人間たちにも逆らおうとしつづける罪人です。そして聖書には、その罪人が自分自身の身勝手さや頑固さから救い出されて新しく生きるために必要なことが十分に書かれています。神さまが教えてくださったからです。
 3.聖書を読むときの、いつもの大事なコツがあります。「読んでいるこの出来事の中で、この私はどこにいるだろうか?」と探すことです。罪人が救われるために知るべき必要なことが十分に書いてある、と神さまが約束してくださっています。ですから、聖書を読んで神さまからの救いと恵みを受け取るために、この自分がどんな罪人なのかをはっきり知るために、「これは私のことだ。私のことが、ここに書いてある」と気づくことができると、とても幸いです(*2)。例えば、「十字架につけろ。十字架につけろ」とますます激しく叫び立てる大勢の人々。もしかしたら、これは、いつものあなた自身ではありませんか? ちょっと唆されたくらいで、どうして「十字架につけろ。十字架につけろ」と大声で激しく叫び立てつづけることができたでしょう。面白くないことや嫌なことが山ほどありました。気に入らない相手がいましたが、その人たちに直接に文句や不平不満を言うことができず、腹を立てつづけていました。だからその代わりに、目の前にいるその誰かに意地悪をしたりイジメたり、困らせたりしたかったのです。本当は、自分が不幸せなのはその人の責任ではありませんでしたけど、嫌な気持ちが積もり積もって「十字架につけろ。十字架につけろ」と大声で激しく叫び立てつづけました。それは八つ当たりですし、悪いことです。救い主イエスは、暗闇の中に置かれて真っ暗な心になってしまったこの人たちを救い出すためにも十字架について死んでくださいました。また例えばあなたも、ゆるされた極悪人のバラバではありませんか? 十字架につけられて殺されて当然のバラバでした。けれども彼の代わりに、救い主イエスが十字架につけられ殺されてくださった。そのおかげで、彼は命拾いをしました。『私たちは皆、あの極悪人のバラバだった』と気づいて、主イエスを信じるようになったクリスチャンたちのグループがあります。『私こそバラバだ』、その通り。それは大正解でした。『自分の罪のために死んでいて当然だった私が、けれど救い主イエスによって救われた。憐れみを受け、新しい生命を贈り与えられた。だからもう罪の奴隷にならなくて良い。自分勝手に頑固にならなくてもよい。臆病にも、ずる賢くもならなくてよい。こんな私たちでさえ、神さまの御心に従って新しく晴れ晴れと生きはじめることができる』。そこにとうとう気づいた人たちは、とても幸いです。


     【割愛した部分の補足。関心のある方は、どうぞ読んでください】
         (*1。当教会の「こども交読文3」) 
☆神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。
★そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません。
・・・・・・☆主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか。
★神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます。

           (*2)他人事や、机の上の単なる知識として読んでいては、いつまでたっても福音の道理を身につけることができません。特に、『自分自身の罪のはっきりした自覚』と『その罪を確かにゆるされている』という認識は表裏一体です。それなしには、神さまからのどんな祝福も恵みも贈り物もありえません。例えば最後の晩餐の席で、「この中に私を裏切る者がいる」と主イエスから告げられて、「まさか私のことでは」と弟子たち皆が心を痛めました(マタイ26:21-22)。例えばペンテコステの朝、主の弟子は語りかけました、「イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。「あなたがたが十字架につけた」と告げられて、人々は救いの出来事の当事者とされ、強く心を刺されて、「救われるためにはどうしたらいいのか」と本気になって尋ねました。主の弟子は、「悔い改めよ。罪のゆるしを得るために洗礼を受けなさい」と答えました(使徒2:36-39)。ここでもきっかけは、心を強く刺された痛みでした。
  「まさか私のことでは?」という振り返り、不断の自己点検。それが、『悔い改めて福音を信じはじめる』ためのいつもの入口です。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(テモテ手紙(1)1:15)。この私は『救われるはずの罪人、罪から救い出されつづける罪人である。ああ本当に』と、あなた自身も自分のこととして気づくことができますか?  しかも、それこそがキリストの教会と一人一人のクリスチャンの中身であり、実態でありつづけます。

          (*3)ローマ役人ピラトは、「私には責任がない。お前たちが自分で始末をするがよい」と言い逃れをし、群衆は「その血の責任は我々とその子孫の上にかかってもよい」と開き直りました(24-25)。もちろん、ピラトにも群衆にも祭司長たちにも大きな責任があります。もちろん、私たち総てのクリスチャンにも責任があり、しかも私たちは、「自分自身ではその大きな罪を背負いきれないし、救い主イエスご自身がすっかり丸ごと背負ってくださった」とも知らされています。それは、ちょうど弟を殺してしまったカインの「私の罪は重くて負いきれません」(創世4:13)と嘆いた自覚と深く重ね合わされます。そのカインのための保護のしるしは十字架だった、と世々の教会は受け止めてきました。


 ◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。「わたしは世のための光である」と仰った主イエスからのすべての恵みに、どうか私たちをあずからせてください。世界中のすべての被造物のための主よ。「地上のすべてのやからは、あなたによって祝福される」と約束してくださった主よ。「この私たちも出かけていって、すべての国民を主イエスの弟子とし、洗礼を授け、命じられているいっさいのことを守るように」互いに教え合うことができるようにさせてください。「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた。世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と仰った主イエスのご命令とご委託とに十分に信頼を寄せ、それゆえ聴き従い、なすべき務めを精一杯に果たすことができるようにさせてください。なぜなら主よ、闇がこの日本とこの世界を覆い、私たち自身もまた闇と死の陰の谷に住んでいるからです。また、この国でも世界中あちこちでも、薄暗がりの中で呻きながら救いを待ち望んでいる人々が大勢いるからです(ヨハネ福音書8:12,創世記12:1-3,マタイ福音書28:16-20,イザヤ書9:1-7,60:1-3)。主よ、どうか私たちを憐れんでください。
 ですから主よ、今こそ、救い主イエスの光を照り返して、私たち自身を世のための光、この地上のための塩としてください。自分自身の小さく狭い世界に閉じこもることを私たちに止めさせて、私たちを丘の上に建てられた町としてください。燭台の上に、私たちを据え置いてください。主イエスの光を照り返して、家の中のすべてのものを照らし出させ、この国とこの世界と私たち自身の毎日の暮らしにさえ、主イエスの福音の光を照らし出させてください(マタイ福音書5:13-16,ヨハネ手紙(1)1:5-2:11)。出かけて行って、そのそれぞれの場所で、あなたを愛し、あなたにこそ真心をもってお仕えし、また、だからこそ隣人を自分自身のように愛し尊ぶ働きをも、この私たちにさせてください。

  主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

11/29「もう老人ですし」ルカ1:5-18

                              みことば/2015,11,29(待降節第1日の礼拝)  35
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:5-18                         日本キリスト教会 上田教会
『もう老人ですし』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。・・・・・・13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。                                      
                            (ルカ福音書 1:5-18)


このルカ福音書が報告する最初の出来事は、ザカリヤという名の1人の祭司の前に、突然に主の御使いがあらわれたことでした。御使いが彼に告げたこと。それは、神の恵みの力によって息子が与えられ、その子は神さまのために大切な役割を果たすようになることでした。聖書は、『約束された救い主が来られるとき、それに先立って1人の預言者が立てられ、救い主を人々が迎え入れるための道備えをする』と予告していました(マラキ3:1)。そうした一連の預言を最後に、ほぼ400年もの間、神はピタリと口を閉ざしたのです。ずいぶん長い神の沈黙です。そして、とうとうその約束が実現するときが来ました。

 6-7節です。あの彼らは、神に従って生きる正しい人たちでした。けれども子供が与えられませんでした。それは、今日の私たちが想像するよりももっと重く厳しい試練でした。なぜなら『与えられる子供を通して神の祝福が具体的に実を結ぶ』と、その当時の人々は教えられていたからです。『子がないことは神の祝福が与えられていないしるしだ』と当時の人々は考えました。いいえ、この夫婦だけではありません。私たちにもまた担いきれないような重荷を背負わされ、試練や悩みが襲う日々があります。逃れる道がどこにも見出せない日々があります。八方ふさがりで、だれにも理解されず、だれも支えてくれず、どこにも解決が見出せないと思える日々があります。苦しむその人は、「よりにもよって、なぜ、この私が」と苦しみ、「ただ自分独りだけがこんな辛さに耐えている」と思うことでしょう。けれど、担いきれない重荷や試練はそれぞれにあったのですし、あちこちに数かぎりなくあります。苦しむ人はすっかり絶望し、世間や周囲の人々や運命をうらみ、呪うようになるかもしれません。いじけて、ひがみっぽくなるかもしれません。無気力になり、ただ流されてゆき、あるいは捨て鉢になって死と破滅を願うようになるかもしれません。けれど、その中のほんの一握りのものたちは、そこで神へと向かいました。その痛みと辛さの只中で、貧しく身を屈めさせられる日々に、けれどそのようにして、神へと向かう人々がいます。ほんの一握りの人々が。その人々は悩みと苦しみの只中で神さまと出会ったのです。
  10-14節。香は1日に2度、神殿の中でたかれました。香の煙があがるのを見て、人々は祈りました。空に昇っていく煙、それは、天に昇ってゆく祈りのしるしでした。その昇ってゆく煙のように、私たちがささげる祈りもまた昇っていって、ぜひとも天の御父のもとへと届いてほしい。けれど、ご覧ください。ゆらゆらと立ち昇ってゆく煙はひどく頼りないのです。強い風に吹き飛ばされて消え去ってしまうかも知れません。いったん昇りはじめても、自分自身の重みに耐えかねて、地面に逆戻りしてしまうかも知れません。この私たちの祈りや願いは、はたして神に向かって昇ってゆくでしょうか。それとも、この世界を低く重く漂いつづけて、やがて虚しく消え去ってしまうでしょうか。主の御使いが1人の男の前に現れて、神の言葉と神の現実を告げました。男は不安になり、恐怖の念に襲われました。なぜなら、神の言葉と神ご自身の現実だからです。私たちには私たちの言葉があり、私たちの現実があります。互いに語り合ったり、独りでつぶやいたり、思い巡らせたりし、計画したり実行したりして、私たちは私たちの事柄をそれぞれに持ち運んで日々を生きてゆきます。けれど突然に、神の現実が私たちの現実の前に姿を現しました。『あなたたちがそれぞれに生き、それぞれに立ち働いているだけではなく、いやむしろ神ご自身こそが生きて働いておられる』と宣言されるのです。
  13節。不安になり、恐怖の念に襲われたこの人に語られた最初の言葉に、耳を傾けましょう。「恐れるな、ザカリヤよ。あなたの祈りが聞き入れられたのだ」。恐れるな? いつ、彼は恐れたのでしょうか。この人は、突然にあらわれた神の使いに対して、たしかに今、恐れています。けれど、それだけではありません。実は、これまでずっと恐れつづけてきたのです。年老いた人々が恐れるだけではありません。小さな子供の頃から、不安と恐れは私たちに付きまといます。いくら正しくても、勉強が良くできても、たくさんの友だちに囲まれていても、仕事が順調でも、よい学校への入学が決まっても、かわいい赤ちゃんが無事に生まれ、すくすく育った後でも、愛情深い家族に囲まれていても、今は元気で健康だとしているとしても。
  自分を脅かす様々なものを、この人もやっぱり恐れて、どんなに取り繕って見せても内心ではとても心細く感じながら生きてきたのです。ここにいるこの私たち1人1人がそうであるように。けれども今、この人は神の御前に立たされ、まるでいま初めてのようにして、神さまをこそ畏れはじめています。神さまの御前に立たされて、その時に私たちが感じるおそれは、いったい何でしょうか。神さまの眼差しが注がれ、その光に照らし出されて、私たちの内面の弱さ、脆さ、罪深さがあばかれ、突きつけられます。私たち自身の汚れや不十分さ、神の御前にはとうてい立ち得ない価のなさを思い知らされます。その通り。神の御前では、おそれるほかない私たちです。しかも兄弟たち。神がおられない所などなく、神の御前ではない別の他の所など、どこにもないのです。それなら、私たちはどうしたらいいでしょう。――けれど神に栄光あれ。感謝をいたします。なぜなら、神さまと私たち人間との間に、ただお独りの力ある執り成し手が立てられたからです。私たちの主イエス・キリストが。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。もし、だれかが神の恵みのもとへぜひ辿り着きたいと願うなら、この主イエスこそ、神の御もとに辿り着くための確かな、ただ一筋の道です。もし誰かが、『神はどんな神だろう。その神さまの御前に、この世界はどんなものであり、また私は何者なんだろうか』と思い悩み、それを知りたいと願うならば、主イエスこそその真理を告げる方です。もし誰かが、神の恵みとゆるしのもとに揺るぎない晴れ晴れとした生命をえたいと願うならば、この主イエスこそが、その人に格別な生命を与える方です。主イエスを通るなら、誰でもきっと辿り着ける。主イエスに聞くなら、誰でも知ることができる。主イエスから受け取るなら、誰でもきっと必ず、喜ばしく生き、やがて安らかに死んでゆくことさえできるようになる――それが聖書からの、神ご自身からの約束です。
 自分自身のためにも、また大切な家族や親しい友人たちのために、なぜ、私たちは祈ることができるのでしょう。悩みや苦しみや困ったことを、どうして、私たちは神さまへと語りかけることができるのでしょう。そしてまた、どうして、その悩みや願い事は神さまにちゃんと聞き届けていただけるのでしょう。その根拠と理由とを、あなたは御存じでしょうか。任職され、十分な訓練と教育を受けた牧師や長老が真心をこめてその人々のためにとりなして祈り、だから聞き届けられるのでしょうか。誠実に、信仰深く、ふさわしく祈り、それで聞き届けられるのでしょうか。いいえ、そうではありません。そうした人々も含めて、私たち人間は皆、どう祈っていいか分からないのです。誰も彼もが、十分にふさわしくは祈れないのです(ローマ手紙8:26)。それでもなお、また、それだからこそ、「私こそがあなたのための道であり真理であり命である」と約束してくださった主イエスが、確かにいてくださるからです。祈りはなぜ聞き届けられるでしょうか。しっかりした十分な深い祈りだから聞き届けられる、のではありません。ふさわしい祈りだから聞き届けられる、のではありません。十分なふさわしい私たちだから受け入れられた、のではありません。「主イエスのお名前によって」祈るからこそ、その痛みや辛さは、その小さな1つ1つの願いは、その粗末な貧しいいたらない祈りであってもなお、きっと聞き届けられる。キリスト者であることの幸いも希望も、まったく同じです。主イエスを信じるからこそ、その小さな1人の人もまた晴れ晴れと生き抜くことができます。
 さて、ルカ福音書に戻ります。神殿の庭に立って待ち構えている大勢の人々が、香の煙が立ち昇っていくのに重ね合わせて祈っていました。神に仕えるその働き人もまた、祈っていました。昇っていく煙のように、私たちの祈りと願いもまた高く昇っていって、ぜひとも天の神さまのもとまで届いてほしい。けれども彼は、いざ《神の現実》が目の前に差し出され、「あなたの祈りが聞きいれられたのだ」と告げられたとき、戸惑ってしまいます。兄弟たち。目に見えるものが私たちの目を奪い、心を奪います。目の前のそれぞれの手厳しい現実が、しばしば私たちを圧倒します(コリント(2)4:18-)。どんなふうに生きてゆくことができるでしょう。目に見えるものによってではなく立ち、足を踏みしめ、目に見えるものによってではなく歩むことなど、この私たちにどうやって出来るでしょうか。年老いた者たちも。子供も若者も。お父さんお母さんも。何によって、私たちは神の現実を知ることができるでしょう。「その子をヨハネと名付けなさい」(13)と命じられました。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その1人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。だからこそ私たちは待ち望み、夢をみます。例えばもし、愚かな1人の人が、他の誰彼の賢さをうらやむのでなく、周囲の人々の人間的な賢さに聞き従い、引き回されてゆくのではなく、神の賢さにこそ信頼し、神にこそ願い求めて、安らぎと確かさを受け取ることができるならば。もし、貧しく身を屈めさせられた1人の人が、ほかの誰彼の豊かさや力強さに圧倒されるのを止め、「人様が私をどう思うだろう。どう見られるか」と気に病むことを止め、「なぜなら彼らも私も人間にすぎず、恐れるに足りず、信頼するにはなおまったく足りない」と心を神へと向け返すならば。なにしろ神の豊かさと力強さに信頼し、その神さまがこんな私のためにさえ、ご自身の豊かさと力強さを発揮してくださることを願い求め、そのあわれみと慈しみとに一途に目をこらして生きようと腹をくくるなら。もし、意固地でかたくなな一人の人が、ちっぽけな誇りと小さな小さな体面を何より重んじるその人が、けれどなお、「こんな私のためにさえ神の独り子は」と仰ぎ見るなら。神であられることの栄光も尊厳も生命さえ惜しまず、かなぐり捨ててくださった方の十字架の御下に立つことができるなら。そこで、「おゆるしください。わたしは自分が何をしているのかさえ知らないのです。自分が何者なのか、どこから来て、どこへと向かおうとしているのかさえよく分からない。主よ、私を憐れんでください」と、もし膝を屈めることができるなら。
  多くの人々にとって、最も恐ろしい相手は人間であるらしいです。あなたも、周りの人々が恐ろしくて恐ろしくて仕方がなくなりますか? ぼくもそうです。それで度々、神さまのことがすっかり分からなくなります。家族や親戚や同じ地域に住む人々の目や耳や、彼らからの評価も気にかかります。当たらず障らず、できるだけ穏便にと願います。だからこそ全世界のための救い主であられます主イエスは、「人々を恐れてはならない。体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れてはならない」「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(マタイ10:26-28,ヨハネ16:33)と私たちを励まします。しかも だからこそ救い主は死んで復活し、その復活の新しい生命を差し出しつづけておられるではありませんか。世界中のすべての被造物のために、この私たちのためにも。ああ、そうだったのか 救い主は死んで生きてくださった。新しい生命を差し出してくださった。だからこの私も古い罪の自分と死に別れて、自分勝手で頑固で臆病な自分を葬り去っていただいて、そこでやっと神さまの御前で新しく生きはじめるはずの私だった。すっかり忘れていた。今、やっと思い出した。そうだったのかァ。――そこでようやく、そのとき、まるで初めてのようにして私たちは、贈り物を贈り物として、恵みをただただ恵みとして受け取りはじめます。そこで感謝と喜びに溢れます。差し出されつづけていたものを確かに受け取って、がっちりと握りしめて、そこでようやく私たちは知るでしょう。《主なる神の御下へと立ち帰り、立ち帰りして、そのようにして楽しみも豊かさも与えられつづける私である》と。《与えられ、受け取りつづけて、そのようにして私は今日こうしてあるを得ている》と。主の恵みは、こんな私のためにさえ、今ようやく十分に働く。
つまり、いままでは私の強さと小賢しさが、私の臆病さが神の力を邪魔していた。また体面と体際と格式にどこまでも拘る私自身の頑固さが、神ご自身の力を阻んでいた。けれども、この私自身の弱さと低さの中で、ここでようやく 神の力は十分に発揮される。ついにようやく、主の恵みはこんな私にさえまったく十分(コリント(2)12:7-)。主の慈しみの只中に生きる私たちであると。


2015年11月24日火曜日

11/22こども説教「神の子キリストである!」マタイ26:57-68

 11/22 こども説教 マタイ26:57-68
  『神の子キリストである

26:63 そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのか どうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。    (マタイ 26:63-64)

  大人も子供も、どうぞよく聴いてください。
 救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のことです。オリブ山で祈ったあと、主イエスは捕まえられました。弟子の裏切りや人々の悪巧みもあったけど、それは天の御父と独り子なる神イエスご自身のお考えとご計画によった。聖書に書いてある救いの約束が成し遂げられるために。そのために 救い主イエスの十字架の死と復活があった。さて、つかまえられて主イエスは裁判にかけられます。まず大祭司から、次にローマ帝国の役人代表のピラトから、次にヘロデ王から、最後にまたローマ役人ピラトからの裁判。証拠や材料を見つけることができなかったからです。それなのに、大勢の人々が「十字架につけろ、十字架につけろ」叫び続けたので、仕方なしに十字架の死刑にしました。そのことは旧約聖書に前もって書いてあって、神さまから、ずっと前に約束されていました。「間違った悪い裁判によって、救い主は、ちっとも悪くないのに殺される」(イザヤ書53:8-9,マタイ27:23参照)と。
  61節。裁判で「この人は、わたしは神の宮を打ち壊し、三日の後に建てることができると言いました」と証言されていました。これは、本当のことでした。救い主イエスの死と復活によって、このとおりに神さまの神殿は、つまり世界中のすべてのキリスト教会とこの上田教会もいったん打ち壊され、ただ建物ばかりじゃなく 一人一人のクリスチャン皆も打ち壊され、殺され、その三日目に主イエスの復活に率いられて、主イエスを土台として新しく建てあげられました。毎日毎日、新しく建て上げられつづけます(ヨハネ福音書2:19,使徒6:14,コリント手紙(1)3:10-17)。このことを覚えておいてください。

もう一つ、今日読んだ中でここが一番大切です。63-64節。「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」と大祭司が質問しました。主イエスははっきりと、こう答えました。「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子(=主イエスご自身のこと)が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。ここは聞き間違えのないように、はっきりと聴いておきましょう。「神の子なのか?」「そのとおり。わたしは神の子である」。この時までは、どんなに信仰深い清らかな人も、大祭司も、偉い王さまも誰一人「私は神の子である」などとは言えませんでしたし、言ってはいけませんでした。どうして? なぜなら、『カエルの子はカエル。人の子は人。神の子は神ご自身であるからです。神さまは神さま、人間は、どこまで行ってもただの人間にすぎない』というはっきりした区別の前に、人間はつつましい低い心をもったからです()。ですから、「私は神の子である」と主イエスが仰ったのはとんでもない爆弾発言でした。ドッカ~ンと、皆が驚きました。「それは神さまをバカにしている」とカンカンになって怒る人々がいました。信じない人たちが今でも沢山います。けれど本当のことです。
「救い主イエスは神さまだ。本当にそうだ」と信じることのできる人は幸いです。とても幸いです。


()『救い主イエスは神の独り子』である。しかも今では、『主イエスを信じる私たちも神の子供たちとされている』。これは、なかなか難しい理解ですね。しかも、とても大切。救い主イエスの救いのお働きを通して、主イエスを信じる私たちも今では本当に『神の子供たち』とされました(ローマ手紙 8:14-17,ガラテヤ手紙 4:8参照)。それでもなお『神の独り子イエス』という呼び方はつづけられます。ぼくを信仰に導いてくれた牧師は、いつもこう祈っていました、「イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ、主イエスの御業を通して私たちをあなたの子供たちとして迎え入れ、養っていてくださる父よ」と。



 ◎とりなしの祈り
 父なる神さま。どうぞ私たちに、御子イエス・キリストの死と復活を堅く信じさせてください。救い主イエスが死んで復活してくださいましたから、この私たち自身もまた、古い罪の自分自身を殺していただき、葬り去っていただいて、そのようにして、あなたの御心にかなって生きようと願いはじめることができますように。罪と、自分自身の腹の思いの奴隷にされずに、ただただ、あなたの御心にこそ従って生きることができますように。そのようにして、キリストのものでありますこの上田教会と、キリストのものであります私たち一人一人を地のための塩、世のための光でありつづけさせてください。どうぞ、この一つの願いをかなえてください。
  小さな弱い自分たち自身であることをよく知らされています。それでもなお、あなたから委ねられ、託された務めを果たすことができるように、あなたからの助けと支えとを求めつづけ、また信じることができるようにさせてください。あなたは全世界の主であられ、すべての民をあなたの恵みのもとへと招き入れようとされ、それゆえ私たちの生活のすべての領域にあなたの力と憐れみとを及ぼそうとしておられます。世間の人々や周りの人間たちへの恐れにとりつかれて、心細く臆病な気持ちに私たちが押しつぶされそうになるとき、死に打ち勝ってくださった主イエスを思い起こし、その勝利にあずかっている自分自身であることを再び思い起こすことができますように。「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と確かな約束と保証を与えてくださった主イエスに十分な信頼を寄せ、このお独りの方から勇気と力と忍耐を受け取りつづけることができますように。この世のどんな支配者にも権力者にも膝を屈めず、あなたに聴き従いつづけて、あなたから新しい生命を受け取りつづけることができますように。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛することができますように。また、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶことのできる私たちにならせてください。あなたに仕える思いをもって、目の前の小さな一人の人に私たちが真心から仕えることができますように。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



11/22「御名を誉めたたえさせてください」マタイ6:5-10

                                        みことば/2015,11,22(主日礼拝)  34
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:5-10                       日本キリスト教会 上田教会
『御名を誉めたたえさせてください』~祈り.2
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 (マタイ福音書 6:5-10)


 主イエスが教えてくださった『主の祈り』を少しずつ味わいはじめて、今日はその2回目。「天の父よ。あなたのお名前を誉めたたえさせてください」。父なる神よと呼ばわりはじめて、「あなたの名」「あなたの国」「あなたの心こそが」と目を凝らしています。つまり、「御父の名」「御父の国」「御父の心こそが」と。それが、主の祈りに含まれる6つの願いのうちの前半3つの願いです。誰よりも高いところにおられます御父をこそ尊び、信頼を向け、御父に従って歩み、御父の国が地上に来て自分もそこに住むことを待ち望むように。また、私の願いや他の誰彼の願いや計画どおりではなくて、ただただ御父の御心にかなうことこそが成し遂げられていきますように。そのように祈り求め、腹に据えつづけなさいと救い主イエスご自身が、私共に教え、命じておられます。なぜなら私共すべてのクリスチャンは、主イエスの後につづいて生きようとする主イエスの弟子たちだからです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、み心のままになさって下さい」(マタイ福音書26:39)。そうか、あのゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘そのままではないか。あなた自身もこの私も、そのように生きることができる、という神さまからの招きです。

 「私たちが神の国に入る」「神の国が、こちらへ近づいてくる」。それは直ちに、御父の国でした。やがて将来来るというだけでなく、すでに始まって、その国の領土を着々と広げつつあります。覚えておいてほしいのですが、その御父の国で王の座につき、父の王国の鍵を一手に握り、力を発揮しつづけておられるのは救い主イエスです。「イエス・キリストは父なる神の右に座り」と使徒信条は告白します。「父の右」は、ただ単に顧問助言者とか補佐役などではなく、このイエスこそが全権を一手に握っており、右の座こそ王であり、最高司令官である者の座るイスです(マタイ28:18-20)と。それで、主イエスの弟子とされた私たちは主イエスに全幅の信頼を寄せ、イエスにこそ聴き従って生きるのです。いつまで。そこにははっきりした期限が示されていました(コリント手紙(1)15:24-25。世界の終わりの日までは、救い主イエスこそが天と地の一切について最高責任者でありつづけます。この私たち自身と家族の生き死にに関しても、また神によって造られた世界のすべてにとっても。
  どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。毎日毎日の1つ1つの事柄と向き合うときの、現実の具体的な腹の据え方についての問いです。祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きて、やがてどう心安らかに死んでいくことさえできるのか、という問いかけです。例えばあの夫と私が、あの息子や娘たちとこの私が、職場の同僚たちと私が、近所に住むあの人たちとこの私がどんなふうにして一緒に生きてゆくことができるのかという切実な問いであったのです。いろいろな悩みや恐れやこだわりを抱えた、弱さや危うさを深く抱え持った『私という一個の人間』が、いったいどうやって心安く晴れ晴れとして日々を生きて生涯をまっとうすることができるのか、という問いかけです。今までにはなかった新しい祈りが差し出され、まったく新しい生き方が、ここで私たちに差し出されています。「神さま。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの御国をこの私の所へも来たらせてください。あなたの御心こそがこの地上にも成し遂げられていきますように」。心を鎮めて、目を凝らしましょう。
 聖書の神を信じる人々は、なにより神の御前に深く慎む人々でした。その慎みによって、直接にあからさまに神のことを言ったり指し示したりすることを差し控えて、しばしば間接的で遠回しな言い方をしました。ここでもそうです。「父なる神さま。あなたの名前こそがあがめられますように」。それは直ちに、ただ名前だけではなく、父なる神ご自身が尊ばれ、信頼され、深く感謝されますように。他の誰彼がみんながという以前に、なによりまずこの私こそが神に信頼し、願い求め、感謝することもできますように、という願いです。「神の国が来ますように」。神の国、天の国。国が確かに国であり、神の王国が確かに名実共に神ご自身の王国である。その理由も実体も、まったくひたすらに国の王様にかかっています。王様がそこにいて、ただ形だけ名前だけいるのではなくて、そこで力を発揮してその領土を治めている。そこに住む住民一人一人の生活の全領域を、王様ご自身が心強く治めていてくださる。だから、王国はその王の王国となるのです。その領土に住む1人の住民の安全も幸いも、希望も慰めも支えも、すっかり全面的に、その国王の両肩にかかっている。それが神の国の中身です。
 神ご自身が尊ばれ、神こそが信頼され、感謝される。神ご自身が生きて働いてくださり、ご自身の恵みの出来事を持ち運んでいてくださる。そのことを渇望して願い求めている者たちは、つまり、「今はあまりそうではない」と気づいています。あまりそうではない教会とクリスチャンたちの現実に心を痛め、「どうしてそうなんだろうか」と思い悩んでもいる。彼らは気づきはじめています。神ではない別のものが尊ばれ、別のものが崇められたり恐れられたりしている。神ではない別のものが信頼され誉めたたえられたりしている。別のものが、まるで王様のように大手を振ってのし歩いている世界に、この世界に、この私は生きていると。その只中で、私もまた引きづられ、言いなりにされ、しばしば、この私自身さえもが目を眩まされ、心を深く惑わされている。なんということかと。キリスト者の全生活は『神中心の生活。神中心の腹の据え方』であり、それを願い求めて生きる悪戦苦闘です。その積み重ねです。それを願い求めながら、同時に他方で、そうではない在り方と腹の据え方が他でもない自分自身の中に色濃く残っていることにハッとして気づき、「なんてことだ」と心を痛め、神さまの御もとへ、御もとへと、立ち返りつづけて生きることです。『自分中心。人間中心』の在り方と腹の据え方が、他でもないこの私の中にもある。こんなにも大きく、こんなにも根深くと。わたしがどう思い、どう考え、また周囲の人々がどう思い、どう考えるだろうかとどこまでもこだわり、どこまでも引きずられていきそうになる危うさに気づいて、それと戦い、それと格闘しつづけ、『神中心の腹の据え方』を少しずつ少しずつ取り戻してゆくことです。なんとかして。『悔い改める』という聖書独特の言葉もまた、ただ反省したり悪かったと思うことではありません。自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いつづけることから解き放たれて、その眼差しも思いもあり方も180度グルリと神へと向き直ることでした。なぜなら、「私がどう思い、どう考えるか」とそればかりを思い、そればかりにこだわりつづけるのは、淋しい生き方であるからです。「周囲の人々が私をどう思うだろう、どう見られているだろうか」と顔色をうかがい、引きずられ、言いなりにされてゆく生き方は、とても心細いからです。あまりに惨めです。誉められたといっては喜び、けなされたといっては悲しみ悔しがり、受け入れられたといっては喜び、退けられたといっては嘆き、一喜一憂し、恐れつづけます。それでは、いつまでたっても淋しく惨めで、心の休まるときがない。サタンよ退け。私の心の中のサタンよ、引き下がれ。だって、この私は神のことを少しも思わず、人間のことばかりクヨクヨクヨクヨと思い煩っているではないか。退け(マタイ16:23参照)
 長い長い時が流れました。『神ご自身が尊ばれ、信頼される。神ご自身が生きて働いていてくださり、ご自身のその恵みの出来事を、ご自身で持ち運んで、きっと必ず成し遂げてくださる』。その信頼と確信のもとに、今日でも、1人のクリスチャンが誕生します。心をさまよわせていた1人のクリスチャンが、ついに『私は一個のクリスチャンである』という恵みの場所へと立ち返ります。今日でも、同じ一つの確信のもとに、それは起こります。起こりつづけます。例えば、とても臆病で気の小さい人がいました。傷つきやすい、いつもビクビクオドオドしていた人がいました。夫の前でも親の前でも、子供たちの前でも、職場の同僚たちの前でも、「こんなことを言ったら何と思われるだろう」と彼女はためらいます。「聞いてもらえないかもしれない。馬鹿にされ、冷たくあしらわれ、はねのけられるかも知れない。相手の自尊心を傷つけ、互いに嫌な思いをするかも知れない」などと思い巡らせます。それで長い間ずっと、人の顔色をうかがいながら他人の言いなりにされてきました。けれど、クリスチャンである彼女はその一方で、もう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。そうだった。なにしろ神さまをこそ尊ぶ私である。神に信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である、と。例えば、「私が。私が」と長い間、我を張って生きてきた頑固な人がいました。私は私のしたいことをする。したくないことはしない。思い通りにできれば気分がいい。したくないことをさせられれば気分が悪い。けれどクリスチャンである彼は、あるいは彼女は、その一方でもう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。「父よ、あなたの御心をこの地上に成し遂げてください」という心からの願いと信頼をです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りそのものではありませんか。けれど私の願い通りではなく、あなたの御心にかなうことが成し遂げられますように。ああ、そうだった。私の考えや思いや立場を重んじるよりも、なにしろ神ご自身を尊ぶ私である。私に信頼し誰彼に聞き従うよりも、なにしろ神の御心にこそ信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である。「御名と御国を。私や他の誰彼の願いや計画ではなく、あなたの御心にかなうことをこそ」という願い。私たちの目の前にあるその一つの具体的な話題、その一つの判断とこの腹の据え方とは無縁ではありません。むしろ、いよいよそこで「御父の御心こそ」という願いが、私たちのための現実となっていきます。ついに、願い求めるその人は、「それはいけない。間違っている」と言い始めます。「そんなふうにしてはいけない」と言いはじめます。あるいは、「私が間違っていました。ゆるしてください」と。あるいは、喉元まで出かかった言葉を、思いと言葉と行いをかろうじて飲み込みます。もちろん、私たちは生身の人間です。嫌な顔をされるよりは、されないほうが居心地がいい。けなされるよりは誉められるほうが好きです。言い争うよりは、カドの立ちそうな話題は避けて、当らず障らずにいるほうが気楽です。わざわざ波風立つよりは立たないほうがよほどましに思えます。だから、力の強そうな声の大きな人物が目の前にいるなら、「はい。分かりました。あなたの思うとおりにやってください」と。どこまでも言いなりにされ、流されていきそうになります。あるいは強い私は、「私の気持ちは。私の立場や満足は」とどこまでも我を張って、私の言いなりに従わせようとします。それでもなお、私たちはクリスチャンです。なぜでしょうか? もう一つのことを心に留めているからです。「神の御名を、私たちにもあがめさせてください。神ご自身の御国を、ここへも来させてください」という祈りが、かろうじて危ういところで、私たちをクリスチャンでありつづけさせます。目の前のその強い大きな人を尊んだり恐れたりする2倍も3倍も、神さまをこそ 尊ぶ私たちであるからです。その人に信頼し従うよりも、自分の考えややり方に従わせようとするよりも、神にこそ信頼し、感謝し、聞き従いたい。その願いのほうが、ほんのちょっと大きい。ほんのちょっと色濃い。いいえ。その千倍も万倍も大きく色濃い。私たちはクリスチャンです。なぜなら、この私にもあなたにも天に主人がおられます。あの人もこの人もわたしの主人ではなく、夫も上司も私の主人ではなく、私自身さえももはや私の主人ではなく、主人のしもべたちにすぎなかったからです。私たちはクリスチャンです。しもべである私が立つも倒れるも、すべて一切その主人にかかっています。私たちはクリスチャンです。しかも天の主人は、しもべである私たちを立たせることがお出来になります。倒れてもつまずいても、何度でも何度でも、きっと必ず立ち上がらせてくださいます(コロサイ4:1,ローマ14:4参照)。私や誰彼がよい気持ちでいることよりも、天の主人に喜ばれることのほうが、私にはもっと大切です。あの人この人に誉められ認められることも大切ですが、それより何しろ 「善かつ忠なるしもべよ」と天の主人に誉められる(マタイ25:21)ことのほうが、その千倍も万倍も この私たちには大切です。そうでしたね。なにしろ天に主人がいてくださり、私たちはそのしもべとされているのですから。何しろ、主なる神こそが生きて働いていてくださる。「私ががんばらなくちゃ。私が私が」と歯を食いしばって生きてきた人が、肩の力を抜いて、楽~ゥになります。「私や誰彼のガンバリや努力の甲斐があって? いいや、そうじゃない。大間違いだった。だって主なる神さまは、この私自身と家族のためにも十分に生きて働いてくださるんだから」と。
私たちは晴れ晴れとして膝を屈めます。堅く抱え込んでいたものを安らかに手離すこともできます。臆病で気の弱い、卑屈でいじけた私のためにも、この主人こそが強く大きくあってくださる。この主人こそが豊かであってくださる。私たちは、そこでようやく楽~ゥに、晴れ晴れとして顔をあげます。私たちはクリスチャンです。


2015年11月16日月曜日

11/15上田教会説教内容の一覧表

〈上田教会 説教内容の一覧表〉

  容量の関係から、ホームページ上には、語った説教すべてを
掲載してご覧いただくことができません。けれど、もし興味のある方がおられましたら、どうぞご遠慮なく、金田にご連絡くださいksmksk2496@muse.ocn.ne.jp。ワード形式のメール添付ファイルで、どなたにでも説教原稿をお送りすることができます。あなたのお役に立つなら幸いです。(かねだ・せいじ)

20154月~〉
201545 マタイ福音書28:1-10『恐れてはならない』   (イースター)

    12日   同28:11-15       『新しい生命に生きる』
~キリスト者の全生涯に及ぶ生活設計~

    19日     28:16-20      『主イエスからの委託とご命令』

    26    テモテ手紙(1)1:12-17
                『キリストは罪人を救うため世に来られた』

5  3    コリント手紙(2) 1:8-10『神を頼りとする』

    10        (2) 4:1-10              『宝を土の器に』

    17        (2) 4:7-18              『行き詰まらない、見捨てられない』

    24        (2)12:1-10             『主の恵みは十分』    (ペンテコステ)

    31  マタイ福音書1:1-17『約束の系図』

6  7          1:18-25            『正しい人の恐れ』

  14          2:1-12              『王は不安を抱いた』

  21          3:1-12              『主の道を整えよ』

  28          3:1-12              『水による洗礼、聖霊と火による洗礼』

7  5          3:13-17            『御心にかなう者』

  12日       4:1-4                『石をパンに変えよ』  (荒れ野の誘惑.1)

  19          4:1-7                『私を支えるかどうか』 (荒れ野の誘惑.2)

  26          4:1-11             『私を拝むなら』    (荒れ野の誘惑.3)

8  2日    4:12-17           『天の国は近づいた』

   9          4:18-25           『ついて来なさい』

  16          5:1-4              『心の貧しさ』     ~幸いである理由.1~

  23         5:5-6               『柔和であること』 ~幸いである理由.2~

     30          5:7-12             『平和を造り出す』  ~幸いである理由.3~

9  6        5:13                 『地の塩』

  13日     5:13-16            『世の光』

  20        5:17-20            『律法を成就するために』

  27        5:21-26           『腹を立て、バカと言う者は』

104        5:27-32           『夫婦であること、離婚問題』

     11        5:33-37           『当てにならない私自身』

  18        5:38-42           『復讐してはならない』

     25        6:1-4               『隠れたことを見る神』

111日    6:5-10            『天にいます私たちの父よ』   (祈り.1)

      8      5:43-48           『敵対者たちと、迫害する者のために』
            (日本FEBC,礼拝収録放送)

    15日  24:45-51         『忠実なしもべと、悪いしもべ』 (伝道礼拝)
             (午後。聖書講演『上に立つ権威にいつでも従うべきか? いいや、そうではない』)

     22       6:5-10           『御名を誉めたたえさせてください (祈り.2)

  29    ルカ福音書1:5-18『もう老人だし』         (待降.1)

126       1:18-25           『手間取って足踏みする日々』  (待降.2)

  13       1:26-38           『神にはできる』              (待降.3)

  20       2:1-20      『恐れるな               (クリスマス)

  27日  マタイ福音書6:5-10  『御国を』    (祈り.3)

20161月~〉
2016 1 3日 詩 130      『自業自得、ではない。』

   10 マタイ福音書6:5-10    『御心を』                      (祈り.4)

    17日  同6:9-11           『必要な糧を今日も』            (祈り.5)

    24日  同6:9-12           『ゆるしてください』           (祈り.6)

    31日  同6:9-15           『誘惑と悪から救い出してください』(祈り.7)

2 7  ヨハネ手紙(1)1:5-10   『神にこそ真実がある』          (祈り.8)

  14 マタイ福音書6:16-18   『隠れたことを見る神に』

    21    6:19-24          『二人の主人に仕える?』

    28    6:25-34          『神の国と神の義をこそ』

3 6日   7:1-6             『自分の目の中の丸太』

  13    7:7-12           『求めよ、探せ、門を叩け』

  20日  7:13-14           『狭い門から入れ』

    27 ヨハネ福音書14:1-3    『心を騒がせるな』             (復活.1)

4 3    14:4-6            『道、真理、命』               (復活.2)

    10  テサロニケ手紙(1)4:13-14/詩23
                       『死んで、それで終わりではない』(復活.3)

    17  コリント手紙(1)15:17-33『明日をも分からない生命?』   (復活.4)

    24  ローマ手紙4:16-25   『無から有を呼び出す神』       (復活.5)

5 1    14:4-9             『生きるにも死ぬにも』         (復活.6)

     8  詩篇16:7-11           『私は動かされない』           (復活.7)

    15  マタイ福音書7:15-23   『その実によって分かる』

  22    7:24-29           『家と土台』

   29    8:1-4           『重い皮膚病の人を』

6 5    8:5-13           『権威の下にある』

  12    8:18-22         『まず父を葬りに』

  19    8:23-27         『わたしは溺れそうです』

    26    8:28-34       『墓場に住む者たちを』

7  3   9:1-8           『あなたの罪はゆるされた』

  10    9:9-13          『医者である神に』

  17    9:14-17         『新しいぶどう酒を、新しい皮袋に』

  24    9:18-19,23-26,エゼキエル書37:1-14死んでしまった少女を』

  31    9:20-22         『出血の病いに長く苦しんだ女性を』

8  7    9:27-31         『深く憐れんで』

  14       9:35-38           『飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている』


  21       10:1-15         『主のもとから送り出されて』       ~指図と心得.(1)

  28日     10:16-23        『主ご自身が語り、支え、救い出す』 ~指図と心得.(2)

9月  4       10:24-31        『恐れるな                     ~指図と心得.(3)

       11       10:32-33        『イエスを知らないと言う』~指図と心得.(4)

   18      10:34-39        『平和ではなく剣を?』        ~指図と心得.(5)

  25      10:40-11:1       『ひとりの小さい者を』    ~指図と心得.(6)

10月  2     11:2-19         『約束された救い主か?』

          9      11:20-24          『悔い改めない町を叱る』

        16     11:25-30          『疲れた者、重荷を負う者は』

  23     12:1-14         『日曜日の願いと目的』

  30     12:15-21          『傷ついた葦、くすぶる灯心を』

11月 6  ローマ手紙12:1-2   『神の御旨にこそ従う』

        13     13:1-2      『権威者とは何者か?』(伝道礼拝)

        20     13:3-7      『権威者の限界と慎み』

  27  サムエル記下12:1-15  『預言者が立ちふさがる』

12月 4   創世記1:26-2:3          『人間とは何者か?』

        11  マタイ福音書24:44-51    『どう生きて、死ぬか?』

        18  ローマ手紙13:8-10      『隣人を愛する』

        25    13:11-14               『夜はふけ、朝が近づいた』(クリスマス)

20171月~〉
1    1    創世記12:1-9     『地上を旅する私たち』

          8    マタイ福音書12:22-32  『すでに神の国は来ている』

  15        12:33-37                  『木が良ければ、実も良い』

        22日  同12:38-42      『ヨナのしるし』 

  29    12:46-50                 『新しい家族』           (定期総会)

2月  5         13:1-9, 18-23      『種を蒔く人のたとえ』 

        12日  同13:10-17            『心が鈍り、耳が塞がって』

  19日  同13:44-52           『天の国とは何か?』    

        26       13:24-30, 36-43    『毒麦のたとえ』

3   5日   同14:1-12        『洗礼者ヨハネ、退場。』   (受難.)

 12日  同14:13-21               『パン5つ、魚2匹』           (受難.2)

       19日  同14:22-36            『湖の上を歩く』                  (受難.3)

   26     同15:1-20           『その人を汚すもの』          (受難.4)

4月  2      15:21-28           『パン屑をいただく信仰』    (受難.5)

   9日  同15:32-39           『わずかなパンと魚で』         (受難.6)

       16日  同16:1-4                  『時代を見分けるしるし』     (復活.)

      23   同16:5-12            『悪いパン種』                 (復活.)

  30日   16:13-20          『この岩の上に』               (復活.)

5 7日   同16:21-28             『神を思うことが出来ない病気』   (復活.)

  14日  同17:1-13             『山上の変貌』                     (復活.)

    21   同17:14-20          『信仰が薄いから』              (復活.)

    28         17:22-23          『二度目の受難予告』             (復活.)

6 4        17:24-27          『税金について』     (聖霊降臨)

     11日  同18:1-5              『いちばん偉い者』          

 18日   同18:6-9             『小さい者の一人に』     

 25日   同18:10-14         『迷い出た一匹の羊を』