みことば/2022,1,23(主日礼拝) № 355
◎礼拝説教 ルカ福音書 22:35-38
日本キリスト教会 上田教会
『財布と剣を持て』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
22:35 そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。36
そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。37 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。38
弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。(ルカ福音書 22:35-38)
10:1 その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。2 そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。3 さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。4 財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。……17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。19 わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。20 しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。 (ルカ福音書 10:1-20)
35-37節、「そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。ここは、やや理解が難しい箇所で、それぞれに違ったいくつかの受け止め方がありえます。35節と36節の、互いに相反するような、正反対に思える内容が主イエスご自身の口から弟子たちに命じられていることです。まず35節で、主イエスは、ご自身の弟子たちを二人一組にして町や村に送り出したときのこと(ルカ9章と10章)を思い起こさせます。「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。神の国の福音を主イエスから教えられている途中で、まだ信仰も知識も経験も足りず、主イエスに従って生きる決心も覚悟もまったく足りないまま、あまりにも未熟なままに、しかも準備も装備もほとんど持たず手ぶらで、弟子たちは実地訓練へと送り出されます。それでもなお、困ったことは何一つもなかった。それは、「小羊を狼の群れの中に送るようなものだ」と主イエスご自身からも前もって言われてもいました。しかも準備も必要な装備もほとんど持たず手ぶらで出かけて行って、どうして困ることがなにも無かったのか。主イエスから、「すべての悪霊を制し、病気を癒す力と権威を授けられた」からです。「へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無い」(ルカ9:1,同10:19)と主イエスから保証され、太鼓判を押されていたからです。主イエスご自身からの力と権威を授けられ、主イエスの保護と支えの下にこそ、彼らは出かけて行き、主の元へと帰ってきたからです。これこそが、困ることが何一つもなかったことの只一つの理由です。復活の主イエスによって世界宣教へと送り出されたときも同じでした、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20)。さらに、イスカリオテのユダが主イエスを裏切って滅びの運命に定められたことについて、主イスご自身がこう証言しています、「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」(ヨハネ福音書17:12)。つまり、ユダ以外の誰も滅びなかったのは、彼ら自身の清さや信仰の強さ、忍耐深さといった自分自身の何かでなく、ただただ主イエスご自身がその者たちを守り、保護しつづけておられたからだと。もちろん、この私たちも、すべてのキリスト教会とクリスチャンも、救い主イエスご自身からのこの同じ保護と支えの下に置かれつづけています。
36節、「そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」。財布、袋、剣。それらは、自分自身のいのちを支え守るための装備です。これらは皆、霊的な事柄として受け取らねばなりません。お金や財産、あるいは武器は、ほどほどの支えにしかなりませんし、やがて朽ちたりしぼんだり、盗まれたりするほかない虚しい支えだからです。もし、それらを当てにするほかないなら、この私たちは絶望する他ありません。しかももし、神ご自身からの助けと支えがないならば、どんな備えも財産も道具もなんの役にも立ちません。私たちは、どうして、何をもって、今日こうしてあるを得ているのか。今しがた申し上げたばかりです。自分自身の何かによってではなく、ただただ主イエスご自身がその者たちを守り、保護しつづけておられたからだと。もちろん、この私たちも、すべてのキリスト教会とクリスチャンも、救い主イエスご自身からのこの同じ保護と支えの下に置かれつづけています。だから、こうして折々に神からの支えと助けを贈りお与えられ、神からの幸いと祝福を受け取りながら生きてきた。すると、それらを頼みとすることが出来ない、有り得ないほどの緊急事態が起こっている。「しかし今は」、自分自身で、自分のいのちを守るための装備と用意を整えなさいと。
「しかし今は」という「今」とは、いつからいつまでなのか、どういう時なのか。ある人々は、「救い主イエスが天に昇っていかれて、やがてふたたび世の終わりにもう一度来られるときまでの間だ」と考えます。けれど、それは間違いです。先ほど確かめたばかりです。マタイ福音書の末尾、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。天に昇っていかれた後でも、世の終わりまで、いつも私たちと共にいつづけてくださる。これが、ご自身からの揺るぎない確かな約束です。聖霊なる神のお働きにおいて、主イエスは、私たちと共におられます。聖霊なる神は、御子イエスの霊とも呼ばれ、私たちの体のうちに宿って生きて働き続けます。聖書は証言します、「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(ローマ手紙8:9-11)。
「しかし今は」と、自分自身で、自分のいのちを守るための装備と用意を整えなければならないような時。神からの支えと助けを頼みとすることが出来ない緊急事態のときなど、ほとんど有り得ないことが分かります。けれど、そう警告されている。37節、「あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。これが、謎を解くための最後のヒントです。救い主イエスが『罪人のひとりに数えられる』とき、救い主について聖書が預言しつづけてきた約束。それは彼が、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」ことです。十字架の苦しみを受け、罪人として殺され、墓に葬られ、その三日目に墓からよみがえるときまで、神であられる救い主の力はひととき封じられていました。ただその間だけは、救い主イエスは彼らや私たちを守り、また保護することができませんでした。墓からよみがえらされた後では、終わりの日まで、片時も止むことなく、救い主イエスは私たちを守り、保護しつづけてくださいます。12人の弟子たちを、つづいて72人の弟子たちを町々村々へと遣わしたときと同じに、また世界宣教へと彼らを送り出した時と同じに、いつも、私たちがどこでなにをしているときにも、共にいてくださる主イエスこそが私たちを保護し、助け、守りつづけてくださいます。これこそが、私たちが最後まで苦難を耐え忍んで、主イエスを信じて生涯を歩むことのできる唯一の理由であり、根拠です。
38節、「弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」」。あのときは、弟子たちはまだ、救い主イエスを信じることも、神の国がどのように実現していくのかも、神を信じてどのように生きることができるのかも、まだまだ、よく分かりませんでした。たとえ剣が二振りあっても、2000本、3000本あっても、何の役にも立ちません。彼らや私たちがあまりに愚かでも、心がとても鈍くても、神さまはそれを軽蔑したり呆れたり、ガッカリしたりはしません。あの彼らと私たちはだいたい同じようなものです。よくよく分かった上で、その彼らと私たちの弱さと貧しさを憐れんでくださる神さまです。何があれば十分なのかをあの彼らが知るのは、まだもう少し先のことです。この直後、主イエスが捕らえられるとき、ご自身が「剣を取る者は剣で滅びる」と仰ったとおりに。ただ、その剣によってペテロが相手のしもべの一人の耳を切り落としたとき、その哀れなしもべの耳に手を触れて癒してあげて、私たちへの憐みを示すためにだけ、その剣は役に立ちました(マタイ26;52,ルカ22:50-51)。
必要なことを、すべて語り終えました。救い主イエスの助けと保護の手が及ばない、ほんのつかの間の緊急事態の時がありました。十字架の苦しみと死、葬り、三日目によみがえるまでの、救い主イエスの力とお働きがほんのひととき封じられていた間です。つまり、それ以外のすべてのときは、救い主イエスの保護と支えにこそ全幅の信頼を寄せつづけて、私たちは生きることができます。イスカリオテのユダとほぼ同罪の私たちです。他11人の弟子たちも皆すべて、イエスを見捨てて散り散りに逃げ去りました。けれどなお、主イエスは私たちを見捨てることも見離すこともなさいません。私たちの弱さを思いやることができるお方だからです。生きて働いておられます神を信じる私たちです。私たちの信仰と希望とは、ただただ神にこそかかっています。だからこそ私たちは、もはや私たち自身の強さによって生きるのではありません。私たち自身の賢さによって生きるのでもありません。それらは取り除かれました。日毎に、1つまた1つと取り除かれつづけます(ローマ手紙3:27,コリント手紙(1)1:26-31)。私たちは、ただただ、主なる神さまの強さと憐み深さにすがってこそ生きるのです。主なる神ご自身の賢さと豊かさに信頼し、期待し、そこに願い求めて、私たちは生きるのです。誰かを恐れることも恥じることもなく、また誰かを恐れさせることも恥じ入らせることもなく、互いに晴々清々としてです。