1/16 こども説教 創世記 18:1-15
『サラの不信仰』
18:1 主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。……9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。 (創世記
18:1-15)
【こども説教】
アブラハムとサラ夫婦に、しかも90歳になろうとするサラのお腹から子供が生まれると神から告げられて、アブラハムはその言葉を信じることができませんでした。アブラハムばかりではなく、妻サラもまた神からの言葉を信じられませんでした。夫婦2人ともが不信仰に陥って、神の言葉と神ご自身を疑ってしまいました。10-15節、「そのひとりが言った、『来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう』。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った、『わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか』。主はアブラハムに言われた、『なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう』。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、『わたしは笑いません』。主は言われた、『いや、あなたは笑いました』」。
2人は同じ過ちをしてしまいました。嬉しくて笑ったのではなく、悲しんで、そんなことがあるものかと神の約束をバカにして、苦々しく笑いました。しかも、「笑っていません」と嘘をついて取り繕おうとしました。けれど、「いや、あなたは笑いました」と念を押されました。その自分自身の不信仰と罪深さをはっきりと認め、ちゃんと分かる必要があったからです。その不信仰から信仰へと連れ戻していただくために。その罪深さから神への信頼へと心の向きを変えていただくためにです。
【大人のための留意点】
なぜサラは笑うのでしょうか。なぜサラは言うのでしょうか。「そんなことを本気にするものか」と。なぜサラは信じることができないのでしょうか。まず第一に、時間観念というものがあります。われわれは自分なりの時間観念をもち、自分なりのカレンダーに執着し、自分なりの時計で事柄を計ります。神がこれとは別の時間観念をお持ちになっていることを忘れているのです。そしてすぐさま早計に判断を下して、神は役に立たないと断じてしまうのです。その場合、役に立たないのは、われわれの忍耐の方なのですが。
第二のことがあります。成功、不成功についての観念です。けれども、神はわれわれに強く求めます。その(労働の)成果についての疑問、憂慮、不安などは、神をたしかに信頼することを通して、すべてを神におゆだねするようにと、求められます。
サラは笑ったことについて釈明を求められると、言い逃れをして嘘を言います。私は笑いませんでした。「(なぜなら)サラは恐れたので」と説明されます。サラは不信仰のゆえに笑いました。ところが、彼女はその失敗からすぐさま信仰へと移行しました。そして「神を恐れた」。神にはそれで十分です(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)。