みことば/2022,1,2(主日礼拝) № 352
◎礼拝説教 ルカ福音書 22:14-22
日本キリスト教会 上田教会
『聖晩餐のパンと杯』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。21 しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22 人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。(ルカ福音書 22:14-22)
10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。 (1コリント手紙 10:16-17)
聖晩餐のパンと杯についての、救い主イエスご自身からの直々の指図であり、教えです。なぜ世々の教会が、「こうしなさい」と救い主イエスから命じられたとおりに、このパンと杯の食卓を守りつづけてきたのか、どうしてこれからも、それをしつづけるのか。救い主イエスを信じて生きるクリスチャンであるとはどういうことなのか、どんな希望と慰め、支えがあるのか。その言葉の中に何があるのかが告げられています。
14-16節、「時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。聖晩餐のパンと杯の食事は、この夜の救い主イエスと弟子たちの食事を再現して、味わいます。それによって、そのほんの数時間後になされた主イエスの十字架の苦しみと死を思い起こし、心に刻みつけ、それを覚えて毎日の暮らしを生きるために、大切に繰り返されつづけます。主イエスの十字架の苦しみと死は、恵みに価しない罪人を神に逆らう罪から救い出して、神の祝福と恵みにあずからせるために成し遂げられました。「苦しみを受ける前に」とは、目前に迫った、その十字架の苦しみと死の前に、という意味です。「自分の弟子たちと一緒にこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」のは、なぜ十字架につけられ、苦しんで死んでいくのか。その意味と中身をぜひ弟子たちに教えておきたい。罪人を憐れんで救う神の御心であること、そのようにして神のゆるしの下に生きる新しいいのちが差し出されていることをはっきりと覚え込ませてあげたいと。「あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。かつてエジプトで神の民とされたイスラエルの人々は奴隷にされて惨めで辛い生活を耐え忍んでいました。苦しみ嘆く彼らの声が神に届き、神はその彼らをエジプトから連れ出します(出エジプト記3:7-10参照)。そのエジプトでの奴隷生活の最後の夜、エジプト全土を大きな災いが襲います。その中で、小羊の血を家の戸口に塗った彼らの家の中だけは、その大きな災いから免れました。神の憐れみの配慮によって、災いが彼らを過ぎ越していったからです。これが、過ぎ越しの祭りの発端となった出来事です(出エジプト記12:1-13:16参照)。かつてエジプトで神の民を救うために、小羊がほふられ、その血が流され、それによって彼らは災いを過ぎ越すことが出来た。やがて長い年月の後、このときに、罪人と世界を救うために、世界の罪を取り除く神の小羊であられる救い主イエスの十字架の死と復活我が成し遂げられた。救い主イエスの死と復活を、それゆえ世々の教会は『第二の過ぎ越し』と呼び習わし、心に刻みつづけてきました。これからもそうです。
「あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。終わりの日に、罪人たちとこの世界の救いがまったく成し遂げられることを、救い主は心から待ち望んでおられます。そのためにこそ、十字架の苦しみと死を耐え忍び、新しい命の道筋を切り開こうと堅く決心しておられます。この世界と、私たち罪人のために。
17-20節、「そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」。主の聖晩餐の食卓でクリスチャンが食べるパンは、十字架の上で罪人たちのその罪のあがないのために死に渡された救い主イエスの体を私たちに思い起こさせます。ブドウの実で作った飲み物は、私たちの罪をあがなうために流された救い主イエスの尊い血潮を思い起こさせます。
さて、救い主イエスはパンを取って、弟子たちに渡し、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」と言われた。杯も同じように弟子たちに渡し、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と。パンが、いったいどのようにして、主イエスの体になるのか。杯の中のブドウの実の飲み物が、どのように主イエスの血潮になるのか。さまざまな議論がなされつづけました。パンを食べ、杯の飲み物を飲み干しながら、どのようにして主イエスの体を食べ、その血潮を飲むことになるのか。それは、ただただ、主イエスを信じる信仰によってである。これが、キリストの教会が受け止めてきた答えです。なによりも、救い主イエスご自身が、「これは私の体である」、「私の血による新しい契約である」とおっしゃった。だから、言われるままに、信じて受け取ります。ただ信仰によってしか、その秘儀を受け取るすべがありません。主イエスを信じる信仰によってだけ、そのパンと飲み物を、主イエスの十字架の上で引き裂かれた体、流された血潮として、受け取り、飲み食いすることができます。
聖晩餐は主イエスとあの弟子たちの最後の晩餐を再現し、そのパンと杯とは主イエスの十字架の死をわたしたちの体と魂に深々と刻みつけます。そのパンと杯のうちに、自分たちを『神のもの』とさせる根源の生命を私たちは見出します。「わたしは、あなたの罪を贖うために十字架を負ったのだ」。この言葉が聖餐式の中に込められます。小さな杯に注がれた赤い飲み物と、小さなひと切れのパン。それらが自分の手元にまで差し出されるとき、十字架のゆるしが確実にこの自分にまで差し出され、届けられた。そのことを、確信してよいのです。
「あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。神の国が、神ご自身がご支配なさり、生きて働いてくださる神の現実が、差し迫って近づいています。そのことを私たちは覚えさせられます。また同時に、主イエスの御心をもこの言葉は告げます。ぶどうの実から作ったものを、今、弟子たちと共に飲んでいる。やがて、御父の国で共に新たに飲むことになる。やがてと願ってくださった主は、『今、弟子たちと飲み食いする』ことをも心から願ってくださいました。そのときそこでの晩餐を願った主は、そのパンと杯が指し示す苦しみと死をも「ぜひそうしたい」と、同じく心から願ってくださいました。「この過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と。ゲッセマネの園で「この杯を過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈られたとき、十字架の苦しみと死という杯の苦さは、掛け値なく、まったく真実でした。しかもなお、そのご自身の苦しみと死を、主イエスは心から願っておられた。私たち罪人らの救いのために、ぜひそうしたいと。
21-22節、「しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。あらかじめ滅びに定められていた者がいました。心が痛みます。主ご自身は、私たちを見放すことも見捨てることもなさらなかった。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを、この私たちのためにすると。もちろんパウロも誰も彼もが皆、この私自身も、やましい所は山ほどあります。誰かから裁かれても、ちょっと批判されても陰口きかれても、簡単にへこたれてしまいます。他の誰も何も文句を言わなくたって、自分で自分にガッカリして呆れ返ってしまうことも度々です。もし口に出そうとするなら、互いに不平や不満を山ほど抱え、注文も要求も苦情も互いに山ほど突きつけ合いたくなりますね。それはそうです。けれど何回か深呼吸をして、心を鎮めましょう。私たちはクリスチャンです。ゆるされた罪人。ゆるされてなお、まだまだ罪深さと、ふつつかさいたらなさを山ほど抱える者同士だからです。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを受け続けている私たちだからです。憐れみを受け、ゆるされて、私たちはまるで何一つも罪を犯さなかったもののように取り扱われています(ハイデルベルグ信仰問答,問60,1563年)。その神のなさりように、ただただ驚くばかりです。ただただ、感謝があふれるばかりです。それは、この私のことであり、他でもない、あなた自身のことでした。だからこそ、「特にあなたがたに向かっては、はっきり言っておく」(21節)と主イエスは仰ったのです。あの弟子たちと、ここにいるこの私たちに向かって。この私たちのためにさえも。なんということでしょう。それで、この食事が目の前に用意されています。弟子たちにも、ここにいるこの私たちにもよくよく分かってもらおうとして、あのむごたらしい十字架の死を、天の御父と救い主イエスご自身が用意してくださいました。パンをちぎり分けながら、主イエスは「こうやってわたしの体も、十字架の上でちぎり分けられる。誰かから無理矢理にではなく、自分で自分の体をあなたに手渡す。だから取って食べなさい。このように私も私の体をあなたを救うために与える」「この杯の赤い飲み物のように、十字架の上で私の血も流される。あなたと神さまとの新しい契約として、わたしの命をあなたに与える。こうやって、わたしはあなたの救いを保証する。このわたしが太鼓判を押す」と。主イエスが十字架にかかって殺されてしまうその前の晩の食事です。しかも主イエスは、「わたしはぜひ十字架にかかって殺されたい」と心から願ってくださった。弟子たちといっしょにその食事をぜひにと願った主は、同じくまったく、『わたしたちを救うためにご自分で苦しみと死を受けとる』ことをも心から願っておられました。ぜひ、私はそうしたいと。