みことば/2022,1,9(主日礼拝) № 353
◎礼拝説教 ルカ福音書 22:21-30
日本キリスト教会 上田教会
『仕える者になりなさい』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
22:21 しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22 人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。23
弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。25
そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。27
食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。29
それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。
(ルカ福音書 22:21-30)
16:13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。 (ルカ福音書 16:13)
まず21-26節;「しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである」。救い主イエスが十字架におかかりになるその数時間前、一番最初になされた聖晩餐の食卓に、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが一緒に座っており、他の弟子たちと共にパンを食べ、杯の飲み物を飲んだことが報告されています。驚くべきことです。パンと杯の聖なる食卓に集う者の皆が御心にかなう心を抱いているわけではなく、皆が皆、救い主イエスを十分に信じているわけでもなく、御心に背いて、救い主イエスを裏切ってしまう者も、そこで共にパンと杯にあずかることをゆるされている。救い主イエスご自身が、それを受け入れ、お許しになっています。
もし仮に、その聖なる晩餐の食卓に、御心に背く者も混じって一緒に食卓に集い、パンと杯にふさわしくない者も他の弟子たちと共にパンを食べ、杯の飲み物を飲んでいるとしても、それでもなお主の晩餐にあずかることを避けたり、あるいはその集団から遠ざかろうとしなくても良いのです。『小麦と毒麦とが収穫のときまで一緒に育てられる』(マタイ13:25)と主イエスご自身から私たちは諭されているからです。しかも毒麦を探して抜いてしまおうとするしもべは主人からこう命じられます。「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ」。私たちの誰にも、麦と毒麦との見分けがつきません。神さまにしか分かりません。ですから、よく分からないままに早合点をし、軽はずみに兄弟姉妹を裁いてしまってはならないのです。慎み深く、謙虚であるようにと戒められます。なぜなら、私たちは神ではないからであり、神よりも賢くあろうとしてはならないからです(1コリント手紙1:18-25参照)。
さて、弟子たちは虚しい議論に心を奪われてしまいました。誰が一番えらいだろうか、誰が一番よく仕事ができるだろうか。「自分自身とまわりの人間たちを見比べて、朝から晩まで四六時中、ただただ人間のことばかり思い煩い続ける」という病気にかかってしまうからです。この病気こそ危険です。このおかげで、せっかく神さまを信じて生きてきたはずの人々が、神様のことをすっかり分からなくなり、目をくらまされて、あちらへこちらへとさまよい続けます。しかも彼らが「1番偉い者、2番目に偉い者、3番目4番目」という自惚れ競争にうつつを抜かしていた、そのタイミング。最初の聖晩餐の席で、パンと杯を受け取ったその直後です。「これは私の体。私の血による新しい契約」と告げられ、心に噛みしめ、自分の腹に収めたその大きな祝福の直後にです。この後、弟子たちのつまずきと裏切りの予告がなされ、オリーブ山での祈りが続き、裁判と十字架の死が主イエスを捕らえようとするその矢先に、です。もし、この信仰の本質と中身を本当に理解し、受け止め、神さまを信じて生きることの祝福と幸いを自分自身の血とし肉としようと願うなら、もしそれを本気で願うならば、それは今この瞬間です。今こそ本気になって必死に目を凝らし、精一杯に考え巡らせるべきときでした。けれど彼らは心が鈍くなっていました。
27-30節、「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう」。あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちであると、主イエスは仰います。主イエスが、あの弟子たちを喜んでくださっています。主イエスの地上の全生涯の宣教の働きを貫いて、あの弟子たちが弱さや不完全さをさらしつづけたことを私たちもよく知っています。とても弱々しく、ふつつかでありつづけた彼らです。彼らの無知や信仰の足りなさを、主イエスはしばしば厳しく叱りつけておられました。ほんの数時間後に、その彼ら皆がご自身を見捨てて、散り散りに逃げ去ってしまうことも、あらかじめ主イエスはよくご存知でした。けれどもなお、ダメなところやふさわしくないところが山ほどある中で、なお彼らの振る舞いの1つの良い点に目を留め、誉めてくださり、キリストの教会がそれに目を留めるようにと指し示しておられます。数多くあった失敗や欠点にもかかわらず、なおあの彼らは自分たちの主人であるイエス・キリストに対して、とても忠実であったと。どんなに多くの間違いがあったとしてもなお、彼らは主イエスを心から信じていた。彼らは、主イエスが低くされ、恥とあざけりにさらされていた間も、主イエスにしがみつきつづけていました。受け取った恵みが彼らを駆り立てて止まなかったからです。
主イエスにこそ仕えて生きる私たちです。なぜなら、「あなたは神からの救いと共に他からの救いも望みますか」と問われて、「いいえ。ただ神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます」と答えたからです。このことを習い覚えてきました。では、『すべての人に仕える』ことと『主なる神さまに仕える』こととは、どう帳尻が合い、どのように両立するでしょうか。また『隣人を愛し、重んじる』ことと『主を愛する』こととは。「主を愛することは難しくて、あまりよく分からないし私の性分にも合わないから、だから私はこれからはもっぱら隣人や自分の家族や、いろんな人々に仕えたり、愛したりすることに専念しますよ」と親しいクリスチャンが言い始めるとき、あなたはその人に何と言ってあげることができるでしょう。主なる神さまをこそ心から愛し、敬い、尊ぶこと。これこそ最も重要な第一の掟です。第二の掟は、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと(マタイ22:34-参照)。なにしろ第1の掟。その後で、それに続いて、第2の掟。この優先順位こそ大事です。けれどその区別や順序がいつの間にか紛れて、あやふやにされました。「主よ主よ」と口では言いながら、主ではない他様々なモノを取っかえ引っ変え主人としている私たちです。信仰も何もかも、あまりに人間中心なものにスリ替えられていきます。気がつくと、いつの間にか、主に仕えるよりも、連れ合いや家族に仕え、職場の同僚や上司に仕え、自分自身の気持ちや願いや腹の思いに仕えることを先立てて、それらを優先してしまっている自分がいます。気がつくと、主に仕えて生き、主の御心にかなうことを願うことが、二の次、三の次にされているかも知れません。恐ろしいことです。だからこそ心が鈍くなると、その証拠に、「誰が一番偉いだろうか。2番目は、3番目は。だれが一番働きが少なくて、役立たずだろうか。2番目は、3番目は」と眺め渡したくなります。神さまのことを忘れ、神さまこそが一番偉くて、よくよく働いてくださることも、分からなくなったからです。心細くなったり、惨めな恐ろしい気持ちになるときも同じです。思い煩うあまりにすっかり心が鈍くされてしまいました。いつの間にか、天に主人がおられることをすっかり忘れている。それなら心細いのも惨めなのも恐ろしくて仕方がないのも当たり前です。さあ、目を覚ましましょう。心淋しい兄弟たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ手紙 2:6-)ことを。そのへりくだりの神さまこそが私たちの唯一の主人であることを。
あの弟子たちと同じように、この失敗だらけの、ふつつかな、信仰がとても足りない、愚かなこの私たちに対しても、その間違いや失敗についてよりも、私たちが受け取っている恵みにこそ、主イエスは目を凝らしていて下さいます。私たちの弱さを憐れみ、私たちの罪深さや頑固さに応じてではなく、神ご自身の憐れみに照らして私たちを扱いつづけていてくださいます。このことをこそ、私たちはよくよく覚えておきましょう。そのように私たちが弱く、貧しいしもべであるとしてもなお、私たちの弱さや貧しさを憐れんでくださる主人がいてくださいます。ですから、主イエスにこそ私たちは必要なだけ十分に信頼を寄せ、主イエスにこそよくよく聴き従いましょう。主イエスをこそ自分自身のためのただお独りの主人としつづけましょう。このお独りの方から十分に聴いてきた私たちなので、何が主の御心にかなっているのか。何をどうすればいいのかを、私たちは分かっています。「どんな召使も2人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(ルカ16:13参照)。イエスこそ主であると、私たちは教えられ、習い覚えてきました。救い主イエスによって神の憐れみを知らされ、その憐みを受け取ってきた私たちです。すべての信頼をただ神に置く私たちです。神の御意志に服従し、神にだけ仕えて日々を生きる私たちです。どんな困窮の只中にあっても、そこで神に呼ばわって、救いとすべての幸いをただ神の中に願い求める私たちです。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認め続ける私たちです(Jカルヴァン『ジュネーブ教会信仰問答』問答7 1545年を参照)。祈りましょう。