1/23 こども説教 創世記18:16-33
18:16
その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。18
アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、21
わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。22
その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。……32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。 (創世記18:16-33)
【こども説教】
ソドムとゴモラの町の人々は神に逆らいつづける、とても悪い人々でした。その人々をどう取り扱うのかを、神はアブラハムにわざわざ知らせています。神の正しさと憐み深さがどれほどのものなのかを教えるためにです。27-28節、「アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。神さまが、アブラハムに、憐み深い優しい心を贈り与えています。正しい人が50人いたらどうするのか。45人、40人、30人、20人、10人ではどうですかと。ここで最も大切なことは、アブラハムが問いかけたから神が憐れみ深い扱いをしようと思い直した、わけではないことです。もともと最初から、神ご自身は救いに価しない罪人をゆるして救おうとなさる神です。その神の憐れみの心を知らせるために、とても悪い人々のいるソドムとゴモラの町を、アブラハムに見せています。ほんのわずかな正しい人々のために、ソドムとゴモラの町を滅ぼさない。神さまに従う道は、神の正しさと憐み深さを知って、そのように人々を取り扱おうとする道であるからです。アブラハムも私たちも気づかされます。むしろ、この自分自身が、ソドムとゴモラの町のようだった。その人々は私自身だ。けれど、神さまが憐れんで、なんとかして私たちの滅びを免れさせたいと心から願っておられます。塵や灰にすぎない私たちが神さまに立ち帰って生きることを、神は願っておられます。
【大人のための留意点】
アブラハムの信仰を彼の功績とみなして讃美することはできません。彼の勇気や忍耐について、ただの一言たりとも誉めそやしたり、「執成し人アブラハム」を高く評価することはできません。神がこの人物にご自身のご計画をお知らせになったればこそ、彼はそういう行動をとる者となったのであり、そして、神はまた彼の心に執成しの霊をも賜ったのでした。ここで、罪人の死を欲せずにかえって罪人が悔い改めて救われることをお望みになるひとりのかたを他にして、それ以外の誰かを誉めたたえようとすることは愚かであり、僭越(せんえつ=身分を越えて出過ぎたことをすること)のそしりを免れません。すなわち、そこに働いておられる神そのかたを他にしては(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)。