2022年1月16日日曜日

1/16「あなたが立ち直ったら」ルカ22:31-34

              みことば/2022,1,16(主日礼拝)  354

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:31-34               日本キリスト教会 上田教会

『あなたが立ち直ったら』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。ルカ福音書 22:31-34

 

1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。17 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。20 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。21 あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。(1ペテロ手紙 1:13-21)


主イエスが十字架におかかりになる前の晩のことです。

この箇所もまた、大きな驚きに満ちています。31節、主イエスは仰います。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞きいれられた」。なぜそうであるのかと問うてみても、十分な答えを見出すことは難しい。むしろ、これがこの世界と私たちが生きることの現実であると受け止めたい。試練と悩みが、世界と私共の人生を襲います。しばしばあまりに激しく、情け容赦もなく。私たちは小麦のようにふるいにかけられます。小さな子供たちも、若者たちも、お父さんお母さんたちも、年配の人たちも、それぞれの不安と寂しさや心細さの只中に置かれます。「神によって造られたものたちがすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ手紙8:22)と聖書は告げました。

救い主イエスの弟子たち。主イエスはさらに続けて、こう仰います;「しかし私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。もちろんシモン・ペテロのためばかりではなく、そのあなたのためにも「しかし私は」と。苦しみと悩みの現実が確かにあるとして、けれどなお主イエスのこの言葉をこそ、私たちはぜひとも聞き分けたい。この私たちのためにも、主イエスご自身が祈っておられます。切に祈りつづけておられます。

あるとき気がつくと、苦しみと悩みの只中に据え置かれた1人のクリスチャンの胸に、神さまからの恵みがなお消えずに残っています。それは不思議なことです。その人の目の前に立ち塞がる困難と障害は大きく、とても力強い。その人自身は小さくて、あまりに弱々しい。その人を取り囲む世界は厳しく、情け容赦ないものであるかも知れません。その1人の人は不安に思い、自信を失って打ち砕かれ、たびたび怖気づいてしまいます。心がポッキリと折れそうになります。やがて神の国へ辿り着くことなど、こんな自分にはとうてい無理なように思えて。けれど、それならなぜ、あのペテロは辿り着くことができたのでしょう。あるいは、この私たち自身は。

弱く小さな1人のクリスチャンが、けれどなおその信仰を失ってしまうことなく、神さまから与えられた短く限りある生涯を晴々としてまっとうする。主イエスへの信仰を抱き続けて生きて、やがて主イエスへの信仰に抱かれて世を去っていく。それがどのようにして成し遂げられてゆくのかを、この箇所ははっきりと説明しています。主イエスご自身が、その1人の人のために祈っておられる。だからこそ苦しみと悩みの只中に置かれながらも、なもその信仰は消えずに残り、その信仰こそがその人自身を救う。その幸いな1人のクリスチャンは、心強い1人の友だちを持っています。その格別な、ごくごく親しく身近な友だちは、天におられる御父の右に座り、そこで、その人のためにも執り成しつづけてくださいます。この格別な飛びっきりの友だちを、私たちも持っています。私たちの救い主イエス・キリスト。どんな方であるのかを、私たちもよく知っています。この方は常に生きておられ、その人のためにも私たちのためにも執り成しつづけていてくださいます。ご自分を通して神に近づこうとする人たちを、完全に、すっかり十分に救うことがお出来になります(ヘブル手紙7:25)。あの格別な、飛びっきりの友だちが、私たちにこう語りかけます。「私は、あなたのために、信仰が無くならないように祈った。今も変わらず祈りつづけている。だから」と。

祈りとは何でしょうか。聖書の中にも、祈りは満ちあふれます。例えば、一番最初に神に向けて祈った人間はセツという名前の男でした。創世記4:26。小麦のようにふるいにかけられる、恐るべき嵐の時代は、すでにセツの周囲にも始まっていました。アダムとエバの3人目の子供であるセツは、ちょうどいま私たちが住んでいる世界とよく似た世界に住んでいました。さまざまな道具が生み出され、豊かな町が建てられ、芸術と文化が花開き、人々は豊かさと楽しみを味わいはじめていました。その一方で、心痛む出来事も次々に起こりました。自由を謳歌し、豊かに満たされる一方で、人々は自惚れて図に乗りました。とても頑固になり、わがままに身勝手になっていきました。その自由な世界の只中で、セツは結婚して自分の家庭を築き、子供の親とされました。そのときそこで、彼は主の御名を呼ばわりはじめたのです(創世記4:26)。それが、人類最初の祈りでした。あの彼は何をどんなふうに祈ったでしょう。家庭を築き、子供の親とされたことの格別な幸いを、神さまに感謝したでしょう。恐れと不安に包まれる度毎に、あの彼は、「助けてください。どうぞ、私と私の家族を、友人たちを守ってください」と神さまに願い求めたでしょう。1人の夫として、また子供の親として、どんなふうに家族と共に生きてゆくことができるだろうかと思い悩み、「私たちが生きる道を示してください」と神に問いかけたでしょう。神さまに向けて呼ばわるその折々の姿を見て、彼の妻が、やがて一緒に祈りはじめたかも知れません。子供たちも、見よう見まねで、たどたどしく、その祈りの輪に加わり始めたかもしれません。それが、人間の最初の祈りでした。セツの祈りから始まって黙示録に至るまで、神に向けて呼ばわる人間たちの切なる祈りが続きます。ここにいるこの私たち自身も折々にそれぞれに祈り、また2人、3人ずつと祈りを合わせました。神さまに向かって祈り求めながら生きることを積み重ねてきました。

祈りつつ、懸命に必死に生きる人たちよ。けれど忘れてはなりません。私たち人間が祈ってきただけではなかったことを。「私のために祈って」と頼まれて、互いに祈り合いつづけてきただけではないことを。それだけではなく神ご自身こそが、この私たちのためにも心を注ぎ出しつづけます。私たちと親しく心を通わせることを、神ご自身が、切に願い求めつづけてこられました。「神が御心に留めた」「神がご覧になった」「神が顧みて、御目を留められた」などと聖書が手短にごく簡単に報告するとき、その所々で、神の憐れみと慈しみの心があふれて注ぎ出されています。そのことを、私たちも自分自身の心に留めたいのです。

さて、小麦のようにふるいにかけられ、追い散らされ、打ち砕かれたペテロたちは、その後いったいどうなったでしょうか。打ち砕かれて倒れたままではありませんでした。倒れた者は抱え起こされ、追い散らされた者たちは再び主イエスのもとへと集められました。あの最後の晩餐の席で、主イエスご自身が語っておられました。「しかし私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32)。信仰が無くならないように、主イエスが祈りつづけてくださった。そうでなければ、あの彼の信仰ももみ殻のように吹き飛ばされて、跡形もなく消えて無くなっていたかも知れません。もちろん、主イエスを信じるあなたの信仰も私の信仰もそうです。「強い信仰、弱い信仰、大きな信仰、小さな貧しい信仰」などと言いたくなる度毎に、どうぞ、ここに立ち戻ってきてください。ルカ福音書22:31-32に。そのあなたのためにも信仰が無くならないように祈ってくださっているお独りの方があり、その支えと慈しみのもとに、とても貧しい、ちっぽけな信仰のあなたでさえ今日こうしてあるを得ています。そのことを思い起こしてください。「立ち直ったら、その後で、兄弟たちを力づけてやりなさい」。立ち直ったら、その後でなら。あなたが兄弟たちを力づけてやることができるのは、それは、あなたが立ち直ったその後のことです。つまずいて倒れる体験の前には、立ち直る以前には、あの彼もまた、「兄弟たちを慰めなさい。励まし、力づけてあげなさい」とは一切命じられませんでした。そうしたくても出来ません。自信に溢れた強くしっかりした大きな人間であるつもりの、その傲慢な彼には、誰かを慰めることも、励ますこともできなかったのです。

聖書は、主に仕える働き人たちの弱さとつまづきと挫折とを繰り返し報告してきました。弱さをさらし、つまづいて挫折する度毎に、けれど彼らはゆるされ、忍耐され、助け起こされ、心強く支えられつづけました。倒れる度毎に、抱え起こされました。つまずいて立ち直る前と後とでは、ペテロはまったく別人のようになっています。主イエスの弟子たちよ、ついに立ち上がった無力で小さな人たちをご覧ください。「はい。私が戦います」と言いながら、あの彼らは、「私ではなく他の誰彼でもなく、主ご自身こそが先頭を切って第一に戦ってくださる」と知っています。「私が担います」と言いながら、「主こそが全面的に、最後の最後まで担い通してくださる」と知っています。《神が生きて働いておられる》と、ついにようやく、今初めてのようにして気づいたのです。立ち直らせていただいたペテロなので、彼はようやく、ついにとうとう自分が何者であるのかを知りました。「かつては神の民ではなかったが、今は、神の民である。憐れみを受けなかったが、今は、憐れみを受けている」(ペテロ手紙(1)2:10)。「本当にそうだ」と心底から噛みしめることができます。何しろ、神の憐れみを受けている。それが、新しく生まれた彼の中身です。新しく生まれさせていただいたこの私たちの中身です。立ち直らせていただいたペテロであり私たちなので、今や、自分自身をも兄弟をも力づけることのできる飛びきりの1つを手にしています。それを、がっちりと握りしめています。今ではもう私たちは、打ちひしがれている兄弟を励まし、心を挫けさせている家族や大切な友人たちを慰めたり、力づけたり、支えたりすることもできるようにされました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。何しろこの私も、そうして立ち直らせていただき、歩きはじめさせていただいた。ただイエスの名によってこそ、今もこれからも、心強く晴々として歩き続けている。それはとても心強い。それは、晴々清々している。「もし良かったら、あなたもどうぞ」。