みことば/2020,11,29(主日礼拝) № 295
◎礼拝説教 ルカ福音書 14:12-14 日本キリスト教会 上田教会
『祝宴に誰を招くか』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
14:12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。13
むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。 (ルカ福音書 14:12-14)
2:17 もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、18 御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、19,20
さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。22
姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。23 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。24
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。26
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。27 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。28
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
(ローマ手紙
2:17-29)
(1)神の国の祝宴
「上座に座ってはいけない。いつも末席に、慎み深く座っていなさい」と、救い主イエスが教えはじめました。席順のことばかりでなく、普段のいつもの心得であり、しかも単なる人間同士のつき合いや社交的な礼儀作法を教えようとしているわけではありません。むしろ神の国の祝宴に集うための心得であり、救いに至る狭い道を選び取るための心得です。だからこそ14節で、「正しい人々の復活の際には、あなた方は報いられる」と主イエスが仰り、15節で「神の国で食事をする人は幸いです」とイエスに語りかける者があり、とうとう24節で、「あなたがたに言っておくが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる人はひとりもいないであろう」と仰います。「わたしの晩餐」;神ご自身によって神の国に招かれた人々が終わりの日にあずかるはずの救い主イエスによる晩餐。神の国の祝宴です。誰がどのように、その祝いの席に招かれるのか。この私たちは、その宴にどのようにあずかることができるのか。
(2)神は貧しいものたちを招く
へりくだった心は、何を土台として、どのように人の魂に湧き起ってくるでしょうか。先週も申し上げましたが、へりくだった心の土台とその中身は『正しい知識』です。もしその人が自分自身をよく知り、自分の心の中にいったいどんなものがあるのかを知り、神を知り、神の尊厳とその神聖さを知り、救い主イエスを知り、罪から救い出されることのかけがえのない価値を知るならば、もしそうであるなら、その人は思いあがった傲慢な人間になど決してなれません。その人は、とうとう晴れ晴れとした心になって、『自分自身が神の恵みにまったく価しない人間だ』とつくづくと分かります。「わたしは本当に貧しい者です」とヨブが答え、「わたしは罪人の中のその最も卑しい者です」と主の弟子パウロが答えたようにです(ヨブ記40:4,1テモテ手紙1:15)。つまり、それと正反対に自分を誇り、思いあがってしまう理由は、その人が自分自身が何者であるのかをまったく知らず、どんな神なのかも知らず、救い主イエスがこの自分の救いのためにも何をしてくださったのかも少しも知らないためだったのです。自分自身が何者であるのかを知る者は、誇るべきものはこの自分に何一つもないことに、ついにとうとう気づきます。
しかも、神が全能の神であられ、なんでもおできになり、まったく善意のお方であることを知るだけでは、私たちは神にすっかり信頼して、自分の救いを安心して委ねることなどできません。神にすべての信頼を置いて生きるためには、どうしたらよいのか。古い信仰問答は、ぜひとも知っておくべきこの『正しい知識』についてこう答えます、「救いにまったく値しないにもかかわらず、なお神が私たちを愛し、私たちを憐れんで、救ってくださろうとしていることを心から確信する必要があります。そのためには、救い主イエス・キリストにある憐みを知り、神をキリストにおいて知ることです」(ジュネーブ信仰問答 問8-14を参照)。
価なしに、ただ恵みによって、罪人をただ憐れみ、その罪深さと悲惨とをゆるして救う神です。その憐みは救い主イエス・キリストのうちにあり、キリストにおいて私たちに差し出されます。主のもとに罪のゆるしと、罪のあがないがあり、そのゆるしがこの私たちにも差し出されている。そこに希望があります。憐み深い、ゆるしの神に対する希望であり、だからいつでもどんなときにもその神を待ち望むことができます。ところが旧約時代の長い長い日々、神を信じる信仰はただ形ばかりのものとなり、人々は神のことが分からなくなり、神の恵みも憐みも忘れ果ててしまいました。身分が高く、豊かで、賢く偉い自分たちであると思いあがり、神をあなどりつづけました。ちょうど、宴会の席で「上座に座ろうとする人々」のようにです。神を信じて幸いに生きるはずの人々は、神の国の祝宴を忘れ、神をそっちのけにして、ただただ人間同士の宴会を繰り返しているかのように勘違いしてしまいました。次の箇所の15-24節の、神の国の祝宴に招かれながら断り続けて、ついに神の国の祝宴にあずかることのできなかった愚かな人々のようにです。
12-13節、「また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい」。たとえを用いて語られています。人間同士の付き合いではなく、神さまと私たちとの交わりの中身が教えられています。なによりも、宴会に招いておられる主人は神さまです。私たちはそのお客です。すると、その神ご自身のものである宴会に、もし、『神の友人、その兄弟、親族、金持の隣り人』などのつもりで出席するなら、せっかくのその祝宴は台無しです。かえって、その一回一回の祝宴はあなた自身にとっても大きな災いとなるでしょう。互いに招いたり招かれたり、お返しをしたりされたりして自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いながら、神を思うことも感謝することも、神に信頼して聞き従うこともまったくできないからです。神ご自身のものであるその宴会には、私たちは、ぜひ何としても『貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人』のつもりで集まりましょう。お返しも返礼も何もできません。そうであるならば、その貧しく小さく無力な者たちは、いったい何ができるでしょう。――ただただ感謝し、喜びを噛みしめるばかりです。それなら、その祝宴にあずかった甲斐があります。その一回の祝宴にあずかったことで、私たちは幸いになれるかも知れません。もし、そこで、神ご自身が生きて働いておられて、この私のためにさえ憐みの御業をなしつづけていていてくださると気づくことができるならば。
もちろん、少しも正しくない私たちですが、神の憐みを知って、神の御心にかなって生きることを願い求めて暮らす中で、神からの憐みの報いを受け取ることができるでしょう。終わりの日の復活の際にも、今、この一日一日の暮らしの只中にあっても。
(3)祝宴にあずかる
もし、神ご自身の祝宴にあずかり、神からの祝福と幸いをぜひ自分も受け取りたいと願うものがいるなら、その人はいったいどうしたらいいでしょうか。もちろん、神の憐みにただすがりさえすればよいのです。神の憐みは救い主イエス・キリストによって差し出され、分け隔てなく、何の区別もなく与えられます。キリストがいのちとして与えられるのですから、そこでとうとうこの私たちは、『いのちであられるキリストなしには自分が自分自身においてまったく死んでいる』ということを悟ります。「ああ、そうだったのか」と。そこで、私たちが神に差し出すことのできる唯一の、そして最善のふさわしさはこれです。つまり、救い主イエス・キリストの憐みによってふさわしいものとされるために、私たち自身の価値のなさと、ふさわしくなさを、あまりに傲慢であったことを、救い主キリストの御前に差し出すことです。私たちがキリストにおいて慰められるために、自分自身においては絶望することです。私たちがキリストにおいて立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだることです。自分は現に事実とても貧しい者、体の不自由な者、足の悪い者、目の見えない者として、慈しみ深い贈り主のもとに来ること。重い病を患う重病人として良い医者のもとに来ること。神に逆らいつづけるとても頑固で頑なな罪人として義の創始者のもとに来ること。そして最後的には、死んでいる者として、いのちを与えて生かしてくださる御方のもとにくるのだと考えましょう(『キリスト教綱要』4篇17章41-42節 Jカルヴァン)。
神から憐れんでいただいた兄弟姉妹たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな召使いの人間に。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならなかったはずのことが起こりました。私たちの主、救い主イエス・キリストは「自分を無にして、しもべの身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(ピリピ手紙2:7-8)。救い主イエスは、自分で自分を無になさいました。無にされたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、父なる神さまへの従順を貫き通してくださいました。なぜでしょう。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わい尽くして下さったのでしょうか。
ここにいる私たちは知らされています。十二分に、よくよく知っています。神から憐れんでいただいた兄弟姉妹たち。それは、「罪人を救うため」(1テモテ手紙1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、最低最悪者の罪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人、最低最悪者の罪人。それがこの私であり、あなた自身です。
自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神への従順を貫き通してくださった御子イエス・キリストが私たちを神の国の祝宴へと招きます。現に事実とても貧しい者として、体の不自由な者として、足の悪い者として、目の見えない者として。その低さと、へりくだりの、格別な恵みの場所へと招いてくださいました。ですから私たちは、このように自分自身の罪深さと貧しさと傲慢さと心の頑固さを知りながら、だからこそ憐みとゆるしを慕い求めて、救い主イエスへと向かうことができます。自分自身のいたらなさ、身勝手さ、よこしまさを知りながら、救い主イエスへと向かうことができます。なぜなら救い主イエス・キリストは罪人を救うためにこの世界に来られたのですし、この自分こそがその罪人の中の最たる者であり、最低最悪のものであることをよく知っているからです。しかもなお、神は憐み深い神であられ、救い主イエス・キリストのもとにこそ、私たちのためにも憐みとゆるしがあるからです。