2020年11月16日月曜日

11/15「安息日に何をするのか」ルカ14:1-6

 みことば/2020,11,15(主日礼拝)           293

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:1-6                日本キリスト教会 上田教会

『安息日に何をするのか』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2 するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。3 イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。4 彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。5 それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。6 彼らはこれに対して返す言葉がなかった。           (ルカ福音書 14:1-6)

                                               

16:1 イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、2 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。……8 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。9 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。       (出るエジプト記16:1-12)

1-2節、「ある安息日(口語訳、新改訳は「あんそくにち」と、新共同訳は「あんそくび」と訳している)のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた」。少し説明をします。「水腫(すいしゅ)」とは、皮下組織の隙間や体腔内に組織液やリンパ液がたまる病気で、手足、顔、腹部などが水膨れによってはれてきます。安息日で、パリサイ派の指導者の家に食事に招かれて行った。すると、そこにその水腫を患っている人がいた。たまたま紛れ込んでいた、とは考えにくいのです。なにしろ家の主人の招きや許可がなければ、その食事の席にその人が同席することはありません。安息日に会堂で、主イエスは何度も何度も病人を癒し、その様子を人々に見せていました。もしかしたら、パリサイ人たちは主イエスを罠にかけようと、その病気の人とイエスが出会うように仕組んでいたのかも知れません。だから1節にあるように、その家に入っていくと、「人々はイエスの様子をうかがって」いました。彼らが心に思っている議論の中身に、主イエスは自分から踏み込んでいって、彼らに問いかけます。「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。

 もう1つ、安息日や律法の様々な規定をめぐって主イエスと律法学者やパリサイ人たちはきびしい議論を繰り返します。「主イエスは安息日の決まりや、律法をとても嫌っていたらしい。律法を捨て去って無くしてしまおうと考えていたようだ」などと、うっかり勘違いする人々もいます。それは大間違いです。むしろ逆で、安息日規定を含めて、救い主イエスは神の律法をとても大切に考えておられました(マタイ福音書5:17-20「わたしは律法を廃するためではなく、成就するためにきた」参照)神の律法が、中身のないただ形ばかりのものにすり替えられていたことが大問題でした。律法やそのこまごました規定を振りかざしながら、信仰の指導者たちは、律法の中身と、神を信じて生きることの中身を見失い、神をなおざりにしていました。律法と神を重んじるふうを装いながら、神をあなどり、不正や悪を行い、貧しい人々を慈しんで助けることをすっかり忘れ果てていました。神の律法の本来の目的は、神を信じて生きる人々が御心にかなって生活するように導くためにあります。神の御心は、神を愛し、敬い、神の御心に従って生きることを求め、また隣人を自分自身のように愛し、尊ぶことにありました。ですから律法をめぐる論争をつうじて、救い主イエスは律法の根本の心をもう一度、人々の中に回復させようとしつづけていたのです。

 また、神の律法は私たち自身の正しさやふさわしさを証明するための目印ではなく、むしろ私たちがどんなに神に背いているか、どれほど神の憐みの御心に反して生活しているのかを気づかせるためにありました。少し前の箇所ですが、このルカ福音書13章のはじめの出来事はそのことを私たちに知らせていました。「シロアムの塔が倒れて18人の人が死に、何人ものガリラヤ人が神殿付近で殺されてしまったことを知って、あなたががたはどう思うのか。他の人々よりもその彼らの方が罪が重かったと思うのか。そうではない。あなたがたも、悔い改めなければ滅びる」(ルカ13:1-5。この言葉を、自分自身のこととして聞くことができるなら、その人たちは幸いです。

 信仰が中身を失い、ただ形ばかりのものになってゆくとき、大きな災いにあった人たちに対して「可哀そうに」と同情しながら、けれどその一方で、自分たち自身が何不自由なく暮らしていることを当然のように受け止め、「神の格別な恵みを受け、神から憐れんでいただいているのだ」と私たちは安心してしまいます。神からの厳しい懲らしめを受けていないとき、私たちは、自分自身の罪の只中でウトウトと眠り込んでしまいます。まるで神からの好意や慈しみを受けており、神のゆるしと保護の中に堅く守られている自分であるかのように。そこには、2つの大きな過ちがあります。(1)神が私たちの目の前で誰かを厳しく打ち据え、懲らしめるのを見たとき、神はこの私たちに警告を与えています。自分の胸に手を当ててつくづくと考えてみるようにと。この自分自身は、神の御心にはなはだしく背いてはいないかどうかと。(2)もし神が、私たちにほんの短い猶予のときを与えてくださっているとするならば、私たちは神からの慈しみや憐みに決してふさわしいわけではない。そのつかの間の猶予のときにウトウトと眠り込んでしまうのではなく、「悔い改めて、悪い行いを捨てて、神に立ち返って生きるように」と主なる神さまがこの私を招いてくださっていると気づくべきだと。

5-6節、「それから彼らに言われた、『あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』。彼らはこれに対して返す言葉がなかった」。安息日に何をしてはならないのか。あるいは、何をすべきなのか。救い主イエスは、ここで1つのことを指し示しています。神の御業を、神から託された働きをすることは安息日を汚すことにはならない。また、隣人を憐み慈しむことも、安息日の精神に違反しないと。何度も何度も、こうしたことが繰り返されました。別の時には、「安息日に善を行うことと悪を行うことと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(ルカ6:9などと。救い主イエスに敵対する者たちは悪意に満ちた憎しみに心を支配されて、目も心もすっかり見えなくなっていました。自分自身を恥じて、口を閉ざすほかありませんでした。

 

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  安息日に何をしてはならないのか。あるいは、何をすべきなのか。

 安息日は何のためにあるのか。そこで、私たちはどんな恵みと希望を神ご自身から受け取るのか。その日はまず、世界創造の7日間にさかのぼります。第六日目に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。これが天地創造の由来である」(創世記1:31-2:4第六日目に神がご自分が造られたすべてのものを見られて、「はなはだ良い」と喜んでくださったことを私たちはよく覚えていなければなりません。まず、そのための安息日です。そこで七日目には、「そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された」。聖別(せいべつ)とは、神ご自身のもととされることです。神からの祝福を受け、また聖別されて、この自分がほかの誰のものでもなく、自分自身のものでさえなく、神ご自身のものであることを認め、受け入れて、その幸いを噛みしめることです。そのためには、神がご自身のすべての仕事を終えて休まれたように、私たち自身も、抱え持った自分の仕事や役割や約束、さまざまな計画をいったん脇に置いて、手放す必要がどうしてもあります。そうであるからこそ『安息日』の根本の意味は、活動停止であり、立ち止まることだったのです。立ち止まり、すべてを手放して、では何をするのか。神の存在と働きに目を凝らすことです。神の御心にこそ自分の思いを集中することです。神が生きて働いておられますことをよくよく覚え、その働きに信頼し、感謝をし、神の御声に聴き従って生きることをいよいよ新しくしていただくことです。そのためには、何をおいても私たちは立ち止まり、目を凝らし、耳を傾ける必要がありました。神ご自身のお働きに。神の語りかけに。

 もし、神のお働きと御心に目を凝らし、耳を傾けることの差しさわりになるのならば、あなた自身の手の働きが神を思うことを邪魔するのならば、その心をこめた働きも配慮も一つ一つの労苦も、むしろ大きな災いとなるでしょう。自分自身と人間のことばかり思い煩って、そのあまりに、神を思うことの出来ない私たちとさせるでしょう。それなら、むしろ私たちは何一つもしてはなりません。そうであるなら、指一本も動かしてはなりません。

 世界創造の7日間は、エジプトを連れ出されてさまよった荒野の40年間の旅に引き継がれます。はじめに大喜びしていたはずの人々は、けれど荒れ野の旅をしはじめて二カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。ああ、嫌になった。こんなことならエジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あのまま死んでしまってたほうが、よぽどましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられた。神さまの言うことなんか聞かなければ良かった。ああ、嫌だ嫌だ」。文句を言う彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。主なる神さまが仰います;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう」(出エジプト記16:12。ビックリです。パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこのように取り扱いつづけてくださっています。どんなに良い働きをして人々から認められ、実績をあげるよりも、こういう神であり、このような取り扱いを受けているとよくよく分かっていることのほうが千倍も万倍も大切だからです。

 天からの恵みのパンを受け取り、「一日分ずつ糧を与える、安息日の前の日には二日分ずつを与える」と約束されながら、「何人かは残しておいた」と報告されます。蓄えがあった方がいいと考えることは必ずしも間違っていない。しかし同時に、「それは神を疑うことでもあり、神が訓練なさるその意図を無視し、神抜きに生きようとする」ことでもあります。もし、思いあがって自分が神にでもなったかのように傲慢にふるまい始めるなら、あるいは逆に、他人を恐れてビクビクと言いなりにされてしまうなら、その人生は虚しく惨めなものに成り果ててしまいます。自分自身の普段の有り様をつくづくと振り返って、『神に信頼して生きる』ことと『神抜きに生きる』ことの実態が自分自身のこととして思い当たるなら幸いです。

 また、安息日は7日間全部のためにあり、私たちそれぞれの全生涯を貫いて、大きな意味をもちます。もし、一週間に一度、ほんの少しの時間ずつ、神が生きて働いておられますことをよくよく覚え、立ち止まり、神ご自身のお働きと語りかけに目を凝らし、耳を傾けることができるなら、月曜日にも火曜日にも、朝も昼も晩も、そのように生きることができるかもしれません。神ご自身のお働きとその語りかけに目を凝らして、ずっと一生涯を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。