みことば/2020,11,1(主日礼拝) № 291
◎礼拝説教 ルカ福音書 13:22-30 日本キリスト教会 上田教会
『狭い戸口から入りなさい』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
13:22 さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。23 すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。24
そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。26
そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。28
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。29
それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。30 こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。 (ルカ福音書
13:22-30)
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19
すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21
もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。23
しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。 (ローマ手紙11:18-23)
(1)まず22-24節、「さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、『主よ、救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから』」。別の箇所ではさらに詳しく救い主イエスの言葉を報告しています、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13-)。ここでこそ、私たちは心に留めておきたいのです。なにしろ主なる神は、慈しみ深い、あわれむ神です。神を信じてその御心に聴き従って生きていこうとする者たちばかりではなく、そうではない者たちをも愛し、憐れむ神です。主なる神を愛し、慕い求める者たちばかりではなく、神を愛さない人も、憎んで侮る人たちをさえも神は憐れみます。神を慕い求めるそのはるか以前から、神の慈しみと憐みは私たち罪人に注がれ、差し出されつづけていました(ローマ手紙5:6-)。けれども、その人が主なる神に信頼し、慕い求める人でなければ、その憐みはその人に届きませんでした。もちろん救い主イエスは恵みに価しない罪人たちを喜んで迎え入れてくださいます。主は、倦むことなく、熱心に私たちを招きつづけます、「私はここにいる。私はここにいる」と。けれど、その呼び声を聞き分けて、喜んで主のもとに来ようとする罪人はとても少ない。だからです。だからこそ救われる者は少ない。
「狭い戸口から入るように努めなさい」。その戸口は、どの程度に狭いのでしょうか。例えば大人には狭くて入りにくくても、小さな子供になら十分な広さかも知れません。どうしましょうか。それなら私たちは、小さな子供のようになって、その戸口を入っていきましょう。それぞれに世間体があり、体裁があり格式があり、肩をそびやかしていては入りにくいのならば、その肩をすぼめて小さくなって、身も心も屈めて入りましょう。なりふり構わずに入れていただきましょう。ひざまずき、ひれ伏し、もし必要ならば腹ばいになってでも入りましょう。あれもこれもと荷物を山ほど抱えて入りにくいのならば、それなら何も持たずに手ぶらで、裸一貫で入りましょう。「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げて入りましょう。救いへと至る神の御国の中へと、この私たちにも入ることができます。ぜひ入れてくださろうとして、神さまが招いてくださっているからです。
「狭い戸口から入るように努めなさい」。聖書は証言します、「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」(ヘブル手紙12:1)。私たちの気力を失わせ、心を惑わせ、ついに足を止めさせようとするものがあります。絡みついてくるものがあります。自分の体を打ち叩き、打ち叩き、努めなさい。ひたすらに一途に努めなさい。がむしゃらに、必死に、かなぐり捨ててでもしなければ振りほどくことができないものがあります。狭い門から入ることを邪魔しつづけるものがいます。それは私たち自身の肉の思いです。心の頑固さ、よこしまで自分中心の思い、はなはだしい罪深さの重荷です。
◇ ◇
(2)さて、「主人から、『あなたがたのことは知らない』と拒まれ、退けられるものたちがある」と警告されています。25-27節、「家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう」。私たちの人生は、精一杯に生きるに値します。その理由は、真実な憐み深い神が生きて働いておられ、私たちの生活に目を留めておられるからです。その神を信じており、その神と共に永遠に生きることになると教えられ、神ご自身からのその確かな約束を信じているからです。しかも「悪事を働く者どもよ」と世界万物をお造りになった神さまから呼びかけられています。神の御心に背く悪事を行いつづけているのは、ほかの誰のことでもなく、この私たち自身のことだと知らねばなりません。それでもなお、今はまだ神さまは私たちを知らないとは仰らず、恵みに価しない罪深い私たちを見捨てず、見放さずにいてくださっています。恵みと憐れみの時がつづいており、今はまだ神さまが忍耐しつづけておられるからです。この私たち自身とすべてのクリスチャンを含めて、はなはだしい悪事を働く者たちに対して、主なる神さまは長く忍耐しつづけて来られました。やがて、その忍耐が終わるときがきます。長い間、開いたままにしていただいていた憐みのドアが、ついにとうとう神ご自身の手で閉められる時がきます。すべての罪深い者たち、神に背くよこしまな者たちのために開かれていた生命の泉が閉じられる時が来ます。終わりの日の裁きの王座が据えられます。この終わりの日の裁きについて、「私たちはこの世界に対しても私たち自身に対しても担うべき大きな責任がある」と救い主イエスからはっきりと教えられています。神の恵みを待ち望んでいるので、私たちは自分自身の罪とこの世のよこしまな在り方の中にただ座り込みつづけたりは出来ません。自分自身の邪悪さや、虚しい言い逃れの中に自分を隠しつづけることも出来ません。ただ神の憐みを慕い求めて、神へと近づいてゆくほかありません。けれど、自分自身ではどうしてよいか分かりません。憐れんでくださる慈しみの神であられますが、その神と私たちとの結びつきは、ただ私たちが主なる神に対して低く身を屈め、従順であるほかありません。そして救い主イエス・キリストによって示された神の憐み深さにすがる他ありません。自分の心と信仰が試され、激しく揺さぶられます。兄弟姉妹たち、家の主人がついにとうとう戸を閉じてしまう。それは厳粛に受け止めなければならない。そうだけれど、でも、今はどうなのか。まだ残り時間があって、油を分けてあげたり、もらったりできる。まだ間に合うんじゃないか、と思い始めました。ノアの大洪水のとき、主なる神が最後にノアのうしろで箱舟の戸を閉められました。また、花婿の到着を待ちわびる十人の花嫁候補者たちのたとえ話(創世記7:16,マタイ福音書25:1-13)も、よく似ています。油と明かりを求めて、「すいません、すいません」と頼んで、泣きついてくるその相手が、もし、生涯ずっと添い遂げると誓った自分の愛する連れ合いだったら、果たしてこの自分はどうするだろう。例えばもし、いっしょに長く暮らして苦労や悲しみを分け合った愛するわが息子、娘たちだったらどうするのか。自分のための分だろうが、最後の一滴さえも分けてあげますよ。いいから全部、持って行ってくれと。「自分の分は十分ある。けれど、あなたがたに分けてあげるには足りない。はい、残念でした」などと冷たく追い払うでしょうか。神から憐れんでいただいたので、家族や仲間たちにも、見ず知らずの隣人にも、むしろ自分のための最後の油の数滴でさえ、喜んで贈り与えることができる私たちです。「じゃあ、あなたにあげますよ。はい、どうぞ」と惜しみなく。なにより救い主イエスご自身こそが、この私たちのためにさえそのようにご自身のすべてを投げ出し、差し出してくださった。数時間分の灯油油どころか、ご自身のすべて一切を捨てて、ご自分を無になさった(ピリピ手紙2:5-11参照)。だからこそ、この、5人の賢いおとめたちと愚かで考えが足りなかった5人のおとめたちのやりとりは私たちの心を激しく揺さぶります。どう受け止めることが出来るのか。最後の最後に恵みの戸が閉められる。そのことを知りながら一日ずつを生きるのは、とても大切なことです。そうでなければ、いつまででも虚しく眠りをむさぼってしまう私たちだからです。神からの命令ははっきりと言い渡されています、『あなたは狭い戸口から入りなさい』と。
(3)最後に30節、「こうして後のもので先になるものがあり、また、先のもので後になるものもある」。後のものが先になり、先のものが後にされると、同じことを救い主イエスは何度も繰り返して仰いました(マタイ19:30,同20:16,マルコ10:31)。「思いあがってはならない」と繰り返し戒められてきたのも、「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しいものを引き上げ」とマリヤの讃歌が歌うのも、みな同じこと(ローマ手紙11:20,ルカ1:52-55)。それらはみな、『神の恵みを覚えて生きる』ための、神ご自身からの配慮です。それらすべては、先祖とこの私たちがうっかり心に抱えてしまった虚しい自己満足やうぬぼれを投げ捨てさせるためです。世界中の他の人々とは違って、あらかじめ神さまによって救いと恵みへと選ばれている。その区別や分け隔て、神さまとの特別に深い結びつきの中に入れられていること。たしかにその通りです。けれどもそれはただただ感謝すべきことです。なぜなら、それは憐み深い神さまの恵みによるからです。それで、思い上がることなく感謝していられるようにと、先に神さまから救いと祝福へと選ばれた先祖と私たちは後に回され、後から選ばれた他の者たちが先に回されました。先に祝福へと選ばれたユダヤ人からは神からの誉れや名誉がひとたび奪い取られました。片隅に置かれていた外国人たちは、ユダヤ人と入れ替わりのようにして、高く引き上げられました。この私たちも同じです。そのようにある者たちが身を屈めさせられ、他の後から選ばれた者たちが高く引き上げられたのは、誰もが思いあがることなく、神さまに感謝して慎み深くあるためにです。そのようにして、誰もが皆、神の御前でも人様の前でも身も心も低く屈めて、感謝と喜びを互いに分かち合うためにです(1コリント手紙1:26-31,ローマ手紙3:21-28,同11:20-32,1ペテロ手紙2:10を参照のこと)。