みことば/2020,5,31(聖霊降臨の主日) № 269
◎礼拝説教 使徒行伝2:1-13 日本キリスト教会 上田教会
『神の大きな働きを聞いて』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3
また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。5
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。7
そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。9
わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、11
ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。12 みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。13
しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。 (使徒行伝2:1-13)
今日は、聖霊降臨を覚え、私たちの心に刻むための日です。神の霊が主イエスの弟子たちに降って、神の約束を信じて待ち望んだその一人一人の体に宿ってくださった日のことを。聖書に書かれてあるとおり、救い主イエスは十字架にかけられ、殺され、墓に葬られ、その三日目に死人の中からよみがえりました。そして弟子たちにお命じになりました、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。また、「エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(ルカ福音書24:46-49,使徒1:4-5)。救い主イエスの復活からおよそ1カ月半ほども、弟子たちは聖霊を贈り与えられることを待たされます。(1)たとえそれが3カ月でも4カ月でも、1年でも、なにしろ神の約束を信じて待つことが必要だからであり、信じて待つことが彼らの信仰を成長させ、いっそう堅くしっかりしたものとするからです。この私たちもそうです。長く耐え忍ぶ日々に、神さまこそが自分と家族を、また隣人たちをも支えてくださると確信し、そのことをよくよく習い覚えて生きるためにです。また、(2)信じて待ったその一か月半の後には、そのエルサレムの都で大きな祭りが行われることになっていました。1節に書いてあるとおり、それが「五旬節の日」(過越祭の50日後に五旬節、つまり初穂の祭りが祝われた(レビ23:16)。収穫を祝うものであり、刈り入れの祭とも呼ばれた)です。神を信じる大勢の人々は、その日、何をおいてもエルサレムの都に駆けつけ、そこで神を信じて生きることを実感し、喜び祝い、改めてその中身を教えられ、ますます神に聞き従って生きる者とされることを願います。神さまがなさったこの大きな出来事は、大勢の人々に知らされます。はるか遠くの世界に住む人々にも、それまでは神を知らず、神を思うこともなかった人々にさえ、はっきりと告げ知らされる必要がありました。
1-4節、「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。まず、突然に激しい風が吹いてきたような音が響き渡ったことを、私たちははっきりと覚えておかねばなりません。舌のようなものが炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上に留まったことも。なぜなら、あのときも今日でも、神からの贈り物について、私たちはとても不注意で、心がしばしば鈍くなりやすいからです。神の国の福音を広めるために必要な能力と力を、また知恵や言葉を、神ご自身こそが私たちにお与えになるからです。偶然によってでもなく、それぞれの努力や研鑽によってでもなく、このように突然に変えられた。ほかの誰でもなく、ただ神が、それをなさる。私たちが神のもとへと行く道は信仰によって開かれ、神ご自身からのお働きと恵みによってだけ開かれます。同じように、神が私たちのところへ来てくださる門は、そして道は、また神の御言葉を聞き分ける耳と心も、ただ神への信頼と謙遜さを用いて、神ご自身が開いてくださいます。ですから、「聞く耳のあるものは聞くがよい」と主イエスはおっしゃり、「私たちの耳と心をどうか開いてくださって、あなたの言葉を聞き、あなたの御心を悟ることができるようにしてください」と私たちは祈り求めつづけます。
4-8節、「あらゆる国々からユダヤ人たちが来て、住んでいた。その彼らは、それぞれ自分の生まれ故郷の国語で使徒たちが話しているのを聞き、とても驚いた」。聖霊の賜物によって、主イエスの弟子たちがいろいろの外国語で神の国の福音を語り始めた。何のためにそうしたのか。当時、ユダヤの多くの人々は地中海沿岸の広大な地域に散り散りにされて、故郷から遠く離れた異国の地に長く暮らしていました。そこで生まれ育った2世、3世、4世たちです。ちょうどその日は大きな祭の一つに当たっていましたから、その外国暮らしをしている、元々の故郷の言葉が分からなくなった多くのユダヤ人が都に戻ってきていて、そこで祭りを祝おうとしていました。その世界中の人々のめいめいが、生まれ育った故郷の言葉を聞きました。しかも主イエスの弟子たちは、元々、そのほとんどは高い教育を念入りに受けたというわけでもなく、貧しく生まれ育った無きに等しい者たちでした(1コリント手紙1:26-31参照)。また、軽蔑されていた土地の生まれでした。その彼らが神の働きと天の知恵について、堂々と、はっきりと語りかけました。「私たちが普段使っているいつもの言葉で神の偉大な業が語られるとは。いったい、これはどういうことなのか」(6,12節)。
主が語りかける言葉に耳を傾け、主の霊を注がれる。それは、いつ、どこで起こったでしょうか。世界の初めに、人が泥から形造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた時に起こりました。また例えば、預言者エゼキエルを枯れた骨の谷に連れてきて、「これらの骨は生き返るか」(エゼキエル書37:3)と主の言葉が問いかけたときに、それは再び起こりました。おびただしい数の枯れた骨が横たわっていました。それが私たち自身であり、世界の過酷な現実でもあるでしょう。枯れた骨のようであった神の民は回復され、生き返り、主を知る者とされました。深く主を知りつつ生きる者とされました。あのときに、主の霊が注がれたのです。また、十字架におかかりになった主イエスが復活し、天に昇り、約束どおりに主の弟子たちに神の霊が注ぎかけられたときに、あの最初の聖霊降臨の日に、それはまたもや起こりました。そこから、イエス・キリストを主とし、神と仰ぐキリストの教会が世界中に建てられ、その歩みが始まりました。主が語りかけてくださり、その言葉を聞き、主の霊を注がれること。それは今ここにおいても、その1回の礼拝や、ほんの何人かが集まる聖書を読む小さな集会の只中でも、ただ独りで聖書を読み、心を鎮めて祈るひとときにも、この私たちの身にも起こります。
あの日、そこに居合わせた雑多な人々は「自分たちの国の言葉で、神の大いなる御業を聞こうとは」(11節)と驚き怪しみました。神の大いなる御業。それは、イエス・キリストによる救いの御業のことです。主の弟子の一人が立ち上がり、声を張り上げて語りはじめました。「これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。あなたがたが十字架につけて殺してしまったイエスを、しかし、神は復活させられました」。主イエスの弟子たちは、その後もこの同じ一つの内容を繰り返し繰り返し語りつづけました。「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。聖書のほかのいくつもの箇所から、いいえ聖書の中だけでなくその後2000年の間、この一点をこそ主イエスの弟子たちは語りつづけ、聞きつづけてきました(使徒2:22-,36,3:14-17,4:10,5:30,10:39,テサロニケ手紙(1)4:13-14)。今日も、そのために、ここに集められました。
救い主イエス・キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、多くの弟子たちに現れてくださったこと(コリント手紙(1)15:3-)。私たちもまた、あの種々雑多な人々と同じく、自分たちの言葉でこの一つの福音、1つの現実を聞き届けたのです。小さな子供たちは、その子供たちの言葉で神の大いなる御業を聞きます。中学生や高校生も若者たちも、彼ら自身の言葉で聞きます。お父さんお母さんも、中年のサラリーマンも、裕福な人々も貧しい人々も、自分たちの言葉でこの同じ福音を聞き届けます。長い年月を重ねて生きてきた経験豊かな年配の人々も、同じく聞き届けます。聴いた言葉を心に刻み、その言葉によって励まされ、勇気を与えられて。謙遜にさせられ、へりくだった低い心を贈り与えられて。あるいは、慎むことや忍耐して待つことや、それぞれに心細さや悩みや思い煩いを抱えながらも、なお希望を失わずに生きることを少しずつ少しずつ習い覚えさせられて。神を信じて生きる人々の幸いな一日ずつの暮らしが、そのようにして積み重ねられていきます。不思議なことです。
【補足/聖霊なる神を信じる】
聖霊は、父なる神および子なる神とまったく同様に「信じられるべき」対象なのです。私たちはともすると、聖霊を何か神秘的な気分か感情の高揚のように思いがちです。しかし、それはまったくの誤解です。聖霊は、私たちの自己内発的な何かではなく、私たちにご自分のほうから関わり、働いてくださる神ご自身であり、信仰の対象なのです。
……聖霊が私たちを主にある者として自由に生きていく者としてくださるという点を改革教会の神学は強調してきました。聖霊はキリスト者をその導きのもとに聖化し(注1)、御意(みこころ)を行わせていかれます。パウロが御霊(みたま)の実と言っているものを読み返して、深く味わいなおしてほしいと思います(ガラテヤ手紙5:22)。
(注1)「聖化(せいか)」;神の恵みの働きによって、神の御心にかなう良い働きができるように成長させられてゆく。とくに神を愛し、敬い、隣人を愛するものとされてゆくこと。
(『信仰の学校』p51-56 桑原昭 )
聖霊が私たちの心に住み、私たちの主イエスの力を感じさせてくださるのです(ローマ手紙5:5)。御霊は私たちを照らして主の恵みを知覚させて下さる、つまり、私たちの心に封印をし、しるしを押し、そこに恵みの働く場を作ってくださるからです(エペソ手紙1:13)。このお方は私たちを生まれ変わらせ、新しい被造物(注2)にし(テトス手紙3:5)、私たちは御霊のこのなさり方に従って、イエス・キリストのうちに差し出された財産と贈り物をすべて受け取るのです。
(注2)「被造物(ひぞうぶつ)」;神によって造られた存在。「神こそが天地のすべてのものをお造りになった」(創世記1、2章)という根源的な理解が、この1つの言葉に込められている。
(ジュネーブ信仰問答 問答91 1542年)