みことば/2020,6,7(主日礼拝) № 270
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:5-8 日本キリスト教会 上田教会
『しきりに願うこと』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。6
友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。8
しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。 (ルカ福音書 11:5-8)
4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。6
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
(ピリピ手紙4:4-7)
ルカ福音書11:5-8を読みました。ここと、その次の9-13節は二つで一つ、両方ともをよく分かっている必要があります。この11章冒頭で主イエスは弟子たちにご自身の祈りを教えてくださいました。それを受けて、いよいよ祈りの中身についての教えであり、神に祈り求めながらどのように毎日毎日の暮らしを幸いに生きてゆくことができるのかという救い主イエスご自身からの直々の教えです。
どんな神さまなのかをぜひ知りたいと願って、それで、ここに座っておられるんですね。それなら、よく聞いて下さい。「パンを三つ貸してください。すみません、お願いしま~す」としきりに願っている人のようになりなさい、と神さまは勧めておられます。子供たちといっしょに布団に入っていて、「面倒をかけないでくれ。ダメですよ」と断ろうとして、けれど、やがて必要なものを分けてくれる友だち。これは神さまのことです。けれども、よく分かっているべきことは、『しきりに、必死にしつこく願いつづけて、それで良いものを与えてもらう』場合と、『全然そうではなかったのに、けれど良いものを与えてもらえた』場合と、両方があるということです。「いつもいつもしきりに、必死にしつこく願うなら、良いものをあげる。そうではないなら、あげない」という神さまではありません。その証拠に、来週は(ルカ11:9-13)、まったく違う正反対のことをお話します。つまり、①諦めずに、しきりに心をこめて願いつづけることもとても大切です。また、②とても心優しい親切な思いやり深い神さまであり、必要なものをちゃんと十分に分け与えてくださるとよく分かっていて、安心していることも、それに負けず劣らずとても大切です。神さまにしきりに願いつづけることと、安心して神さまによく信頼していること。正反対に見えるこの二つは一組であり、この二つが両方ともとても大切です。
まず今日は、神を信じて生きるための二つの真理のうちの最初の一つについて、味わいましょう。しきりに、必死にしつこく願いつづけること。5-8節、「そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」。たゆまず諦めず、祈りつづけなさいと、分かりやすい素朴なたとえを用いて励まされています。神に向かって祈りはじめるのは簡単ですが、それをしつづけるのは難しいからです。多くのクリスチャンは信仰をもちはじめた最初の頃に「なにしろ神さまに祈ることがとても大切ですよ。イロハのイ、分かりましたね」と、ていねいに教えられ、祈りの生活をしはじめます。しかし時がたつうちに、だんだんとその習慣から離れていきます。神さまによって守られ、厳しい困難を乗り越えさせられ、「そうか。神に祈りつつ生きる私であり続けよう」と強く思い定め、けれど時がたつにつれて、少しずつ少しずつ心が冷めてゆき、ついにとうとう神に祈ることを多くの人々が傍らに置いてしまいます。「祈っても無駄だ。何の役にも立たないし、私の祈りは聴いてもらえない」などと、ひそかな恐るべき思いがその人の心の中に忍び込むからです。祈らなくても神を信じることはできるし、祈らなくても何の不都合も困ったことも起こらないと、ついつい思いこんでしまいます。そのようにして、疲れ果てガッカリしてしまったその人々は祈ることを止め、神に信頼することも、神に感謝し、願い求め、聞き従って生きることも止めてしまいます。心当たりがありますか。だからこそ聖書は、「諦めず、祈りつづけなさい」「弱り果てないために、いつも祈りなさい」「心が弱いのだから、あなたは目を覚まして、よくよく祈っていなさい」と励ましつづけます。そうでないと、この世の悩みや思い煩いの中で私たちは眠り込んでしまいやすいからです。そのようにして、いつの間にか、神を思うことができない私たちとされてしまうからです。
「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」。しかし、よく聞きなさいと命じられて、語られたこの手本を突きつけられて、私たちは心が痛みます。もし、これこそが祈りだとするなら、もしかしたら、この私はこれほどまでの真剣な本気の、神さまにしがみつくような祈りはしたことがないかも知れない。そして神さまに対して、恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになるかも知れません。たしかに私たちは、胸に手を当てて、よく聞く必要があります。「私はとても弱くて、頼りなくて心細くて」などと私たちは口癖のように言い訳をしますが、だからと言って、「神さま。どうかぜひ私を強くしてください」とは願い求めなかったかも知れません。「心の曲がった、悪い身勝手な思いに囚われてしまいやすい私です」などと言いながら、「神さま。どうか私の思いと生活を整えさせ、私にも御心にかなった良い働きをなさせてください」とは願い求めなかったかも知れません。「惨めな私だ」と嘆きながら、けれどなお神の憐みと恵みのドアをコンコン、コンコンとノックしてみようなどとは思わなかったかも知れません。神を信じて生きていきたい、神に十分な信頼を寄せ、願い求め、神から必要な良いものを受け取りつづけ、神にこそ従い、感謝して、幸いに生きる私でありたいと願うならば、その人は、これらの問いかけを自分自身に対して本気で問いかけてみるべきです。その価値があります。なぜ、その人は物淋しい、しばしば惨めな気持ちに陥るのか。なぜその人は、たびたび苛立ったり、悲しんだり、ひどく腹を立てたり、身近にいる家族や友人のいたらなさをあげつらったり、決してゆるそうとせず厳しく非難しつづけたりするのか。神に向かってあのようにしきりに願い求めることを忘れてしまったからかも知れません。神に信頼することも期待することも、神にこそ聞き従って御心にかなって生きてゆきたいと願うことをずいぶん長い間、すっかり止めてしまっているからかもしれません。
神にこそ祈り求めなさいと勧められつづけました。いったい、どうやったら思い煩うことから自由にされるのか。苦しみや悩みの中で、喜びや希望を見出すことができるのか。何が、私を、崖っぷちの緊急事態の中で、本当に心強く支えてくれるのかを何度も教えられ、よくよく習い覚えてきたはずの私たちです。聖書はこう語りかけていました、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ手紙4:4-7)。いつも喜ぶ。それは、うれしいふりを装って、取り繕ってやせ我慢をしていなさいという意味ではありませんでした。私たちの喜びと幸いの源であるかたのもとへと、立ち返りつづけなさいと命じられていました。主であられる神のもとへと。なぜ私たちが自分の寛容や忍耐を家族にも隣人にも職場の同僚たちにも示し、差し出すことができるのか。神さまが私たちに忍耐してくださり、とても寛容で寛大で思いやり深くあってくださったからです。その主が、私たちの側近くに、傍らにいてくださるからです。「クヨクヨと思い煩う前に、その悩みと困難と心細さの一つ一つをもって、感謝をもって、その祈りと願いとを神にこそささげ、私たちの求めるところを神に申し上げることができるからです。その願いは、必ずきっと聞き届けられると私たちは知っているからです。その祈りと願いこそが、神からの平安を私たちに贈り与えつづけ、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」と命じられ、堅く約束されていたからです。ではなぜ、心と思いが惑わされつづけたのか。「せよ」と命じられいたことをしなかったからです。事ごとに、私たちの求める一つ一つを神にこそ申し上げることをです。
だからこそ神に願い求め、申し上げているこの人は、とても大切なことを2つ知っています。1つは、夜遅くに泊まりに来てくれた友だちが自分にとって本当に大切な存在で、疲れ果ててお腹も空かせているこの人のためなら、なんとかして、なんとしてでもパンを手に入れてあげよう。パンを手に入れてこの人に食べさせてあげることが自分にはできるし、そうすることはとても良いことであり、ぜひそうしたいと自分は願っている。と分かっています。もう1つは、パンを分けてもらいに行ったその相手は願いを必ずきっとかなえてくれると分かっている。なにしろ救い主イエスが、「私の名によって御父に願うならば必ずきっと叶える」と保証してくださっている(注)。だから、しきりに、必死にしつこく願っています。友だちのことを大事に思っているし、しかもこの人は神さまに、ちゃんと十分に信頼しているのです。だからこそ、この人は格別な幸せ者です。
(注)どうぞ、よく確かめてみてください;ヨハネ福音書14:14,同15:16,ローマ手紙5:8-11,同8:31-39,同10:9-13,1コリント手紙3:22-23,詩篇27:1-5,同118:6を参照。
【補足/しきりに願う】
(1)すべての祈りにおいて、神を一定の状況に拘束しようとしたり、どういう時、どういう場所で、どういう方法でそれを神がなしたもうべきかを規定しようとしたりしないように、細心の注意を払わなければならない。神ご自身がそのよしと見たもう方法と、時と、場所においてなしたもうように、神の御意志に任せまつることを教えられる。それゆえ、われわれは、われわれ自身のために祈りをなすに先立って、まず、神の御意志が行われるようにする。そこで、今や、われわれは自己の意志を神の御意志に服従させる。こうして、あたかも手綱をかけられたような制限を受け、神を制御しようと思いあがることなく、かえって、神をいっさいの願いの支配者・また統御者として立てるのである。
(2)主は一旦われわれの煩いがご自身の胸に委ねられたからには、これをあのようにしばしば、あのように確かに、心にかけたもう。そして、このようにして、神はわれわれが貧しさの中にありながら豊かさを、悩みの中にありながら慰めを、持つことができるようにしたもう。なぜなら、いっさいのものが欠けていても、その民の期待と忍耐を裏切りたまわない神は、われわれを決して置き去りにしたまわないからである。……神はわれわれの言うことを聞きあげたまわないときにも、しかも、われわれの祈りに応じる備えをして、好意をもっておられるため、かれの御言葉に依り頼む希望は決して裏切られないとの宣言である。しかし信仰者は、忍耐に依りかからないならば立ち続けることができないほど、この忍耐によって支えられることを必要とする。というのは、主がその民らを試みたもうのは、ささやかな試練によってではなく、その修練は軽いものではなく、むしろ、しばしば最も危険なところまで追い詰め・駆り立てて、ご自身の甘美さのいくらかの味わいを彼らに示したもう以前に、長い間、この泥の中に留め置きたもうのである。(『キリスト教綱要』第3篇20章50-52節 Jカルヴァン 1559年)
(3)問7 神を敬う、正しいあり方はどういうものですか。
答 全信頼を神に置くこと。その御意志に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです。
(『ジュネーブ信仰問答』問7 Jカルヴァン 1542年)