われ弱くとも。(お試しサンプル品 ③)
♪ 信仰こそ旅路を (讃美歌270番)
こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。
1954年版讃美歌の270番。賛美歌21では458番。読み比べましたがだいたい同じです、よかった。最初に国語の授業中みたいなことを少しだけやっておきます。『質問してるみたいで、本当は全然質問じゃない』お喋りを聞いたことがあるでしょ。「よお、あの弱っちいモヤシっ子に、この俺が負けるはずがあると思うか?」と力自慢のガキ大将が子分の子に喋りかけています。ね、質問してるみたいで、本当は全然質問じゃない。「まさかあ、そんなことあるはずないでしょ」と子分たちは口々にゴマすります。聞くまでもないことをわざわざ聞いて、念を押してるし、「オレ様って強いぜ」とはっきり印象づけて、断固として宣言しています。1節の3行目、4行目。「こころ勇ましく旅をつづけゆかん。この世の危うき恐るべしや」。世の中のいろいろな危険や災いを恐れるべきだろうか。形としては疑問形、けれどその心は疑問でも質問でもない。なにしろ神さまを信じて生きてるんだから、危険も災いもヘッチャラだと。3節の3行目も同じ要領です。なにしろ主イエスに従って歩んでいる。だから、どうして道に迷ったりするだろうか。なぜ疲れたりすることがあるだろうか。形としては疑問形、けれどその心は疑問でも質問でもない。迷うはずがない。ほんの少しも疲れるわけがないと。4節の2行目もまったく同じ。ふうん。こういう言い方が昔は流行ってて、皆がそういう言い方を真似したし、好きだったんですね。なにしろ信仰をわたしの杖として依り頼んでいる。これこそが頼みの綱だ。じゃあ、この信仰と切れ味鋭い剣と、どっちがより頼りになるか比べてみるべきだろうか。どっちがどれだけ心強いか、だれかに調べてもらったほうがいいだろうか。形としては疑問形、けれどその心は疑問でも質問でもない。
「バカ言うんじゃないよ。そんなの決まっているじゃないか」と。
じゃあ、まず1節と3節をもう少し詳しく眺めてみましょう;「(1)信仰こそ旅路を導く杖。これこそが、弱い者を強くしてくれる力だ。だから心勇ましく信仰の旅を続けていこう。この世のどんな危険も災いも、神さまを信じて歩む私たちにとっては、恐れるに足りないではないか。(3)主イエスの御跡を辿って歩んでいくならば、けわしい山道も安らかな道になる。どうして道に迷うはずがあるか、なぜ疲れ果ててしまうことがあるだろう。いいや、あるはずもない。さあ、まっすぐに神さまのみもとへと近づいていこうじゃないか」。信仰こそ旅路を導く杖であり、弱い者を強くしてくれる力だ。そのとおり。例えば膝関節変形症にかかった人や重いパーキンソン症状に悩まされている人や足腰衰えて、ガクガクヨタヨタしながら歩いている人には、杖のありがたみがよく分かる。そうではない足腰丈夫で、力が有り余っていて、元気でピンピンしている人たちにはあまりよく分からない。だって自分が弱いなんて少しも思っていないし、杖なんかなくたって思う存分に歩き回っている。ただ、年老いれば分かるか、若ければ分からないかというとそうでもない。「あらまあ、若くて羨ましいわねえ。私なんておばあちゃんになっちゃって膝が痛くて」なんて物寂しそうにブツブツ言ってるおばあちゃんにはまだまだ百年かかっても分からないかも。イザヤ書40:29-31;「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。すっかり心挫け、疲れ果てている若者たちを見たことがありますか。働き盛りの中年や壮年たちも同じです。百戦錬磨の歴戦の勇士たちもバタバタと次々に倒れています。少しくらい若くて、多少の体力や気力があるくらいでは全然足りません。しかも私たちも1年また1年と年をとる。できていたことが1つまた1つとできなくなり、気力も体力も奪われてゆく。この困難な旅路をなお心強く歩みとおすためには杖が必要だと、ようやく私たちも気づきました。しかも、ちょっとやそっとのことでは折れたり曲がったりしない、とても丈夫な、格別な良い杖が必要です。主イエスを信じる信仰がそれだと、この旅人は目を凝らしています。
質問してるみたいで、本当は全然質問じゃない。「恐るべしや」「いかで迷うべき」「などて疲るべき」「比ぶべしや」。念を押しているし、断固として言い立てているし、わざと強調している。でもクドクドとしつこいし、しつこすぎる。どうしてここまで「大丈夫、大丈夫。何の心配も恐れもない」とわざわざ言い立てるのか。念を押しつづけるのか。シャーロックホームズでなくたって、ピンと来ます。雲行きが怪しいからじゃないのかと。むしろ心が激しく揺さぶられて、恐れや心細さが沸き起こり、心の中をいつの間にかすっかり覆い尽くそうとしているからじゃないのかと。そのとおり。この人もまた、信仰の危機に直面しているのだと思えます。だからこそ必死に、自分で自分に言い聞かせているのではないのかと。
歌の2節をご覧ください。「わが主イエスを私の頭でありボスだと仰ぎ見るならば、力の泉は湧き溢れつづけて尽きることがない。めぐみ深い主イエスの御傷を見ると、今にも消えかかってわずかに残っていた残り火がふたたび勢いよく燃え上がってくる」。とうとう発見しました。ここが別れ道です。力の泉がついに枯れ果ててしまうのか。くすぶっていた残り火がとうとう消えてしまうのか。あるいは、ふたたび勢いよく燃え上がりだすのか。今ここで何が起こっているのか、と目を凝らしましょう。1つは、主イエスを私の頭でありボスだと仰ぎ見たこと。もう1つは、主イエスの御傷をはっきりと見たこと。信仰と生命が回復してゆくきっかけは、この2つです。気づいてもらおうとして、その目印代わりに、同じ言い方が2度繰り返されました。『~したら、すると~になった』。仰ぎ見たら、湧き溢れてきた。御傷を見たら、残り火が燃え上がってきた。つまりそれまでは、主イエスをボスだとは思っていなかったし、仰ぎ見てもいなかった。それで、力の泉は今にも枯れそうになっていた。主イエスの御傷とは、もちろん十字架の上で刻みつけられた傷です。槍で差し貫かれた脇腹の刺し傷。てのひらの釘跡。あざけり笑うために被せられたいばらの冠が頭の皮膚を破って、そこから流れ出る血潮。鞭打たれた数多くの傷。それら十字架上で殺されていこうとする主の御傷は主イエスの恵み深さを私に指し示している。じっと目を凝らして見つめているうちに、くすぶって消えかけていた火がまた私の内部でメラメラと燃え上がってくる。主イエスを信じる信仰の炎です。
十字架の主イエスを仰ぎ見る讃美歌はいくつもあって、それらをつづけて読み味わっていくと、そこにあるはっきりした共通点に気づかされます。このあとしばらくして放送で取り上げますが、例えば、(142番,21-297番)「♪栄えの主イエスの」は、十字架の主イエスを仰ぎながら不思議な感覚に捕らわれています。「さあ、見てごらん。茨の冠を被せられた主の頭から、手や足からも、恵みと悲しみがないまぜになって、こもごも流れ落ちてくる。恵みと悲しみがひとつに溶け合って、茨は眩しいほどの冠となって輝いて見える」。流れ落ちてくるものは主イエスの真っ赤な血潮です。それがこの人の目には、『恵みと悲しみが混ぜ合わされたもの』として見てている。また、「♪両手いっぱいの愛」という新しい子供讃美歌は、祈りの中で少年が主イエスとやりとりをしつづけます。「イエスさま、ぼくをどれくらい愛してくれているんですか、このくらい、それともこのくらいですか」と手をひろげてみせながら問いかける。イエスさまは黙っていたり、ただニコニコ微笑むだけでなかなか答えをくれない。けれどある日、とうとう彼は主イエスからのはっきりした答えを受け取ります。手を大きく広げて、「君のことをこれくらい愛している」。それは十字架にかかった姿でした。少年は、ようやくすっかり分かりました。ぼくを愛してくれた救い主イエスはそのために十字架にかかってくださった。それほどの、愛の大きさだった。「ごめんね、ありがとう、イエスさま。ごめんね、ありがとう、イエスさま」(21-297,プレーズワールド13番)。この2つの讃美歌はよく似ているし、響きあっています。恵みと悲しみという相反する感情があふれます。少年もまた、「ごめんね、ありがとう、イエスさま」と。これこそ、十字架の主イエスの前に据え置かれたクリスチャンの中に燃え上がってくる信仰の炎の中身です。恵みと悲しみ。そして、ごめんね、ありがとう。
この2節の分かれ道を、私たちは何度も何度もくぐり抜けます。力の泉が枯れてしまいそうになり、信仰の炎もくすぶって小さく弱まり、消えてしまいそうになる。主イエスを私のボスと仰いで、目を凝らしていたはずなのに。十字架の主イエスの引き裂かれた体と流し尽くされた尊い血潮に目を凝らしていたはずなのに。いつの間にか、他のことに気を紛らわせていた。だから力も平和も信仰そのものさえくすぶって小さく弱まり、今にも消えてなくなりそうになっていた。主の弟子は、私たちの目を覚まさせようとして、こう語りかけます;「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、"霊"によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに"霊"を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」(ガラテヤ手紙3:1-5)。惑わされないために、力と生命の泉を涸らしてしまわないために、信仰の灯火が消えてしまわないために、だからこそ私たちには1回1回の礼拝があり、聖書があり、讃美の歌があります。そのようにして私たちの目の前に、イエス・キリストが示されつづけます。十字架につけられた姿で、はっきりと。
4節の後半2行も、ここまでくればすっかり分かります。「代々の聖徒らを強く生かしつづけてきた聖霊なる神さまを、どうかこの私にも贈り与えてください」。死をも恐れず、立ちふさがるどんな困難にも試練にも打倒されず、強く雄々しく生き抜いたおびただしい数の聖徒たちがいた。聖書の中にも外にも、私たちのごく身近にも。確かにそうです。けれど、その実態は何でしょうか? 格別に秀でた、高潔で信仰深い、強く雄々しい、ご立派な方々がいたと。人間中心の、人間のことばかり考えて神を思う暇が少しもない心の曇りが私たちの目と心をくらませます。ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモン、預言者エリヤ、主の弟子ペトロ、パウロ、マルティン・ルター、キング牧師、マザーテレサ、その他いろいろ。彼らは元々デキが違う。神さまからの格別な、特別仕立ての恵みを受けたのだし、我々下々のものとは毛並みも血筋もまったく違うと。いいえ、まさか。讃美歌が歌うとおり、聖書が証言するとおりです。聖霊なる神さまこそが、ただただ恵みによって、彼らを強く生きさせてくださった。彼らを支えつづけた。素敵でご立派な人々がいたのではなくて、ただただ恵み深く素敵な神さまがいてくださる。本当のことです。もし、それが理解できるならば、この私たちも直ちに願い求めましょう。「私にも、その同じ聖霊なる神さまを贈り与えてください」と。もし願うならば、その願いはかなえられます。