みことば/2020,6,14(主日礼拝) № 271
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:9-13 日本キリスト教会 上田教会
『求めなさい。捜しなさい。
門をたたきなさい』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。10
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12
卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。 (ルカ福音書 11:9-13)
先週(ルカ11:5-8)は、正反対のように聞こえるかもしれないことを話しました。たしかに、①諦めずに、しきりに願い求めつづけることもとても大切です。また同時に、②とても心優しい親切な思いやり深い神さまであり、必要なものをちゃんと十分に分け与えてくださるとよく分かっていて、安心していることも、それに負けず劣らずとても大切です。神さまにしきりに願いつづけることと、安心して神さまによく信頼していること。正反対に見えるこの二つは一組であり、この二つが両方ともとても大切です。そこで今日は、神に十分に信頼すべきだし、そうすることができるわけをお話しします。
9-10節。「そこで私はあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門を叩く者はあけてもらえるからである」。何のことでしょう。聖書が指し示す神さまについてこそ語り、神に祈り求めつつ生きてゆくことの本質について、ここで語られています。「求めなさい。そうしさえすれば、誰でも分け隔てなく、きっと必ず与えられる」。この私たちに対する、神さまからの約束です。不思議なことに、直前の5-8節の勧めとは違って、ここではもはや「しつこく求めなさい」とは命じられていません。「ていねいに根気強く、必死に真剣に捜せ」とか「ドアが壊れるほど、手が傷ついて血が吹き出すほどに門を叩きつづけよ」などとは命じられていません。そうではなく、誰でも求めさえすれば、きっと必ず与えられる。なぜなのか。捜しさえすれば見つかる。なぜか。門を叩きさえすれば、ドアは広く開かれて、あなたはきっと必ず迎え入れてもらえる。なぜか。求める者は受け取る。捜す者は見つけ出す。門を叩く者には、必ずきっとドアが開かれ、迎え入れられる。どこの誰であっても、どんな生い立ちのどんな暮らしぶりの何をしているどんな人であっても、なんの差別も区別もなく無条件でそうしてもらえる。
11-13節。「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら」。神さまの側に、その理由があったのです。どんな神さまなのかを知らせようとして、その参考例として、ここで人間の親子の関わり方が述べられます。もちろん現実には、様々な親がおり、多種多様の親子関係がありえます。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には。天の父はなおさら」と少し辛口で皮肉っぽく告げられて、正直な所、私たちの心は痛みます。だって、子どもの親ですから。あなたの父さん母さんはどんな親だったでしょう。もしあなたに子供がいるとすれば、あなた自身は、どんな親でしょうか。けれど、ここでは、私たち人間の親子関係を参考にしながら、なお神さまご自身と私たちのことをこそ思い巡らすのです。たとえ未熟で独りよがりでとても悪い親であったとしても、なんとかして、せめて自分の子供には良い物を与えたいと心から願う。それが親の心です。まして、私たちの親であってくださる真実な神さまは、子供である私たちに良い物をきっと必ず与えてくださる。なぜそうなのかと言えば、喜びと辛さを分かち合って共々に生きてきた自分の子供だからです。どんな子供か、「親の言うことをよく聞き、手伝いをし、ほがらかに挨拶ができる素直な明るい良い子だから」というのではなく、よく聞いても聞かなくても、手伝いをしてもしなくても、たとえブスッとふて腐れていても、なんだかすねて僻みっぽくても、素直でもあまり素直でなくても、そんなこととは何の関係もなしに! なにしろ自分の子供なので。神さまは、そのように、私たちをご自分の大切な子供として取り扱ってくださる(申命記8:5,ルカ福音書15:20-24,ローマ8:14-16,ガラテヤ4:5-7)。
あなたにぜひ与えようとして、すでに天の父は準備万端でありつづける。あなたに見つけ出させようとして、天の父は、救いへと至る道と、神を知る真理と、朽ちない生命を用意し、あなたの鼻先に差し出して、「さあ、どうぞ」と準備万端なのです。あなたが神の国に至る門をノックするのを、今か今かと、ワクワクしながら待ち構えて、天の父はすでに準備万端なのです。この人も求めてくれればいいのに。この人も、ほんのちょっと顔をあげて見回し、捜してみればいいのに。門の前に立ち止まってノックをしてみようかという気になってくれればいいのに。一歩踏み出して、玄関の中に入ってみればいいのに。「あなたにも、ぜひ求めてほしい」と天の父は心から願っておられます。探してもらいたい。ぜひ、あの人にもあの人にも、門を叩いてみる気になってもらいたいと。求めてくれさえすれば、すぐにでも与えられる。ほんのちょっと捜してみるだけで、誰でもすぐに見つけることのできる場所に置き、教会の屋根の上にも、どこの誰が見てもそれとすぐ分かるような、白い十字の、はっきりとした目印が掲げられてある。その門は、小鳥の羽根のように軽い。体の弱った病人でも簡単に通ることができるように、赤ちゃんが小さな指先で軽々と押し開けることができるように、それくらいフワリと軽やかに作ってあります。本当です。どうぞ、まず一回試してみてください。
「求めなさい。捜しなさい。門を叩きなさい」と私たちに語りかける神さまは、私たちにぜひそれをしてもらいたいと渇望しておられる。もし、《求めてほしい。捜してほしい。門を叩いてほしい》と私たちに願っているのでしたら、じゃあ、その神さまご自身は、いったい何をなさるでしょうか。――神ご自身こそが私たちを求め、私たちを捜し、私たちの魂の門を叩くのではありませんか。いいえ、現に神さまは求めつづけ、捜しつづけ、私たちの魂の門を叩き続けてこられたのでした。与えられたい。見つけ出したい。門を開けて、中に入れてもらいたい。それは実は、神ご自身のための願いだったのです。私たちを捜し求めるあまり、神は近づいて来られました。どんどんどんどん近づいて来られました。身をかがめ、低く低くくだって、私たちの低く貧しい生活の只中へ降りてきてくださった。神であられることのその身分も尊厳もご自分の生命さえ取るに足りないものとし、無にし、すっかり投げ捨ててくださった(ピリピ手紙2:6-)。そのように私たちを求め、私たちを探し、私たちの門を叩きつづけてくださった。私たちの主なる神さまは、こういう神さまです。救い主イエスは十字架の上で死んで、その三日目に復活してくださった。それは、あなたのための支払いでした。今もこの独りのお方があなたの家の門を叩くのです(黙示録3:21)。「あなたのためにさえ、罪のゆるしと救いのための代価が十分に支払われ、すべてすっかり支払われてある。だから、あなたは」と。あなたの救いのためにも神様の側で、すでにあまりに高い代償が支払われてある。こうして、《求めよ。捜せ。門を叩け》という祈りの教えは、信仰をもって私たちが生きることの教えであり、生きることそのものについての主ご自身からの教えです。
13節の「聖霊の贈り物」はやや分かりにくく、説明が必要です。たとえどんなに悪い身勝手な親であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っている。まして天の父はなおさら、求めてくるものに聖霊を下さらないことがあろうか。いいえ、必ず贈り与えてくださる。親が子にぜひ与えたいと願うはずの精一杯の良い贈り物よりも、なおさら良い贈り物を神ご自身が私たちのために用意し、差し出そうとしていてくださる。それが、聖霊の贈り物である。聖霊なる神は、救い主イエスがどんなかたであり、何をしてくださるのかを私たちに教え、救い主イエスを私たちに信じさせてくださる。そのようにして神の御心にかなった歩みができるように私たちを導き、私たちを成長させてくださる(ヨハネ福音書14:25-26,同15:26,ローマ手紙8:2-17,1コリント手紙12:3,1ヨハネ手紙4:1-3)。これこそが、神からの格別に良い贈り物の中身です。だからこそ、主イエス・キリストの恵みと平和を私たちは求めることができ、きっと必ず与えられる。捜しさえすれば、きっと見出し、きっと必ず受け取る。毎日のごく普通の生活の只中で、朝も昼も晩も、主なる神さまご自身の慈しみと真実を捜して見つけ出せる。そうであるなら私たちも、「天におられます私たちの父なる神さま」と呼ばわりながら、期待に胸を弾ませ晴々として門を叩きましょう。コンコン、コンコンと。主への感謝と信頼と願いの中に、主イエスの恵みの真っ只中に生きる私たちであらせてくださいと。なんという恵み、なんという幸いでしょう。
【補足/神に十分に信頼できるために知るべきこと】
誰がどのようにして救われるのか? 聖書は、「救い主イエスを信じる人々がその信仰によって」と、「すべては信仰によるのであって、それは恵みによる」と、また「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ、救われる」と証言します。つまり、良い行いによってではなく、救い主イエスを信じる信仰を通して、ただ恵みによって救われる。救いに値しない罪人が、にもかかわらず神の憐みを受け、罪をゆるされて救われる(ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙3:22-26,同4:16,同5:6-11,1ペテロ手紙2:10,1テモテ手紙1:15)。このことを十分に知ることが出来て、そこでようやく神に十分に信頼して生きる私たちとされます。およそ500年前の信仰問答(『ジュネーブ信仰問答』問8-14 Jカルヴァン 1543年)も、このことを説き明かそうとします――
第一に大切なことは「私たちは神にまったく信頼する」ことと言い、そのためには、「まず、神が全能であり、完全に善意でありたもうことを知る」ことと説き明かす。けれど、それだけでは決して十分ではないとして、いよいよ神の愛の本質が説き明かされる。以下、
問11 どうしてですか。
答 神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださることに対して、私たちは価しないからです。
問12 では、そのほかに必要なことは何ですか。
答 神が私たちを愛していたもうこと、また私たちの父となり救い主となってくださる御心を、確信することです。
問13 そのことを、私たちはどのようにして知るのでしょうか。
答 神の御言葉によってです。御言葉によって神はイエス・キリストにある憐みを宣言し、私たちに対する慈愛を保証してくださるのです。
問14 したがって、神に対する真の信頼の基礎は、救い主イエス・キリストのうちに神を認識することです。
答 本当にそうです。
⇒これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります(ヨハネ福音書17:1-3)。