2020年5月23日土曜日

5/24「アーメン。どこに真実があるか」Ⅱテモテ2:1-13


みことば/2020,,24(復活節第7主日 礼拝休止中の説教7 No.268
2テモテ手紙2:1-13                          日本キリスト教会 上田教会
『アーメン。どこに真実があるか』  ~主の祈り.最終回~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)  (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。……7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。9 この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。10 それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。11 次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。12 もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。13 たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。                                         (2テモテ手紙2:1-13
 1節です。「あなたはキリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」。恵みによって強くなるとは、どういうことでしょう。《恵み》とは、私たちの側には何の根拠も理由もなくて、という意味です。強くなるはずの者が当然のようにして強くなるのではありません。「豊かな者やふさわしい者が当然のようにして豊かにされ、あるいは自分自身で豊かになり、ふさわしく扱われた」のではない、という意味です。聖書自身は告げます。あの彼らもまた、ただ恵みによって、教えることのできる忠実なものとされ、ただ恵みによって、耐え忍ぶ者とされました。労苦しているのは、もちろん農夫だけではありませんでした。労苦しているサラリーマンも、労苦している子供たちも、主婦も、耐え忍ぶ年配の人々も私たち一人一人も、もしかしたら、次々とある労苦や重荷や苦難に押しつぶされてしまったかも知れません。けれどなお労苦し、なお耐え忍んでいるのは、あなたや私が忍耐深かったからでしょうか。あなたが根気強かったからでしょうか。あなたが断固たる決意を持っていたからでしょうか。そうではありませんでした。労苦する中にも慰めと支えを豊かに差し出され、痛みと辛さの只中にも喜びと幸いを贈り与えられて、それでだからこそ、かろうじて耐え忍ぶことができました。農夫も子供たちも、父親たち母親たちも、豊かな収穫にあずかります。私たちも自分自身の労苦や働きをはるかに越えて、まるで思いがけない贈り物のようにして収穫にあずかりました。それはまさしく贈り物であり、ただ恵みによったのです。ただ恵みによった。そのことを、私たちは決して見落としてはなりません。あのパウロにも、あのアブラハムにも、モーセやダビデにも、ただ恵みによって強くしてくださるお独りの方がいてくださったのです。大失敗をしてつまずいた(ルカ福音書22:54-)あのペトロにも、この私たち一人一人にも、ただ恵みによって強くしてくださる方がいてくださいます。
  さて、祈りの末尾のあの「アーメン」のことです。アーメン。どこに真実があるのでしょう。私が祈るとき、もし仮に、その祈りの内容や、祈るときの私自身の姿勢や魂の在り様が真実であるとして、それでアーメンと唱えるのだというならば、いったいどんなふうに、私たちは祈りはじめることができるでしょう。どうやって、その祈りを心安く結ぶことができるでしょうか。例えばその祈りの集いの中に、小さな子供たちもいて、素朴で単純な子供らしい祈りをしはじめます。御心にかなう祈りや生き方をしたいと願う私たちです。それでも、その一つ一つの祈りの良し悪し、はたして適切かどうかを互いに判断しようとするとき、そこに危うい落とし穴が待ち構えています。むしろ、それら祈りの中身の正しさやふさわしさについては、私たちが判断しなくてよいのです。私たちは神ではなく、神の代理人でもないのですから。神ご自身が判断なさり、神ご自身が最善最良を備えていてくださいます。私たちは、ただ神に信頼し、一つ一つの願いも私たち自身も、ただ神に委ねさえすればいいではありませんか。考えてみていただきたいのです。心から神に信頼し、誠実に忠実に神に従って生き抜くクリスチャンの生きざまと信仰の中身がアーメンの中身だというならば、また、そういう真実で誠実な祈りの中身や姿勢がアーメンだというならば、もし仮にそうだとするなら、「あなたも失格。あなたも」とやがて一人また一人と、年配のものからはじめて若者たちも、小さな子供たちまで恥ずかしそうにここを立ち去ってゆくほかありません(ヨハネ8:1-参照)。もし、自分自身の正しさやふさわしさに固執するなら、私たちは他者のいたらなさをゆるせなくなり、厳しく批判しつづけ、憐みの神からどこまでも遠ざかってしまうでしょう。聖書は証言します、「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3。これこそ、私たち自身がつい知らずに陥ってしまいやすい危険な罠です。だからこそ、この証言は私たち自身を戒め、私たちを神さまのあわれみのもとに据え置くための大切な教訓でありつづけます。
 しかも兄弟姉妹たち、どうぞ安心してください。私たちのための真実は、いつも、どんなときにも、ただ神の側にだけあります。それは神ご自身のものである真実であり、どこまでも徹底して神さまだけのものです。11-13節はごく最初の頃のキリスト教会で用いられていた讃美歌でした。しばしば洗礼のときに、一人のキリスト者の誕生を喜び祝って、大切に歌われてきました。「神の子供として新しく生まれたこの人は、ただひたすら、神の真実と恵みにあずかって生きる。もちろん私たちもそうだ」と。神は、ご自身の子供とされた人たちに対して真実であってくださる。とくに13節、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。イエス・キリストというお方こそがアーメンの中身であり、神の真実をご自身で証言する方であり(黙示録3:14,22:20)、私たちの救い主イエス・キリストこそが断固として、揺るぎなく真実でありつづけ、この世界と私たちのためにも神の真実を成し遂げてくださる。これが、私たちのための神からの約束です。祈りのことを語りつづけてきました。なにをどう祈ってもよいのです。いつ、どんなふうにして祈ってもよいのです。ただ、クリスチャンの祈りには、大切な約束がありました。誰が祈るどの一つの祈りも、『主イエスのお名前によって』祈られます。つまり、主イエスの救いの御業と今も続いているその執り成しのお働きを通して、祈られます。だからこそ、祈りは聞き届けられる。「わたしの名によって願うことは、かなえてあげよう」(ヨハネ福音書14:13,15:16と救い主イエスが断固として仰った。神からの約束であり、これが私たちの出発点です。
  そして祈りの末尾に「アーメン」と唱えます。「真実であり、本当だ」という意味です。それは神の真実であり、どこまでもどこまでも徹底して神ご自身のものです。祈る度毎にアーメンと唱え、他の人の祈りに対しても皆でアーメンと心から声を合わせることが出来ます。祈りの締めくくりがそうであるばかりでなく、祈りの始めがそうであり、祈りの中程がそうであり、祈りつつ生きる私たちの生活全体、私たちが生きて死ぬことの全部がそうです。私たちが祈りはじめる前に、私たちの舌がまだ一言も語りはじめないうちに、神さまはすでによくよく分かっていてくださいます。私たちの思いや判断をはるかに越えて豊かに報いてくださる神であられます。アーメン。立派な真実な祈りだから、というのではありません。誠実で真実な私たちだから、というのではありません。ちゃんとした私のちゃんとした生活だから、というのでもありません。そうではありませんでした。たとえ貧しくてもふつつかで不十分であるとしても、たとえ貧相でみすぼらしくても、その祈りと生活を、その私たちを惜しんで止まない慈しみの神に向けて、神ご自身の真実に向けて差し出します。そのように、「アーメン」と呼ばわります。だから兄弟姉妹たち。もう誰にも、あなたは心を惑わされてはなりません。主イエスの福音を聞いて信じたのです。主イエスを信じて生きることを積み重ねてきた私たちです。十字架につけられたイエス・キリストの姿が目の前にはっきりと示されたではありませんか。示され続けているではありませんか。私たちを救い出して神のあわれみの子たちとしてくださるために、何としてもそうするために、神の独り子である方はご自身のものを徹底して捨て去り、低くどこまでも低くくだり、神であられることの栄光も尊厳も生命さえ、惜しげもなく投げ捨ててくださったのでした(ガラテヤ手紙3:1-,ピリピ手紙2:6-)。アーメン。私たちのための真実は、どこにあるでしょうか。身をゆだねることができるほどの心強い真実が、全幅の信頼をもってそこに立つことができるほどの真実が、どこにあるでしょうか。握りしめて、「私にはこれがある」と背筋をピンと伸ばして、安らかに楽~ゥに深く息を吸えるほどの真実がどこにあるでしょうか。揺さぶられる日々にも、年老いて弱りはてる日々にも、孤立無援の恐ろしくてとても心細い惨めな日々にも、人から馬鹿にされたり、片隅へ片隅へと押しのけられる日々にも、「だって私にはこれがある」と心底から言えるほどの真実が、どこにあるでしょうか。すでに私たちは見出しています。受け取って、そのように生きることを積み重ねてきました。「主は恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ書4:2,出エジプト記34:6。そのように扱われつづけてきました。私たちはキリスト者です。だから私たちは満ち足りた安らかな日々にも、その豊かさと喜びをもって真実な神へと向かいます。心挫ける悩みの日々にも、その嘆きと苦しみをもって、神へと向かいます。貧しく身を屈めさせられる日々にも、私たちはその心細さと淋しさと貧しさをもって、神へと向かいます。そこに、私たちを深く慰め、支え、確固として立たせてくれるものがあるからです。一回一回の礼拝も祈りも、一日ずつの生活も、ただひたすら神の真実を受けとめるため。受けとめて、抱えもって生きるために。だから、私たちはここにいます。
  祈る度毎に、その締めくくりに「アーメン」と唱えます。自分の祈りだけでなく、他の人が祈る祈りに対しても、皆で神に感謝し、神に信頼を寄せながら「アーメン」と。主を讃美する歌を歌ってアーメンと。聖書朗読の終りにアーメンと。アーメン;「それは真実であり、本当だ」という意味だと、私たちは教えられてきました。けれど真実とは何でしょう。あなたや私にとっての真実とは何でしょう。本当のことという以上に、格別にとても良いもの。それは、どこにどんなふうにして在るのでしょう。神さまご自身です。神さまを頼りにして、その御心に信頼を寄せ、御心にかなうことを願い求めて生きる私たちです。そのことに、ひたすらに目を凝らしつづけましょう――

         【補足/アーメン】
 この言葉は、ヘブル語で「真実に」「まことに」という意味を持つ語であり、私たちが祈ってきた祈願のせつなること、真実をこめての祈願であることを表しているともいうことができます。私たちは、自らの祈りを真実をこめて神に向け、また他の人の祈りに自らも真実にあずかり、和していることを表して、心をこめてのアーメンを言うのです。しかし、この言葉は究極的にはもっと深い奥行きを持っています。すなわち、私たちが一生懸命真実であろうとしても不確かであったり、曲がることがあったりするにもかかわらず、絶対真実なるお方の真実によってこれを祈っているのだという内容です。真にアーメンたるお方は、変転の影のない神であり、み子イエスであり、聖霊なる神です。私たちは、そのお方のがわにある真実に立ってこの祈願の成ることを信じ、確かな希望のうちにこの祈願を祈るのです。私たちはすべての祈りを「主のみ名によって」祈るように、主の祈りをもアーメンという言葉をもって、主のがわにある真実の上に立って祈るのです。

                       (『信仰の学校』p.209-10 桑原昭 日本キリスト教会出版局 1989年)

            ≪礼拝説教の予定≫
5月24日 2テモテ手紙2113 『アーメン。どこに真実があるか』 (主の祈り.9)
招き/エゼキエル書3:4-5 ゆるし/同3:6  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 55756、162、1(Ⅱ)、544 
  31日 使徒行伝2:1-13『神の大きな働きを聞いて』   (聖霊降臨日)
         招き/ローマ手紙8:14 ゆるし/同8:15 祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 557、177、181、263、545
67日  ルカ福音書11:5-8『しきりに願うこと』
■   14   11:9-13『求めよ。捜せ。門を叩け』