3/29 こども説教 使徒行伝16:25-34
『主イエスを信じなさい。そうすれば』
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。……28 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。29 すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。30 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。32 それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。33 彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、34 さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。 (使徒行伝16:25-34)
主イエスの弟子たちは牢獄に閉じ込められていました。神さまに祈り、神をほめたたえ、信頼し、感謝する祈りの歌を歌っていました。ほかの囚人たちは耳を澄まして聞き入っていました。大地震が起こって、牢獄のドアがみな開き、すると牢獄の監守は「ああ困った。みんな逃げ出してしまっただろう。その責任を自分が負わされてしまう」と思って、剣を抜いて自分で死んでしまおうとしました。「いや、待ちなさい、待ちなさい! 自分で死んではいけない。大丈夫、誰も逃げ出してはいないから」と弟子たちの声が聞こえました。牢獄の看守は「本当かなあ」と疑いながらも、確かめてみました。その通りでした。神を信じている弟子たちが牢獄の中で安らかに安心しているだけでなく、まだ神を信じていないはずの他の囚人たちも、1人も逃げ出さずに、ニッコリ安心して座っています。居心地が良かったからです。牢獄から逃げ出すよりも、神さまをほめたたえ、信頼し、感謝するその歌や祈りをいっしょに聴いていたいと願ったからです。どこで何をしているよりも気持ちがよくて、嬉しくて、幸せで、とても居心地がよくて、いつまでもそうしていたかったからです。不思議ですね。30-31節です。牢獄の看守は「わたしは救われるために何をすべきでしょうか」。弟子たちが答えました、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。おかしいなあ。おかしいでしょ? 囚人の誰も逃げ出していません。責任を負わされてきびしい罰をうけたり、仕事をクビにならずにすみます。じゃあ、もうすっかり救われて、いままで通りの生活ができるじゃないですか。そうです。このままで十分に救われている。だから! いままでどおりの普通の生活の、普通の安心や喜びや幸せの、その千倍も万倍も素敵な幸せや安心や、まったく違う希望を見つけたのです。牢獄の中での安らかな様子を。弟子たちと囚人たちのあの祈りや歌の中にある、他のどこにもない幸いを。その格別な救いをぜひ自分も欲しいと願いました。この私たちも、その同じ一つのものを願い、受け取りました。主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。
【補足/2種類の牢獄監禁】
使徒行伝では、主イエスの弟子たちが牢獄に閉じ込められるよく似た事例が何回か報告される。5:17-21と今回と。5章では夜中に主の使いが来て、牢獄の戸を開いて弟子たちを外へ連れ出してくれた。この16章では、地震が起きて牢獄の戸がみな開かれたが、それは弟子たちを救出するためではなかった。牢獄の看守と家族をクリスチャンに加えるためだった。また弟子の一人パウロは、牢獄でずいぶん長く過ごすことになり、牢獄からピリピ教会へ手紙を書き送った。「わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」(ピリピ手紙1:12-14)。
受難予告の際に、弟子たちは主イエスご自身から、「自分を捨てて、私に従いなさい」と命じられていた。捨てるべき自分は、肥大化した自己顕示・主張と自己承認の過度で病的な欲求でしょう。「その自分」は不要で邪魔で、かえって自分を自己愛という牢獄の中に幽閉する。簡単に、その邪魔で要らない「自分」をポイと捨て去ることができます。できますよお。神さまが、私たちにもさせてくださるからです。「牢獄」は、その自己愛という牢獄から逃れて自由になるための稀有な実習体験でした。その意味でキリストの囚人であり、主の囚人である。前に伸ばした両手を縛られ、その縄を主なる神ご自身こそが握って、私たちを御心のままに連れ歩く。神への従順に生きることの幸いです。『クリスチャンの自由』とは、この神への従順と表裏一体であるところの自由であり、平安です。だからこそ、神以外のどんなものからも縛られず、言いなりにされず、まったく自由であることができます。