2020年3月2日月曜日

3/1「私たちがきかされていること」ルカ10:21-24


          みことば/2020,3,1(受難節第1主日の礼拝)  256
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:21-24                       日本キリスト教会 上田教会
『私たちが聞かされていること』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。22 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。23 それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。24 あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。 (ルカ福音書 10:21-24)

 主イエスが喜びにあふれておられます。「聖霊によって喜びにあふれて」と報告されています。主イエスが深く嘆き悲しんで、涙する場面は何度か報告されてきました(ヨハネ11:33-44,ルカ19:41-44など)。けれど、喜びにあふれている様子は、このただ一回だけしか報告されていません。罪人が神へと立ち返ることを、救い主イエスは喜び祝います。賢い者たちや思慮深い者たちが福音を拒んで退けるときにも、身を低く屈めさせられた小さな者たちが神の国の福音を受け入れ、そのとき主イエスは喜びに溢れます。私たちもそのように喜び祝い、心から感謝をしたいのです。
 その喜びは御父と御子イエスの喜びであり、やがてこのルカ福音書15章の3つのたとえ話で、すっかり明らかに語られるはずの喜びです。迷子になっていた一匹の羊が探し出され、羊飼いのもとに連れ戻される。その羊飼いは喜んでその羊を自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集めます。『さあ、わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』。たった一枚の銀貨をなくして家中を捜し回った女性も大喜びで叫びました。『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と。それは、二人の息子を持って、兄と弟をそれぞれにうしないかけ、それぞれに見出して生き返らせようとした父親の喜びと悲しみでもあります。「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。弟のために大喜びする父親は、もちろん兄のためにも、喜び祝いたいと心から願っていました。死んでいた子供、いなくなっていた子供たちが生き返り、また父のもとへと連れ戻されるなら、父である神は喜びに溢れます。この私たちも、そのように喜び迎えられた子供たちの一人一人でした。
 21-22節。主イエスは呼ばわります。「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした」。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわした。その意味は明らかで、とてもはっきりしています。まず、「これらのこと」とは、神のものとされ、その人々の名前が父なる神さまの膝元にある(戸籍謄本のような)命の書に書き記されていること。まだ誰がどのように、その喜びと恵みにあずかるのかということ。また、ここで言われている「知恵のある者や賢い者」とは、直接的には、まず当時の律法学者やパリサイ人たち、祭司や民の長老たちのことです。彼らは、彼ら自身の目には自分はとても賢く知恵があると見えていました。だからこそ、主イエスの福音を拒んだのです。「幼な子」もまた「幼な子のような者たち」であり、直接的には、主イエスの弟子たちです。片田舎に住んでいた無学な漁師たち、取税人、罪人だとレッテルを貼られて軽蔑されていた人々。遊女たち、忌み嫌われていた病人たち。多くの人々が主イエスを拒み、退けようとしたとき、なおあのお独りの方を信じ、彼に従った人々です。ある者たちには、神による救いは隠されている。別の者たちには、はっきりと示されている。ここで、神の真理はあまりに深く、とても不思議です。それは天よりも高い。それは地の底よりもはるかに深い。ならば私たちは、何をすることができるでしょう。いったいどうして、私たちの周りにいる人々の中である者たちは神へと立ち返り、別の者たちは罪の中に留まりつづけるのか。それでもなお主イエスは、「知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子たちにあらわされた」とおっしゃいます。もしかしたら、自分には知恵や賢さがあると思っている私たちにとって、その知恵や賢さが邪魔をしているのかも知れません。それが目を塞いで、神の真理を見えなくさせているかも知れません。幼な子のような者たちは、例えば貧しい者たちでした。身を屈めさせられている者たちでした。例えば取税人や遊女たち、罪人だとレッテルを貼られている者たちでした。彼らのほうがしばしば真っ先に神の国に入り、その間、律法学者とパリサイ人たちは門の外にただ虚しく立ち尽くすと告げられています。主イエスご自身は、「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイ5:20とおっしゃいました。
 さらに22節、「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。先祖も、預言者たちも、使徒も、旧約時代のすべての信仰者たちも誰一人としてこんなことを聞かせられた者はいません。すべての事は天の御父から救い主イエスに任せられている。このお独りの救い主こそが、御父から示された一つの明確な真理であり、御父と一つであられる方であり、御父を十分によく知っておられる方である。御子イエスがいったい何者であるのかを本当に知っておられるのは、ただ御父だけであり、御父を知る者も御子イエスのみである。つまり御子イエス・キリストこそが父なる神を私たちにはっきりと告げ知らせてくださるおかたであり、また御父こそが、御子イエス・キリストのゆえに、私たち罪人の罪をゆるし、愛してくださるおかたである。そして、また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいない(ヨハネ福音書1:18,ヨ同14:6-参照)。救い主イエス・キリストに御父から託され、任せられている「すべてのこと」とは、天と地の一切の権威と力です。
こどものための信仰問答は、このように説き明かします。「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」(当教会「こども交読む文1&3」参照)。救い主イエスの理解として、『まことの神にして、まことに人間』が大切です。初めから、この世界が造られる前から神として存在し、しかも人間になったあとでも神であることを片時も止めない。親しみやすい、身近な、『人間イエス』の側面ばかりが強調されがちですが、神でありつづけるイエスを決して見落としてはなりません。十字架前夜のゲッセマネの祈りにおいても十字架上でも、御父への信頼と従順とはほんのわずかも揺らぎませんでした。救いの御業を完全に成し遂げてくださった救い主に、この私共も十分な信頼を寄せつづけて生きることができます。もし仮に、救い主イエスに十分な信頼を寄せられないなら、その信仰は中身のない形ばかりのものに成り下がってしまうでしょう。自分自身や、他さまざまなものに信頼を寄せ、その人はアタフタオロオロしつづけて、やがて神への信仰を失ってしまうでしょう。これこそが、信仰の決定的な分かれ道です。
 23-24節、「それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。救い主イエスの福音を聞いている私たちの格別な幸いがここで告げられています。最初に、主イエス・キリストがこの世界に降りて来られた後に生きていたクリスチャンたちが見聞きしてきたことと、キリスト以前に生きた人々が見聞きしたこと。その違いはとても大きくて、私たちが思い浮かべるより遥かに豊かで深く、重大です。もちろん旧約聖書の時代の信仰者たちも、信仰によって、救い主が来られることを待ち望み、死人の中からの復活と新しい生命を信じ、確認することができました。けれどもなお、救い主イエスの死と復活がそれまでは隠され、秘められていた聖書の多くの謎を解き明かしました。ダビデやイザヤ、そのほか多くの預言者たちが説明することも悟ることもできなかった事柄を、すべてのクリスチャンが知ることができます。
 しかもそれは、とても素朴で分かりやすい真実です。神を信じて生きるうえで最も大切なことは、神さまにすっかり十分に信頼するということです。どのようにして、それがなされるでしょう。まず神がなんでもお出来になる方であり、完全に正しく善い心のかたであることを知ることです。それは、最初からはっきりと知られていました。しかも、それだけでは十分ではありませんでした。神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださるだけの価値も功績も、まさった取り柄も私たちには何もないと、この私たちははっきりと知らねばなりません。つまり憐れむ神であり、その憐みを受け、罪をゆるされて、価なしにただ恵みによって救われる私たちであること。これです。これこそが、多くの預言者や王もはっきりと見ることも聞くこともできなかった最も大切な真実です。思いめぐらせてみてください。もし万一、「自分には罪も落ち度もまったくなく、しかも十分な価値がある」(1ヨハネ手紙1:7-19,ローマ手紙3:19-28,10:1-4参照)と思い込んでしまうとき、人は誰でも他の人々に対してその罪深さや欠点や至らなさを憎み、見下して、冷淡に扱い、厳しく残酷になってしまいます。ついには神をも侮りはじめます。その傲慢と思い上がりこそが、先祖と私たちが陥っていた罪の中身でした。神は、罪人である私たちを憐れんで救う。その憐みを、神は救い主イエス・キリストにおいて示し、私たちに対する憐みと愛とをキリストにおいて差し出してくださいました。神に十分に信頼するための土台は、救い主イエス・キリストのうちに神を知ることです。そこでようやく私たちはすべての信頼をすっかり神さまに置いて、その御意志に服従し、神に心安く忠実に仕えて生きることができます。どんな悩みや恐れの中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めることができます。すべての幸いはただ恵みによって神から出ることを、心でも口でも認めることができます(「ジュネーブ信仰問答」問7-14 1548年)
 だからこそ御父が御子イエスを指さして、こうおっしゃいました。「これは私の子、私の心にかなう者。これに聞け」と。救い主イエスご自身もまた自ら仰いました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(ルカ福音書3:22,9:35,ヨハネ福音書14:6-10主イエスに聴きつづけ、聞き従いつづけます。その中で、憐みの神であることを、そして神のその憐みと恵みとを心に刻み込み続けて生きる私たちです。主イエスという一本道を歩んでいくなら、誰でも必ず天の御父のみもとに辿り着ける。主イエスから学ぶなら、知るべき真理を受け取り、朽ちることもやがて終わることもない格別な幸いの生命を生きることになります。

                       《こども交読文.3》
 ☆あなたは 何を信じますか。

★わたしは、父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神を信じます。
 ☆あなたは なぜ 神のことが分かるのですか。
★神が 聖書によって教えてくださるからです。
 ☆神は たくさんおられるのですか。
★いいえ。ただおひとりです。父なる神と子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三つの区別があり、思いを一つにして働いてくださいます。この神を、三位一体(さんみ・いったい)なる神といいます。
 ☆あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか。
★いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます。
 ☆あなたは すでに救われていますか。
★はい、救われています。
☆どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか。
★はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです。
 ☆神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。
★そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません。
 ☆主イエスは、どんなかたですか。
★まことの神であり、どうじに、まことに人間でもあります。
 ☆主イエスは、いつから おられますか。
★世界が造られる前から 永遠に おられます。
 ☆いつから人間になられましたか。
★聖霊によって処女マリヤのお腹に宿り、人間の体を受けられたときからです。そして、人間になったあとでも神であることをお止めになりません。
10 ☆主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか。
★人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです。
11 ☆主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか。
★神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます。
                    (ここまで上田教会「こども交読文3」