みことば/2020,3,29(受難節第5主日の礼拝) № 260
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-2 日本キリスト教会 上田教会
『神の御名を』 ~主の祈り.2~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 (ルカ福音書
11:1-2)
主イエスが教えてくださった『主の祈り』を少しずつ味わいはじめて、今日はその2回目です。「天の父よ。あなたのお名前を誉めたたえさせてください」。父なる神よと呼ばわりはじめて、「あなたの名」「あなたの国」「あなたの心こそが」と目を凝らしています。つまり、「父なる神さまの名」「父なる神さまの国」「父なる神さまの御心こそが」と。それが、主の祈りに含まれる6つの願いのうちの前半3つの願いです。誰よりも高いところにおられます御父をこそ尊び、信頼を向け、御父に従って歩み、御父の国が地上に建て上げられて自分もそこに住むことを待ち望むように。また、私の願いや他の誰彼の願いや計画どおりではなくて、ただただ御父の御心にかなうことこそが成し遂げられていきますように。そのように祈り求め、腹に据えつづけなさいと救い主イエスご自身が、私共に教え、命じておられます。なぜなら私共すべてのクリスチャンは、主イエスの後につづいて生きようとする主イエスの弟子たちだからです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、あなたの御心のままになさって下さい」(マタイ福音書26:39)。そうか、あのゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘そのままではないか。あなた自身もこの私も、そのように生きることができる、という神さまからの招きです。
聖書の神を信じる人々は、なにより神の御前に深く慎む人々でありつづけました。その慎みによって、直接にあからさまに神のことを言ったり指し示したりすることを差し控えて、しばしば間接的で遠回しな言い方をしました。ここでもそうです。「父なる神さま。あなたの名前こそがあがめられますように」。それは直ちに、ただ名前だけではなく、父なる神ご自身が尊ばれ、信頼され、深く感謝されますように。他の誰彼がみんながという以前に、なによりまずこの私こそが神に信頼し、願い求め、感謝することもできますように、という願いです。「神の国が来ますように」。神の国、天の国。国が確かに国であり、神の王国が確かに名実共に神ご自身の王国である。その理由も実体も、まったくひたすらに国の王様にかかっています。王様がそこにいて、ただ形だけ名前だけいるのではなくて、そこで力を発揮してその領土を治めている。そこに住む住民一人一人の生活の全領域を、王様ご自身が心強く治めていてくださる。だから、王国はその王の王国となるのです。その領土に住む1人の住民の安全も幸いも、希望も慰めも支えも、すっかり全面的に、その国王の両肩にかかっている。それが神の国の中身です。
神ご自身が尊ばれ、神こそが信頼され、感謝される。神ご自身が生きて働いてくださり、ご自身の恵みの出来事を持ち運んでいてくださる。そのことを渇望して願い求めている者たちは、つまり、「今はあまりそうではない」と気づいています。神のご支配のもとに据え置かれながら、なお神に反抗して自己主張し、我を張りつづけ、神の御心にかなって生きようとすることを二の次、三の次に、どんどん後回しにしつづける。そういうキリスト教会と自分自身のいつもの生活や現実に心を痛め、「どうしてそうなんだろうか」と思い悩んでもいる。私たちは気づきはじめています。神ではない別のものが尊ばれ、別のものが崇められたり恐れられたりしている。神ではない別のものが信頼され誉めたたえられたりしている。別のものが、まるで王様のように大手を振ってのし歩いている世界に、この世界に、この私は生きていると。その只中で、私もまた引きづられ、言いなりにされ、しばしば、この私自身さえもが目を眩まされ、心を深く惑わされている。なんということかと。『悔い改める』という聖書独特の言葉もまた、ただ反省したり悪かったと思うことではありません。自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いつづけることから解き放たれて、その眼差しも思いもあり方も180度グルリと神へと向き直ることでした。なぜなら、「私がどう思い、どう考えるか」とそればかりを思い、そればかりにこだわりつづけるのは、あまりに虚しく淋しい生き方であるからです。「周囲の人々が私をどう思うだろう、どう見られているだろうか」と顔色をうかがい、引きずられ、言いなりにされてゆく生き方は、とても心細いからです。あまりに惨めです。誉められたといっては喜び、けなされたといっては悲しみ悔しがり、受け入れられたといっては喜び、退けられたといっては嘆き、一喜一憂し、恐れつづけます。それでは、いつまでたっても淋しく惨めで、心の休まるときがないからです。
長い長い時が流れました。『神ご自身が尊ばれ、信頼される。神ご自身が生きて働いていてくださり、ご自身のその恵みの出来事を、ご自身で持ち運んで、きっと必ず成し遂げてくださる』。その信頼と確信のもとに、今日でも、1人のクリスチャンが誕生します。心をさまよわせていた1人のクリスチャンが、ついに『私は一個のクリスチャンである』という恵みの場所へと立ち返ります。今日でも、同じ一つの確信のもとに、それは起こります。起こりつづけます。例えば、とても臆病で気の小さい人がいました。傷つきやすい、いつもビクビクオドオドしていた人がいました。夫の前でも親の前でも、子供たちの前でも、職場の同僚たちの前でも、「こんなことを言ったら何と思われるだろう」と彼女はためらいます。「聞いてもらえないかもしれない。馬鹿にされ、冷たくあしらわれ、はねのけられるかも知れない。相手の自尊心を傷つけ、互いに嫌な思いをするかも知れない」などと思い巡らせます。それで長い間ずっと、人の顔色をうかがいながら他人の言いなりにされてきました。けれど、クリスチャンである彼女はその一方で、もう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。そうだった。なにしろ神さまをこそ尊ぶ私である。神に信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である、と。また例えば、「私が。私が」と長い間、我を張って生きてきた頑固な人がいました。私は私のしたいことをする。したくないことはしない。思い通りにできれば気分がいい。したくないことをさせられれば気分が悪い。けれどクリスチャンである彼は、あるいは彼女は、その一方でもう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。「父よ、あなたの御心をこの地上に成し遂げてください」という心からの願いと信頼をです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りそのものではありませんか。けれど私の願い通りではなく、あなたの御心にかなうことが成し遂げられますように。ああ、そうだった。私の考えや思いや立場を重んじるよりも、なにしろ神ご自身を尊ぶ私である。私に信頼し誰彼に聞き従うよりも、なにしろ神の御心にこそ信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である。「御名と御国を。私や他の誰彼の願いや計画ではなく、あなたの御心にかなうことをこそ」という願い。私たちの目の前にあるその一つの具体的な話題、その一つの判断とこの腹の据え方とは無縁ではありません。むしろ、いよいよそこで「御父の御心こそ」という願いが、私たちのための現実となっていきます。ついに、願い求めるその人は、「それはいけない。間違っている」と言い始めます。「そんなふうにしてはいけない」と言いはじめます。あるいは、「私が間違っていました。ゆるしてください」と。あるいは、喉元まで出かかった言葉を、思いと言葉と行いをかろうじて飲み込みます。もちろん、私たちは生身の人間です。嫌な顔をされるよりは、されないほうが居心地がいい。けなされるよりは誉められるほうが好きです。言い争うよりは、カドの立ちそうな話題は避けて、当らず障らずにいるほうが気楽です。わざわざ波風立つよりは立たないほうがよほどましに思えます。だから、力の強そうな声の大きな人物が目の前にいるなら、「はい。分かりました。あなたの思うとおりにやってください」と。どこまでも言いなりにされ、流されていきそうになります。あるいは強い私は、「私の気持ちは。私の立場や満足は」とどこまでも我を張って、私の言いなりに従わせようとします。それでもなお、私たちはクリスチャンです。なぜでしょうか? もう一つのことを心に留めているからです。「神の御名を、私たちにもあがめさせてください。神ご自身の御国を、ここへも来させてください」という祈りが、かろうじて危ういところで、私たちをクリスチャンでありつづけさせます。目の前のその強い大きな人を尊んだり恐れたりする2倍も3倍も、神さまをこそ! 尊ぶ私たちであるからです。その人に信頼し従うよりも、自分の考えややり方に従わせようとするよりも、神にこそ信頼し、感謝し、聞き従いたい。その願いのほうが、ほんのちょっと大きい。ほんのちょっと色濃い。いいえ。その千倍も万倍も大きく色濃い。私たちはクリスチャンです。なぜなら、この私にもあなたにも天に主人がおられます(コロサイ手紙4:1参照)。
私たちは晴れ晴れとして膝を屈めます。堅く抱え込んでいたものを安らかに手離すこともできます。臆病で気の弱い、卑屈でいじけた私のためにも、天におられるこの主人こそが強く大きくあってくださる。この主人こそが豊かであってくださる。私たちは、そこでようやく楽~ゥに、晴れ晴れとして顔をあげます。私たちはクリスチャンです。