みことば/2020,3,8(受難節第2主日の礼拝) № 257
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:25-37 日本キリスト教会 上田教会
『あなたの隣人』
+付録「懲らしてください」 +ある先輩の嘆き発言
10:25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。26
彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。28
彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。30
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。31
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。33
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。37
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 (ルカ福音書 10:25-37)
ずっと昔、イスラエルの民がモーセの帰りを待ちわびている間に、シナイ山頂で、2枚の石の板に10個の戒めが刻まれました。あのとき神から与えられた律法は、「あなたの主である神を愛しなさい。そして、自分自身を愛し尊ぶように、それに負けず劣らずあなたの隣人を愛しなさい」(ルカ福音書10:27参照)と私たちに命じます。神を愛することと隣人を愛することとは、切り離せない一組の事柄として私たちの前に断固として掲げられます。「わたしの隣人とは誰か」と信仰の専門家が問いかけました。これこそとても良い質問で、よくよく考えてみるに値します。隣人はどこにいるのか。私は誰に対して、その人の隣人であるのか。それは、私たちが差し出したり受け取ったりする慈しみや労わりについての問いかけです。主イエスは、一つのたとえ話をもって、その問いに答えます(たとえ話の中に、道端に倒れている大怪我をした旅人と、そこに通りかかる祭司、レビ人、サマリヤ人。祭司とレビ人は神を信じて生きることの専門家たちであり、人々から尊敬される人々。他方、サマリヤ人は長い歴史の中でユダヤ人から軽蔑され、嫌われ、除け者扱いされつづけてきた外国人)。
まず30-35節です。ある人が旅の途中で追いはぎに襲われました。衣服をはぎ取られ、殴りつけられ、半殺しの状態で道端に置き去りにされました。祭司が通りかかり、けれども道の向こう側を通り過ぎていきました。レビ人も通りかかり、けれども道の向こう側を通り過ぎていきました。彼らは信仰の専門家であり、『神を愛することと隣人を愛すること』の専門家です。けれど、あの彼らは追いはぎに襲われた人の隣人になることはありませんでした。なぜでしょう? すぐ目の前にいたその人が自分の隣人であることに、気づかなかったのかも知れません。その人を自分の隣人とすることを、好まなかったのかも知れません。自分が隣人となることが望まれ、必要とされていたことに気づいていながら、けれど差し出してあげるべき慈しみやいたわりを持ち合わせていなかったのかも知れません。今日でも多くの様々な人たちがその同じ道を通りかかるでしょう。その倒れた人の傍らを、1人の高校生が通りかかります。近所のスーパーまで買い物に行く1人のお母さんが。仕事に出掛ける途中の1人の労働者が。おじいさんやおばあさんが。ある日、あなたが通りかかり、私も通りかかるでしょう。その痛ましい姿を目にしながら、ある時には、関わりあいになるのを好まず、道の向こう側をそそくさと通り過ぎてゆくかもしれません。忙しかったり、それぞれの都合や用事や約束があったり、自分のことで精一杯だったり、それより何より差し出してあげるべき慈しみやいたわりを持ち合わせていなかったりして。しかも道の向こう側を通り過ぎてゆくための、もっともらしい合理的な理由を、わたしたちはそれぞれにいくつも持っているのですから。だからこそ私たちの代表例として、私たちのいつもの姿を映し出す鏡として、祭司とレビ人がわざわざ登場させられています。そそくさと足早に道の向こう側を通り過ぎていったあの彼らは、私たちのことです。
33-37節。隣人とは何でしょう。私の隣人は誰でしょう。隣人になるとはどういうことでしょう。隣の家や近所に住んでいるから隣人だ、というのではありません。顔見知りで、時々は「こんにちは」などと挨拶くらいはするから、だから隣人だ、というのではありません。ひとつ屋根の下に長年いっしょに住み、同じ食卓を囲み、家族であり親子であり夫婦である、だから隣人だ、というわけでもありません。慈しみやいたわりを差し出しあい、受け取りあい、それでようやく、そこで初めてその人と私とは隣人とされた。いったい誰がこの私の隣人になってくれるか。いいえ、主イエスは「わたしの隣人とは誰か」ではなく、「誰が、その困っている旅人の隣人になったか」と、2歩3歩と踏み込んで問いかけました。この私自身が、その人の隣人となること。その人の隣人として苦しみや喜びを分かち合いながら、その人といっしょに生きはじめること。
旅をしていたある1人のサマリア人が、この道を通りかかりました。その人を見ました。あわれに思いました。近寄って傷の手当をしてやり、包帯を巻いてあげ、自分のロバに乗せ、宿屋に連れていって解放してあげました。翌日には出掛けなければなりませんでした。朝、宿屋の主人にデナリ銀貨2枚(=およそ2日分の労働賃金)を渡して、こう頼みました;「この人を介抱してあげてください。もし費用がもっとかかったら、帰りがけに私が支払いますから。どうぞよろしく」と。これが隣人であり、その人の隣人になるとはこのことだ、と主イエスが私たちに語りかけます。たとえ信仰の専門家でなくても、神を愛することと隣人を愛することの専門家でなくたって、「だれがその人の隣人になったか。気の毒に思って、近寄ってきて、その人を助けてあげた人だ」と分かります。小さな子供だって分かるでしょう。それが隣人。隣人になるということ。とても恥ずかしいことですが、振り返ってみると私は誰かの隣人になってあげたことはあまりありません。もしかしたら、ただの一回もないかもしれません。さらに主は、私たちにこうお命じになります。「あなたも行って、同じようにしなさい」と。しかも誰かの隣人になることは、神を愛することと切り離すことのできない一組の事柄として断固として掲げられます。そのことを抜きにしては、神を愛することも神を知ることも決してありえないと。・・・・・・さあ、困りました。私は頭を抱えます。
けれど実のところ、私たちは頭を抱えて、必死に精一杯に悩み果てて大いに困る必要があります。頭を抱えて、「私は隣人として失格だ」と知る必要がおおいにあります。だって、そうでなければ、私たちは「どうしてもっと愛してくれないのか。なぜ手を差し伸べてくれないのか。立ち止まって、近寄ってきて、傷の手当をしたり、どうしてもっと親切にしてくれないのか。どうして心を開いてくれないのか。どうして私の気持ちや悩みを分かってくれないのか。あなたはどうしてもっと十分な隣人になってくれないのか」などと不平を並べ立て、相手を非難し、身近な他者を裁きたててしまうからです。自分を棚にあげて。そうされるのにふさわしい私なのに、と思い込みながら。慈しみやいたわりを差し出すには、私たちは薄情です。慈しみやいたわりを受け取ることには、私たちは貪欲で、とても欲張りです。喜ぶことも感謝することも満ち足りることも少ない。だから、いつもなんだか淋しい。不十分な隣人であり、いたらない貧しい隣人です。あなたの夫に対して。あなたの妻に対して。あなたの子供たちに対して。あなたの兄弟姉妹たちに対して。あなたの職場の同僚たちに対して。近所に住んで、「おはよう。いいお天気ですね」と時々挨拶しあう顔見知りの人々に対しても。あなたもそうですが私もそうです。それは、お互い様でした。
◇ ◇
あの格別な、滅多にいないはずの、ただお独りのサマリア人に、目を凝らしましょう。私たちは知りませんでしたが、その独りのサマリア人は、『たまたま偶然に』通りかかったのではありませんでした。たまたま偶然に、その人だけを助けたのでもありませんでした。エルサレムからエリコへの道筋だけでなく、佐久や小諸、塩田、東御市方面にも、長野市や上田界隈にもごく頻繁に通りかかります。あの彼は、追いはぎに襲われ続ける旅人たちのための救出者として、巡回パトロールをしつづけておられます。どの狭い小道や裏通りにも追いはぎが出没したので、どの片隅の道端にも、襲われて瀕死の重傷をおった旅人がうずくまったり倒れたりしていたので、朝も昼も夜明けにも、地の果てに至るまで、彼は、独りきりの格別な救助者として巡り歩かねばなりませんでした。来る日も来る日も、そのただお独りのサマリア人は救出と保護のための巡回パトロールをしつづけました。アダムとエヴァの息子たちの時代にそれは始まりました。ノアの時代にも。アブラハム、イサク、ヤコブの時代にも、数多くの追いはぎが小道という小道、道端という道端に潜み、被害者が続出しました。救出と保護の、はてしなく長い長い時が流れました。
しかも困ったことには、私たち人間はあまりに物忘れがひどいのです。実は、あの祭司やレビ人も、ほんの数ヶ月前か数年前には、襲われて道端に倒れていた人でした。でも彼らは、ほかのいろいろなことは覚えているくせに、それなのに介抱され、包帯を巻いていただき、「わたしが費用の全部を残らずすっかり支払いますから」と約束され、ずいぶん高額だった治療費の全額を支払っていただいたことを、その肝心要を、今ではすっかり忘れてしまったのです。宿屋の主人も忘れました。「何人もケガ人の介抱と世話を頼まれたが、支払いが滞っている。きっと支払うからと約束しながら、あの奇妙なサマリア人はちっとも戻ってきてくれない。これでは大損、商売上がったりだ」と。あの追いはぎたちさえ、自分が別の追いはぎに襲われて道端に倒れていたことを、近寄っていただいて介抱していただいたことを忘れていました。「隣人とは誰ですか。誰がふさわしいですか」などと訳知り顔で得意そうに質問していたあの専門家も。あの淋しいお母さんも。あの高校生も。あの労働者も。あのおばあさんも、おじいさんも皆が皆、すっかり忘れはててしまいました。淋しい時が流れつづけました。
あるとき、その淋しい人たちに、不思議な物語を語って聞かせる方がありました。「聞いたことがあるかなあ。ある人が、いつもの道を歩いていた。あるいは自分の家の中で、台所からテレビのある茶の間へと向かう途中だったかも知れない。茶の間から洗面所か、あるいは玄関へと向かう途中だったかも知れない。そこで、追いはぎに襲われた。ひどい傷を負って、うずくまった。心細くて淋しくて、ただメソメソ泣いていた。するとそこに・・・・」。耳を傾けているうちに、あなたはハッと気づきます。自分のことがそこで物語られていると。あなたは、語りかけるその人物に見覚えがあります。確かに、見覚えがあります。あのとき、助け起こして介抱してくださったあのとても奇妙なサマリア人です。別の時には、旅をしていたあなたに宿を貸してくださった方です。また別の時には、喉の渇いていた私に一杯の水を飲ませてくれた相手です。また別の時には、裸だったあなたに服を着せ掛けてくださった相手です。牢獄に閉じ込められていた日々に、あるいは病気のときに訪ねて見舞ってくれた相手です(マタイ福音書25:31-46参照)。それらは皆、隠れた姿で、別の顔つきと名前で来てくださった、あの同じお独りの、格別に良いサマリア人でした。主が私たちと共にいてくださり、主ご自身が私たちの隣人となってくださるとは、このことでした。「私が支払う」と、あまりに高額な治療費を全額すっかり支払ってくださった、あの他のどこにもいない、ただお独りのサマリア人です。その十字架の苦しみと死によって、復活の新しい生命によって、すっかり支払ってくださった救い主イエス・キリストです。ああ、そうでした。「わたしの主、救い主イエス。あなたでしたか。あなたこそが隣人になってくださったのですね。こんな私のためにさえ」。そして、喜びがあふれました。堅い突っかえ棒が外れたように、堰をきったように、この私にも、ついにとうとう喜びがあふれました。
+付録/『嘆きに応える神の御言』 第24回 エレミヤ書10:23-25
「懲らしてください」+ある先輩の嘆き発言
「懲らしてください」+ある先輩の嘆き発言
こんばんは。エレミヤ書をごいっしょに読み味わっていきましょう。10章23-25節です。「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。あなたを知らない国民と、あなたの名をとなえない人々に、あなたの怒りを注いでください。彼らはヤコブを食い尽し、これを食い尽して滅ぼし、そのすみかを荒したからです」。
1.導入
24節、「わたしを懲らしてください。怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」とエレミヤは、神からの慰めや労わりなどではなく、むしろ懲らしめをこそ願い求めています。兄弟姉妹たち。これは、どういうことでしょうか。「慰めの言葉を聞きたい。元気づけ励ます、喜びと希望の言葉を」とエレミヤも要求されつづけ、私たち伝道者も人々から求められつづけ、そのように努めてもきました。けれど何十年、何百年と語られ、聞かれつづけてきたはずの「慰めと癒しの言葉」は慰めとはならず、その「癒し」は人々をあまり癒しませんでした。その結果、どうしたわけか私たちは窮地に立たされています。ここが正念場です。『人々から求められ、語られてきた慰めはどんな慰めなのか。どこへと向かわせる慰めや癒しなのか』と今こそ真摯に問わねばなりません。神ご自身が差し出そうとする、いのちへと至る慰めなのか。それとも別のところから出てきた、別の慰めなのか。神ご自身は、この私たちと先祖に、どんな慰めを差し出そうとしておられるのかと。とりなして祈ることを神ご自身からきびしく禁じられた稀有な預言者は、ついにとうとう、「わたしを懲らしてください。怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまう」と神に訴えはじめます。
2.祈り
救い主イエス・キリストの父なる神さま。あなたに信頼を寄せ、感謝し、あなたに聴き従い、信頼を寄せつづけて生きる私たちとならせてください。私たちは、ただ険しいだけの荒れ果てた山や丘に成り果てています。薄暗い谷間のように身を屈めさせられ、そこで当てもなくただ虚しく立ち尽くし、座り込んでいます。また私たちは、曲がりくねった凸凹道のようです。進むべき道を自分自身では決められないことも知りませんでした。思ってもいなかったのです。それで、それぞれに道を逸れ、迷いつづけました。あなたの御もとへと戻るべきでしたのに、戻る道を見つけ出すことができませんでした。さまよいつづける私たちをどうか、あなたの慈しみの御もとへと連れ戻してください。
主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン
3.エレミヤ書を読み味わう
ぜひとも立ち止まって目を凝らすべき中心点は、24節です。「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」。私たちが神の御心にかなった道をまっすぐに健やかに歩んでいくためには、もし道を逸れてしまったときには、懲らしめられ、叱られることがぜひとも必要だと。そうでなければ、間違った道を歩みつづけ、神からどこまでもどこまでも遠ざかり、むなしい慰めと気休めに一喜一憂しながら死と滅びへの道を転がりつづけ、とうとう、わたしたちは無に帰してしまうと。「あなたを知らない国民と、あなたの名をとなえない人々がヤコブを食い尽し、これを食い尽して滅ぼし、そのすみかを荒した」。まさか。もしかしたら、それは異邦人や他の誰でもなく、先祖とこの私たち自身のことでは? 自分自身を喰い尽くし、滅ぼし、自分自身とそのすみかを自分で荒らしつづけているのでは、この私たちこそが。なんということでしょう。
「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」。自分の子供を叱ることのできない親が増えているらしいのです。友だちのような親です。いっしょに楽しんだり、笑ったり、気が向けばいっしょに愉快に過ごすことはできる。結局は、ただただ甘やかして、子供の好きなようにさせてしまう。ときどき自分がイライラしたときにはカンシャクを起こして、怒ったり怒鳴ったり、腹立ち紛れについつい自分の子供たちに暴力をふるったりしてしまう。けれど、どんなに仲良く過ごしても、どんなに気が合っても趣味が同じでも、決して、親は子供の友だちなどではなかったのです。なぜなら、子供を養い育てる大きな責任がついてまわるのですから。子供を叱ることのできないその親も、もしかしたら、自分の親から本気で叱られたことがなかったのかも知れません。学校や会社や職場でも同じで、上司は部下を叱ることができず、部下は叱られることが苦手で、ちょっとでもダメ出しをされるとすぐに挫けたり拗ねたり、すっかり絶望したりしてしまう。もし、あなた自身が子供の親なら、どんなふうにその子を育てていますか。あなたが子供のとき、自分の親からどんなふうに育てられましたか。してはいけない悪いことを自分の子供がするとき、間違った道へと逸れていこうとするとき、自分自身や他人を傷つけ、その子が誰かを踏みつけにしているのを見たとき、子供の親として、あなたはどうしますか。「そんなことをしてはいけない。止めなさい。なぜ分かってくれないんだ」と問いただし、きびしく叱るでしょう。本気になって必死になって、涙し、自分の胸をかきむしりながら。あるいは声を荒げもするでしょう。もし、自分の子供がどんなに悪いことをしても何をしても、ただヘラヘラ笑って、ただニコニコして眺めているだけならば、その親はその子供をもうなんとも思っていません。愛しておらず、どうでもいいと諦めて、見放しているのかも知れません。もし子供を愛する親なら、そんな薄情なこと決してなどできません。習い覚えてきたとおり、私たちの親である神です。その親から、大切に大切に養い育てられている子供である私たちです。聖書は証言しつづけます、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。しかしわたしはわたしのいつくしみを、彼からは取り去らない」「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは本当の子ではない」「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように」(サムエル下7:14,ヘブル12:5-,箴言3:11)。
けれど先祖と私たちは、親の愛を軽んじ、あなどって、とてもとても悪い子供に育ってしまいました。親を親とも思わず好き放題にふるまって、ときどき親の顔色を窺います。「ごねんね。ごめんごめん。悪かったよ、もうしないから許してね。そんなに怒らないでよ」と甘えてみたり、わざとすねて親の気を引こうとし、けれどその一方で、してはいけない悪いことをしつづける。「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」。エレミヤは「あの彼らを」ではなく、「わたしを懲らしてください」と願い求めています。さもないと「あの彼らが」無に帰してしまうというのではなく、このわたしこそが無に帰してしまうと。神をあなどりつづける同胞たちに先立って、彼らに成り代わって、一人の預言者が神の御前に自分の身を投げ出しています。神に逆らい、神をあなどりつづける彼らに代わって、このわたしをこそ懲らしめてくださいと。しかも、「怒らずに懲らしてください」と願い求めたとき、『神の怒り』と『神の懲らしめ』とは、全然違う別のものだとエレミヤは気づいています。怒っているから懲らしめるのではない、心底から愛しており、とてもとても大切に思っているからこそ懲らしめるのだと。そのとおりです。神の子供らを代表して、親である神に向かって、子供としての当然の権利をエレミヤは要求しています。親から愛されている実の子供として、その親から本気できびしく叱られ、懲らしめられることを。それは、他のなにものでもなく親からの愛情だったのです。そのとき、子供たちはますます反抗するかも知れません。あるいは、少しの子供たちは立ち帰って素直な心に戻れるかも知れません。まだまだ未熟な小さな子供だったとき、私たちは思いました。「あ。父さん母さんが恐い顔をしてこの私を怒っている。じゃあ、もう私のことを好きじゃないんだ。愛していないんだ」と。いいえ、違います。あなたを愛して、とてもとても大切に思っているからこそ、その父さん母さんは涙を流しながら声を震わせながら、あんなに必死に真剣に叱っているではありませんか。
4.とりなしを求める祈り
私たちの真の父であられます神よ。これでも、正しい道を歩もうとしてきました。「これこそ正しい道、主の御心に適った道」と信じて。何度でも、何度でも。けれども、その果てに、今わたしはこんなところにいるのです。無に帰してしまいそうになっているのです。あなたの声を聴き続けてきたはずなのに。懲らしめを受ける度に、悔い改め、立ち返ってきたはずなのに。どうしたらよいのでしょうか。まだ、足りないのでしょうか。あなたの懲らしめを受けることが。わたしの滅びと死を見つめる真剣さが。どこで、わたしは間違えたのでしょうか。あなたの懲らしめ。その完全な姿を、主の十字架に仰ぎます。このわたしの滅びと死。そこにまで降って下さった、主イエス・キリストの御名のゆえに祈ります。アーメン。
5.聖書朗読と思い巡らし
マタイ福音書5:17-20です、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思っては
ならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」。神の言葉や戒めがごく表面的なものとされ、ただ形ばかりの中身のないものに成り下がっていました。律法学者やパリサイ人たちは形ばかりの中身のない正しさや立派さを重んじ、神を敬うふりをしながら、神を侮り、神に背いていました。あの彼らがやっているような見せかけだけの正しさ、うわべだけの立派さや素敵さなどではとうてい神の国に入ることなどできません。神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊んで生きること。それは、「心を入れかえて幼子のようにならなければ、天国に入ることはできない」と主イエスが仰ったことと同じです。つまり、「身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けるのでなければ、主イエスの弟子になることも神の国に入れていただくこともできない」と主イエスは仰る。しかも、すでに主イエスの弟子とされているはずの彼らと私たち一人一人に向かって。そうであるからこそ、「大きくて強くて仕事がよくできてとても役に立って、だから」と人間的な業績、取り柄や働きの多い少ないにばかり心を奪われつづけるなら、無理に膨らませすぎたゴム風船のように、やがてパンと弾けて粉々に砕け散ってしまうかもしれません。この私たち自身は。もう30年も前、一人の先輩が嘆きました。「確かに、二千年に及ぶ教会の歴史において、理想的な教会が姿を現したことなどただの一度もありません。宗教改革期にも、初代教会時代にも、その現実はまことに醜く、その手は血まみれでした。また、教会形成を主眼にしてきたわが日本基督教会も今や気息奄々、さびしく取り残された遺物のようです。あれも駄目、これも駄目と批判に明け暮れているうちにふと気づいてみると自らがやせ衰えていたというわけなのです。私たちは誇るべきものを何一つ持たない裸の存在になってしまいました。他の諸教派に対しても、これこそは貢献できるわれら自身だと言い切れるものがありません。しかし、ここまで言うと、自虐も度が過ぎていると批判されそうです。それにしても、誰一人、真実の兄弟愛をもって責め戒めてくれる者がないのなら、愚かと呼ばれても自らの弱さと貧しさを真実に告白するしかありません。日本基督教会は、これまで余りにも自らを誇りすぎてきました。神学的にしっかりしている、教会的だ、告白的だという風に。自画自賛ほど恥ずべきものはありません。傲慢、これほど厄介な罪はありません。……言うのもつらいことですが、日本基督教会はいま再起不能に近い状態にあります」(宇田達夫「満ち足りるまでにはずかしめを受けよ」福音時報 1992年5月号)。その通り。そして、ここにこそ希望がありつづけます。なぜ身を低く屈めさせられ、はずかしめを受けねばならないのか。なぜなら、主のみを高くあげ、主をこそ誇れと命じられた神の現実がついにとうとう私たちの現実となるために(1コリント手紙1:31)。謙遜にされ、主の言葉に心底から耳を傾けはじめるかも知れません。この私たちは。身を低く屈めさせられた、小さく貧しい場所こそが、福音を福音として受け取るためのいつもの定位置でありつづけるからです。憐みによって迎え入れられた神の子供たちのための安息の場所でありつづけるからです。これからは主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。それを、この日から、ここから、私たちは改めてしはじめましょう。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食ってしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。もしかしたら、まだ間に合うかも知れません。