2020年3月16日月曜日

3/15「無くてならない只ひとつのもの」ルカ10:38-42


       みことば/2020,3,15(受難節第3主日の礼拝)  258
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:38-42                   日本キリスト教会 上田教会
『無くてならない只一つのもの』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 10:38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。        (ルカ福音書 10:38-42)
マルタという女性が、主イエスを大切なお客様として自分の家に迎え入れました。「イエスさまが私の家に来てくださる」。それは、とても嬉しいことでした。マルタは大喜びで準備をし、精一杯のもてなしをしました。けれどそのうちに、マルタさんはとても疲れてしまいました。世話好きで働き者の彼女でしたし、誰かの役に立つことや働くことが大好きな彼女でしたが、それでもとてもとても疲れて、心か淋しくなってしまいました。さて主イエスは、その間に神さまの話を語りつづけていました。どんな神なのか、どういう救いなのか、神を信じてどのように喜ばしく生きて、希望をもって死ぬことが出来るのかなどと。見ると他の人たちも、自分の妹のマリヤさえ主イエスの足元に座って、すました顔をして話を聞いている。「ああ。私もそこに座って、神さまの話を聞きたいのに」。聞きたいけど、働かなくちゃ。でもすごく聞きたい。困った、どうしたらいいだろう。心がバラバラに引き裂かれてしまいそうな気がしました。マルタ姉さんは、主イエスのところに文句を言いに来ました。口をとがらせて、プンプン怒って。「妹のマリヤはずるいんですよ。私だけにこんなに働かせて。私だけにこんなに汗水流させて、苦労させて。それなのに見てください。涼しい澄ま~した顔をして、ちゃっかりそこに座っている。だからイエスさまから、すぐに手伝うように、きつく命令してやってください」。
 41-42節です。主イエスは、この人がどんなに優しいどんなに嬉しい心で皆の世話を精一杯にしていたのかを、よく分かっていました。そして、この真面目な心の真っすぐな人が、しなければならない色々な事のために心がバラバラに引き裂かれるほどに悩んで、どんなに淋しい惨めな思いを味わっていたのかを、よくよく分かっておられました。だからこそ、「ほかの何よりも千倍も万倍も大事な肝心要のことは、ただ一つだ」と何とかして伝えてあげたかったのです。大事な只一つのこと。『神さまがどんなに素晴らしい神さまなのか。私たちをどれほど深く愛していてくださり、どんなに大切に扱ってくださるのか』ということ。それこそが、他すべて一切を支える土台です。もし、それを聞き届けることができなければ、そうでなければ、ピカピカに磨きあげた部屋も窓ガラスも、塵ひとつない清潔な床も、何の役にも立ちません。心遣いも精一杯の努力も、おいしい立派な料理の数々も、ただむなしいだけ、水の泡になってしまう。
 あのマルタさんも、実は、うすうす気づきはじめていました。だんだんと分かりかけてきていたのです。自分が本当に必要としていたものが何だったのか。何があれば、心安らかに満たされて、心底から喜ぶことができるのかを。だからです。だからこそ、「私も、イエスさまの話がぜひ聞きたい。なんとしても聞きたい」と思いました。もちろん妹のマリヤが選んだ『神さまの話を聞くこと』は、マリヤから決して取り上げてはなりません。何があっても、誰も、その人から奪い取ってはなりません。では、マリヤが聞けばそれで十分なのか。いいえ、とんでもない。マリヤだけじゃなく、マルタからも他の誰からも、決して取り上げてはなりません。もちろんあなた自身からも、あなたはこれを奪い取ってはなりません。誰からも、何があっても、決して奪い取られてはなりません。『神がどんな神なのか。私たちをどんなに愛して、どれほど大切に取り扱ってくださるのか。どういう救いと幸いを神さまから贈り与えられているのか。神を信じて、毎日の暮らしをどのように生きることができるのかを』を。しかも、あなただって、無くてならない只一つの良いものを、自分自身で探し当てて、自分でちゃんと選び取ったはずじゃなかったのか。礼拝を第一とし、神を信じて生きることを自分にとっての第一としつづけて生きることを。なによりも、神を信じて生きるクリスチャンであることを。「だから、淋しいマルタよ。眉間にシワを寄せて、深刻そうなきびしい顔をしているマルタよ。疲れ果てて、このごろ溜め息ばかりついているマルタよ。こっちへ来きなさい。そんな後ろの方に立っていないで、ここに座りなさい。この一番前の席に座って、ここでよ~く聞きなさい。部屋の掃除や片付けを途中で放り出してでも、なにしろ腹いっぱいに、満ち足りるまでに聞きなさい。手遅れになる前に、間に合ううちに、何としても、よくよく聞き届けなさい」。
 あの彼女は、とても重い病気にかかっていました。いろいろのもてなしのために忙しく立ち働いて、多くのことに思い悩み、心を乱し、心を引き裂かれてしまう。これを、『マルタ病』というのです。この病気は命にかかわります。急速に症状が悪化して、放って置くと死んでしまいます。この病気によって、『神さまがどんな神さまなのか。私たちをどれほど愛していてくださり、どんなに大切に扱ってくださるのか』が日に日に分からなくなります。信仰がみるみるやせ衰え、ついに喜びも慰めも希望も死に絶えてしまう。恐ろしいことです。あの骨惜しみしない善良な彼女は、主の慈しみの只中に晴れ晴れとして生きるはずのあの彼女は、あやうく死んでしまうところでした。
 ですから、プンプン怒って主イエスのもとへ近寄っていったとき、彼女は、緊急遭難信号のSOSを発信し、助けを求めていたのです。ちょうど溺れそうな人がバタバタと水面を打ちたたくように。手足を無我夢中で振り回すようにして。主イエスは彼女のSOS信号に答えて、断固としておっしゃるのです、「無くなってしまっては本当に困るほどの、とても必要なことは、ただ一つだけだ」と。この猛烈に苦い薬だけがマルタを救うことができる。この苦い薬だけが、マルタ病にかかったすべての人々を救うことができる。飲みづらくても苦くても無理矢理にも飲み下して、そして主の足元に座り、耳を傾けること。なぜなら、この誠実で熱心な働き者たちは、この私たちは、神が生きて働いておられることや、他の人々も自分に負けず劣らず精一杯に働いていることを、その大事なことを、しばしばすっかり忘れ果ててしまうからです。歯を食いしばって働いて、疲れ果てるあまりに、神さまに喰ってかかり、共に生きるはずの尊い兄弟たちや家族を、仲間たちを、「いたらない。不十分だ。貧しい」と軽々しく非難するようになるからです。だから、なんだか淋しい。なんだか物足りない。なんだか満たされない。「いいから休め。あなたがいなければ立ち行かないわけではない。あなた自身の人生も幸いさえ、あなたの両肩にすべてがかかっているわけではない。あなたが主なのではない。あなたは、主人であるこの私に仕えるしもべではないか。この私こそが担い、背負い、私が運び、私が救い出すから」(イザヤ46:3-4)と命じられます。
 このあとマルタがどうなったか。どんな生涯を歩んだのか。それは聖書に書いてありません。なにしろ格別な教えを主ご自身から受けた彼女は、もしかしたら、キリストの教会に仕える喜ばしい働き人になったかもしれません。例えば後ろの方に、なんだか後ろめたそうに肩をすぼめてそそくさと帰り支度をしている、1人のお婆さんの姿が目に入りました。おや、どなただったかしら? なんと、それは40年後の年老いたマルタお婆さんでした。「どうして後ろめたそうに寂しそうにしているの? せっかくイエスさまのお話を聴いてニコニコしていたばかりだったのに」「だって、元気でハツラツとしていた若い頃はあっという間に過ぎ去ってしまいました。今では足腰弱って車椅子に乗って手もしびれて、もう人様のお役に立てず、ただただ何かをしていただくばかりで、それで申し訳ないやら淋しいやら肩身が狭いやら、自分で自分が惨めで情けないやら」「まあ、淋しいわね。分かった。でも、それは程々のことにしておきましょう」「だあって! あの人がこの人が、その人たちが。それに比べて惨めなこの私は」「あらまあ、手遅れになってしまいますよ。せっかくイエスさまのお話を聞いて腹に収めたんでしょ。せっかく神さまから受け取った喜びも慰めも手放したくないのよ、私は。せっかくずっと信じて生きてきたのに、それじゃあ神さまの恵みがもったいなさすぎるわ。『私や誰彼がどれだけお役に立てるかも大切だけど、それよりなにより、神さまがこんな私のためにも十分に生きて働いてくださる。それを覚えていることこそ千倍も万倍も大切。だから私はなにしろ神さまに信頼して、お任せしている。無くてならない只一つの必要なこと。無くてならない只一つの必要なこと、無くてならない只一つの必要なこと』って口癖のように、自分を支えてくれる念仏やまじないやお守りのように、いつもいつも自分に言い聞かせてたのは誰だったっけ」「え、誰?」「あなたでしょ あなたが言ってたじゃないの。忘れたの? じゃあ、もう1回最初からイエス様にお話してもらいましょう。いつもの、例の、あの病気がぶり返しそうになったら、何度でも何度でも最初から。
  ――主イエスの足元にじっくり座って、腹いっぱいに満ち足りるほどに聞き届けつづける者こそが、やがて立ち上がり、隣人にも兄弟にも家族や自分の子供たちにも、もちろん何よりも主なる神さまに対してこそ心低く身を屈めて、つつましく仕えることができるのです。満ち足りて、晴れ晴れとして働くことも出来ます。神さまの御前に深く慎むことのできる者こそが、慎み弁える限りにおいてだけ、働きを担うことがゆるされます。神ご自身の働きの中の、ほんのごく一部分をです。全面的に心底から委ねつつ、だからこそ心安く担うことを許されます。「主ご自身が先頭を切って、第一に、全責任を負って戦ってくださる」と知っているからこそ、その小さな弱々しい人でさえ、安心して精一杯に働くこともできます。いいえ、それだけではなく、休むこともできます。楽~ゥに息を吸って、何の気兼ねもなくたっぷりと。大事に抱えていることもでき、それだけでなく、すっかり手離してしまうこともできます。進むこともでき、じっと留まることも、退くことさえ誰にでもきっと必ずできます。しかも安心して、晴れ晴れ清々として。
 なぜでしょう。なぜなら、ご覧なさい。天に主人がおられます(コロサイ手紙4:1)。主であってくださる神さまは生きておられ、こんな私たちのためにさえ十分に生きて働いていてくださるからです。今も、そしてこれからも。