2019年11月3日日曜日

11/3「パン5つと魚2匹」ルカ9:11-17

                          みことば/2019,11,3(主日礼拝)  239
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:11-17                     日本キリスト教会 上田教会
『パン5つと魚2匹』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

9:11 ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。12 それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。13 しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。14 というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。15 彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。16 イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。17 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。        (ルカ福音書 9:11-17)


1-13節。神の国について、主イエスは語りつづけていました。そこは人里離れた場所でした。ずいぶん時間がたち、日も暮れようとしています。みな疲れており、腹も減ってきたのです。しかも集まった人々はとても大勢でした。弟子たちはそばに来て、主イエスにこう提案しました。「もうそろそろ群集を解散させてはどうでしょう。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、それぞれが自分で食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れた寂しい所にいるのですから」。この提案は理にかなっております。ものの道理をわきまえた、とても理性的な大人の判断です。けれども主イエスは乱暴なことを命じます。13節。「あなたがたが、自分の手で、彼らに食べ物を与えなさい」と。「パンが5つ、魚が2匹。これだけです。私たちにはこれだけしかありません」と弟子たちは答えました。貧しくて腹が減って困っているのは、あの彼らだけではありません。私たちだって同じです。私たちにも、たったこれだけしかありません。何もないのと同じじゃありませんか。大勢の群衆ばかりでなく、主イエスの弟子たちも今や、途方にくれています。飢え渇いている私たちだ。この貧しさ乏しさを誰が担ってくれるだろう。この私の飢え渇きを、いったい誰が。
 16節です。主は天を仰いで、讃美の祈りを唱えました。パン5つと魚2匹を抱えて、主はそれらを掲げもちます。「これだけしかありません」と嘆くのではありません。その乏しさを「なんだ。これだけか」と軽蔑するのではなく、「これだけある」と感謝し、それらを大切に尊ぶ祝福でした。ここで主が祈った祈りは、どのような祈りだったのでしょうか。どのような感謝と祝福だったのでしょう。主イエスの、ここでのこの祈りこそが重要です。なぜなら、この祈りによって事態が決定的に180度の転換をしているからです。・・・・・・思い浮かべてみていただきたいのです。もし、あなたが主イエスの立場だったら、あるいは主イエスから「お前が代りに祈りなさい」と命じられたら、どんなふうに祈りましょうか;「父なる神さま。このパン5つと魚2匹をありがとうございます。あなたが、私たちを愛する愛によって、この良いものを私たちに与えてくださいました。心から感謝をいたします。この豊かな贈り物によって、私たちの心も体も養ってください。まだまだ他にもあります。家族や隣人たちがこれらのパンと魚のように与えられていることに感謝します。職場や居場所や私の健康や一日ずつの生命を、これらのパンと魚のように贈り与えてくださって、本当にありがとうございます。どうか、ただ恵みによって支えてください。大事に受け取って、その喜びと確かさを魂に刻む私たちであらせてください。あなたから受け取りつつ、あなたによって養われ支えられて、そのようにして心強く、喜びにあふれて生きる私たちであらせてください」。
 私たちがいつも祈る『主の祈り』。その中の一つの大事な願いは、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」です。私たちが生きるために必要なもの。高価なものも、ごくありふれてささやかに見えるものも、霊的なものも物質的なものも、大きなものから、ごくささいな、他人からはつまらないと思われる小さなものまで。それら一つ一つを、一日分ずつ、主であってくださる神こそが贈り与えてくださった。どうか今日も与えてください。主から与えられる必要な、十分な、そして豊かなものを、驚き喜んで、感謝して受け取ることができるようにさせてください。あのとき、あの弟子たちはとまどい、思い悩み、抗議をしていました。「金もパンも、私たちにはない。できるわけがない」と。主イエスは、私たちの乏しさや困窮を無視なさるわけではありません。そこにも目を留め、十分に分かっていてくださる。私たちの困窮をあわれんでくださる主です。例えば、家族の生活や子供たちの養育をどうしようか。どんなふうに育てていったらいいのか。病いに苦しむ大切な家族を、どんなふうに支え、どうやって慰め、どんなふうに寄り添って生きてゆくことができるだろう。その人に何を与え、何を取り除いてあげることができるだろうか。何を支えとし拠り所として生き抜いてゆくことができるだろう。私たちの健康。私たちの一日分ずつの生命。自分自身も年老いて衰えてゆくことに対して、私たちはどんなふうに立ち向かってゆくことができるでしょう。けれど、その深刻で重大な悩みと課題の一つ一つは、『私たちに必要な一日分ずつの糧を今日も与えてください』という祈りとは別の事柄なのでしょうか。「それはそれ。これはこれ」と私たちは言わねばならないのでしょうか。いいえ、私たちは神さまを信じています。
  詩篇の信仰者は祈ります。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。あなたのしもべをあわれんでください。あしたに、あなたのいつくしみをもって、われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください」(90:12,14)と。私たちも祈ります。「白髪になってもなお実を結び、命にあふれ、主の救いの御業を生き生きと宣べ伝えることができますように」と。自分自身の生涯の日を、けれどどうやって数えることができるでしょう。もし万一、わたし自身の努力と働きと才能によって勝ち取ってきた日々だと誤解するなら、私はかなり数え間違っています。もし、若く健康で力にあふれている限りにおいて実を結び、年老いて白髪になれば後はただ枯れてゆくだけだと誤解するならば、私たちはすっかり数え間違っています。目の前にある目に見える事柄に一喜一憂し、恐れつづけ気に病みつづけ、山ほどある思い煩いの只中で、すっかり神を見失ってしまうでしょう。神さまが生きて働いておられますことなど、いつの間にか思いもしなくなるでしょう。それでは困ります。とてもとても困ります。つい先日お話ししましたように、「静かに落ち着いて、神さまによくよく信頼して」(イザヤ書30:15参照)、神さまの前にひざまずくことができるなら、そこで私も、私自身の生涯の日を正しく数えはじめ、ついに知恵ある心を贈り与えられるでしょう。「主のあわれみと慈しみが、私の日々の一日ずつにあった。確かにあった」と数えはじめるでしょう。なぜ、白髪になってもなお実を結び、生き生きと命にあふれることなどできるでしょう。若者も倦み、疲れ、百戦練磨の勇士さえもが次々とつまずき倒れる中で、なぜ、その一握りの人々は新しい力を獲得し、鷲のように翼を張ってのぼることができるのでしょうか。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。本当でしょうか。あるはずのなかったことが、一体どうして起こるのでしょうか。『私があなたたちを造った』とおっしゃる主がおられるからです。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。なにしろ私は、あなたたちを造った。私が担い、私が背負い、私こそがきっと、いつでもどこからでも救い出す。何度でも何度でも、救い出しつづける」(71:18,90:12,92:14-15,イザヤ40:30-31,46:3-4参照)と。

 16節です。主イエスの仕草は、あの最後の晩餐のときの主の仕草そのままです。「イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これは私の体である』。また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」。あの晩餐には、またそれにつづく聖晩餐のパンと杯には、主の十字架の出来事こそが深く刻まれます。主はパンと魚を掲げ持ったように、十字架の上で、私たちのために、ご自身の体を掲げたのです。主は天を仰いで祈りを唱えました。感謝と、切なる願いの祈りをです。主はパンを裂くようにして、あの丘の上で、あの十字架の木の上で、私たちのために、ご自身の体を引き裂き、ご自身の血を流しつくしてくださいました。主はこの世界をご覧になり、あわれんでくださいました。私たちに、この私にも目を留め、あわれんでくださいました。そのあわれみの深さは、「取りなさい。これは、あなたのための、あなたを主のものとして迎え入れ、主のものとして支え、養いつづけるための私の体である。あなたは、ぜひ受け取りなさい」と差し出してくださるほどに、それほど深く、それほどに惜しみなく、どこまでも徹底したものでした。
 私も健康を望みます。大きな良い仕事をぜひ成し遂げたいと願います。富も力も欲しい。けなされてばかりいるよりは、みんなから「素晴らしい。さすがだ。あなたのおかげだ」と誉めてもらいたい。もちろん幸せになりたい。あなたもそうですか? それでも、ほんの何年か若返る程度の健康や力では全然足りません。ちょっとやそっとの富や賞賛や支えでは、全然足りません。そうであるならば、私たちは健康も病気も受け取りましょう。老いも衰えも、そのまま受け取りましょう。なぜなら、健やかなときも病める日々にも、弱り果てる日々にさえ、心安くありたいからです。富を受け取るだけでなく、貧困も貧しさも受け取りましょう。満ち足りて喜ぶ私でありたいからです。賞賛も侮辱も、そのまま受け取りましょう。人から誉められれば嬉しい。けなされれば悔しい。それでも何しろ「善かつ忠なるしもべよ。お前の名は天に書き記されてある。命の書に、あなたの名前をちゃんと書いておいた」(マタイ25:21,ルカ10:20)と、ただお独りのご主人さまから誉めていただけるなら、とても嬉しい。虫が食ったり、さび付いたり、泥棒に盗まれたりしない宝でなければ役に立ちません。朽ちることのない色褪せない宝でなければ、いざというとき使い物になりません。大雨が降り、川があふれ、やがて強い風も吹き荒れはじめます。私たちの乗ったこのごく小さな貧しい舟は大きな波に飲み込まれそうになるでしょう。しかも何度も何度も。手元にぜひとも残しておくべき道具や装備は、そう多くはありません。よくよく知っておくべきことは多くはありません。貧しく乏しい私たちであること。しかも、その貧しさ乏しさは、主によって豊かにされ、主によって満たされること。弱い私たちが主によってこそ心強く支えられること。信頼し委ねるに値する主であったのです。願い求め、待ち望むに足る神と私たちは出会っていたのです。主に相対し、主が私の右にいてくださり、夜も昼も私を諭し、私を励まし、私を苦難の度毎にその都度その都度、慰めつづけてくださるならば、もし本当にそうであるなら。そこでようやくこんな私さえ揺らぐことがない(16:7-参照)と知りたいのです。骨身にしみて、つくづくと腹の底から分かりたいのです。
 ご一緒に読んだ最後の部分。「そして、残ったパン屑を集めると12カゴもあった」(17)。主イエスは、残ったパン屑をいったい誰に集めさせたでしょう? もちろん、あの大切な弟子たちにです。だから、1人にカゴ1個ずつ持たせて、それで、ちょうど12カゴ。人々の間をまわり、パン屑を集めながら、彼らは激しく驚いて、心がうち震えたでしょう。「あなたがたが自分の手で食物を与えなさい」と命じられたとき、戸惑ったり腹を立てたりしたことも思い出したでしょう。「できるはずがない。どういうつもりか」と不平不満をつぶやきたかったことも、チェッと舌打ちしたことも、主イエスを信じなかったこともつくづくと思い出したでしょう。申し訳ありませんでした、と主に謝りたい気持ちがしたかも知れません。そして感謝があふれました。私は願います。「信頼するに足る主である」。その一つの確信を、妻と分かち合いたいと。その肝心要をこそ、大切な息子たち娘たちにも、ぜひ手渡してあげたいと。大切な友人たちと、また同じ神さまに信頼を寄せて生きる兄弟姉妹たちと、この一点を分かち合い、共々にそれを喜び祝いたい。強さも弱さも、私たちはそのまま受け取りましょう。静かに落ち着いて、心安らかに神さまにこそ十分に信頼を寄せる私たちでありたいからです。なにしろ、神の御前に晴れ晴れとしてひざまずく私たちでありたいのです。喜びと悲しみをもって、困難と願いをもって、感謝と信頼をもって、そこでそのまま主に向かう私たちでありたいのです。「助けてください。支えてください」と主に向かって呼ばわる私たちでありたいのです。「ありがとうございます。感謝をいたします」と主に向かって喜び祝う私たちでありたい。私たちのための力と喜びの源は、ここにあります。飛びっきりの格別な祝福は、ここにあります。