みことば/2019,11,17(主日礼拝) № 241
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:21-27 日本キリスト教会 上田教会
『自分を捨てて、主イエスに従う』
+(付録)『民主人権記念館(韓国)という視点へ
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23
それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25
人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。27
よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。 (ルカ福音書
9:21-27)
21-22節、「イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる』」。主イエスはご自身のことを「人の子」と呼んでいます。エルサレムの都に向かう途上で、救い主イエスはついにとうとうその都で待ち構えているご自身の死と復活について弟子たちに打ち明け始めます。受難予告の第一回目です。人の子、つまりこの私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。
「必ず~となる」。私たちの間では「必ず~となる」などとはっきり決まっていることなど何一つありません。先のことを知ることのできない私たちであり、とても不確かな危うい中を驚きながら生きる私たちだからです。「必ず~となる」。主であられる神さまがそう決めて、神ご自身がそれを成し遂げるから、だから、「必ず~となる」。ここで聞き分けるべき第一の点は、十字架の上で死ぬことは救い主イエスご自身が自分から進んで、自由な心で受け入れておられる出来事であるということです。悪者どもの悪巧みにあって、仕方なしに嫌々渋々、ではなくて。「ぜひそうしよう。十字架の上で、罪人の一人に数えられ、見捨てられて無残に死んでゆくこと。それを私はぜひしたい」と。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という永遠の神ご自身による救いの御計画です。正しいお方が、正しくないはなはだしい罪人である私たちのために、死んでくださった。それによって、恵みに値しない私たちを憐み深い神のみもとへと連れ戻してくださるために。それこそが救い主としての務めであり、担われた使命です。
23-24節、「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。まず、自分を捨てなさい、自分の命を捨て去りなさいと命じられます。神に背かせようとする罪の誘惑と、毎日毎日、戦わねばならないからです。捨て去るべき「自分。自分の命」とは、自己中心の「私が私が」というこだわりであり、心の頑固さです。「好きだ嫌いだ。気が進む。なんだか嫌だ」などと言い張りつづけ、自分の思い通り、願い通りに生きていきたいと我を張りつづける自己主張です。それらは、主イエスに従って生きることを邪魔しつづけるからです。
できるだけていねいに、詳しくお話しします。救い主イエス・キリストに従って生きるためには、まず第一に自分自身を捨て去り、自分を退け、否定することです。なぜなら自分自身が自分の主人である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが決してできないからです。聖書は証言します、「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル手紙4:9-11)。神を自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分の働きを後ろへ退けて、脇に控え、神ご自身に働いていただくために、自分は休む必要があります。「私が私が」と我を張って、私が自分のための主人であり、中心であり続けている間は、神の御心とそのお働きは邪魔されつづけています。救い主イエスに主権を明け渡して、ご主人さまとして力を発揮していただくためには、その邪魔をしている自分の一切の欲望を投げ捨てる必要があります。そのようにして初めて、私たちは幸いに生きることができます。いかがですか? けっこう難しいことですね。自分自身では逆立ちしても100年200年かかっても出来ません。けれど、もし、「ぜひそうしたい」とあなたが願うならば神ご自身があなたのためにもそれを成し遂げてくださいます。
キリストに従って生きることの第二の部分は、「自分に与えられ、課せられる十字架を負って、主イエスに従うこと」である。救い主イエスにとって、死の間際の数時間が十字架の苦しみであっただけでなく、その全生涯が苦しみと試練の十字架だったと言うこともできるかも知れません。聖書は証言します、「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである」。忍ばれたさまざまな苦しみによって、御子イエスは御父への従順を学ばねばならなかった。また、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに」(ヘブル手紙5:7-10,ピリピ手紙2:6-9)。救い主イエスが御父への従順の手本を示してくださり、「ご自身に従順である者たちに対して」永遠の救いの源となられたのです。また、「十字架の死の出来事は御父への従順のささげものでもあった」(ピリピ手紙2:6-8参照)とはっきりと証言されています。主イエスの弟子とされたすべてのクリスチャンは、この私たちは、御子イエスと同じ形になるという目的のもとに救いへと選び入れられた者たちです。神に信頼し、聞き従い、神への従順のうちに日々の生活を生きること。ここに、私たちのための格別な幸いがあります。苦しむとき、大きな災いと悩みが私たちを襲うとき、そこでそのようにして私たちは救い主キリストの苦しみにあずかって、あのお独りの方と同じ一つの道筋を通って、救いへと導き入れられます。聖書は証言します、「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」(ピリピ手紙3:9-11)。私たちが逆境に苦しめられれば苦しめられるほど、それだけますます救い主キリストと私たちとの結びつきは堅くされ、強められ、そのようにして救い主キリストとの交わりにあずかることによって、その苦しみや悩み自体が私たちに祝福をもたらします。また、私たちのためにあらかじめ用意されている救いへの道を一歩また一歩と先へ進むことになります。
なぜ、この私たちは、自分のために用意されている十字架を背負い、苦しみと悩みに耐えなければならないのか。それこそが、神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練であるからです。自分自身の弱さや危うさを、私たちはよくよく知らねばなりません。しかも私たちはとても思い上がりやすい性分をもっていて、ついつい他の人間たちに対しても神さまに対しても頑固に自惚れて、思い上がってしまうからです。自分を頼りとして、自分の判断や気分に聞き従いつづけて、いつの間にか、神の恵みと憐みなしにでも自分自身の力だけで十分であるかのように、神に対しても頑固に思い上がります。だからこそ自分の弱さ、愚かさ、もろさをつくづくと思い知らされます。恥を受け、重い病に苦しみ、さまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びます。例えば主の弟子パウロもそうでした。何度も何度も繰り返して、彼は痛めつけられ、恐れと悩みに取りつかれ、身を屈めさせられました。その中で、へりくだって神に信頼を寄せることをあの彼も少しずつ習い覚えていきました。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(1)12:7-10)。彼に与えられたトゲがどんな種類のトゲなのかはよく分かりません。けれど、とても苦しかった。ものすごく辛かった。しかもそのトゲは高慢にならないために与えられたのだと言います。とても痛くて苦しくて辛いトゲをどうか抜いてくださいと彼は神に祈り求めます。「三度も」というのは聖書に特徴的な数字の使い方で、何百回も何千回も、繰り返し何度も何度もという意味です。けれど神さまは、そのトゲを抜いてくださらない。いいえ! むしろ、その苦しみや辛さがあなたにはあるほうがいいと仰るのです。主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。これまではよく分からなかっただろうけれども、私の恵みはすでにあなたに対して十分でありつづけた。今もそうだ。あなたへの恵みは十分だけれども、それは、あなた自身の強さや頑固さや自惚れに邪魔をされて、なかなか発揮できなかった。神の力は、私たち人間が弱いときに、そこでようやく十分にあらわされる。だから、わざわざトゲを与えた。あなたがへりくだって神の憐みに本気になってすがることができるようにと。そこでようやく彼は気づいて、神の恵みがすでに十分に与えられており、神の御力が働こうとして準備万端でありつづけていたことを知ります。その憐みと御力のうちに心安らかであることができると。そのトゲこそが、彼のための「自分の十字架」であり、「自分を捨て、自分の命を捨てる」ことだったのでした。自分自身の偽りを知らされ、神への従順に新しく生きはじめるための訓練だったのだと。その同じ一つの訓練が、この私たちのためにも続きます。一日また一日と。
だからこそ、私たちのご主人さまである主イエスからの命令はとても分かりやすくて、単純明快です。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。よくよく考え巡らせねばなりません。自分を捨てることは、現実的に具体的に、どこでどのようにしてなされるでしょうか。毎日毎日、十字架を背負って生きるとはどういうことでしょう。主イエスに従って毎日の暮らしを生きることは、どんなふうになされ続けていくでしょうか。しかも、それなしには、私たちは決して救われないと断言されています。聖書は証言します、「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない」(ガラテヤ手紙5:24-26)。だからこそ、主イエスは仰います。24節、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と。さらにつづけて、25節、「人が全世界をもうけても、自分自身を失い、または損したら、なんの得になろうか」。全世界と、そこにあるすべての富、財産、地位、名誉を残らず手に入れたとしても、それで人は満たされるわけではなく、幸せにもなれません。しかもなお悪いことには、やがて死が待ち構えており、私たちが手に入れたすべての良いものを奪い去っていきます。裸で生まれてきた私たちは、やがて裸でこの世界を去っていきます。手遅れになる前に、間に合ううちに、主イエスに従って生きることを、この私たちもよくよく習い覚えたいのです。
(付録)『民主人権記念館(韓国)という視点へ 金田聖治
「韓国の歴史現場を訪ねる旅・2019」の初日の訪問先の一つは、2022年に正式開館を予定する民主人権記念館だった。国家暴力の現場を民主人権の教育の場に。しかも、「戦時中の日本軍の」ではなく、戦後の、1970-80年代の自国政府による学生・労働運動に対する組織的・計画的拷問という国家暴力が対象である。水責め、電気ショックなど。衝撃だった。もちろん当局はその膨大で邪悪な暴力のすべてを隠蔽しようとした。けれど、そうした悪事が闇に葬られることを許さない人々がいた。歴史の闇を忘れず、記憶し、教育し、人権・正義・平和の価値を共々に学ぶという。もし、それをしないなら、私たちは罪深く愚かなままであり、非道な過ちを繰り返しつづけるからだ。正式開館に向けて、20数年来の願いと準備が積み重ねられている。
ドイツにはドイツの、韓国には韓国の過去との向き合い方がある。それが今日の在り方のそれぞれの土台となっている。他方、日本は過去と向き合うことを回避しつづけて、今日の愚かな在り方を方向づけている。いつの間にか日本は世界有数の軍事大国となり、憲法改悪の動きは加速し、天皇を国家統合の手段とする新たな天皇制刷り込みの時代が到来しているからだ。また私たちの国家が行った従軍慰安婦、徴用工などの罪責を認め、保障することが棚上げされつづける。戦後すぐ、1953年に内閣法制局は「公権力の行使または国家意思の形成への参画に携わる公務員となるためには日本国籍が必要」とする公式見解を示した。「当然の法理」と呼ばれ、今日でも、地方公務員にもこの法理が当てはまるとされている。大きな公権力をもつ公務員上級職・管理職に外国人がつくことを排除し、日本人に対して彼らが命令や指示を行えないようにする。他者を排除し、軽蔑し見下す意識がここにある。日本に住む外国人は、このように不当に排除され、踏みつけにされつづけてきた。それらは東アジアの和解と平和の創出を阻害する要因としてアジアの人々の憂慮するところとなっている。現在の東アジアの緊張と対立の根底には、私たち日本人の大多数がこうした過去と現在の罪責、人権抑圧を真摯に悔い改めてこなかったばかりか、忘却と正当化さえはばからない。こうした状況にいたった責任の大きな部分は、戦争罪責と戦後罪責を明白にしてこなかったこの私たち自身にあると、ようやく思い至った。
●(補足)2019年11月5日-8日、「韓国の歴史現場を訪ねる旅・2019」(外キ協/外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会,主催)
訪問先 民主人権記念館(韓国の民主化運動の歴史)/戦争記念博物館(1910-1945年の歴史)/タブゴル公園/西大門刑務所歴史館(植民地時代・独裁時代)/戦争と女性人権博物館(日本軍「慰安婦」たちの歴史)/韓国NCCを表敬訪問/草洞教会での水曜礼拝に出席/3・1運動記念館(日本軍の村民虐殺事件)/水原広橋博物館(日本の植民地支配の歴史資料展示)など。