みことば/2019,11,24(主日礼拝) № 242
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:28-36 日本キリスト教会 上田教会
『救い主イエスにこそ
聴き従いなさい』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:28 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。30 すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、31 栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。32 ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。33 このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。34 彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。35 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。36 そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった。 (ルカ福音書 9:28-36)
28節で、「これらのことを話されたのち」。「これらのこと」とは、救い主イエスが十字架委につけられて殺され、その三日目によみがえること。その最初の予告が語られた後でです。31節、「エルサレムで遂げようとする最後のことについて」も同じことです。
28-32節。「これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た」。救い主イエスはご自身の栄光に輝く姿を弟子たちに、ほんのひととき見せました。つき従ってきた大勢の弟子たち皆にではなく、選び出された12人にでもなく、ほんの数名の弟子たちだけにです。ご自身の死と復活についての最初の予告をなさり、その死と復活が目前に迫ってくる中で。1つには、その御自身の死と復活を裏付けて、それを弟子たちが信じるための手助けとするために、栄光に輝く姿を見せてくださったと受け止めることができます。口で何度も予告するだけではなく、その栄光の姿をあらかじめ見せてくださることが弟子たちを励まし、勇気づけるために役に立つかも知れません。嫌々渋々ながら、惨めな死に飲み込まれていったのではなく、あの十字架の死は、父なる神さまへの従順のささげものだったと。救い主が苦しみを受けて死んで行かれたことは、このお方の弱さと惨めさではなく、むしろそこで神の力が示され、私たちの救いのための神の御計画だったと。神ご自身であることの栄光も力強さも地上での生活の間は覆い隠されつづけていました。墓から復活なさったとき、ようやくその覆いが取り除けられて、彼の栄光が現わされるとき、弟子たちは、まえもってその栄光の輝きが現わされていたことを思い起こすことができるかも知れないからです。
28-32節。「これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た」。救い主イエスはご自身の栄光に輝く姿を弟子たちに、ほんのひととき見せました。つき従ってきた大勢の弟子たち皆にではなく、選び出された12人にでもなく、ほんの数名の弟子たちだけにです。ご自身の死と復活についての最初の予告をなさり、その死と復活が目前に迫ってくる中で。1つには、その御自身の死と復活を裏付けて、それを弟子たちが信じるための手助けとするために、栄光に輝く姿を見せてくださったと受け止めることができます。口で何度も予告するだけではなく、その栄光の姿をあらかじめ見せてくださることが弟子たちを励まし、勇気づけるために役に立つかも知れません。嫌々渋々ながら、惨めな死に飲み込まれていったのではなく、あの十字架の死は、父なる神さまへの従順のささげものだったと。救い主が苦しみを受けて死んで行かれたことは、このお方の弱さと惨めさではなく、むしろそこで神の力が示され、私たちの救いのための神の御計画だったと。神ご自身であることの栄光も力強さも地上での生活の間は覆い隠されつづけていました。墓から復活なさったとき、ようやくその覆いが取り除けられて、彼の栄光が現わされるとき、弟子たちは、まえもってその栄光の輝きが現わされていたことを思い起こすことができるかも知れないからです。
「祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた」。主イエスの地上の生涯の中で最もよく知られた出来事の一つが、ここで報告されています。「山上の変貌」と言い慣わされてきました。この直前、主イエスは弟子たちにご自分の十字架の死と三日目のよみがえりを予告し始めました(9:21-27)。弟子たちは混乱し、怖れおののき、深く悲しみ嘆きます。その8日後に、主はご自分の厳かで栄光にあふれた姿を彼らに見せてくださったのです。弟子たちの悲しみ嘆いた心は、次には、主の栄光にふれて喜び踊ります。
この私たちは、なお生身の肉体を抱えて地上を歩んでいます。すぐ目の前の出来事にあまりに深く囚われ、目も心も奪われてしまいます。耳に入るほんの少しの事柄、周囲の人々のいくつかの声が、私たちの心を激しく揺さぶり動かします。まるで、いま目に映っているもの、いま耳に入っているものが私たちのためのすべてであるかのように。神の栄光や尊厳は、そうした私たちの生身の目からは隠されてしまい、厚いベールに覆われてしまっているかのようにです。その厚いベールの片隅が、今、ほんのわずか持ち上げられて、その後ろに隠されているものがひと時だけ姿を垣間見せます。主イエスの栄光と尊厳です。その顔は太陽のように輝き、身にまとっておられる服は光のように白くなりました。やがて再び来られる主イエスの栄光の姿を、私たちも自分自身の心によくよく刻んでおきたいと願います。なぜなら、それぞれの思い煩いと疲れと忙しさの只中で、私たちは栄光の主をすっかり忘れて、それぞれに物寂しく、心細く、アタフタと暮らしているからです。また、地上のものすべてがこの方に従うようになると告げられながら、いまだにそのような光景を見ていないからです(ヨハネ手紙(1)3:2)。けれど人の心に思いも浮かばなかったことを、神ご自身が私たちのために用意してくださっています。ただ約束されているだけではなく、主イエスの栄光の一部分は、3人の弟子たちの目ではっきりと見られ、証言されてもいます。彼らは「その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:14)のです。
30-32節。弟子たち3人が見ていますと、旧約聖書の大勢の預言者たちを代表してモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていました。1500年近く前に死んで葬られたはずのモーセと、900年以上前につむじ風によって天に持ち運ばれていったエリヤ(申命34:6,列王下2:1)とが、3人の弟子たちの前に、その生きた姿を現しています。いいえ、それよりも何よりも、太陽のように輝いた主イエスの御顔、光のように白くなった主イエスの衣服。栄光に輝くこの姿は、復活の主イエスの姿の先取りです。主イエスの復活は、ここにいるこの私たち自身が新しい生命によみがえることの初穂です。もし、主が復活したのなら、主イエスを信じて生きるこの私たちもまた復活します。もし仮に、そうではないのならば、私たちはやがて衰えるままに衰え去り、朽ちるままに朽ち果ててしまう他ありません。兄弟姉妹たち。この世の生活の中でだけキリストに望みをかけているのだとするならば、私たちの心の中でだけ、ほんの気休め程度にキリストに希望を託しているだけだとするならば、もしそうなら、私たちの信仰はあまりに虚しく、私たちはなお罪と悲惨さの只中に留まりつづける他なく、『すべての人の中で最も惨めな者』ということになります。もしそうならば、キリストを宣べ伝えることも、キリストを信じる信仰も無駄だった、ということになるでしょう(コリント(1)15:19)。その通りです。主はたしかに復活したのであり、私たち自身も復活します。私たちはただ衰えるままに滅び去るのではなく、朽ちるままに朽ち果てるのではありません。この世の生活を越えて、死の河波を乗り越えて神の都にきっと辿り着くと、私たちも、キリストによって望みをかけています。
33節。モーセとエリヤが主イエスと語り合う光景を見て、主の弟子がこう提案します。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのために」。主イエスご自身と御父は、このペトロの提案をどう聞いたでしょうか。はたして喜んだのか。あるいは、渋い顔をなさったでしょうか? 小屋は、今日風に言えば『○○記念会館。△□記念礼拝堂』といったところでしょう。モーセ記念会館、エリヤ記念会館、イエス記念礼拝堂。3つの福音書がこの同じ出来事とペテロの発言を報告していますが、ここでも、「ペトロは自分が何を言っているのか分からないで言った」と報告しています。その通りです。確かにモーセやエリヤは重要だったし、旧約時代の預言者たち一人一人と同様に、大切な働きをさせていただいた人物たちでした。そうだとしてもなお、神ではない者たちのために、たかだか人間にすぎないものたちのために記念会館や記念礼拝堂などを建ててはなりません。銅像も建ててはダメです。素敵なリーダーや周囲にいる素敵なクリスチャンたちを偶像に仕立てたり、聖人君子扱いして拝んだり、神と並べて祭り上げたりしては決してなりません(コリント(1)1:12-13,4:6-7)。なぜなら、(1)「モーセ記念会館、エリヤ記念礼拝堂を」などととペトロが見当ハズレなことを言いだした途端に、雲が彼らをすっかり覆い尽くして何も見えなくされたからです。(2)また、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」と、ただただ主イエスを指し示す天の父の御声が聞こえたからです。(3)ひれ伏して恐れる弟子たちにイエスが近づいてきて話しかけ、彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかったからです。人間にすぎない者たちの声に信頼して、ついつい限度を超えて聞き従おうとするいつもの習慣や性分が、私たちの中になお根強く残っています。信仰をもつ私たちの間でもそうです。神の声は聞き分けにくかったからですし、イエスに聞き従うためにこそ聖書を調べよ(ヨハネ5:39-40,20:30-31,使徒17:11,テモテ(2)3:15-17)と命じられても、自分の心で聖書を読むことはとても難しかったからです。けれどモーセもエリヤもダビデも、キング牧師もマザーテレサさんも皆、生身の人間たちであり、罪人の1人にすぎません。たびたび間違うこともあり、大きな心得違いをすることもあります。「あの立派な、物のよく分かった、賢い信仰深い○○先生がそう言うので」とついうっかりして言いなりに鵜呑みに信じたくなります。けれど天の御父の愛する子、イエス・キリスト。御父の御心に適う者、イエス・キリスト。「ただただ、この方に聞け」とあの弟子たちも私たちも命じられています。主イエスご自身も「私こそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命」と。歩んでいくべきただ一筋の道があり、聞き従うべきただ1つの真理があり、私たちを自由に晴れ晴れとして生かしてくれるただ1つの格別な生命があります。救い主イエス・キリスト。この方による以外に救いはありません。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからです(ヨハネ福音書14:6,使徒4:12)。もし、このお独りの方を信じて歩むなら、必ずきっと天の御父のもとへと辿り着ける。この方に聴き従うなら、神を信じて生きて死ぬために必要な真理をちゃんと掴み取ることができる。このお独りの方から受け取るなら、十分な生命をいただきつづけて生きることができる。救い主イエスこそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命。文字通りに、そのまま丸ごと信じて受け止めつづけることができるかどうかが、いつもの別れ道でありつづけます。御父が主イエスを指差して、『これは私の子、私の選んだ者である。これに聞け』と私共に命じた。命じつづけます。「救い主イエスにこそ聴き従う」。それはイエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聴き従うということではありません。
世俗化の波がキリストの教会を覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちが止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。神さまが第一であったはずの私たちの生活が、いつの間にか神に聴き従って生きることが二の次、三の次にされ、どんどん後回しにされつづけてゆく。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3-4章、足の不自由な人を神殿の入り口で癒してあげたあと、主イエスの弟子たちは議会に連れていかれて厳しく脅かされました。彼らは答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と。同じく主イエスの弟子とされた私たちも、この同じ一つの質問を一生涯、突きつけられつづけます。神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたいと。しかも、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである」(使徒4:19,マタイ福音書6:24)。いったい誰を自分の主人として、この私たちは心安らかに生きて死ぬことができるのでしょうか。
私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そんな態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。と私たちに語りかける声がありました。「イエスは主である。他のナニモノをも主とはしない」と口でも心でも認めているはずの、そのあなたが、争ったり妬んだり、人を軽々しく裁いたり、退けている。そのあなたが卑屈にいじけている。そのあなたが、ふさわしいとかふさわしくないとか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか品定めをし、また品定めをされることに甘んじているのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、すっかり我を忘れ、神さまを忘れてしまっている。『イエスこそ私の主』と言っているくせに、そのあなたが、主イエスに聴き従うことを後回しにし、それを二の次三の次にしつづけて、「なにしろ私の考えや好き嫌いは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。イエスは主なりと魂に刻んだあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。救い主イエスをこそ自分のただお独りのご主人さまとして、この方に聴き従って生きることを第一として生きることができるなら、私たちは幸せです。もし、そうではないなら、私たちの地上の生涯はあまりに危うく不確かでありつづけます。