2019年11月12日火曜日

11/10「イエスを誰と言うのか?」ルカ9:18-22


                       みことば/2019,11,10(主日礼拝)  240
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:18-22                       日本キリスト教会 上田教会
『イエスを誰と言うのか?』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。19 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。20 彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。(ルカ福音書 9:18-20)
 20-22節で主イエスは弟子に「私を誰と言うか」と問いかけ、弟子の一人が「あなたこそ神であられる救い主です」と答えると、「(そのことを)だれにも言ってはいけない」と釘をさされました。このことを、まず解決しておきましょう。あのとき弟子たちは、主イエスについて人々に知らせるための準備が整っていませんでした。「まだ、いけない」という期限付きの禁止でした。今では、私たちも含めてすべての弟子たちに準備が整っています。ですから今では、安心して晴れ晴れして、「イエスこそ救い主である」と私たちも誰にでも知らせることができます。救い主イエスの死と復活についての最初の予告がつづきます。その中身、22節以下については、次のときに話します。
  さて、13節。ペテロが主イエスへの信仰を言い表したとき、主と弟子たちは「ピリポ・カイザリア地方」にいました9:10で、「ベツサイダという町」と。その付近一帯)。その土地は、ギリシャ神話の多くの神々を拝むことでよく知られていました。その当時、ユダヤの国はローマの植民地にされていました。ヘロデ王がローマ皇帝からこの土地を任せられた際、皇帝にお世辞を言うつもりで「カイザリア=ローマ皇帝さまの地域」と名付けました。その子供ヘロデ・ピリポがさらに「ピリポ・カイザリア=ピリポが治める、皇帝のものである地域」と名を改めました。ここはそういう土地です。多くの神々と共にローマ皇帝が神のように崇められ、また地元の支配者たちが権力を振るう土地。そこは、主イエスが弟子たちに、ご自分が神の独り子であり救い主であると認めさせるのにふさわしい場所だったのです。「ピリポ・カイザリア」はまた、私たちの住むこの世界によく似ています。目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのです。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けることがとても難しかった。だからここでも、目に見える多くの神々が崇められ、目に見える多くの支配者たちが、それぞれ小さな小さな粗末な神にでもなったつもりで我が物顔に振舞います。多くの神々、多くの支配者たちが、入れ替わり立ち代りやって来て、「頭を下げなさい。ひれ伏して崇めなさい。ただただ従いなさい」と迫ります。その只中で救い主イエスは、「人々は私(『人の子』=主イエスご自身)のことを誰と言っているか」と問いかけます。多くの人々が様々なことを言います。けれど、他の者たちがイエスについて何と言っているのか、どう考えているのかはほどほどのこと。問題は、あなたがどう言うのかです。あなた自身がどう考えるか、ということです。
 多くの神々、そして神に似た多くの支配者たちが満ちあふれる世界で、『私たちは何に従うのか、何を自分自身の導き手とするのか』と選択を迫られつづけます。平穏な日々には、『イエスを何者と言うのか』という問いはあまり大きな意味を持たない、と思えるかも知れません。『誰を主とし、誰に聞き従うのか』とわざわざ確かめなくてもよいと思い、その都度その都度、目に見える、目の前にある誰彼のそれらしい声に聞き従えばいいと思えるかも知れません。だって何しろ、目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのですから。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けることがとてもとても難しかったのですから。けれどなお『イエスは主である』という信仰によって、『イエスをこそ主とする』という信仰を岩として、キリストの教会は立ってきました(同じ一つの出来事を報告したマタイ福音書16:18で、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と主イエスが仰った。その『岩』とは何かということを巡って、いくつかの理解が並び立ちつづけます。「ペテロが岩だ」と考える人々もいます。確かに、ペテロ(岩という意味)というあだ名を彼に付けたのは主イエスでした。ヨハネ福音書1:42。けれど岩のようにビクともしない確固たる人間などどこにもいません。ペテロも私たちも、むしろ砂粒のような者たちです。誰も彼もが、小さく危うく、あまりに脆い、壊れ物のような存在です。それでもなおイエスを信じる信仰こそが、その砂粒のような人々を岩のように生きる者とします砂粒のようでありつづけながら、なお確固として生きる者たちへとされる。奇妙なことです)。雨が降り出すからです。川があふれ、風が吹き、その家をすさまじい濁流と大きな嵐が襲うからです。しっかりした岩を土台としているのでなければ、その家は倒れてしまうからです。しかもその倒れ方はひどいからです(マタイ福音書7:25-)。すでに警戒警報と住民への避難勧告が出され、まもなく暴風雨圏内に突入しようとしているからです。『イエスは主である』という信仰によって、キリストの教会は立ってきました。1人のクリスチャンも、その生活も、イエスは主であるという眼差しと腹の据え方によって立ってきました。むしろ、こう言いましょう。『イエスは主である』という根源の土台をうっかり見失いかけて、その信仰は幾度も幾度も泥にまみれ、致命的な打撃を受けたのだと。例えば1933年から45年にかけて、ドイツではヒットラーのナチス政権に抵抗して、ルター派と改革派と、そして合同教会は1つの旗印のもとに戦いました。34年の『バルメン宣言』はそのきびしい戦いの道しるべとなりました。宣言の第1項は告げます;「聖書において私たちに証しされているイエス・キリストは、私たちが聞くべき、また私たちが生と死において信頼し、服従すべき、神の唯一のみ言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一のみ言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認できるとか、承認しなければならないという誤った教えを、私たちは退ける」と。兄弟姉妹たち。『誤った教え』は、かなり手ごわかったのです。しかも目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのですから。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けづらかったのですから。その隙をついて、目に見える目の前にいる父のような顔つきで、母のような声で、やさしい兄や姉のようなそぶりでそれは語りかけてきました。イエスをこそ主とする信仰に堅く立ちつづけることは、至難の業でした。戦時中にドイツの国中を巻き込んだ『誤った教え』と、それへの苛酷な戦いに、戦後の日本のキリストの教会は驚きながらよくよく目を凝らしました。そっくり同じことが、この日本でも起こっていたのですから。ヒットラーも天皇も神ではありませんでした。勇敢に戦った兵隊も英雄も聖母マリアもマザーテレサさんも、たとえ死んでも人間は神になどなるはずがなかったのです。人間はどこまで行っても人間にすぎなかったのですから。けれど、それには目をつぶって、神をあがめながら同時に神ではないものを横に並べて、キリストの教会は崇めつづけてしまいました。それでも何の問題も不都合もない、と教えられました。右に左に道を逸れ、また立ち戻り、また道を逸れ、立ち戻り、またいつの間にか逸れていって。それが、キリストの教会の歴史です。

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  例えば、『牧師(あるいは長老、役員、大会議長、中会議長など)という人間』に対して、私たちはどう考え、どのように付き合ったらいいでしょうか。それについてのまったく正反対の2種類の判断が、私たちの教会の中にありつづけます。ある人々は、『牧師は教会の責任者であり、お父さんのようなリーダーだ。だから、なにしろこの人の判断に聞き従い、この人の指示に従っていく。この人の思い通りの、望むままの仕方で教会を運営していくことが良いことなのだ』と。別のほんの一握りの、ごく少数の人々は言います。『いや、そうじゃない。その考え方は間違っている。牧師は頭ではない。父親のような権威者でもない。キリストに仕えるしもべだ。聖書はそう言っていたじゃないか。私たちは仕えるしもべ同士だったじゃないか。主にこそ従っていくのだ』と。けれどなお多くの者たちは言います、『主など、いったいどこにいる。そんなもの、ただの建前じゃないか。ただのお題目にすぎないじゃないか。目に見えず、その声も聞き分けにくい。だったら、目の前にいるリーダーたちに従って、その人たちの判断に任せていくほうがずっと分かりやすく、簡単じゃないか。私たちは、主に従うことなどできない。あの人この人たちに従い、あの人この彼らに仕えていこう』と。教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、親戚たちの間では幅を効かせている叔父さん叔母さんに従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことを聞いて、国家権力や政府をオカミと崇めたてまつって言いなりに従っていればいい。主なる神に従うことなど、私たちにはできるはずがない』と。神ではないものたちと多くの支配者・指導者たちが君臨し、思いのままに人を従わせつづける土地に、私たちも住んでいます。数の多いものや賢い者や強い者たちが、「膝を屈め、従いなさい」と私たちに迫ります。心が弱ります。ついうっかりして膝を屈めようとするときに、けれど『イエスは主である』と告白している私には、それはできません。高ぶって、誰かを軽々しく裁こうとするとき、冷たく退けようとするときに、私の主であってくださる方がどんな方だったか、何をなさったのかが、私の前に立ち塞がります。兄弟に対して、また貧しく身を屈めさせられ小さくされた1人の人に向けて、何ごとかをなそうとするとき。何気ない一言を口に出そうとするとき、思いとどまらせるものがあります。見て見ぬふりをし、恐れて口をつぐんでしまおうとするとき、なお私を促すものがあります。「それは、イエスは主であるという言い表しに反しているじゃないか。キリストはその1人の兄弟のためにも死んでくださったのではなかったか」(コリント手紙(1)12:3,ローマ手紙10:9,14:15)と。「年老いた。衰えて、体も心もすっかり弱り果てた」という私の恐れと嘆きにとっても、イエスこそが主です。「人がどう思うだろう。どんなふうに見られるだろうか」とキョロキョロ見回している私の心細さや臆病さに対しても、イエスこそ主。家の土台が、踏みしめている私の足もとから物を言っています。「子供たちが安心して豊かに生き抜いていけるように、心強い確かなものを、ぜひ手渡してあげたい」という私の切なる願いにとっても、イエスは主であってくださる。「私自身も、誰を恐れることもなく誰に何を恥じることもなく日々の生活を安らかに送りたい」という願いと恐れにとっても、なおさら、そこでこそ、イエスは主である。イエスこそ、唯一の主である。家の土台が、踏みしめている私の足もとから物を言っている。踏みしめている土台に確かな岩がある。堅くしっかりした岩の上に、私たちの家が立っている。立ちつづけます。
もちろん、波風立つのは当たり前です。周囲の人々に受け入れられる時もあれば、退けられ拒まれるときもある。年老いて衰えてゆくことも、貧しく身を屈めさせられる日々もある。いつか病気になって足腰立たなくなることも、やがて誰でも必ず死んでゆくことさえ、それらは驚くに及びません。よい日も悪い日もある。喜ぶときもある。痛みに耐える日々も来る。人の気持ちや痛みが分かるようでありたいが、あまりに顔色をうかがうようでは困ります。他人の考えやあり方を尊重する私でありたいが、言いなりにされ、引き回され流されつづけるようでは困ります。自己中心で身勝手なのも困るが、臆病に恐れつづけるのも、とても困ります。広々として心安らかであり、確固としてありたいからです。子供たちも孫も、それぞれの愛する連れ合いも、誰もが自分自身で選び取り、自分自身で行く道を決めなければなりません。だから、私自身は決めました。がっちりしたビクともしない岩の上に家を立てようと。ぜひとも、なんとしても。イエスは主である。この1つの岩の上にこそ、私は立っていようと。私は、ここに立ちます。立ち続けます。