2019年8月6日火曜日

8/4「来るべき方は」ルカ7:18-23

                みことば/2019,8,4(主日礼拝)  226
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:18-27                      日本キリスト教会 上田教会
『来るべき方は』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。24 ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。25 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。26 では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。27 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。    (ルカ福音書 7:18-27)

 まず18-20節。洗礼者ヨハネはまもなく殺されます。自分に残された時間があとわずかだと知って、牢獄の中からヨハネは自分の弟子たちを救い主イエスのところへ遣わし、「来るべき方は、つまり神によって約束されていた救い主は。あなたなのですか?」と質問させました。約束された救い主がイエスご自身であると、ヨハネ自身は、そもそもの初めからはっきりと知っていました(イザヤ書40:1-5,エレミヤ書31:31-34,エゼキエル書34:1-24,マラキ書4:5他)。しかも彼は獄中にあって、自分自身の死がすぐ目の前に迫ってきています。自分が死んで世を去った後、残された弟子たちはどうなるでしょう。もし、洗礼者ヨハネという名前の一人の生身の人間に過ぎない伝道者に信頼して、その彼にだけ聞き従って生きることしかできないのならば、弟子たちは道に迷ってしまいます。あの彼も、ほかすべての伝道者も、『救い主イエスを指し示す指先』にすぎません。このことを、すべての伝道者たちとクリスチャンはよくよく分かっていなければなりません。『救い主イエスを指し示す指先』と、『指し示されている救い主イエスご自身』と。その『指先』は救い主イエスを指し示し、イエスがどういうお方であるのか、何をしてくださるのかを告げ知らそうとしています。それなのに弟子たちが、もし、いつまでたっても『指先』ばかりに目を凝らしつづけて、指し示されている救い主イエスご自身をちっとも見ようとせず、いつまでたってもイエスに聞き従おうとしないならば、その『指先』たちは神さまから委ねられた大切な役割と使命をちっとも果たしていないことになります。むなしく、むだに働いたことになってしまいます。
 洗礼者ヨハネだけではなく、ほかすべての伝道者も、『救い主イエスを指し示す指先』にすぎません。その一人の伝道者が委ねられた務めを精一杯に十分に果たしたかどうかは、どんなクリスチャンが育っていったかにかかっています。一つ一つの事柄についてどういう判断基準をもって選び取り、捨て去り、何を大事にして、どのように生きるクリスチャンが生み出されたのか。判断基準はただただ聖書であり、主イエスの福音です。神の御心にかなっているのか、そうではないのかという判断です。もし、「天に主人がおられる」とよくよく弁えて、「人間に聞き従うのではなく、神にだけ聞き従うべきだ」と腹をくくって生きるクリスチャンが育っていったならば、その伝道者はとても良い働きをしたことになるでしょう。




















グリューネバルト「イーゼンハイム祭壇画」(部分)



 洗礼者ヨハネは、そもそもの初めから、自分の弟子たちを救い主イエスのところに送り出しつづけていました。あるとき、ヨハネとその弟子たちが道を歩いていると主イエスがそこに通りかかりました。ヨハネはイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。わたしのあとに来るかたは、わたしよりも優れたかたである。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この人のことである。わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。「わたしは、御霊が鳩のように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。その翌日もイエスが歩いておられるのをヨハネとその弟子たちは見て、ヨハネはふたたび言います、「見よ、神の子羊」と。ヨハネの二人の弟子は、そのときからイエスについて行き、イエスの弟子とされました。そのうちの一人はシモン・ペテロの兄弟アンデレであり、アンデレは自分の兄弟シモン・ペテロを主イエスのもとに連れてきたと聖書は報告します(ヨハネ福音書1:29-42参照)
 洗礼者ヨハネは言いました、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える」。生身の人間であるすべての伝道者は、キリストの先に遣わされた使者です。花婿である救い主イエスこそが花嫁である私たちを迎え入れます。すべての伝道者は花婿の介添え人であり、やがてすべての者が花婿である救い主イエスの声を聴き、その声によって大いに喜ぶために働きます。花婿である救い主イエスの声を聴く者は救い主イエスを信じる者たちとされ、その花婿の声はますます大きくはっきりした声になって必ず栄えてゆきます。その分だけ、介添え人に過ぎない伝道者の声は小さくなってゆき、だんだんと衰え、弱まり、やがてはついに消え失せてゆかねばなりません。「すべての羊たちが導かれ、良い羊飼いである救い主イエスの御声にこそ聴き従うようになり、そのようにしてやがて、ついに一つの群れ、ただ独りの羊飼いとなる」ために(ヨハネ福音書10:16参照)。救い主イエスの声を皆が聴くことを邪魔しないように、イエスの声にこそ皆がよくよく聞き従うようにです。それこそが、伝道者の役割と使命だからです。
 救い主イエスご自身が、はっきりとこう仰います、「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。……あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネ福音書3:27-30,5:35-40。もちろん私たちは、目の前のその伝道者の言葉に聞きます。その教えを受け、その説き明かしに精一杯に耳を傾けます。ほんのしばらくの間だけは、その伝道者の声を喜び楽しんでもよいでしょう。けれど、ずっといつまでもそれでは大変に困ります。やがて、救い主イエスの御声にこそ精一杯に耳を傾け、イエスにこそすべての信頼を寄せ、救い主イエスにこそよくよく聞き従う者へと成長してゆくのでなければ困るからです。もちろんその伝道者に聞き従うためでなく、その彼に信頼するためでなく、ただただ神にこそ聴き従う自分となるためにです。その伝道者が語り教えた言葉や知識が、神から出たものであるのかどうか。どの伝道者に対しても、その一つ一つの約束事やルールが神の御心にかなうものであるのかどうかを熟慮し、なんとかして聞き分けなければなりません。御心にかなう教えや説き明かしならば、それを聞き入れたらよい。もし、そうではないのなら、それらの教えや説き明かしは、またその約束事やしきたりやルールは拒んで、退けねばなりません。救い主イエスのところに行こうとして、救い主イエスから生命を受け取ろうとして、救い主イエスを必要なだけ十分に信じる自分になろうとして、そのようにして、目の前に立っている一人の伝道者の言葉に耳を傾けつづけます。 
つまり、「来るべき方はあなたなのか」という質問は、弟子たちのためであり、彼らにはっきりと気づかせるためにです。主イエスを信じて生きる幸いの中へと、自分の大切な弟子たちをまっすぐに、はっきりと送りだしてあげるため。つまり自分の弟子たちがこれまではこの自分に信頼して従ってきたが、けれどもこれからはこの自分に聞き従ってではなく、『来るべき方』であり、すでに約束通りにこの世界に来てくださった救い主イエスにこそ信頼を寄せ、聞き従って、あの弟子たちが生きることを願ってです。21-23節。主イエスは答えます、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである」と。
  ヨハネの弟子たちが帰った後で、主イエスは洗礼者ヨハネが果たした大きな役割について人々に語りきかせます。とくに27(=イザヤ書40:3,マラキ書3:1からの引用)、「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」。救い主に先立ってつかわされて道を整える使いである『この人』とは、洗礼者ヨハネです。天の父なる神さまが独り子イエスを救い主としてこの世界に送り出してくださる。それに先立って、使いをつかわし、救い主を迎え入れるための道備えをさせると。そのように自分の後から来られる救い主イエス・キリストをこそ指し示しつづけていたのですから。24節で、「あなたがたは何を見に荒野に行ったのか」と主イエスは問いかけます。もちろん植物観察のためでなく、ぜいたくに暮らす人々を見物するためでもありませんでした。その使者の声を聴いて、救い主イエスを信じて生きはじめるためにこそ、今日も私たちはこの礼拝の場に呼び出されています。

              ◇

 洗礼者ヨハネにつづく、世々の伝道者たちは、道を備えつづけます。「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」。私たちの魂と腹の思いが言い表されています。薄暗い谷のような卑屈さ、臆病さや恐れは埋められて平らにされねばなりません。山と丘のような私たちの傲慢さや思い上がりはすっかり削り取られて、低く平らにされねばなりません。曲がった道や悪い凸凹道のような私たちの心のかたくなさや頑固さ、よこしまさは、ならされねばなりません。だからこそ、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」と厳しく突きつけられました。そのとおりです。人々は、ついにとうとう心を強く刺し貫かれて預言者にたずねました。「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」。きびしく脅かされたわりには、その指図はごく普通の、誰にでもできる当たり前の心得でした(ルカ福音書3:4-14参照)。それさえもわざわざ一つ一つ告げられねばならないほどに、神の御心にかなう歩みがどういうものであるのか、何が神の喜ばれる良いことであり、何が神を悲しませ嘆かせる悪いことであるのかも分からなくなり、そのようにして彼らと私たちの心は深く病んでしまっていたのです。
 だからこそ、「救い主イエスにこそ聴け。聴き従いなさい」(ルカ福音書3:22,9:35参照)と命じられています。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られた」のだし、御子によってこそ語りつづけます。天と地のすべて一切の権威を御父から授けられた御子こそが、私たちを送り出し、教え、導きつづけるからです(へブル手紙1:1-2,マタイ福音書28:18-22。それでもなお、救い主イエスのこの唯一の権威は私たちの間でさえもいまだに十分には受け止められていません。今もこれからも、主イエスは教師たちをこの世界に送り出しつづけます。神の国の福音を伝える教師たち一人一人は、この唯一の先生から習い覚えたことをこそ誠実に忠実に語り伝えねばなりません。つまりは、その教師自身がキリストの弟子でありつづけ、他の者たちをキリストのもとへと連れてきて、ただキリストからこそ教えられつづける生徒とならせるように努力し、それよりも、なにしろ神にこそ願い求めつづけて働きます。