みことば/2019,8,18(主日礼拝) № 228
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:28,同18:15-17 日本キリスト教会 上田教会
『神の国で
もっとも小さい者も』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
7:28 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
(ルカ福音書
7:28)
18:15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。16
するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
(ルカ福音書 18:15-17)
ルカ福音書7:28、「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。そしてルカ18:17、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。これこそ、救い主イエスご自身から直々に言い渡されている最も重要な教えの1つです。他の誰々さんと比べて大きいか小さいか、中くらいか、何番目に偉いのか、人々からどう評価されるかなどというとても小さなつまらない問題ではなく、そんなことではなく! 神の国に入れていただけるか、それとも門の外に締め出されてしまうのかという死活問題の、緊急事態が突きつけられています。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない。よくよく思いを凝らし、考え巡らせつづけなければなりません。
18章15-17節、「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。つまり、「身を低くかがめ、心も低く屈めて、小さな子供のように神の憐れみを受けるのでなければ、主イエスの弟子になることも神の国に入れていただくこともできない」と主イエスは仰る。しかも、すでに主イエスの弟子とされているはずの者たちに向かって。この私たちはこのままでは、主イエスの弟子になれないかも知れないし、神の国に入り損ねてしまうかも知れないと。恐ろしいことが語られています。幼子のような低さとは、弱く小さく無力であり、無防備であり、それゆえもし、支えも助けもなくただ独りで放り出されるなら生き延びてゆくこともできない。だからこそ神からの助けと支えを願い求め、確信し、神に信頼を寄せ、一途に聴き従う。これこそが、主イエスの弟子であることの根本的な性質でありつづけます。そうであるからこそ、自分自身の力や知恵や働きなどを誇り、「大きくて強くて仕事がよくできてとても役に立って、だから」と人間的な業績、取り柄や働きの多い少ないにばかり心を奪われつづける代わりに、そうではなく、ただただ神の憐れみをこそ願い求めて、受け取ることもできるのです。
主イエスは、ご自身を信じる弟子たち同士の互いの付き合い方について警告しつづけています。「これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。小さくされた人々が主イエスのところに来ることを決して止めてはならない。邪魔してはいけない」と。「小さな一人の者」とは、ここでは、無力な小さな幼子のように身を低く屈めている主の弟子たちです。聖書は証言します、「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう」(コリント手紙(1)4:6-8)。痛いところを突かれました。ひとりの優れた大きく賢そうに見える人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないため。これが世の中の人々のほとんど全部と私たちが普段いつもの暮らしの中でお互いにいつもやっていることです。何人かの人々がいる。その中の誰かを「たいしたものだ。立派だ、すばらしい」などと誉めたり、あがめたり、尊敬したり見上げたりする。その一方で、そうでもないように見える他の誰かを「たいしたことないなあ。つまらない人だ」と見下したり、侮ったり軽んじたりしている。そうしながら、周囲の人々に対しても神さまに対しても侮り、高ぶっている。コリント教会で起きていたことは、この私たちの間でもたびたび有りつづけています。やがて同じ手紙の中で、主の弟子はこう語りかけます。「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか」(コリント手紙(1)4:6-8,同(1)11:22)。主に仕えて生きている一人の小さな者を軽んじ、辱め、侮るとき、それは直ちに、主イエスご自身と神の教会を軽んじ、辱め、侮っているではないかと。
身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の立場を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。今では、その代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさをようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちは貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。
身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。今では、その代わりに、兄弟や家族や連れ合いや友人たち、隣人たちに身を屈めて仕える者とされはじめました。その人々の益となり、互いの徳を高めるために。神さま御国の御用のためにこんな私をさえぜひ用いていただきたいと願いながら。「どちらが偉いだろう。誰がいちばん大きく賢くて役に立つだろう」と目の色を変えて競争し合い、他人よりも自分を高くあげようとして、その生臭い魂胆は、私たちの互いの結びつきやつながりを粗末で貧しいものにしつづけました。身を屈め、自分を低くし、幼子のようになるのでなければ誰も決して天国に入ることはできないと、救い主イエスご自身からキッパリと宣言されています。しかも主イエスこそが、『幸いな幼な子である』ことの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。その幸いな幼な子の心をこの私たちも贈り与えられ、子である身分と中身を受けました。聖霊なる神を受け、その御霊に導かれつづけて。聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16)と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた『幼な子の身分と中身』はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、私たちは同じように、小さな一人の子ども同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。
ずいぶん昔、国を滅ぼされて遠い外国に捕虜として連れて行かれた人々が何十年も経ってようやくエルサレムの都に戻ってきました。神殿も町も打ち壊されてガレキの山です。その廃墟の中の何もない広場で、神の民はずいぶん久しぶりに礼拝をささげました。ともに祈り歌い、聖書朗読とその説き明かしを聴きました。「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない。あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ記8:9-10)。すべての民は去って自分たちの村に帰り、告げられたとおりに飲み食いし、食べ物の備えのない者たちには分け与えて、大いに喜びました。「これは読み聞かされた言葉を、彼らが理解し、悟ったからである」と記されています。備えのまるで全然なかった私たちが、にもかかわらず肥えた良い肉と格別な甘い飲み物に預かっている。受け取って、それを味わっている。備えのまるで全然ない、ちっとも弁えない誰かに分け与えてあげるとき、「こんな私がいただいていいんですか。本当ですか。ありがとう。嬉しい」と、その驚いたような恐縮したような、恥ずかしそうな嬉しそうな顔に見覚えがあります。それは、ほんの少し前の私たち自身の驚きであり、喜びの顔だったのです。思い起こしました。主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今まで、何か他のことを喜んだり失望したりしてきました。自分自身や周囲の人々のあれこれを。けれどこれからは主ご自身の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。それを、この日から、ここから、改めてしはじめましょう。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食ってしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。恵みによって与えられた豊かなものの一つ一つをもって、あなたは、主を喜び祝いなさい。それこそ、私たちにとっての力と喜びの源です。力と喜びそのものです。