2019年8月12日月曜日

8/11「終わりの日の希望」ヨハネ14:1-6


                       みことば/2019,8,11(主日礼拝)  227
◎礼拝説教 ヨハネ福音書 14:1-6                    日本キリスト教会 上田教会
『終わりの日の希望』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  (ヨハネ福音書 14:1-6)
1節、「あなたがたは心を騒がせないがよい」。救い主イエスがわざわざそう語りかけるのは、目の前にいる弟子たちが心を騒がせ、ひどく動揺し、ザワザワソワソワしつづけているからです。救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のことです。「十字架につけられ、殺され、墓に葬られ、その三日目に墓からよみがえることになっている」と主イエスはご自分の弟子たちに繰り返し繰り返し、あらかじめ知らせていました。けれど、弟子たちはそれが本当のことなのか、またどういうことなのかを、なかなか理解することも受け入れることも出来ませんでした。本当に救い主イエスが殺され、どこかへいなくなってしまうとするなら、その後、自分たちはどうしたらいいのか。いったい何を頼りや支えとして、何にすがって生きてゆけるのかと。いよいよその時が迫って、弟子たちの心は騒ぎ立ち、激しく揺さぶられています。その弟子たちのうろたえぶりと、心細さ、惨めさ、あまりの恐れを思いやって、主イエスは彼らに語りかけます。「あなたがたは心を騒がせないがよい。ビックリしたり怖がったり心細がったりしないで安心していることが、あなたにも出来るから」と。
  「父なる神を信じ、そしてこの私を信じなさい。よくよく信じなさい」と主イエスは、すでにちゃんと十分に信じているはずのその弟子たちに、わざわざ念を押しています。そうする必要があるからです。信じているはずの信仰は、けれど他のいろいろなことに紛れてしまいやすいからです。例えばガリラヤの湖の上で小舟に乗っていて、弟子たちがアタフタオロオロした時がありました。それも2回も(マタイ8:23-27,14:22-。主イエスが小舟の片隅で眠り込んでおられたときと、そこに主イエスがおらず弟子たちだけで小舟に乗り、大波や風にあおられて舟が沈んでしまいそうになったとき。1回目、主イエスが風と湖を叱りつけると風も波も鎮まりました。「この方はどういう方なのだろう。風も湖も従わせてしまうとは」と弟子たちはとても驚きました。2回目、主イエスは水の上を歩いて弟子たちのところに来てくださいました。弟子の一人ペテロは「自分も同じように水の上を歩かせてください」と願い、「来なさい」と命じられ、歩き始めました。最初の一歩二歩くらいは、なんとか水の上を歩けました。けれどすぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になって、するとブクブクブクと沈みはじめて、危うく溺れかけました。「主よ、お助けください」とペテロは叫びました。主イエスは彼を助けて、舟に乗せ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と仰いました。だいたい皆、これくらいのものです。信じていないわけではない。けれど全然足りないし、薄すぎる。すぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になってアタフタソワソワしはじめて、するとブクブクブクと沈みはじめ、危うく溺れかける。大波が打ち寄せても、強い風が吹いても、いいえ 大波がザブーン、ザブーンと打ち寄せれば打ち寄せるほど。風がビュービューと吹き付ければ吹き付けるほど、それだけますます主イエスにこそ目を凝らさねばなりませんでした。例えば神の民とされたイスラエルの歴史も、気もそぞろなこのペテロとだいたい同じでした。信じていないわけではない。けれどその信仰は全然足りないし、薄すぎる。その証拠に、そよ風がほんの少しそよそよ吹いて、ほんのちょっと波がチャプチャプ、パシャパシャと小舟を揺らしただけで、その途端すぐ他のアレコレが気にかかって気にかかって、するとブクブクブクと沈みかける。助けてもらって、舟に乗せていただく。また心が騒いでブクブク沈みかけて、その繰り返しです。「風も波も従わせてしまうとは、この方はどういう方なのだろう」と驚きながら、何度も何度も驚きを味わいながら、それでも救い主イエスがどういう方なのかがなかなかピンと来ない。預言者たちは口を酸っぱくして、同じことを語りかけつづけました。「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」(イザヤ書7:4,30:15-16,出エジプト記14:13-14,116:7。もし、『私もあの彼らと似たようなものだ。信仰がないわけじゃないが足りなすぎるし薄すぎる』と気づくなら、「神さま。どうか私の信仰を増し加えてください」と願い求めることができます。「神さまによって救われ、力を得たい。格別な安らぎと確かさを私も受け取りたい」と、もし願うなら、その願いはきっと必ずかなえていただけます。しかも、この私たちも彼らと同じです。強がって見せても、誰でも本当はとても心細いのです。恐ろしいことや心配事が山ほどあって、次々とあって、あの彼らのようにたびたび激しくうろたえながら、心を騒がせ、激しく揺さぶられながら、私たちも暮らしています。小さな子供たちもそうです。中学生高校生、大学生も、世の中で働きはじめた若者たちもそうです。子供を育てている若いお父さんお母さんたちも、そればかりではなく、ずいぶん長く生きてきたはずの年配の方々も実は、子供たちや若い者たちに負けず劣らず、それぞれの心細さを抱えて毎日毎日の暮らしを生きています。 
 さて2-3節、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。このことを、よく覚えておいてください。小さな子供も、このまえ、この飛びっきりに大切な問題を質問していました。「ねえねえ、お母さん。死んだらどうなるの。どこに行くの?」。その大切な子供にもぜひ教えておいてあげなくちゃ。これが答えです。しかも主イエスご自身からの答えですから、十分に信用できます。詳しく聞き分けましょう。「わたしの父の家」。救い主イエスにとっての父は、私たちにとっても父です。主イエスを信じる私たちは、イエスをとおして父なる神さまの子供たちとしていただいたからです。だから、私たちの父の家です。そこは私たちにとっても自分の故郷であり、自分の実家であり、自分たちの家です。この父から決して忘れられることもなく、いつでも大歓迎で迎え入れられ、くつろいで安心してそこにいることが出来ます。自分たちの家なんですから。救い主イエスを信じて、ただそれだけで神の子供たちとしていただいた私たちです。ですから、神の子供たちのうちで最も弱々しい子供も、とても礼儀知らずな乱暴な子供も、神に背いてばかりいる不届きな子供も、つまりは最低最悪の、罪人の中の頭であり罪人中の罪人でさえ、その家から締め出されることがありません。「こんなつまらない、ちっぽけな私の居場所なんか無いかもしれない」などと誰も恐れたり怖じける必要もない。
  「あなたがたのために、場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎える。わたしのおる所にあなたがたもおらせる」と主イエスは仰る。ビックリです。主イエスが、父の家の中に私たち一人一人の場所を用意してくださる。主イエスが迎えに来てくださり、ご自身がおられる所に私たちをもおらせてくださる。なんと何から何まで、至れり尽くせりです。「彼のところに私たちが行くのを待っている」というのではなく、迎えに来てくださり、連れて行ってくださる。最初のクリスマスの夜、一回目に主イエスがこの世界に来てくださったとき、それは私たち罪人を神の子供たちとし、神さまと共に生きる新しい喜ばしい生命を贈り与えてくださるためでした。二回目に、やがて再び主イエスが来られるとき、それは主イエスを信じて生きる私たちにとって、一回目に負けず劣らずに慰め深い出来事となります。なぜなら天にある私たちの父の家、自分の故郷、自分の実家、自分たちの家に迎え入れていただく時となるのですから。
5-6節、「トマスはイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう』。イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」。弟子のトマスはとても良い質問をしました。おかげで、大事な答えを聴くことが出来ました。救い主イエスが仰いました。『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』。「救いとすべての幸いを用意して父なる神さまが待ち構えておられます。その父の御もとへと辿り着くためのただ一本の道があり、その父なる神さまを信じて幸いに生きて死ぬことが出来るために知るべき真理があり、そのようにして受け取る格別なただ一つの朽ちない生命がある。それが私だ」と救い主イエスは仰る。このことを私たちクリスチャンとすべてのキリスト教会は信じています。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」、つまり、主イエスという一本道を歩き、主イエスから学び、主イエスから生命を受け取り続けて生きるならば、誰でも、必ずきっと父なる神さまのみもとに辿り着くことができる。そして、用意されている救いとすべての幸いを受け取りつづける。
では、これらのことについて何と言ったらよいでしょうか。神さまが私たちの味方です。いつ? もちろんいつでもです。生まれる前から、今までも今も、死んだあとでも。それならいったい誰が私たちを困らせたり、悪さをしたり、苦しめたりできるでしょう。誰が私たちを訴えたり、「こんな悪いことをした悪い人間だ」などと悪口を言ったりできるでしょう。誰にも何一つも手出しができません。なぜ? 神さまが私たちの味方ですから。御父がご自身の独り子イエスをさえ惜しまず死に渡し、墓に葬り、三日目によみがえらせてくださったからです。その御父が御子イエスと共に私たちをも新しい生命に生きさせてくださるからです。御子イエス・キリストを贈り与えてくださった父なる神さまが、御子イエスとともに、すべて何でも私たちに贈り与えてくださらないはずがないからです。キリスト・イエスは死んで、いいえ、ただ十字架につけられて死んだだけではなくて 葬られ、その三日目に墓からよみがえって、父なる神さまの右にある王様のイスに座り、世界全部、生き物たち全部とともに私たちのためにも、力を存分に働かせてくださるからです。だからもう私たちは今でははっきり信じています。はっきりと知っています。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他、神さまに造られたにすぎないどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示され、手渡された神の愛から、わたしたちを引き離すことは決してできないのだということを(ヘブル手紙11:13-16,ピリピ手紙3:20-21,ローマ手紙 8:31-39参照)
  これで私たちも今では、湖で溺れかけたペテロよりも安心です。風も波も従わせ、私たちの揺さぶられやすい危うい心をさえ鎮めることのできるただお独りの方を、主イエスを知っているし、そのお方をこそ本気で信じてもいるからです。『生きていても死んだ後でも、なにしろ主イエスが一緒にいてくださる。一緒にいるだけでなく、ちゃんと守って助けてくだる。どこからでも何があっても、だから大丈夫』と太鼓判を押されているからです。この私たちは主なる神さまのもとに立ち返って、そこで落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば、力を得る。力を得つづける。なぜ? 主なる神さまを喜び祝うことこそ私たちの力の源であり、力そのものであるからです(イザヤ30:15-17,マタイ28:18-20,ネヘミヤ記8:10を参照)。しかも、今ではとうとう、そのように生きて死ぬことを本気で願い求めてもいるからです。なんという恵み、なんという幸いでしょう。