2019年8月26日月曜日

8/25「多くゆるされたので、多く愛することができる」ルカ7:36-50


                      みことば/2019,8,25(主日礼拝)  229
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:36-50                         日本キリスト教会 上田教会
『多くゆるされたので、
多く愛することができる』



牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 7:36 あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。37 するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、38 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。39 イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。40 そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。42 ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。43 シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。       (ルカ福音書 6:22-23)

  救い主イエスが食事の席についているとき、神に逆らい、「自分が自分が」と言い張りつづけて生きてきた一人の罪深い女性が入ってきました。彼女は主の足元に近寄り、泣きながらその足を自分の涙で濡らしはじめ、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗りました。長い旅路を歩んできて、主イエスの足は疲れ、土埃と泥に汚れていました。イスラエルの土地一体は乾燥して埃っぽい地方でしたから、その当時も今も、旅人の足を水で洗ってあげることが格別なもてなしとされます。彼女は水ではなく、自分の涙で主の足を洗い、足に接吻し、自分の髪の毛で主の足の泥をぬぐいました。彼女は、主イエスを愛し、とても大切に思っていました。その愛には理由がありました。いいえ、むしろ愛さずにはいられなかったのです。
 39-43節です。主イエスを家に招いたパリサイ人のシモンは、心に思っていました;「彼女は罪深い女だ。あんな悪いことも、こんな恥ずかしいこともしている。神さまにも世間の人々にも顔向けできない、価値のないつまらない汚れた存在だ。それなのにこのイエスという方は、自分にふれている女が誰でどういう人物なのか気がつかないのだろうか。それじゃあ、預言者失格だな」。「それは罪の女なのだ」と考える彼はもちろん、それと一組にして「けれど自分こそは信仰深く正しく立派な人間だ」と堅く思い込んでいます。そのようにあの彼も、神の義も憐みも知らず、ただ自分の義を立てようと努めるばかりで、神の義に背きつづけます(ローマ手紙10:1-4参照)。そこで主イエスは、たとえ話で語りかけます。41-43節、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
 44-46節。この女の姿に照らして、あなたは自分自身を振り返ってみなさい、と主イエスは促しています。「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。彼女は主なる神さまを多く愛しており、その主をとても大切に思っている。主を愛さずにはいられないこの一人の人を見なさい。あなた自身を振り返って、あなた自身の姿と普段のいつものあり方をつくづくと見てごらんなさい。
  すべての人間は罪深く、ほかの誰に対してよりも何しろ神ご自身に対して大きな負い目があります。その罪を、聖書は『借金』と言い表しました。神が私たちの罪をゆるす。それは、あまりに気前のよい金持ちが、自分に多くの借金をしている者たちに同情して、あわれんで、その借金をすべて帳消しにしてやることに似ています。罪のゆるしは、神さまから私たちへの借金帳消しの恵みだったのです。「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15)と聖書は証言します。それは「救い主イエスは、神に対して莫大な借金を負っている私たちのその借金を帳消しにしてくださるために、来られた」ということです。じゃあ、あなたは、いくらくらい神さまに借金しているでしょうか? 500日分の労働賃金(=500デナリ)? それとも、ほんの1日分か2日分の労働賃金(=1デナリか、2デナリくらい)でしょうか? あるいは「神に対しても人様に対しても、私には何の負い目もない」と答えましょうか。「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と問われました。つまり、どちらが多く主なる神さまを愛するか。帳消しにしてもらった借金の額の多い方です。多くをゆるされた。だからその結果、あの彼女は多く愛する。「愛しなさい」と命じられても、「愛するべきだ」と教えられても、私たちは愛することなどできません。それは理屈ではなく、知識でもなく、責任でも義務でもないからです。
 なぜなら兄弟たち。あのパリサイ人のシモンだって、主イエスと出会いたいと心の底では願っていたからです。神はどんな神なのかを、あのシモンはすでに聞いていました。人間はみな罪深い、とも教わってきました。そこまではあの彼にも理解することができ、受けとめることができたのです。「なるほど一般論としては分かる。それはそうだろう」と。けれど残念なことにシモンは、この自分自身がとてもとても罪深く、この自分もまた主なる神さまに対してあまりに沢山の借金を負っている、とは知りませんでした。多くの借金を帳消しにしていただいている、とも知りませんでした。主なる神さまがこの自分をさえあわれんでくださったことも、あわれみを受けた自分であることも、あの彼は知りませんでした。信仰深くとても正しい私だと思うばかりで、そんなこと思ってもみませんでした。この信仰は、『多くの借金をすべて帳消しにしていただいた。皆がそうだというだけではなく、この私こそが本当にまったくそうだ』と知る信仰です。
 さて、主イエスに香油を注ぐことには、意味がありました。別の福音書では主イエスご自身が直々に説き明かします、「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイ福音書26:12-13。神さまが私たちを多く愛し、多くゆるしてくださったことは、御子である救い主イエス・キリストが私たちのために死んで復活してくださったことによって分かります。そのようにして神は私たちに対する愛を示されたからです。父なる神がご自身の御子をさえ惜しまず私たちすべての者のために死に渡し、葬ってくださったことによって分かります。だからこそ御子だけでなく、御子イエス・キリストと共に万物をも贈り与えてくださらないはずがないと(ローマ手紙5:8,8:31-32。御子キリストの死と葬りと復活によって、この私もまたたしかに神さまから多く愛され、多くゆるされていると知ります。
 たとえ主イエスを信じる信仰が私に足りなくても、主を愛する愛が私に乏しくても、ゆるすことも受け入れることも少ない私だとしても、身勝手で心の狭い冷淡な私であるとしても、それでもなお主は、そんな私をさえ愛してくださっている。私たちのための神の愛が、いつ、どんなふうに注がれたのかを、聖書ははっきりと証言しています。それは、私たちが弱かったときにです。信じる信仰がなお乏しく、不確かであったとき、神に逆らいつづける罪人であり、神の敵でさえあったときに、すでに神は私たちを愛したのです。イエス・キリストによってその愛が決定的に示されています(ローマ手紙5:5-)
 兄弟たち。神の民とされたイスラエルは、たびたび手痛い打撃を受け、瓦礫の中に放り出されました。この私たちは、どうやって立ち上がるでしょうか。どうやって、ふたたび平和を、慰め深い心強い生活を取り戻すでしょうか。私たちは。私の夫や妻は。息子や娘たちは、どんなふうに新しい一歩を踏み出してゆけるでしょうか。神の民である私たちにとって、それは、聖書に養われた世代が育つかどうかにかかっています。例えば聖餐式のとき、なぜ私たちは主の食卓からパンを食べ、主の杯から共々に飲み干すのか。「あなたは取って食べなさい。これは私の体である」と命じられているからです。「この杯から飲みなさい。私の血による新しい契約である」と命令されているからです。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(コリント手紙(1)11:27-29)とも戒められていますから、だから私たちは自分自身をつくづくと振り返って確かめてみます。この自分はいったい何者なのか。あまりに罪深い。このような恵みを受け取るのに値しない、まったくふさわしくない私。その通りです。しかも、そんなことを百も承知の神さまが、よくよく分かったうえでそのあなたや私を招いてくださっている。それならば、キリストの教会とその兄弟姉妹たちと、また自分自身とを、この私たちはいったいどう取り扱うことができるだろうか。どうやって慎み弁えていようかと本気になって思い悩み、考え込むこともします。自分自身に対する裁きを飲み食いするばかりでなく、命と幸いを受け取りつづけるために、どうやってこの一日一日を暮らしていこうかと。
  目の前に聖晩餐のパンと杯があってもなくても、家にいても学校や職場にいても道を歩いているときにも、誰といっしょのときにも、ただただ主の御心にかなうことをなしたいと願い、御心に背くことを決してしないでおこうと肝に銘じているからです。キリストの律法をもっているからですし、その律法にこそ従って生きてゆこうと腹をくくっているからです。なにしろ私たちは、ゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘をさえ詳しく告げ知らされ、自分自身の魂によくよく刻み込んでいるからです。もちろん私たちもまた生身の、自己主張があまりに強すぎる人間に過ぎません。他の人たちとだいたい同じように、「好きだ嫌いだ。~したい、したくない」と自分自身の気分や好き嫌いを先立てたくなります。ですから、そこからいよいよクリスチャンとしての悪戦苦闘が始まっていきます。

            ◇

「思いやり深く、寛大で、心やさしい目で人を温かく受け止めてあげることが私にはどうしてかなかなか出来ない。どうも苦手だ。ついつい他人を冷淡に厳しく評価し、欠点をあげつらい、不平不満を言い立てたくなる。どうして私はこういう人間なんだろうか」と、悩んでしまいます。まるで、ほんのわずかしか愛されず、ほんのわずかしかゆるされてこなかった人のように、物寂しく傲慢な気分に取りつかれつづけるのは、いったいどういうわけなのかと。どうして私たちはあの女性のようではなく、度々くりかえしてパリサイ人のシモンのようなのでしょうか。実は、それにははっきりした理由があります。あの女性と同じくらいに、とても多く愛され、ゆるしがたい多くの罪と咎をゆるされつづけてきた私たちです。だから本来ならば、どこの誰をもとても多く愛し、どこまでもどこまでもゆるすことができるはずの私たちです。けれど、ゆるされたことも愛されたこともすっかり忘れてしまいました。おかげで、心がかたくなになり、冷え冷えとし、了見がとても狭く貧しくなりました。神の憐みのもとへと立ち返るためには、愛され、ゆるされてきた一つ一つを思い出すことです。聖書は語りかけます、「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる」(詩103:1-5。主から与えられたすべての恵みを、私たちはなんとしても心に留めねばなりません。せっかく与えられてきた主なる神さまからの恵みを、この自分自身が受け取るためにです。すでに十分に与えられてきた良いもので満ち足り、喜び祝い、感謝にあふれるためにです。あのとき、あの罪深い一人の女性は、実は、与えていたのではなく、受け取っていたのです。貧しく膝を屈めながら、なお豊かに満たされました。涙を流しながら、自分のために注がれていた主の涙を思い起こしました。注がれていた主のあわれみによって、自分の足も手も頭も全身すっかり洗っていただいたのでした。身をかがめて足の泥をぬぐってあげたとき、自分もまた、そのように罪深さもいたらなさも、貧しさも汚れも拭っていただいたことを思い起こしました。しもべのように身を低くかがめて下さった主と、そこで、そのようにして出会ったのです。主への感謝と、主への信頼と、主イエスへと一途に向かうはずの願いを、そこで、しみじみと噛みしめていました。
  48節で、「あなたの罪はゆるされた」。神に逆らって生きることが罪の中身です。ですから、神に逆らうことを止めて、神の御心と指図に素直に従って生きはじめることが救いの中身です。彼女も私たちも、それができるようにしていただきました。
 主イエスはこの女の人に最後に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。その信仰は、神さまから自分がしていただいた良いことを「あのことと、あのことと、あのことと」と、ちゃんと覚えていて、喜んで感謝している信仰です。それこそがその人を救いつづけ、幸いをもたらしつづけます。だから、この人も私たちも安心して一日ずつを暮らすことが出来ます。