2018年6月4日月曜日

6/3「神殿の垂れ幕が真二つに裂けた」マタイ27:45-56


                    みことば/2018,6,3(主日礼拝)  165
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:45-56               日本キリスト教会 上田教会
『神殿の垂れ幕が真二つに裂けた』
 
 
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
                                                      (マタイ福音書 27:45-56)
                 この信仰は、十字架と復活の救い主イエスを仰ぐ信仰です。私たちは、十字架につけられて死んで葬られ、その三日目に墓からよみがえったお独りの方を主と仰ぎ、このお独りの方に信頼を寄せ、願い求め、聴き従って生きる者たちです。でも、それは一体どういうことでしょうか。51節、主イエスが十字架の上で息を引き取ったとき、「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」と聖書は報告します。この一点に目を凝らしましょう。神殿敷地内の区分は基本的には神社や寺などと似ています。簡単に言うと、境内には本殿という建物と庭があります。
 
 
 
 
 
 
(略図を参照のこと)本殿は垂れ幕(=幕)によって大きく2つの部分に区切られます。垂れ幕の奥が「至聖所(しせいじょ)=最も聖なる場所」、手前が「聖所=聖なる場所」。最も聖なる場所である至聖所は、ただ神だけの場所です。たとえご立派で偉い大祭司といえども、みだりに気軽に立ち入ることは許されません。「大贖罪日(だいしょくざいび)」と呼ばれる特別な日があります。1年にただ1回、その大贖罪日に、大祭司がただ1人でそこに入って務めを果たすことが許されます(レビ16:1-。ある時までは、神聖なものに近づくための格付けと序列と区別がありました。神殿の境内は、その神聖さの度合いによって何重にも区切られました。その見取り図の、至聖所からもっとも遠い、入口付近の狭い片隅。神を信じる外国人が足を踏み入れていいのは、ここまでです。次に、ユダヤ人の女性たちや小さな子供が近づいていいのは、ここまでです。成人したユダヤ人男性信者が近づいていいのは、ここまで。本殿を取り囲むすぐ近くの庭は、一般の聖職者たちだけが入れます。そして、最も奥深く隠れた場所が、神さまだけの、あまりに神聖な場所。なんということでしょう。こうしてただ、《聖なる神》と《人間》とが隔てられただけではありませんでした。たかだか人間にすぎない者たちの間でも、その神聖さと罪深さの度合いに応じて、それぞれに格付けされ、神聖なものに近づくための区別と序列と階級と準備段階と条件とを、こまごま取り決められました。神殿の垂れ幕こそが、その差別と分け隔てのしるしであり、出発点でした。隔てられつづけた神さまは、彼ら下々(しもじも)の者たちにとって畏れ多くて、あまりに遠く隔たっていました。

大洪水の後、箱舟から出たノアと家族とすべての生き物たちが最初にしたのは礼拝でした。共に生き延びたすべての生き物たちが、その礼拝に参加したのです。救いの契約は、人間たちばかりでなく、すべての生き物たちのための契約でもありました。アブラハムとその家族のためにも、同じ祝福が差し出されました。あなたたちばかりではなく、地上のすべての生き物は、あなたたちによって祝福に入る。あなたたちは祝福の源なのだと(創世記8:16-21,9:9-17,12:1-3。また例えば、エジプトから出て行くために、エジプトの王様と交渉をしたとき、モーセたちは、「荒れ野で礼拝をさせてほしい」と願い出ました。王様は質問しました;「いいけど、誰と誰がその礼拝に参加するのか?」。モーセたちは答えました。「わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。わたしたちは主の祭を執り行わなければならないのですから」(出エジプト記10:9,24-26。男たちだけで行け、と王様は言い張りました。いいえ女も子供も、首の座っていない小さな小さな赤ちゃんも一緒に連れて行きます。じゃあ羊と牛は残していけ、豚も鶏もどうせ人間様の言葉も祈りも分からないだろう。うるさくて不潔で足手まといで、邪魔なだけだろ。いいえ、とモーセたちは踏み止まりました。羊も牛も豚も鶏もみな連れて行きますと。これが、神の民とされた先祖と私たちの基本の心得です。

  ある人は、教えられた通りに、こう祈っています。「小さく弱い私ですが、神さま、どうぞよろしくお願いいたします」。よい祈りですね。しかも、とても良い心得です。聖書が教えるとおりですし、♪『主われを愛す』1954年版讃美歌の461番)が歌う通りの祈りです。「小さく弱いわたしですが」。その通り。確かに、あなたは小さく弱い。神の恵みにまったく値しない。そのくせ、かなり大きくて強い私だ、かなりご立派と思い込んで、格式も気位もやたら高すぎる私たちです。ふつつかな所がたくさんあるし、至らない所もたくさんある。自分勝手で了見の狭い所もたくさんある。けれど神さま、どうぞよろしくと願い求め、そのようにとても寛大に慈しみ深く取り扱っていただきつづけてきたあなたです。そこにはまた、「小さく弱い」のは私だけじゃなく、1人の例外もなく誰もかれもが皆「小さく弱い」という根本的な人間理解を含みます。あなたの夫も、妻も、子供たちも孫たちも、職場の仲間たちも上司も部下も。教会の兄弟姉妹たちも、牧師も長老も執事たち全員も。つまりは、小さく弱い、ふつつかな所がたくさんある、至らない所もたくさんある、自分勝手で了見の狭い所もたくさんある者同士であるということです。けれど神さま、どうぞよろしくと願い求め、ふつつかで至らない山ほどのことを大目に見ていただき、勘弁していただいている者同士だということです。「ああ本当にそうだ」と、それを腹にすえて、そこでようやく私たちは、互いにゆるし合う者とされます。エペソ手紙2章は互いに平和であることの秘訣を証言しています;「 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エペソ手紙2:14-16敵意と差別と分け隔ての目に見える具体的なしるしが神殿の垂れ幕でした。それが上から下まで真っ二つに引き裂かれました。もう100回も言いつづけていますが、神さまは分け隔てをなさいません。それをし続けているのは、もっぱら私たち人間のほうです。今日のキリスト教会の中にさえ、この私たちの間にも、『敵意という隔ての壁』が取り壊されないままで、あちこちに残されています。「犬猫も、ネズミもかたつむりもなめくじも礼拝堂の中にいて良いです」と答えつづけています。「人間中心の世界や教会ではなく、大人中心の世界や教会でもなく、クリスチャン中心の世界や教会でもない。分け隔てをなさらない神さまを中心にする教会であるなら、どうして私たちは、お互いにいつまでも分け隔てをし、差別し、見上げたり見下したりしあっていて良いでしょうか。神に造られた被造物同士として、互いに重んじ合う責任があります」。犬猫を平気で分け隔てする人々は、必ず、小さな子供や赤ちゃんが泣いたり、むずがって動き回ろうとするとき、うるさくて邪魔だから外に追い出せと言いはじめます。気に入らない誰彼を片隅へ片隅へと押しのけようとするはずです。この私たちこそが世界の中心だしご主人様だ、と勘違いしているからです。201438日の、埼玉県のサッカー場で『日本人以外お断り』と手書きされた横断幕が試合の間中ずっと掲げられつづけた事件を、私たちも決して忘れてはなりません(試合が始まる前から掲げられていました。何人かが気づいて、「とても悪いことだから、すぐ降ろしたほうがいいよ。止めさせなさい」と忠告しました。けれど結局、試合が終わるまでずっと、その恥ずかしい、薄汚い、よこしまで、あまりに生臭い横断幕は掲げられ続けました)。忘れないでおくために、心に痛みを覚えて恥ずかしく思うために、観客がいない中での公式試合というきびしい罰が課せられました。浦和レッズを応援するファンたちも、チームの役員も監督も選手たちも、サッカーにあまり関心のない私たちさえ、この恥ずかしさと愚かで頑固すぎる心を覚えつづける必要があります。この1回だけの醜態ではありません。日本に住む外国人たちへの、あまりに過激で毒々しい差別的発言活動が、あちこちで起こりつづけています。大変に恥ずかしく、また申し訳ないことです。日本だけではありません。経済的・政治的状況が悪化しつづける中で、世界各国で自分たちの国や民族を愛し、尊ぼうとする市民運動が過熱しています。アメリカでもロシアでもアジア諸国でもヨーロッパでも、そしてこの日本でも。ほんの数十年前のこと、アメリカ合衆国でも南アフリカ共和国でも、黒人を差別して狭い金網の中に閉じ込めていたのは、実は、私たちクリスチャンでした。日曜日には、「あなたの隣人を愛しなさい」とよくよく教えられていましたが、肌の色も喋り方も少し違うあの彼らが隣人だなどとは思ってもみませんでした。白人同士だけが隣人で人間様で、黒いのや黄色いのは他の家畜や、好きなように扱っていい道具やモノだと思っていました。ビックリでしょ。自分たちの国や民族を愛し、誇りをもつことは、他の国や民族を軽蔑し、憎み、押し退けようとする心としばしばひと組のようにして高まりました。自分たちとほんの少し違う人々をバカにし、見下し、除け者にして喜ぶ。そういう習慣と性分は、ヨソにもこの国にも大昔からありました。これからも無くならないでしょう。アジア諸国の同胞たちを憎んだりバカにするのもこのためです。農業訓練生、職業実習生などと都合のいい美しい肩書きをつけて、安くコキ使いつづけて、日曜も休日もなく夜通しレタスを収穫させつづけても心が少しも痛まないのもこのためです。同じ日本人の中にも士農工商という4つの身分の下にエタ・非人という階級をわざわざ作ったのも、このためです。誰かを分け隔てし、憎んだり見下したりすると、なぜだか気分がスーッとしました。それだけで、自分たちの価値がいくらか上等になったような気もしました。小学校中学校、高校でも、大人たちの会社でもどこでも『いじめ』があるらしいです。ほんの少し違う人々を探し出し、分け隔てしたり見下したり除け者にする。するとストレス解消になり、まるで自分が強く賢く、なんだか上等なモノになったかのような良い気分を味わえました。麻薬のような効果があったのです。だからこそ特に私たちクリスチャンは『自分を愛するように、同じく負けず劣らずに、あなたの隣人を愛し、尊びなさい(マルコ福音書12:31,レビ記19:16』ときびしく戒められつづけます。自分の兄弟や身内や親しい友人たちにだけ挨拶し、愛想よく振舞ったところで、どんな優れたことをしたことになろう。それくらいなら誰でも普通にやっていると釘を刺されます(マタイ福音書5:46-47参照)

  主イエスが息を引き取ったとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれました。もし、あの時あの出来事が起らなかったとしたならば、神殿も世界も、私たちのいつもの生活も思いも、大きく2つの部分に隔てられたままだったかも知れません。《聖なる神さまの領域》と《俗なる人間たちの領域》。それどころか、かなりご立派な人たち。ボチボチ立派な人たち。ホドホドに立派な人たち。かなり大きな大人物。中くらいの大人物。わりと小さめの大人物たち、などなどと。区別したりされたり、誉めたりけなしたり、崇めたり見下したりと、トッカエヒッカエ値踏みしあう虚しく淋しい世界に、私たちはいまだに首までドップリと浸かっていたことでしょう。けれども神に感謝をしたします。主イエスが息を引き取られたとき、神さまと私たちを互いに遠く隔てていたものが、そして私たち人間同士を互いに隔てていたものが、引き裂かれました。上から下まで真っ二つに。主イエスの十字架の死によってです。その流された血と、引き裂かれた体によってです。隔てていたものが引き裂かれ、取り除かれました。しかもそれ以前に、主イエスは除け者にされていた人々や馬鹿にされて見下されていた人々と親しい友だち同士になってくださいました。軽々しく「罪人」と決めつけられて、レッテルを貼られていた取税人や遊女たち、重い皮膚病を患う者たち、外国人、墓場に鎖や足かせで閉じ込められていた惨めな人々と。わざわざその人たちの所に出かけてゆき、手を差し伸べ、食事を共にして。「罪人を救うためにこの世界に来られた」(テモテ手紙(1)1:15と証言されているとおりに。だから それで今では、罪深い者も愚かな者も、聖なる神さまに安心して近づいてゆくことができるのです。晴れ晴れ、清々として。背筋をピンと伸ばして。深く息をついて、胸を張ってです。私たちはまた、《ゆるされた罪人同士》として、お互いに近づいてゆくこともできます。なんの遠慮も気兼ねもなく。そのための、新しい生きた道が開かれてあります。主イエスご自身がこう断固として証言なさいます;「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6。父なる神のもとに行くためのただ一本の道があり、その父を知るためのただ一つの真理があり、父の恵みのもとに立って一日ずつを生きるためのただ一つの格別な生命がある。それが私だ、と主は仰います。もし、その父のもとへと辿り着きたいと願うならば、この主こそただ一本の道、ただ一つの真理、受け取るべきただ一つの生命であると。私たちの信仰は、ここに立っています。救い主イエスの生命をもって神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれ、神と人とを隔てるものが取り除かれました。私たちの間の敵意と恐れという名前の隔ての中垣(エペソ2:14も、区別も差別も取り除かれました。一つまた一つと、日毎に取り除かれつづけます。憐れみを受け、ゆるされた罪人同士だからです。その晴れ晴れ清々とした道を通って、この私たちは歩いてゆくからです。しかも、いつどこで何をしていても、誰と一緒のときにも、ただ独りで過ごす日々にさえ、主なる神さまがほんの片時も離れずに共にいてくださいます。見なさい、そこに主がおられます(創世記28:16-17,139:7-10,申命記31:8