みことば/2018,6,17(主日礼拝) № 167
◎礼拝説教 マタイ福音書 28:1-10 日本キリスト教会 上田教会
『主イエスの復活、私たちの復活』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。2
すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。4
見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6
もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。8
そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。10
そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。 (マタイ福音書 28:1-10)
主イエスは十字架にかかって殺されてしまいました。それが金曜日の出来事です。主イエスの遺体は十字架から降ろされ、墓に葬られました。墓穴の入り口には大きな重い石が置かれ、番兵まで付けられました。「誰かが死体を盗んでいくかもしれない。主イエスは復活して今も生きているなどと嘘の噂でみんなを騙すかもしれない。そんなことになったら大変だ」と彼らは恐れたからです。日曜日の朝、夜が明けはじめる頃に、女の人たちが2人で主イエスの墓を見に行きました。そう、ここには恐がっている人たちの恐がっている様子がいっぱい出てきました。墓石の前に立って番をしていた番兵たちもガタガタ震えて、まるで死んだ人のようになっていました。主イエスの弟子たちもそうでした。あの女の人たちもやっぱりそうで、いろんなことを恐れていました。「墓を塞いでいる大きな石をいったいどうやって脇へよけたらいいだろうか、誰かが手伝ってくれるだろうか」と心細かったし、番をしているローマ人の兵隊たちが恐かったし、「主イエスを憎んで殺してしまった人たちが今度は私たちをどんな目にあわせるか、何をされるか分からない」と恐がりました。いったいこれからは何を頼みの綱として、誰を頼りに生きていけるだろうかと心細かったのです。そんな彼女たちに「恐れることはない」(5,10節)と、御使いたちと主イエスご自身から繰り返して語られます。誰だっていろんなものが恐いし、強がって見せても誰でも本当はすごく心細い。小さな子供がいろんなものを恐がるだけでなく、お母さんもお父さんも。普段はとても堂々として何があってもビクともしないって顔をしている大きな立派そうに見える人であっても、やっぱりいろんなものを恐がっているし、本当はとても心細いのです。だからわざと堂々としているふりをして強がって見せています。ずいぶん長く、しかもとても幸いに生きてきたはずのおじいさんもおばあさんも。恐いものなんて一つもないなんていう人は誰一人もいません。神さまはそれがよくよく分かっています。分かった上で、「恐がらなくていい。恐がらないあなたにしてあげよう」と招いてくださっています。すごく臆病な飛びっきり弱虫のあなたでも、晴れ晴れのびのびと安心して生きていけるあなたにしてあげよう、と誘ってくださっています。
10節。主イエスはおっしゃいました。「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう、と告げなさい」。故郷のガリラヤで弟子たちに会って、それで主イエスはどうなさるのでしょう。「わたしの兄弟たち」と言っています。あの弱虫の臆病な、それで主イエスを見捨てて自分たちだけ勝手に逃げてしまった弟子たちを、です。周りの大きな人々を恐れる思いの中で主イエスを信じる心がすっかり吹き飛ばされてしまった、あの肝っ玉の小さな弟子たちを、「わたしの大切な仲間だし、兄弟同士だ」と。あの彼らをもう一度集めて、神の国の福音を人々に伝える仕事をさせるのです。あの弟子たちはごく普通の貧しい漁師たちでした。特別に勉強がよくできたわけではなく、頭が良いわけではなく賢いわけでもなく、しかも今度は主イエスを見捨てて逃げ出した人たちです。「ああダメな自分だ。弱々しくて心細くて、全然当てにならない私だ」とガッカリしている人たちが、そのまま神さまの福音を伝える人にされます。どういうこと? そんな弱々しくてつまらない人を使わなくてはならないほど、よっぽど人手不足なのでしょうか? いいえ、とんでもない。わざわざそういう人たちにこそ、神の国の福音を伝える仕事をさせるのです。弟子たちがそうだったし、その弟子たちを呼びに行かせた女の人たちもとても心細くて恐がっていました。わざわざそういう人たちを使うのは、神の国の福音がそういう心細くて弱々しくて恐がっている小さな貧しい人たちのためのものだからです(コリント手紙(1)1:26-)。
「救い主イエス・キリストは復活した」と彼らは言います。でも、それは本当のことなのでしょうか? 「弟子たちが夜中に来て、私たちが寝ている間にこっそりと彼の死体を盗んでいった。どこか別のところに死体を隠して、『イエスは死者の中から復活した』などと嘘ッパチの作り事を言いふらして、人々を惑わせている」(マタイ27:63-,28:13-参照)と言う人々も大勢います。ここで私たちも、あのときのあの彼らとまったく同じ場所に立たされます。どんなふうに生きていくのかという分かれ道に、です。今日の礼拝の一番最初に、聖書がどんなことを語ったのかを覚えていますか。コリント手紙(1)15:17-20;「キリストが復活しなかったのなら、私たちの信仰はむなしく、私たちは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も皆むなしく滅んでしまったわけだし、私たちも惨めなまま滅んでしまうほかないわけです。この世の生活の中だけで、あるいは頭の中やただ心の中でだけ、キリストにほんのちょっと望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。これが、この信仰と、そこにある慰めの中身です。
けれどどうしたわけか、「もっと慰めの言葉を聞きたい」と言われつづけます。「もっと人を活かす言葉を」と。奇妙なことです。キリスト教会と伝道者たちはそうした要望に応えようと慰めと癒しの言葉を何十年も何百年も語り、けれどその言葉は虚しくこぼれ落ちつづけてきたのかも。いいえ神ご自身こそが私たち人間を癒し、人間とすべての生き物を活かそうとしてきたのではなかったでしょうか。聖書をとおし、また主の働き人たちを用いて、慰めと癒しの言葉を神ご自身が語りつづけてきたはずではありませんか。それなのに、どうしたことか。立ち止まって真に問うべきだったのは、どんな慰めなのか。どこから出てきた癒しなのか。人間とすべての生き物を救いと祝福へと招き入れようとする神ご自身からの慰めと救いなのか。神ご自身からのいのちと平安なのか。あるいは、別のところから出てきた、別の慰めと救いなのか。神ご自身も私たちも慰めや癒しを心から願いつづけているとして、けれどわたしたちが思い描き、願い求めている「慰め」や「癒し」は、どこへと向かわせる慰めなのか。偽りの預言者たちがかつても今も、神を忘れさせようとして、神から離れ去らせようとして虚しい慰めをささやきつづけているからです。だからこそ主の働き人たちは「主のもとへと立ち帰れ」と呼ばわりつづけ、「悔い改めて、福音を信ぜよ」と告げつづけてきました。そういえば、キリスト教の根本的な希望と慰めを告げるローマ手紙6章は、「もし、わたしたちが死んだのなら、~生きることになる。もし、わたしたちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きる」とクドクドと語りかけます。つまり、「もし、死ななかったのならば、~生きることには決してならない」と。洗礼を受けてクリスチャンとされ、2ヶ月たち3ヶ月たち、30年40年たって、けれどいっこうに新しい生命が始まる気配もない。どうしたわけか。もしかしたらずっと何十年も、古い罪の自分と死に別れ損なっているのかもしれません、この私たちこそが。古い罪の自分であることが大好きで、嫌だ嫌だとそこにしがみつきつづけているのかも知れません。この私たちこそが。死と滅びへと至る罪の奴隷状態のまま、罪と肉の思いにがんじがらめに閉じ込められつづけているのかもしれません、この私こそが。聖書自身が告げるところの『救い』の中身は、罪のゆるしです。罪あるままにいいよいいよと放置することではなく、罪深さにふかく囚われたまま平安平安と気安めを告げるのでもなく、罪の奴隷状態からの解放でありつづけます。罪から解放された者が神への従順に、具体的に現実的に新しく生きはじめることです。キリストが確かに十字架につけられ、死んで復活なさったからには、このわたしたち自身の内にある古い罪の自分もまたキリストと共に十字架につけられ、滅ぼされ、そのようにして新しい生命に生きる。それ抜きにして、どんな慰めや救いがありうるでしょう? 癒しを必要とする私たちですが、それは私たちがはなはだしく病んでいるからです。死と滅びに至る重い病いに。すると他のどの医者でもなく、格別に良い医者である神ご自身へと、私たち自身こそが大慌てで本気になって立ち戻らねばなりません。喜びと感謝にあふれて、晴れ晴れと生きるためには。主イエスは仰いました、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ福音書2:17)。
「クリスチャンになりたい。この主イエスというお独りの方を、本気で信じて生きて行きたい」と僕が願ったのが、30歳のときでした。あっという間に30年たちました。クリスチャンになった後でも、やっぱり恐いものがその都度その都度目の前にあって、次々にあって、悩んだり恐れたり、クヨクヨ考え込んで夜も眠れなくなるときもありました。多分きっと、心細さは死ぬまでついて回ります。それだけだったかというと、そうでもない。あの2人の女の人たちと同じに、「恐れながらも大喜びに喜んだ」(8節)のでした。本当です。あの女の人たちも同じでした。ただ恐かっただけなら、「伝えなさい」と言われても黙って知らんぷりしていたでしょう。ただ恐かっただけでなく、「大喜びに喜んだ」(8節)からこそ急いで走っていって、弟子たちに教えてあげることもできたのです。あなたや私も同じです。伝道伝道というけど、辛くて嫌なことなら、ただ苦労するだけの信仰なら、そんなつまらないものは人に押し付けてはいけません。自分だって、無理して我慢して抱えていなくてもいいんです。大きな喜びと慰めを味わった者だけしか、それを差し出すことはできません。「信仰をもって生きて来られて、本当に良かった。うれしかった。あのときも本当に心強く支えられ、慰められた。あの時もそうだった。あの時もあの時も。もし神さまが生きて働いていてくださらなかったら、その神を信じることができなかったとしたら、あの時、私はどうなっていたか分からない。つくづく私は幸せ者だ」と思い知ってきた、その格別な喜びと幸いを魂に刻み重ねてきた者だけしか、それを伝えることはできないのですから。主イエスは復活なさいました。その主が私たちに新しい生命を約束し、その生命の中に生きるようにと招いてくださっています。もし本当かも知れないと思えるなら、そして、そこにワクワクするような喜びがたくさんあるかも知れないと思えるなら、その誘いに乗ってみてもいい。そうでなければ、「いいえ、いいですよ。私は遠慮しておきます」と言ってそのまま通り過ぎてもいい。どっちでもいい。好きなほうを、あなたが自分で選ぶのです。
都に向かう旅の途上で、救い主イエスはご自分の十字架の死と葬りと復活を弟子たちにくりかえし予告しつづけました。今日でも、これこそが語られ続けます。主イエスの弟子たちよ。なぜなら主イエスが死んで復活なさったからには、主を信じて生きる私たち一人一人もまた古い罪の自分を殺して葬り去っていただき、それと引き換えのようにして新しい生命に生きる者とされるからです。主イエスは仰いました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ16:24-26)。もちろん主なる神さまは私たちに、喜びや楽しみをすっかり捨て去れなどと命じるのではありません。意味なく、ただやたらに苦痛や困難を求めよなどと乱暴な要求を突きつけるのでありません。けれど、鎮まって考えてみるならば、たしかに捨て去るべき『自分』があり、背負うべき『自分の十字架』があります。なぜなら、あまりに自己中心すぎる私たちです。小さな子供のように自分の気持ちや好き嫌いばかりを先立てて、それに頑固にしがみつき、「私は私は」と我を張りつづける私たちです。それでは、いつまでたっても主に従って生きる新しい生命が始まりません。肉の思い・腹の思いの言いなりにされて、それに引き回されて生きるなら、その惨めな私たちは死ぬほかはないからです。腹の思いと働きを殺すなら、そこでようやく私たちは生きるからです(ローマ8:12-13参照)。
不思議な言い方がされています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(25節)。自分の考えや願い通りに生きることが『自分の命』だと思い込んでいました。けれど、それは命でもなんでもなく、むしろ私を狭くて薄暗い場所に閉じ込めるだけの、古い罪の奴隷ではありませんか。そんなつまらない命を抱え続けていては、私たちはただウジウジと死んでゆくばかりです。そんな古い罪の自分などポイと投げ捨ててしまいましょう。「私の願いや気持ちや好き嫌いの通りではなく、ただただ御心のままになさってください」と、主イエスに従って生きることを、この私たちも、し始めることができます。もし、神さまからの新しい生命と慰めを求め、それだからこそ主イエスにこそ聴き従って生きてゆきたいと願うのならば。
もし、あなたがそれを願うのならば。