みことば/2018,6,24(主日礼拝) № 168
◎礼拝説教 マタイ福音書 28:16-20(最終回) 日本キリスト教会 上田教会
『しかし疑う者もいた』
+これから14回の礼拝説教予定
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 (マタイ福音書 28:16-20)
主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、その3日目に墓から復活なさいました。「故郷のガリラヤに帰り、あの山に登りなさい」と、その主から命じられていました。ですから命じられたとおりに、11人の弟子たちはガリラヤに行き、その山に登りました(16節)。そこで約束どおりに、復活なさった主イエスにお会いしました。17節で「イエスに会って、拝した」と書いてあります。主イエスに対してひれ伏し、この方を拝んでいます。旧約聖書の時代にも新約聖書の時代にもその後もずっと、彼らも私たちも、『ひれ伏したり、よくよく聞き従ったり拝んだりする相手は、ただただ神さまだけ』と決めている者たちです。主イエスが十字架におかかりになる前、弟子たちはイエスさまのことを「先生、先生」と呼んで、たいへんに尊敬したり、慕ったりしていました。けれど、だからと言って、ひれ伏したり拝んだりは滅多にしなかった。ご立派な偉い大先生だとは思っていても、いままではそんなことはほとんどしませんでした。復活したイエスさまと出会って、ここで弟子たちは『ああ。やっぱり神さまだったのか』とようやく信じて、主イエスに対して、ひれ伏し拝んでいるのです(マタイ28:9,17,エステル3:1-8,列王記上19:18)。
主イエスは命令なさいました。「わたしの弟子として、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ」(19-20節)。伝道伝道と、教会ではいつも熱心にいっています。そしてこの頃は、なんだかあまりうまくいかなくなって、チラシを山ほど配っても、友だちや近所の人や親戚や家族をいっしょうけんめいに誘っても、「じゃあ行ってみようか」と来てくれる人はほんの少ししかいないようです。そして皆は、「あら困った。どうしたらいいだろうか」と心細そうな顔つきで首を傾げているらしい。――え、どうしましょうですって。なんて言われていたんでしたっけ? 「わたしの弟子として、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ」。主イエスが仰ったことは、はっきりしています。主イエスの弟子にし、また主が教えてくださったことを守るように教えること。そして、主が教えてくださったその中身こそが、主イエスの弟子である私共を、がっちりと堅く守りつづけます。なぜするかといえば、ただただ主のご命令であり、「よろしく頼みますよ」と主が私たちに大事な仕事を任せてくださったからです。それなら私共は、すべきことをすればよい。「しなさいよ」と命じられていることを、私共は心を込めて精一杯にすればよい。
ひれ伏して、主イエスを礼拝する弟子たちの中には「疑う者もいた」(17節)、と報告されています。正直な報告です。でも正直すぎるんじゃありませんか?「そこまで報告しなくたっていいじゃないか。体裁が悪いし、世間様からの評判にも立派な格式にも傷がつく」と嫌な顔をする弟子たちもいるでしょう。「ちゃんと皆が信じた」と書いたほうが見栄えも体裁もいいのに。あるいは、「命じられていたとおりに山に登った。ひれ伏して拝んだ。すると主はこう仰った」とだけ報告しておけばいいのに。あまりにバカ正直すぎます。でも、なぜ? このように聖書を読んでいて引っかかる場所に出会うとき、私たちは立ち止まって、そこでよくよく考え込みましょう。「中には疑う者もいた」とわざわざ報告しているからには、そうすべき理由もあるはずです。主イエスは仰いました;「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。本当かな、どうだろうかと疑う者たちも含めて、弟子たち皆に向かってそう仰ったのです。だから、「さあ、どうだろうか」と心配になったり迷ったりする弟子たちも、嫌々渋々と、主イエスの福音を宣べ伝えるために出かけていきました。尻込みしはじめ、逃げ腰になっていた弟子たちも、こわごわ恐る恐る出かけていきました。
では、考えてみましょう。「そんな疑ったり迷ったりする弟子たちに大切な仕事を任せたって仕方がないじゃないか。そんなことでは、立派に務めをはたせるわけがない。主イエスをちゃんと十分に信じている、しっかりした弟子たちだけに福音を宣べ伝えさせたらいいじゃないか」と思いますか? いいえ、そうではありません。だって、主イエスは仰ったではありませんか、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから!」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから!」と。ね、よくよく覚えていてください。これがキリストの教会のための主イエスご自身からの約束なのです。疑ったり迷ったり、たびたび心配になったりオロオロしたりする弟子たちです。それでも疑いながらでも、命じられたとおりに出かけていきました。命じられたとおりに、洗礼を施し、主イエスの弟子とし、教えつづけました。今でもそうです。これからもずっとそうです。そしてまた、はじめにはよくよく信じていたはずの弟子たちも、出かけていって途中で、やっぱり疑ったり恐れたり、尻込みしたりし始めたでしょう。どうしましょう。大丈夫。あのときと同じように主イエスは近づいて来て、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから!」と語りかけてくださるからです。情けないような、ひどく惨めな気持ちになって、心がすっかり折れてしまいそうになる日々は誰にでも来ます。これからもそうでしょう。1個のキリスト教会にとっても、クリスチャンの家族1人1人にとっても。恐れや不安が山ほどあって、すっかり弱り果てて。そうしたら、ガリラヤの山の上で弟子たちに語りかけておられたその同じ主イエスが、その弟子たちの傍らにも近寄ってきて、語りかけます;「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9-10)。ね、あなたも聞きましたか。同じ主イエスからの同じ約束です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから!」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから!」と。しかも、この町には私の民が大勢いると主は仰るのです。「ほんの1人か2人くらいだろう。もしかしたら、主を信じる人なんて、この町には誰もいないのかも知れない」と諦めかけていました。そうではなかった。たとえ私たちが知らなくても、まだ顔も見たことがなくたって、その人たち自身が『自分は主イエスの弟子の1人だ』なんて、今はまだ全然思ってもいなくたって、けれど何しろ、「わたしの民が大勢いる。この町にいる」と断固として仰るのですから。それならこの上田市にも、佐久平にも川上村にも長野市周辺にも塩田地区、長瀬地区、中之条地区にも必ずきっと大勢いるでしょう。同じ1軒の家に暮らす家族の中にも、主ご自身の民が隠れていて、探し出されるのを今か今かと待ち詫びているかも知れません。「いつでもどこでもどんな時にも、私こそがちゃんと一緒にいる。だから!」と約束してくださった主イエスが、私共に命令しておられます。「わたしの弟子にしなさい。精一杯に教えなさい。あなたも尻込みしないで、さあ語りつづけなさい」と。
復活の主イエスにお会いしたあの山の上、疑う者もいました。主の弟子たちの疑いは何度も何度もブリ返します。たちの悪い風邪のように、治ったかと思ったら、またぶり返し、治ったかと思ったら、またぶり返し。どうしましょうか。そう言えば、聖書の中に登場する信仰者たちは、あまりに不信仰で、ほとんどみな疑う者たちばっかりです。例えば、信仰の父と母であるアブラハムとサラも夫婦共々に、ずいぶん長く待たされた後で「救いの約束をかなえますよ」と神さまから告げられて、「嘘オ、100才の私にどうして子が生まれよう。妻も90才にもなって、どうして子を産むことができようか。できるはずもない」「私は衰え、主人もまたお爺さんになったのに、私たちに楽しみなどあるはずもない」と疑って、苦々しく笑いました。例えば士師のギデオンも格別に臆病で、「本当ですか。証拠を見せてください。もう1回もう1回」と羊の毛皮を表にしたり裏返したり表にしたり裏返したりと神さまを疑いつづけました。洗礼者ヨハネの父さんザカリヤもそうでした。主の弟子トマスも、かなり徹底して疑いつづけました(創世記17:17,18:12,士師記6:36-40,ルカ1:18,ヨハネ20:25)。すると多分、あなたや私も似たような者です。そうだとしてもなお私たちも、心を新たにされ、造りかえられてゆき、何が神の御旨であるか、何をすべきか何をすべきではないのか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをだんだんと弁え知る者たちとされてゆくでしょう。生きて働いておられます神さまが、うかつな、気もそぞろの、あまりに不信仰なこの私たちにさえも、ちゃんと1つ1つ教えてくださるからです。なにしろ私たちは、主イエスの弟子とされ、主イエスから学びつづけよと命じられているのですから。教えられてきたことを守るようにと主イエスご自身から直々に命じられているのですから。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから!」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから!」と。
ひれ伏して礼拝する弟子たちの中には、疑う者たちもいた。「疑う」とは、「心が引き裂かれて分かれること、信じ切れない有様」です。それが主イエスに従う弟子たちのいつもの姿でありつづけました。例えば、ガリラヤ湖を粗末で小さな舟で漕ぎ渡ったとき、またその湖の湖畔で、彼らは度々、「疑って」「主を礼拝して」「疑って」「主を礼拝して」と繰り返しました。湖の上を歩く主イエスを弟子たちが見た(マタイ14:13,31-33)とき、わずかなパンと魚しかなかったのに多くの者が満たされたとき、疑い、心をさまよわせて、主から心を遠ざけようとしたとき、その度毎に彼らは主の格別な権威と力に深く驚いて、目を真ん丸に見開いて、膝を屈めさせられつづけました。主イエスとの間に距離を置こうとする弟子たちの方へ、復活の主の方から近づいて来られ、語りかけつづけます。心が引き裂かれ、信じ切れないでいる者たちも含めて弟子たち皆に、復活の主イエスは神の国の福音宣教を命じられる。つまりは主のものである働きに従事する只中でこそ、その疑いや信じ切れなさは少しずつ拭い去られていく他ないからです。主ご自身が近づいてこられ、語りかけてくださり、小舟の外側でも、自分自身の魂の内側でも吹き荒れる風や波を鎮めてくださる中で。私たちは信じたい。ますますはっきりと。
さて、もう一つのこと。私たちが行って、主イエスの弟子とし、洗礼を施し、主イエスから命じられていたいっさいのことを守るように教えるべき「すべての国民」(19節)とは、諸国民であり、諸民族です。やがてペンテコステの日に集まった人々は「自分の故郷の言葉で。わたしたちの言葉で」神の大きな働きを聞くのだし、そもそもアブラムへの祝福は「地のすべてのやから。地上の生き物たちすべて」(使徒2:6,11,創世12:3)のための祝福でした。またエジプトから脱出した神の民には、「多くの入り混じった群衆。種々雑多な人々」が新たに加えられてもいました(出エジプト12:38)。預言者イザヤに対して語られた宣教命令もまた、諸国、諸民族、様々な生まれや育ちや入り混じった境遇の者のためのものでありつづけます(イザヤ42:6,49:6,51:5,60:3)。しかも彼らは、それぞれ自分たちのいつもの生活の言葉で、神の大きな働きを、神の国の福音を聴くはずなのです。何とかして何人かでも救いに案内するため、むしろこの自分自身が福音に共にあずかる者となるために、その彼らのようになりなさいと私たちは促されつづけています(コリント手紙(1)9:22-23)。「わたしの弟子にしなさい。洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えなさい」(19-20節)。
◇ ◇
なぜ、伝道であり宣教なのか。いったい何をするのか。何のために、それをするのか。19-20節の主のご委託とご命令はあまりに明確です。けれど、それと私たち自身の目の付けどころ、腹の据え方は、ちゃんと、よくよく一致しているでしょうか。主イエスの弟子にし、また主が教えてくださったことを守るように教える。主が教えてくださった中身こそが弟子たちを守るのです。なぜするかといえば、店が傾きかけているからでもなく、赤字続きで倒産しかけているからでもなく、閑古鳥が鳴きはじめているからでもありません。ただただ主のご命令とご委託であり、私たち自身と家族のための救いの約束だからです。それなら、すべきことをすればよい。できることを、せよと命じられたことを、精一杯になせばよい。してはならないと戒められていることは、決してしてはなりません。そのとき強い風や荒々しい大波に気がついて、私たちは怖くなるでしょうか。足元から沈みかけ、波が打ち寄せ、怖くなるでしょうか。なります。それならば、「主よ助けてください」(マタイ14:30)と叫べばよい。必死に、主にしがみつけばよい。大慌てで、主の足元に駆け戻ればよい。主イエスの弟子たち、よくよく習い覚えてきたのはこのことです。疑う者も心をまよわせる者もいる。疑いや迷いは再燃し続けます。大丈夫。教えと、一切の権威を携えた主ご自身は、いつでも、どこで何をしていても、私どものすぐ近くにおられます(申命記30:11-14,ピリピ手紙4:5)。ご主人さまであられる救い主イエス。その主にこそ全幅の信頼を寄せ、聴き従って一日また一日と生きる弟子である私たちです。
+これから14回の礼拝説教の予定
7月 1日 テモテ手紙(1)1:12-17『罪人を救う救い主』
8日 創世記 1:26-2:3 『すべてのものを祝福する神』
15日 同 2:4-25
『荒れ果てた世界のために』
22日 同3:1-24
『神への反逆のはじまり』
29日 同4:1-16
『どうして怒るのか?』
8月5日 同8:20-9:17 『悪いけれども救う』
12日 同12:1-9 『祝福の出発点とされた』(召天者記念)
19日 同12:10-20 『アブラムとサライの不信仰』
26日 出エジプト記14:1-18『鎮まれ、主の救いを見よ!』
9月 2日 同16:1-21,
31-36 『天からの恵みのパン』
9日 士師記7:1-8
『民が多すぎるので』
16日 サムエル記上17:28-40『羊飼いの心得』
23日 列王記上19:1-14
『私ひとりだけが』
30日 ヨナ書3:1-4:11 『罪人をあわれむ神』