2016年2月29日月曜日

2/28こども説教「少年イエス迷子事件」ルカ2:41-52

 2/28 こども説教 ルカ2:41-52
 『少年イエス迷子事件』

2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。・・・・・・48 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。49 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。                  (ルカ福音書 2:45-51)

  これはルカ福音書だけが報告している出来事です。主イエスが12歳になったとき、毎年そうしてきたように、父さん母さんや親戚たちや近所の人々といっしょに過越の祭りを祝うために、エルサレムの都へ上っていきました。祭りが終わって帰るとき、少年イエスはどこかにいなくなっていて誰もそのことに気づかず、一日帰り道を歩いたころにようやく気づいて、大慌てで皆で探しました。探し回りながら引き返すと三日目に、神殿の中にいる少年イエスをとうとう発見しました。少年イエスは神殿の中でユダヤ教の教師たちの真ん中に座って、彼らの話を聞いたり、質問したり、何かを質問されて答えたりしていました。お母さんは少年イエスを叱りつけました。「どうしてこんなことをしてくれたんですか。ほら見てごらんなさい。私もお父さんも、親戚のおじさんたちも近所の人も皆心配して心配して、あなたのことをさんざん探し回ったんですよ。もオ」。49節、少年イエスは不思議な返事をしました。「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存知なかったのですか」。そんなこと言ったって、お母さんもお父さんもごく普通の人間で、そのときはまだ、この少年が救い主で神の独り子だなんてことは少しも知らなかったんですから。ずいぶん後になってから、そのことを知らされ、分かるようになります。今はただただビックリしてとても心配して、必死にその子を捜し回ったのは当たり前です。それでもお母さんは、よく分からないながらも、「これはどういうことだろうか」と、この不思議な出来事を心に留めて、思い巡らせつづけました。
 少年イエスが仰ったことは本当のことでした。私は自分の父の家にいる。ご存知のように、ここも主イエスがおられる、天の御父の家の一つです。ずいぶん後になって、十字架につけられて殺される数日前に、主イエスは神殿の境内で商人たちの店や商売道具をひっくり返し、たいへんな乱暴をしました。「わたしの家は祈りの家であるべきだと書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」19:45-48。それを聞いて、主イエスをなおさら激しく憎む者たちがおり、また逆に、熱心に耳を傾けはじめる者たちも現れました。今でも キリストの教会はたびたび強盗たちの巣に成り下がったり、天の御父のものである祈りの家に立ち戻ったりをしつづけています。強盗の巣に成り下がってしまった神殿を、やがてこの主イエスがすっかり取り壊し、その三日目に、まったく新しく建て直してくださったからです。そのまったく新しい父の家に、こんな私たちをさえ 迎え入れてくださいました。しかも神さまの子供たち。この地上でそのとおりだというだけではなくて、やがて死んだ後でも、天の御父の家にこの私たちも迎え入れていただける約束です。主イエスは仰いました。「私の父の家にはすまいがたくさんある。あなたがたのために私が場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたなら、また来て、あなたがたを私のところに迎えよう」。誰の心にも思い浮かびもしなかった、あまりに不思議な出来事です(ヨハネ福音書14:2-3,コリント手紙(1)3:10-17,(1)6:19-20,(1)12:12-27,ヨハネ福音書2:19-22


           【割愛した部分の補足説明】
            (*)馬小屋のエサ箱の中でこの少年が生まれたとき、羊飼いたちが訪ねてきて不思議なことを告げたときも同じでした。ルカ2:19。あのときも母さんは、「これはどういうことだろうか」と、その不思議な出来事を心に留めて思い巡らせつづけました。心に留めて、「これはどういうことだろうか」と思い巡らせつづける人たちは、やがてその答えを受け取ることになります。また例えば、荒野の40年の旅が始まったばかりの頃、不平不満をつぶやく人々のために神さまは恵みによって天からパンを降らせてくださいました(出エジプト16:15,申命記8:3-10,ヨハネ6:48-58)見たこともない食べ物でした。「これは何だろう」と人々は互いに言い合いました。やがて、長い長い年月の末にとうとうその答えを私たちは教えられました。聖晩餐のある礼拝でも、切り分けられたパンと赤い飲み物が自分の目の前に差し出される度毎に、「これは何だろう。どうして、なぜ、私がこれを食べたり飲んだりしているのか。何のためか」と、自分自身をつくづく振り返り、十字架の上で引き裂かれた主の体について、流し尽くされた主イエスの血潮について、また主の体とされたキリスト教会とその肢々とされた同胞たちと自分について、熟慮するに値します。まったくふさわしくない、値しない、罪深い私たちが、にもかかわらず、そのパンと杯にあずかって生きる者たちとされました。「何だろう。どういうことか?」;そこから、いつもの信仰教育が始まり、だんだんと積み重なっていきます。



 ○とりなしの祈り
 イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ真実に私たちをあなたの子供たちとして迎え入れ、養い、支えとおしてくださる御父。あなたにこそ十分な信頼を寄せさせ、あなたに願い求め、あなたに聴き従って生きる私たちとさせてください。
 排他主義と自分本位のあり方が世界中に広がり、その傾向はますます強く激しくなっていきます。私たちは心をどんどん狭く、貧しくさせられています。主よ、私たちを憐れんでください。政治家や官僚たちが健全に公正に働くことができますように。学校教育に携わる教師たち、医療や介護福祉の現場で務めを担う職員たちを守って、彼らに良い働きを十分にさせてください。弱さと悩みを抱える家族、年老いた家族の世話をして共に生きる者たちの生活と心をお支えください。どうか親たちを励まし、助けてくださって、精一杯に自分の子供たちを養い育てて暮らすことができるように導いてください。また私たち自身も、ただ自分の生活と自分の身近な事柄や人々のことばかりではなく、顔を上げて、世の中の人々にも目を向けることができるようにさせてください。沖縄と福島と東日本震災の被災地で暮らす人々にも、私たちも自分自身の心と手を差し伸べ、彼らを思いやることができますように。若者たちにも、年配の人々にも、この国で暮らす外国人とその家族にも、生きる希望と支えとが与えられ、大切な隣人として暖かく迎え入れられ、当然受けるべき配慮と権利が十分に保証されますように。片隅に押しのけられ、貧しく惨めに暮らす人々、また過酷で劣悪な労働環境で働かされ、使い捨てにさせられつづける多くの人々の毎日の暮らしと生命とをお守りください。

 ですからどうか私たちの魂をあなたが守ってくださり、共に生きる身近な人々を憎んだり見下したり、煩わしく思うことがないようにさせてください。軽はずみに喋って他人の感情を害したり、心を傷つけたりしないようにさせてください。短気であったり、私たちの目が人の欠点ばかりを見たり、私たちの口が人を非難したりしませんように。頑固で自分本位になって自分の考え方や感じ方以外のもの跳ね除けようとしたり、耳を塞いだりしませんように。あなたは、私たちが互いの交わりのうちに生きるように命じておられます。神さまから責任と務めを与えられたこの私たち自身が、自分たちのなすべき務めを誠実に、また謙遜に精一杯に果たしてゆくことができるように助けてください。あなたから祝福と復活の生命にすでにあずかっています私たちを、地の塩、世のための光として十分に用いてください。あなたからの憐れみの光を照らしだすための道具として、私たち自身とその毎日の生活とを用いてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

2/28「思いわずらうな」マタイ6:25-34、詩篇127:1-2

                     みことば/2016,2,28(受難節第3主日の礼拝)  48
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:25-34,詩篇127:1-2  日本キリスト教会  上田教会
『思いわずらうな』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。             (マタイ福音書 6:25-34)

 

 まず、誤解しやすい部分を確認しておきます。26節や30節、「空の鳥、野の草花よりも私たち人間がはるかに優れている。だから鳥よりも草花よりも、人間様をこそ神さまははるかに手厚く大切に養ってくださる。それらの何倍も、私たち人間には良いことをしてくださる」と言っているかのように聞こえるかも知れません。違います。優れているかどうか、役に立つかどうかなどと分け隔てをなさらない神さまですし、なにしろ神さまが天と地とすべてのものをお造りになったのですから(創世記1:31,9:10-17,ローマ3:21-27,8:19-25,マタイ福音書5:45,24:45-51。人間に負けず劣らず、鳥も草花も同じだけ大切に神さまは愛情深く守り、養っておられます。もう一つ、末尾の「明日のことは明日自身が思い煩う」はやや言葉足らずで、将来のことは私たち人間にも手に負えません。風の向くまま気の向くままという風来坊の生き様でもありません。神さまだけが将来も永遠も知り、今日も明日も変わることなくその手の中に収めておられます(ヘブル手紙13:8)。むしろ私たち自身の今日のことも明日や明後日のことも、すべてすっかり神さまの御心と御手のうちにある、真実な神さまにこそ信頼し、神さまにこそ委ねよ、ということです。
 さて、「思いわずらうな」と主はおっしゃいます。クリスチャンも含めて、誰も彼もがそれぞれの思い悩みを抱えています。それが人間です。だからこそ、「クヨクヨと思い悩むことのないあなたとしてあげよう」と招いてくださっているのです。「自由な、晴れ晴れとした心を、あなたにもう一度取り戻させてあげよう」と。本当でしょうか。もし、そうなれるならどんなに素敵でしょう。ここでは、まず空の鳥や野の草花と私たちとが見比べられています。その次に、この聖書の神を信じていない人々とこの私たちとが見比べられています。それぞれに、よく似ている所と違う所があります。空の鳥、野の草花。そして私たち。「よくよく注意して見てごらん」と主はおっしゃいます。空の鳥がどんなふうに養われているのか。野の草花がどんなふうに装われているのか。そして私たちは。「彼らは種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。働きもせず、紡ぎもしない」(26,28)。ここでの主イエスの言い方は、とても挑戦的で、私たちの心を波立たせます。「それじゃあ、私たちとはだいぶん違うじゃないか。だって私たちは、一日中汗水流して働いている。朝早くから夜遅くまで、人に言えないような苦労を背負いながら、懸命に精一杯に働いている。食べるために、生きてゆくために。ぜひしたいと願ったことも諦めてきたし、したくない嫌なことも我慢してやりとげてきた。だから私たちと空の鳥では、生き方が全然違う。私たちと野の草なんかを比べられても見当違いだ」と言いたくなります。「それじゃあ、働くのをやめたら、明日からいったい誰が私たちを養ってくれるというのか。誰が家のローンを払い、電気代水道代を払ってくれるというのか。誰が米を買ったり、月々の生活費を出してくれるというのか。まさか、天の御父が、空の鳥を養うように私たちを養ってくれるなんて、そんな夢のようなことを言うんじゃないだろうな。まさか、天の父が、野の草を装うように、私たちに服を着せ、食べ物を与え、生命を与えてくださるなんて、そんな馬鹿げたことを本気で考えているんじゃないだろうな」などと言いたくなりますね。けれど、その通りです。

             ◇

  それで、詩127篇をご一緒に読みました。「本当にそうなんだ」と皆でよくよく腹に収めたいと思いましたから。ここに集まった私たちのほとんどは、大工さんでもなく建築設計師でもありません。けれどなお私たち全員は、《家を建てる者》たちです。それぞれに、また力を合わせて自分たちの家を建てつづけている者たちです。図面を引き、釘を打って柱を組み立て、土台にコンクリを流し込んだり壁にペンキを塗ったり、そのような作業だけが家を建てることではなく、建物だけが家なのではありません。家の中身、そこに住む人々とその様々な営みもまた、《家》です。○○家、△□家などというように。
 『一家の大黒柱』といいますね。父親が、あるいは母が、その家が揺るぎなく建つための肝心要と。けれど聖書は、それとは違う大黒柱を指し示します。1節です。主ご自身が建ててくださる。そうであるならば、その限りにおいて、家は建つ。主ご自身が守ってくださる。そうであるならば、その限りにおいて、町はうれしく堅固に守られる。どんなことがあっても断固として心強く守られる。一人のクリスチャンも、一握りの家族も。その家庭の日々の営みも。主ご自身が建て、守る。それが、私たちが受け取っている戒めであり、祝福です。家を建てることも町を守ることも。クリスチャンがクリスチャンとして自由に喜ばしく、また堅固に立っていることも、いつも、それをきびしく脅かすものに直面しており、揺さぶられつづけます。《そうであるならば、その限りにおいて》という神さまの絶対条件を私たちがうっかり忘れてしまうときに、直ちに、いとも簡単に、その家は崩れ去ってしまいます。だからこそ、「主ご自身が建ててくださるのでなければ、むなしい。主ご自身が守ってくださるのでなければ、むなしい。それは虚しい」と執拗に繰り返されます。心配して、ハラハラしながら見つめてくださっている方が、「大丈夫か。肝心要のことを分かっているか。虚しくなってしまうぞ。あなたたちのせっかくの労苦が水の泡になってしまうぞ」と警告してくださっています。主ご自身が建てる。主ご自身が守る。その一点を、あなたは何としても、どこまでも死守せよと。主ご自身が建ててくださるとしても、なお、家を建てる私たちは労苦します。思い悩み、心を痛める日々もあります。それぞれの家の父さん母さんも、大切な家族を支え、自分たちの家庭を築き上げていくために「朝早く起き、夜遅く休み、私のあの大切な娘はどうやって生きていくだろうか。この息子は、どうするつもりなのか。私たち夫婦は」と心を砕きます。「手に負えない。どうしたらいいのか分からない」と頭を抱えて溜め息をつくばかりの夜もあります。その懸命で必死な営みの中で、どうにか今日1日分の、家族皆が食べる分の米と味噌を手にします。がんばってきたが何のためだったか、とガッカリする日々もありますね。「むなしくはない」と言いたい。虚しくはない、という揺るぎない信頼と喜びを掴み取りたい。そうであるなら、ぜひとも《主ご自身が建て、ちゃんと守ってくださる》と知りたいのです。他の誰彼が、皆が、という以前にこの私自身こそ、この魂に骨身にしみて刻み込みたい。《主ご自身が建て、ちゃんと守ってくださる》ことを、よくよく弁えた、そこに足を踏みしめた建て方・守り方をがっちりと掴み取りたい。ぜひとも。何としてでも。
  マタイ福音書に戻りましょう。『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』、『どうやって働き、どんなふうに毎月毎月の生活を立てて生きてこうか』。それらは大事なことです。神も仏も信じていない他の人たちが切に求めているだけでなく、私たちクリスチャンもやっぱりそれを心から求めています。他の人たちにとって必要なことは、同じくやっぱり私たちにも必要です。クリスチャンになったからといって、雲や霞を喰らって仙人のように生きているわけではないのですから。生活の具体的な様々な必要品も、健康も生命も月々の収入もお金も、私たちにとっても、とても大事です。そこまでは、聖書の神を信じる私たちもそうでない他多くの人々も、まったく同じです。
  違うのは、ただ一点。私たちは、生きて働いておられます神を知り、その神に信頼し、その神に委ねています。すべて一切を委ねるに足る、十分な神さまと、すでに決定的に出会っているのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33)とは、その助けと支えとを、まず何しろ神にこそ求めなさいという意味です。「生きて働いておられます主よ、どうかぜひ、この私のためにも、私のこの必要と困難のためにもあなたこそが働いてくださいますように」と。そうです。だからこそ、「あなたはあまりに思い煩いすぎてはならない」と戒められ、釘を刺されつづけました。もちろん誰もが思い煩いを抱えています。「どうしたらいいだろう」と頭を抱えるべき難問が次々に行く手を塞ぎます。そのとき、思い煩いの只中で、神さまへの信頼や神に委ねることが重くなったり、軽くなったりしました。色濃く鮮やかになっていく場合もあり、かと思うと逆に影がどんどん薄くなり、ぼやけていくこともありました。ですから、いつでも、ここが信仰をもって生きてゆくことの分かれ道であり続けます。それはちょうど天秤ばかりの右と左の皿にそれぞれの荷物を載せたときのようです。あるいは、どこにでもある児童公園のシーソーの遊技台のようです。神さまへの信頼や期待。そして神ではないモノへの信頼や期待。それは重くなったり軽くなったり、上がったり下がったりし続けました。人間のことばかり思い煩ううちに、いつの間にか、神さまを思う暇がほんの少しもなくなって、神さまのことも、信仰を持って生きることが一体どういうことなのかもすっかり分からなくなっていくこともありました(マタイ福音書16:23参照)。だからこそ、呼びかけられています。悩みと思い煩いの只中にすっかり飲み込まれてしまってはならない。そうではないあなたにしてあげよう、と。神さまに信頼するためにです。神さまに信頼し、より頼み、委ねて生きていきたいのです。思い煩いや心細さや恐れの中にすっかり飲み込まれてしまわないために。主イエスは、はっきりと断固としておっしゃいます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられる」(32-33)。添えて与えられる。肉やハンバーグの大皿の隅に添えられたジャガイモやトウモロコシのように、です。食堂のテーブルに並べられた小鉢の中のお浸しや漬物のように、それら必要な一切もまた、肉やハンバーグのような『神の国。神ご自身の義』の傍らに、添えて与えられるという約束です。なにしろ、十分なコックであり、ちゃんとした店です。そのコックご自身が太鼓判を押し、店自身が保障している。なにしろ飛び切り上等な肉やハンバーグなのだから、その料理にはもちろん付け合せのジャガイモやトウモロコシも必ず決まって添えられている。甘く煮た人参のカケラも、小鉢のお浸しも漬物も、ちゃんと添えられている。味噌汁もつけてある。心配するな」と。この約束を信じました。信じて一日一日を生きることを積み重ねてきました。
  だからこそ、讃美歌2882節は、この飛びっきりのコックと料理店への信頼を高らかに歌いました;

♪ 行く末遠く見るを願わじ。
主よ、わが弱き足を守りて、
ひと足、またひと足、
道をば示したまえ。

このコックの料理を食べたことのない異邦人たちと同じく、私たちも、「5年先、10年先の私たちの生活はどうなっているだろう。息子や娘たちは、ちゃんと暮していけるだろうか。私たち自身の老後の暮らしは、はたして健やかで晴れ晴れしたものでありつづけるだろうか」と案じました。けれど、どうしたことでしょう。朝から晩まで思い煩っていたはずの、その心細さの塊のような人々さえも、この安らかな信頼の歌を口ずさみはじめました。5年先、10年先、いいえ半年後1年後どうなっているか分からない。分からないけど、それでも十分。将来設計も見通しも全然立たない、それでも大丈夫。この一個のキリスト教会も、あの息子たち娘たちも私たち自身も、あまりによろめく歩み。ひどく危うい足取り。足腰、膝もガクガク。それでも何の不足もない。だって、主が私と共にいてくださり、主が私のおぼつかない歩みをも導いてくださるのだから。手を引くようにして、ひと足、またひと足と連れていってくださるのだから。
  「主ご自身が家を建て、主ご自身こそが町をきっと必ず守ってくださる」(127:1-2参照)と知る者はどんなに幸いでしょう。どんなに心強いことでしょう。それならば私たちも、安心して晴々として、与えられた分を担うことができます。朝早く起きて、夜遅くまで労苦することもでき、懸命に精一杯に働くことも出来ます。それは決して虚しくないからです。主ご自身が私たちを支え、担い、どこからでも救い出してくださり、導き行く。それを知り、「ぜひそうであってください」とそれを願い求める人は、なんと幸いでしょうか。その人たちは天を受け継ぐのみならず、この世界をも受け継ぐことでしょう。天の国は、そして他一切も、その人たちのものです。


2016年2月22日月曜日

2/21こども説教「この一人のおばあさんも、神を信じ、神に仕えて、生きて死んだ」ルカ2:36-40

 2/21 こども説教 ルカ2:36-40
 『この一人のおばあさんも、
 神を信じ、神に仕えて、生きて死んだ』

2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、37 その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。38 この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。39 両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。40 幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。                     
(ルカ福音書 2:36-40)


  赤ちゃんイエスとその父さん母さんは神殿で、シメオンじいさんと出会ったあと、アンナという名前のおばあさんの預言者とも出会いました。この一人のおばあさんを、よく見ておきましょう。若い頃に結婚して7年間、その夫と暮らした。長生きして84歳になった。ずっと神殿にいて、そこで神さまに仕えて暮らした。赤ちゃんイエスと出会って、「ありがとうございます」と神さまに感謝をし、この救い主イエスのことを皆に語りきかせた。その後、このおばあさんがどれくらい生きて死んだのか、どんなことを味わったのかは書いてありません。やがて死んでいきました。
  アンナおばあさんについて、もし私たちが誰かから聞かれたら、これくらいのことを教えてあげることができます。「なんだ。あまり詳しくは知らないんだな」とガッカリする人もいるかも知れません。けれど、彼女について知るべき大切なことを、私たちは十分に知らされました。しかも私たちがくわしく細々とその人のことを知っていてもいなくても、主なる神さまは、よくよく知っていてくださいます。私たちの千倍も万倍も。だから、これだけで十分なのです。聖書の中にも外にも、このように神さまを信じて生きて死んでいったたくさんの人々がいます。そのほとんどの人たちのことを私たちはよくは知りません。けれど神さまこそがその一人一人のことを、その喜びや悲しみを、その心細さや恐れや、神さまへの願いや感謝の一つ一つをよくよくご存知だ、と覚えておきましょう。この一人のおばあさんも、神さまを信じ、神さまに仕えて、生きて死んでいきました。
37節に、「宮を離れず、神に仕えていた」と書いてありました。主イエスのことをまわりの人々に語り聞かせてあげた、とも書いてありました。私たち一人一人も、アンナおばあさんと同じくらい幸せな、とても心強くて嬉しくて安心で慰め深い人生を、生きて死ぬことができます。「ずっと宮を離れなかった」と聞いて、私たちは羨ましがるには及びません。どうして? アブラハムの息子のイサクの息子のヤコブが夜逃げをして山の中で野宿をしたとき、彼は驚いてこう叫びました。「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった。ここはなんという安らかで安心で心強い場所だろうか。ここは神の家である。ここは天の門だ」(創世記28:16-17,コロサイ手紙4:1参照)あのとき以来、世界中どこもかしこも主の神殿とされ、天へと通じる門とされているのです。もちろん、あなたや私の家も道端も、にぎやかな街角も、人っ子ひとりいない淋しい荒野も。この私たちもよくよく教えられてきましたように、天に主人がおられます()そうだ。ずいぶん前に、一人のおばあさんの友だちがいました。クリスチャンでした。そのおばあさんの息子があるときハガキをくれました。「母は礼拝を守っています。いいえ本当は、その一回一回の礼拝が朝も昼も晩も、次の日もまた次の日も、私のお母さんを守ってくれています。神さまに、心から感謝をいたします」。

          【割愛した部分の補足説明】
           (*)もう少し詳しく丁寧に説明することもできます。(1)まず、この創世記 28:16-17と詩篇139:1-10。神さまのご支配こそが、陰府のどん底の底の底を含めて、そもそもの初めから世界の隅々にまで及んでいること。「わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」。この他、(2)洗礼を授けられたとき以来、私たちクリスチャン一人一人の身体の中に聖霊なる神さまが住んでくださり、私たちはその神殿とされたこと(コリント手紙(1) 3:16-17,(1) 6:19)。(3)主イエスご自身が、貧しく小さな一人の姿をとって、私たちの目の前にたびたび来ておられること。喉をカラカラに渇かせ、腹を空かせ、着るものもない裸の惨めな姿で。また牢獄に囚われた囚人や、ベッドに横たわる病者の姿で。「その小さな一人にしてくれたことは私にしくれたこと。してくれなかったことは、私にしてくれなかったことである」(マタイ25:31-46)。それだからこそ、「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい」「だから飲むにも食べるにも、何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(コロサイ手紙 3:22-4:1,コリント手紙(1)10:31。しかもその神さまは忍耐深く、慈しみと憐れみに富み、罪をゆるす神であったのです。何をどう行ったら神の栄光と御心にかなうことであるのかは、すでに明白です。これこそがクリスチャンに対する飛び切りの戒めであり、祝福です。


2/21「二人の主人に仕える?」マタイ6:19-24

                みことば/2016,2,21(受難節第2主日の礼拝)  47
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:19-24               日本キリスト教会 上田教会
『二人の主人に仕える?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。     (マタイ福音書 6:19-24)



まず19-21節。ここまでは、いつになく分かりやすいですね。誰でも簡単に理解できます。大切にしている宝物をいくつもたくさん持っている私たちです。けれどせっかく大切にしている宝物なら保管場所に気をつけなさい、と語りかけられます。もし、当てにならない悪い保管場所に蓄えておくと、虫が食い、サビがつき、泥棒たちも押し入ってきて盗み出すから大切な宝をすべてすっかり失ってしまうことになる。「ああ、そうか。じゃあ大手の有名銀行の、空気清浄機付きの頑丈な大金庫にあずけておけばいいんだな」。いいえ、そういう話じゃないんです。その有名銀行もたいして当てにはできない。地上に宝を積んでも、それらは危うい。だから、大切な宝は天にこそ積みなさい。しかも、天に持って行ったり積み上げたりできる宝物などごく限られていました。それらは目に見えない、手で触れることもできない宝物に限られました。ほぼ手ぶらで裸のままで、もう間もなく向こう岸へとそれぞれに渡っていきます。「私は裸でこの世にやってきた。だから来たときと同じに、裸で帰っていこう」(ヨブ1:20参照)。ヨブと共に、そのとき私たちも神さまに感謝を申し上げましょう。
 それよりも何よりも、21節に目を向けましょう。「あなたの宝のある所には、あなたの心もあるのだ」。この短い一言で、主イエスははっきりと告げています。地上に宝を積み、それゆえ地上に心を縛り付けられて生きる他ない人々はとても不幸せで、心細く、あまりに惨めであると。なぜなら、彼らの幸いは脆く不確かであり、長続きせず、すぐにも失われ、奪い取られてしまうからです。主イエスのこの発言を受け止めて、やがて主の弟子は語りだします。「もし私たちがこの世の生活の範囲内でだけキリストに望みを抱いているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最もあわれむべき存在となる」「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。・・・・・・キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コリント手紙(1)15:19,ピリピ手紙3:18-19参照,コロサイ手紙3:1-17)
  22-23節。「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」。目が澄んでいたり、曇っていたりします。見るべきものがそのせいで、よく見えたり、あるいはまったく見えなかったりします。もちろん見えにくいものを見るための、魂の目です。主イエスは当時の宗教的指導者たちを痛烈に批判して、「偽善者よ。目のよく見えない案内者たちよ」と呼びかけつづけました。見るべき神さまの真理、福音の道理に目を向けず、かえって脇道へ脇道へと道を逸れていく。自分がそうなるだけではなく、後に従う者たちをも福音の道理から遠ざけさせてしまうと。主イエスご自身の声に耳を傾け、ごいっしょに味わいましょう;「盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」。信仰の事柄を理解できない心の鈍さ、あるいは不信仰、かたくなさこそが、『目が澄んでいる。濁っている』という言い方で指し示されています。私たち自身を映し出す鏡として、パリサイ人たちに主イエスが語りかけます。「そこでイエスは言われた、『わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである』『それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか』『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある』(ヨハネ9:39-41,ルカ24:13-43参照)。当時の主イエスの当時の弟子たちも私たち自身も、心が鈍くなって目が見えなくなったり、あるいは見えるようになったり、また見えなくなったりと繰り返しつづけます。例えば、復活の主イエスと、主イエスを信じる二人の弟子たちとがエマオ村への旅をした出来事を覚えておられますか。弟子たちの目は遮られたり、開けたり、また遮られて見えなくなったり、見えたりしつづけます。私たちとそっくり同じに、度々、心が鈍くなってしまうからです。ですから主イエスはずいぶん丁寧に弟子たちと付き合い、手とり足取り手引きをし、語り聞かせ、見せたり聞かせたり、その手で触れさせたりしつづけます。弟子たちのための信仰の教育が、そのように今日に至るまでつづいています。こうした発言を受けて、やがて弟子たちも、目を凝らして見るべき神さまの現実について語りかけます。「『わたしは信じた。それゆえに語った』としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである」(マタイ福音書23:23-28,コリント手紙(2)4:13-5:4)。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。「見えないもの」とは、もう少し親切に言いますと、まったく見えないものや有りもしない絵空事ということではなく、「よくよく目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、ごく見えにくいもの。しかも確かに存在するもの」という意味です。信仰の目によってしか見ることも捕らえることもできないもの。例えば、聖晩餐の度毎に差し出され、私たちが現に確かに食べたり飲んだりしている『十字架上で引き裂かれた主イエスの体。主イエスの血潮』です。それこそが典型的に、また決定的に、「よくよく目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、ごく見えにくいもの。しかも確かに存在するもの」です。主イエスを信じているクリスチャンにしか、『その体と血』とを見ることも受け取ることも、味わって、自分の血とし肉とすることもできません。なぜ私たちはクリスチャンであるのか。どこがどうクリスチャンなのか。主イエスをよみがえらせたかたが、私たちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを知っているし、確かに信じてもいる。その復活の生命に日毎にあずかってもいる。だから、そういうわけで、私たちはクリスチャンなのです。だから、私たちは落胆しない。たとい私たちの外なる人は滅びても、目がかすみ、耳が遠くなり、足腰衰え、物忘れがひどくなり、きびしい痛みや苦しみにずいぶん長い間にわたって耐えつづけるとしても、それでもなお私たちの内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私たちに得させるからである。私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。とても大切なことなので、もう少し念を押しておきましょう。主イエスと親しく付き合ってきた3人の兄弟姉妹がいました。マルタ、マリア、ラザロという兄弟姉妹です。弟のラザロが死んだとき、主イエスは姉のマルタとこのように語り合いました、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」「あなたの兄弟はよみがえるであろう」「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。たとい死んでも生きる。それは、『死の只中でなお生きている』という意味です。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。信じるかと、私たち一人一人も問われています。問われつづけます。あなた自身は、何と答えることができるでしょうか(ヨハネ福音書11:21-26参照)
 24節。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。神と富。『富』は、私たちの主人になろうとする様々なモノの中のほんの一例にすぎません。その他、私たちの主人になろうとする最も警戒すべき有力候補は『自分の腹の思い』(ローマ16:18,ピリピ3:19です。腹の虫、好き嫌い、気が向く向かないなどという感じ方。気分。あるいはその同類で、自尊心や劣等感、体裁を取り繕うとする臆病さなどが私たちの主人になろうとし、私たちをそれらの言いなりに従わせられる奴隷にしようと狙っています。しかも兄弟姉妹たち、深呼吸をして心を鎮めて、よく考えてみると、それら「自分の思いどおりに何かをすること」「誉められたり功績が認められて良い気分を味わったり、ささやかな自尊心が十分に満たされること」などは、なぜかとても素敵なような気がしていただけで実際にはあまり良いものじゃなく、私たちを幸せにも豊かにもしてくれません。ねえ? かえって、それらのウズウズする腹の虫こそが私たちの魂を損ない、不自由に縛り付け、貧しくさせました。
『主なる神さま』を自分のご主人さまとできるか、それとも『神以外のナニモノカ』の召使に成り下がってしまうか。ただお独りの主人にしか、私たちは仕えることができません。これこそ、私たちが何を自分自身の宝物とするか。どこに宝と自分の心とを据え置くのか、という究極の問いかけです。自分自身で判断し、自分の心でそれぞれに選び取らねばなりません。神さまは私たちをご自分の宝の民としてくださいました。私たちも、神さまを自分のご主人として仕えることを何よりの宝とし、神さまご自身をこそ自分の宝とすることができます。私たちがよくよく教えられてきたように、天に主人がおられます。唯一の、ただお独りのご主人が。私たちは、その主人に仕えるしもべ同士です(ヨシュア記24:12-15,申命記7:6,ローマ手紙14:4,コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)12:3参照)。なんという恵み、なんという幸いでしょう。






2016年2月16日火曜日

2/14こども説教「倒れさせたり、立ち上がらせたり、つるぎで胸を差し貫いたり」ルカ2:21-35

 2/14 こども説教 ルカ2:21-35
 『倒れさせたり、立ち上がらせたり、
つるぎで胸を差し貫いたり』
+緊急提言 『基本の判断基準と心得。
キリスト教会は何をすべきか。何をしてはならないか?』



2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえ に御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。・・・・・・25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。33 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。(ルカ福音書 2:21-35)


  救い主イエスを、シメオンという名前のお爺さんが神殿で待ち構えていました。神さまからの救いをその目ではっきりと見て、抱きしめ、つくづくと味わうために。そのためにそこにいたのですし、そのためにこれまで長い間、この人は生きてきたのでした。「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」(25節)と書いてあります。彼の望みはそれでした。もしかしたら私たちも彼のように、例えば神さまを信じる人々の慰めと平和、世界中のすべての人々の慰めと平和、自分の家族や友人たちやこの地域や、長野県の人々の慰めと平和を待ち望んでいるかもしれません。そうであるなら、まず私たち自身こそが神さまからの慰めと平和を受け取り、それを十分に味わう必要があります。そこから、神さまからの慰めと平和が広がってゆくからです。シメオン爺さんは、赤ちゃんイエスを腕に抱いて、喜びに溢れました。29-32節を見てください;「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。私の目が今あなたの救いを見たのですから」。ビックリです。しかも、このとおりです。イスラエルとこの私自身の救いをはっきりと見た。そのためにこそ、今日までの長い間、生きてきた。だから安らかに晴れ晴れとして死んでゆくことも出来る。嬉しい嬉しい嬉しい。すると、じゃあ、ここにいる私たちもシメオン爺さんとまったく同じですね。私自身と家族とこの世界全部のための救いを、この私たちも、はっきりと見つづけてきました。十分に、満ち足りるほど。それならもういつでも、この私たちも、安らかに晴れ晴れとしてこの世を立ち去ってゆくこともできます。喜びと感謝にあふれて。
  それは、救い主イエス・キリストによる救いです。それは神の民とされたイスラエルの栄光であり、それだけでなく神さまを知らなかったはずの遠くに住むすべての外国人たち、人間だけでなくすべての生き物たちをさえその救いの光が照らし出し(創世記9:10-,12:3,ローマ手紙8:18-23,讃美歌100番「生ける者すべて」)、その光が贈り与えられ、おびただしい数のものたちがやがてその憐れみとゆるしの光の中を歩むことになります(31-32)34-35節のシメオンの言葉は、少し分かりにくいです。しかも、とても大切です。この赤ちゃんは、「多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりする。あなた自身も他の多くの人々も、つるぎで胸を差し貫かれる。それは多くの人々とあなた自身の心にある思いが現れるようになるため」。きびしい大嵐の日々がやってきます。若者も勇者も、元気いっぱいの者たちも、大きくて強い者たちも誰も彼もが疲れ果て、つまずき倒れる日々がきます。「私たちを見なさい」という者たちが倒れている者たちの前に立って語りかけるでしょう。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(イザヤ40:28-31,使徒2:36-39,3:5-6)。信じて受け止め、立ち上がる者たちがいるでしょう。そうではない者たちもいるでしょう。さて、そのとき、あなた自身はどうするのか。あなた自身の心の中に隠してきた思いが、そのとき、はっきりと現れ出るでしょう。そのためにすでに救い主イエスが、この世界に来られ、十字架につけられ、「あなたがたがこのイエスを十字架につけた」と突きつけ、あなたの目の前にもはっきりとその姿を現したのですから(使徒2:36-39,ガラテヤ手紙3:1-5参照)



 ◎とりなしの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。それゆえ確かに、私たちの父となってくださり、私たちをあなたの子供たちとして迎え入れてくださいました御父。今日から始まります一週間も、あなたの真実と慈しみとゆるしの中に守られて、自分たち自身の力によってではなく、ただあなたご自身の力によって支えられて、一日ずつのそれぞれの務めに出て行かせてください。貧困と格差が広がってゆく社会で、産みの苦しみの只中に私たちは置かれつづけています。仮設住宅で暮らす人々、有毒な放射能の危険にさらされて生きる人々、沖縄の人々、外国から日本に出稼ぎにきている労働者たちとその家族の毎日の暮らしを顧みてください。アジア諸国からの職業訓練生、農業実習生が人格を重んじられ、正当な十分な扱いを受け、安らかに暮らすことができますように。拉致被害者とその家族と、北朝鮮で生きるすべての人々を憐れんでください。劣悪で過酷な労働条件で働かされ、むさぶり盗られ、使い捨てにされつづける多くのい労働者たちを、そのアリ地獄のような場所から助け出してください。あの彼らは、かつての私たちですから(出エジプト記22:20-25,レビ記19:33-34,申命記10:17-19参照)。また、いつもの職場で働く者たちも、家族や年老いた親の世話をする者も、年老いた者も病いと闘う者も、また若者や子供たちも、それぞれの場所で、そこでそのようにして、あなたにこそ忠実に仕えて働くことができるようにさせてください。
  あなたによって上に立てられ責任を持たされ、人々のために働く者たちを、公正な誠実さと熱意をもって務めに当たることができるように助けてください。政治家と役人たちと裁判所職員、警察官、福祉と医療と教育の現場で働く者たちを支えてくださって、精一杯の良い働きができるように励ましてください。子供を養い育てる親たちをよく支え、親の務めを十分に果たせるようにどうか健全に導いてください。  私たち自身のためにも祈ります。この一週間、私たちが語る一つ一つの言葉と行いと心の思いにおきましても、クリスチャンとして生活することができますように。主イエスは私たちとすべての者たちのために、あらゆるこの世の慰めと富と力とご自分の生命をさえお捨てになりました。ですからどうか私たちが、ふたたび自分自身のために生きることがないように、むしろ、あなたと隣人とを精一杯に愛し、尊んで生きることができるようにさせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン



                    
 +緊急提言 『基本の判断基準と心得。
キリスト教会は何をすべきか。
     何をしてはならないか?』


  (他の人々はともかくとして、少なくともキリストの教会とクリスチャンにとって)いつも弁えておかなければならないことは、『神さまの御心に従うこと』であり、『福音の道理は何を教えてきたのか』というただ一点です。そのためには、ただただ聖書だけが唯一無二の絶対的な判断基準でありつづけます()生身の人間たちの手を用いて書かれましたが、神さまがそれらをご自分の道具として御心を示してくださったのであり、そのように聖書66巻は『神の言葉』であるからです。私たちの教会は「信仰告白」と「憲法・規則」をも保持していますが、いうまでもなく、それらは聖書と並び立つ権威・基準ではなく、聖書の教えに従うための補助的な手引きであり、補助的な道具にすぎません。なぜなら「信仰告白」も「憲法・規則」も人間が作った、人間の言葉に過ぎないからです。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒4:19)と主イエスの弟子らは当時の宗教的・政治的権威者らに堂々と立ち向かいました。しかも、主イエスの弟子とされた私たち自身も、各自で十分に判断することができるはずです。けれど知らず知らずのうちに、そこに世間的な慣習や一般常識が紛れ込み、神さまの真理を押しのけて幅を効かせることも起こりえます。教会と信仰の世俗化であり、人間中心の価値観の台頭です。教会はしばしばそうしたこの世の波に飲み込まれ、はなはだしく堕落し、生命を失いかけました。何度も何度も。こう警告されています;「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」(コリント手紙(1)15:2-3)。救い主イエスの死と復活とが聖書に書いてあるとおりに起こった、と念を押しています。いたずらに信じるのではなく、思いのままに信じたいように信じるのでもなく、聖書に書いてあるとおりに信じ、受け止め、そのように判断し、選び取りながら生きることができるのかどうか。そうではないなら、主イエスを信じたことが無駄になり、信仰は空虚なものと成り下がり、私たちはすべての人の中で最も哀れむべき、惨めで物悲しい存在となってしまう。本当のことです。それをこそ警戒し、恐れねばなりません。ですから、人間にすぎない者たちとその言葉をただ鵜呑みにするのではなく、立ち止まって、「それは、聖書のどこから出てきた考え方だろうか。それとも、聖書とは別のところからの、この世の知恵や慣習や、単なる一般常識にすぎないだろうか。習い覚えてきた福音の道理にかなっているだろうか、反しているだろうか?」と、よくよく熟慮しつづけること。主のご委託とご命令に従い、御心にかなって生きていきたいと願うことは、建前や机上の理屈であることを豊かに越え出て、このようにして現実化していきます。一個のキリスト教会としても、一人一人のクリスチャンの生涯としても。

            ◇

  例えば、伝道のことはどうでしょうか? 聖書講演会などは牧師が担うほうがふさわしいでしょう。けれど、伝道集会や伝道活動のあり方は多様です。習い覚えてきた福音理解と、信仰をもって生きる現実生活の只中での葛藤や悩みや希望、喜び、生活現場で贈り与えられた信仰の洞察、主イエスについての証言を、誰がどのように語ることができるでしょう。専門教育を受け、資格や免許を受けた伝道者にだけ、それをさせるべきでしょうか? 
(1)聖書自身は、どう語っているでしょう。例えば、主イエスの弟子らは二人ずつ組にされて町々村々へと遣わされていきました。神の国の福音を宣べ伝えるためにです。修行途上で早々と、信仰理解もまだまだ不十分で未熟で、主への信頼も足りないままに けれど何の不足も不都合もありませんでした。まず12人、次に72人、さらに続々と。主イエスご自身の権威のもとに、無学なただ人らが選び出されました。やがて12弟子が御言葉の業に専念できるようにと、食べ物の配給や兄弟らの世話のために選び出された7人は今日の執事のような存在です。そこに、御言葉を大胆に宣べ伝えたステパノも混じっていました(ルカ9:1-,10:1-,使徒6:1-6,7:1-)。主イエスは何者かと問われて、弟子たちは、「来てみなさい。そうしたら分かるから」と他の人々を主のもとへと連れていきました。「イエスを神はよみがえらせた。そして、私たちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである」「私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」と弟子たちは語りつづけました。最初のクリスマスの夜に、羊飼いたちは自分が見聞きしたことを人々に語り伝えました。片田舎の無学な漁師たちも無学なままで語りました。見下され、排除されていた取税人も語りました。自分の町の人々に主イエスと自分自身のことを告げ知らせたサマリヤ人の女性と、かつて墓場で鎖につながれていたゲラサ人の彼は、人々からの権威や資格などではなく、ただただキリストの霊にだけ突き動かされて福音を宣べ伝えました(ヨハネ1:39,使徒2:32-33,4:20,ヨハネ4:1-,マタイ8:28-)私たちももちろん、ただのごく普通のサマリヤの女であり、単なるゲラサの墓場の男の一人です。それ以上でもそれ以下でもなく、福音を宣べ伝えるにはもうすでに十分であると弁えましょう。「何の権威と資格によるのか」と問われるなら、「人間たちからの資格や権威や免許などではなく ただ主イエスご自身からの派遣であり、ただ主イエスの権威のもとにだけ送り出された」と答え、そのように弁えましょう。あの12人、72人の派遣とまったく同じに。私たちに害を及ぼす者はまったくありません。しかも伝道成果に一喜一憂するのでなく、「自分自身の名が天に書き記されてあることをこそ喜べ」と戒められています(ルカ10:17-20)。それぞれの家庭で家族の前で、職場や友人たちの前で、さまざまな場所で、主イエスの弟子とされた私たち皆は キリストを証言しつつ生きるのです。「私たちを見なさい。金銀は私には無い。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。もし仮に、あなたにもそれ(=ナザレ人イエス・キリストの名によって歩くこと。その名による恵み)があるなら、また贈り与えたい相手がたった一人でもいるならば、あなたも同じことができます。無いなら、黙っていても構いません。別の弟子もまた、「主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」(使徒3:6,コリント手紙(1)11:23)と証言しています。奴隷の国エジプトから連れ出されたとき、すでにそこには「多くの入り混じった群衆」が神の民に新規加入していました。遊女ラハブも、外国人だった義娘ルツも加えられたのは、神の偉大な業と恵みとを聞き及んでいたからです。「主の大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及んで、主の御名のために遠い国から外国人らが来て主の名を呼ばわる日が来る」ことをソロモンも望みみました「諸国民のうちに散らされて生きる、他のどの民とも異なる独特な民族がいる」と、神を神とも思わない傲慢な役人ハマンさえ知っていました。誰かが彼に知らせたのです(出エジプト12:38,ヨシュア記2:8,ルツ記1:16,列王記上8:41-43,エステル記3:8)。彼らに語り聴かせる無数の者たちがありつづける。これが、福音伝道の4000年ほどの連鎖です。主ご自身から受けたのならば、その人は伝えはじめます。もし受けていないのなら、伝えなくてもよいし、伝えることもできないでしょう。
  500年前の宗教改革は、神に仕える務めの垣根と隔てを緩やかなものとしました。「預言者、大祭司、王の三職を主イエスが担ってくださった以上は、主に従うすべてのクリスチャンもまた主に率いられて、この同じ『預言者、大祭司、王の三職』を担って働くのだ」と宗教改革の源流のもとに立つプロテスタント教会は教えつづけてきました。それは、世の終わりまで変わることなく伝えられ、担われていきます。主に仕え、神の国を宣べ伝える光栄ある務めは、決して一部の専門家だけに独占されてはならず、どの一人のクリスチャンもその務めから排除されてはなりません。
 (2)『伝道』と言われて、そこで今日の私たちは、どういうことを思い描くでしょうか。伝道集会でチラシをまいたり、イベントや催しをしたり、素敵なオルガン・コンサートや餅つき大会をしたり。大勢の前で、何か格調高く学識豊かに、感動的に演説することでしょうか。そうであってもよいかも知れません。あるいは、ずいぶん違っていてもいいかも知れません。けれど私たちは、いったい誰に対して伝道するのでしょう。主に従う格別に幸いな道を、いったい誰に伝えたい、ぜひ手渡したい、と切望しているでしょうか。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなた自身も、あなたの家族も救われます」(使徒16:31)という約束は、いつ、どのようにして果たされ、実を結ぶでしょうか。あなたの家族に、いつ、誰が、主に従う格別に幸いな道を伝えてくれるでしょうか? 神殿の荘厳な礼拝堂でも、地域の文化会館でも道端でも、茶の間でも、大勢がそれを慎んで拝聴していても、そうでなくても、神の民イスラエルとされた私たちにはすべきことが教えられ、はっきりと命じられています。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。・・・・・・あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう」。また、復活の主イエスは、主に従う弟子たちを故郷の山に呼び集めて、そこから送り出されました;「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(申命記6:4-18,マタイ28:18-20)。そこでの、『誰が出ていって、誰が教え、誰が何を宣べ伝えるのか』という選別は単純明快です。主イエスを信じ、主を礼拝し、主に聴き従って生きる主イエスの弟子であるのかどうか。もし弟子であるならば、「せよ」と主から命じられたことをする。「してはならない」と主から禁じられ、戒められたことは、しないでおく。
 (3)非常識な伝道。想定外の伝道。このごろは、例えば「伝道」と言っても「教会形成」と言ってみても、いつの間にか中身は似て非なるモノへとすり替えられ、私たち人間に都合の良いことや、人が増えて繁盛してなどということばかりが思い描かれています。ずいぶんと賢く、見栄えのよい伝道、効率的な教会形成。けれど、聖書自身はそこで何を語ったでしょうか。神さまは何をお命じになり、どう働いておられたでしょうか。神の思いは、私たち人間の思いとはずいぶん違っていました。私たちの一般常識を軽々と飛び越え、想的外のことを平気でなさる神なのです(イザヤ書55:8-11参照)。例えば伝道は、「主に従って生きるための道を伝え、その道と歩き方を手渡すこと」であったはずです。アブラハムとサラが結託して主に背いたとき、神さまは、神を知らないはずの外国人の王を用いて、「あなたは何をしたのか」とアブラハムを厳しく叱責なさいました。それは、本来的な意味での伝道そのものでした。ダビデ王がしてはならない極悪非道の罪に手を染めたとき、預言者ナタンは、「あなたがその人です。どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事を行ったのですか」と責め立てました。それは、立ち返るべき道を示す伝道でした。コリントの教会で起こった恥ずかしい不祥事に際して、主の弟子はきびしい発言をしています。「主の裁きの日に救われるようにと、彼をサタンに引き渡した」と。また、兄弟姉妹たちを深く悲しませたことは益であった、とその弟子は語る。「この世の悲しみは死を来らせるが、神の御心にそった悲しみは救いを得させる悔い改めへと導く。あなたがたは悲しんで悔い改めるに至ったではないか」と。クリスチャンこそが、またそれゆえ伝道者自身こそがよくよく主に従う道を伝えられ、掴み取りつづけねばなりません。何人かでも救うためではなく 自分自身こそが救いにあずかるため。他の人々に伝道しておきながら、自分自身が失格者になってしまわないためにこそ(創世記12:18,サムエル記下12:7-15,コリント手紙(1)5:5,(2)7:9-10,(1)9:22-27)。人の心に思い浮かびもしなかったことを、神さまは私たちのために準備しておられます。立ち返りましょう。「教会形成」も「伝道」も、私たちの一般常識と損得勘定と市場論理とは全く別のところにあり、別の方角を向いていたのでした。むしろ、人間的な小賢しさ、効率の良さ、ソロバン勘定をキッパリ排除して、宣教の愚かさ、弱さ、効率の悪さを選び取ってくださいました。なぜなら罪人を救うために神の独り子イエス・キリストが低くくだり、ご自分をむなしく低くなさり、十字架の死に至るまで御父への従順を貫いてくださったからです(コリント手紙(1)1:17-31,ピリピ手紙2:5-11参照)。「せよ」と命じられ、主ご自身から委託された使命が私たちにはあり、けれど、「してはならない」と戒められていたはずの逸脱へとこの私たちは迷い出ようとしつづけます。今日のキリスト教会の衰退、閉塞感、はなはだしい失速の理由はもっぱらそこにこそあります。まずこの私たちこそが、本気になって立ち返りましょう。大慌てで、立ち返りましょう。
 ――根源的な、基本中の基本の理解です。あなたにも、この福音の道理が十分に理解できますか? 御父と主イエス・キリストからの恵み、憐れみ、平和のうちに、この私共も留まりつづけられますように。


          (*)『神さまの御心に従うこと』『福音の道理にかなっているかどうか』。これがクリスチャンであることの弁えであり、基本の心得であるとして、それはいつからいつまでか。言い換えれば、この自分がクリスチャンであることは、いつからいつまでなのか。もちろん朝から晩まで、四六時中、クリスチャンです。どこで何をしていても、誰といっしょのときにも、何の事柄についても。いつもいつも『神さまの御心に従うこと』を願い求め、『福音の道理にかなっているかどうか。それについて、聖書はどう語ってきたか』と問い、熟慮しつづけること。クリスチャンであることの格別な幸いは、ここから始まっていきます。


2/14「自分の正しさを、見られるために人の前で行ってはならない」マタイ6:1-8、16-18

                    みことば/2016,2,14(受難節第1主日の礼拝)  46
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:1-8, 16-18            日本キリスト教会 上田教会

『自分の正しさを、
見られるために人の前で行ってはならない』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。                  (マタイ福音書 6:1-8)

 
  1-8節。16-18節。「自分の正しさを、見られるために、人にわざと見せつけるために、人の前で行わないように注意しなさい」。けれど、何のためでしょう。なぜ、よくよく注意していなければならないのでしょうか。願っているその『自分の正しさ。自分の優秀さ、立派さ』はすでに他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さに過ぎないからです。もうすでに頭の中では、ただただ「人からどう見られるか。どう評価されるか」と人間のことばかり思い煩って、神さまを思う暇がほんの少しもないからです(マタイ16:23参照)他人から良く思われたいという願い、悪く思われたらどうしようという恐れが度を越してその人の心を支配し、左右しはじめるとき、その人は、『人様がどう思うか。世間様にどう見られるか病』にかかっています。すでにかなり重体で、放っておけばその人は死んでしまいます。世間の多くの人々もクリスチャンも、ほとんどすべての人がこの病気にかかります。『人様がどう思うか。世間様にどう見られるか病』。症状が急激に悪化し、ついには死に至ります。具体的な実例が3つ挙げられています。貧しい人々への施し。祈り。そして断食。この3つには共通点があります。神さまへの感謝のささげものであるし、神へと向かうはずの祈りであるという点です。けれど、そうであるはずのものが道を逸れて、似ても似つかない、まったく別のものに成り下がってしまう危険があると警告されています。つまり、他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さを願い求める欲望。はっきり言うなら、虚しく愚かな見せびらかしです。「人からよく見られたい。よい評価をされたい。周囲の人々から誉めてもらいたい、感謝されたり、尊敬されたりしたい」と。貧しい人々への施し。祈り。そして断食。もし、この3つが虚しい見せびらかしに成り下がってしまう危険をうちに含んでいるとするならば、私たちの普段の暮らしのすべて一切もまたまったく同じです。国語辞典でおさらいをしておきました。「うわべを飾って、心や行いが正しいかのように見せかけること。それが偽善です。そういうことをする人間たちを、偽善者」と言います。その代表例として折々に当時のパリサイ人や律法学者たちの振る舞いや言動が手厳しく批判されつづけます。どういうことでしょうか。彼らを見下したりバカにして良い気分になるためではありません。あの彼らは、私たち自身の普段のいつもの姿をはっきりと映し出す鏡です。主イエスはおっしゃいました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。格別に良い医者である神さま。その医者のもとに生命からがら辿り着いた重病人である私たち。救い主イエスに聞き、このお独りのお方から学ぶならば、この厄介な病気を治していただけます。健全な魂を、ふたたび取り戻すことができます。
  神さまは隠れたことを、ちゃんと見ていてくださる。だから、あなたもそこに目を凝らしなさい、と勧められています。「誉められたら嬉しい。けなされれば悔しい。感謝されたり、尊敬されたりされれば鼻高々になり、誰にも見向きもされなくなったら寂しいし、悲しい」。もちろん、そうです。それでもなお、人間たちに誉められたりけなされたり、周囲の人間たちから喜ばれたりガッカリされたりする以上に、その千倍も万倍も 神さまこそがあなたをご覧になって、喜んだりガッカリしたりしておられます。「偽善者め。不届きなしもべだ」と叱られたり、ガッカリされたりもします。あるいは天の主人から、「良い忠実なしもべよ、よくやった。私も嬉しい」と喜んでいただけるかも知れません。ぼくは、それを願っています。ぜひ、なんとかして、この僕もそうでありたい。「あなた、本当にクリスチャンなの? 証拠は?」と。職場の同僚や親戚や自分の夫や妻から、子供たちから、「あれれ」と疑わしげな眼差しを向けられ「お母さん、本当にクリスチャンなの?」と。だってその時の私は、人から誤解されたり悪く思われる度毎に、クヨクヨしたり腹を立てたり、ひどく気に病んだり、よけいに意固地になるからです。人から恥ずかしい思いをさせられたり見下されたらどうしようと尻込みしたり、おじけづいたりしています。ちょっと待ってください。それでは、《人からどう見られ、どう思われるか》という秤で物事を量っているではありませんか。また別の時にのボクは、「私はそれをしたい、したくない。好きだ嫌いだ」と、《自分の考え。自分のやり方。自分の好み》という秤にすっかり心を奪われて、その秤の言いなりにされているではありませんか。

         ◇

  このあと、讃美歌Ⅱ編195番をごいっしょに歌います。1節2節をとおして読みましょう;「1節。キリストには代えられません、世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも。2節。キリストには代えられません、有名な人になることも、人の誉める言葉も、この心を惹きません」。「キリストには代えられません」と私たちは、どんな顔つきで、どんな気持ちで、どんな時に歌うのでしょう。まあ、いろいろですね。涼しく、晴々して歌うときもあるでしょう。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。けれど、この歌の心はそれだけではありません。むしろ、信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわっているように思えます。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富や宝を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。繰り返しの部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態のようです。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。救い主イエス・キリストを主とすることと、それに加えて様々な宝や楽しみをもつこと。趣味とか娯楽とか。それらは大抵の場合、ごく簡単に両立するように思えます。クリスチャンになったからって、世捨て人みたいに仙人か修行僧のように何もかもを捨て去って裸一貫にならなきゃならないとは普通は思わない。ぼくも、思っていませんでした。要するにバランスの問題で、ほどほどに要領よく付き合っていればいいじゃないかと。主を主とすることもほどほどに、楽しみや娯楽や趣味もほどほどに、人付き合いもほどほどにと。けれど兄弟たち、主イエスご自身は仰るのです、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)。そして気がつくと、心が2つに引き裂かれた、ほどほどのクリスチャンが出来上がっていました。あのイソップ童話のコウモリのようなクリスチャンです。動物たちの間では、「私も動物です。仲良くしましょう」。鳥たちの間では、「ほら見てください。私も鳥です、羽根を広げてパタパタ飛ぶこともできますから」。お前はいったいどっちなんだ。何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけて、気がつくととうとう動物でも鳥でもない、どっちつかずのただ要領がいいだけの生ずるいコウモリが出来上がっていました。心を鎮めて、よくよく考え、自分で自分に問いただしてみなければなりません。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。
  さて、「救い主イエス・キリストが私に代わって死んでくださった。私が神の子供たちの1人とされるためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? あとは、それぞれ思いのままに好き勝手に生きていけばいいのか。いいえ、そうではありません。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)実は、『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失いました。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。この自分自身も、主イエスに率いられて、古い罪の自分自身と死に別れ、新しい生命に生きることになる。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。
「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいのです。そしてその歌の心は、「私に先立って」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先立って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。この私たち一人一人もついにとうとうキリストに固着し、死守する秘訣を体得しました。やったあ。このお方で心の満たされている今は、と。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。父なる神さまはキリストと共にこの私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから今もこれからも、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。明日も明後日も、死ぬまでず~っと同じく変わらず、ま日毎日、古い罪の自分と死に別れて新しく生きる私でありつづけたい。生きて働いておられます神さまの御前で。