2/14 こども説教 ルカ2:21-35
『倒れさせたり、立ち上がらせたり、
つるぎで胸を差し貫いたり』
+緊急提言 『基本の判断基準と心得。
キリスト教会は何をすべきか。何をしてはならないか?』
2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえ に御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。22
それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。・・・・・・25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。26
そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、28
シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。31
この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。33 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。34
するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――35
そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。(ルカ福音書 2:21-35)
救い主イエスを、シメオンという名前のお爺さんが神殿で待ち構えていました。神さまからの救いをその目ではっきりと見て、抱きしめ、つくづくと味わうために。そのためにそこにいたのですし、そのためにこれまで長い間、この人は生きてきたのでした。「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」(25節)と書いてあります。彼の望みはそれでした。もしかしたら私たちも彼のように、例えば神さまを信じる人々の慰めと平和、世界中のすべての人々の慰めと平和、自分の家族や友人たちやこの地域や、長野県の人々の慰めと平和を待ち望んでいるかもしれません。そうであるなら、まず私たち自身こそが神さまからの慰めと平和を受け取り、それを十分に味わう必要があります。そこから、神さまからの慰めと平和が広がってゆくからです。シメオン爺さんは、赤ちゃんイエスを腕に抱いて、喜びに溢れました。29-32節を見てください;「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。私の目が今あなたの救いを見たのですから」。ビックリです。しかも、このとおりです。イスラエルとこの私自身の救いをはっきりと見た。そのためにこそ、今日までの長い間、生きてきた。だから安らかに晴れ晴れとして死んでゆくことも出来る。嬉しい嬉しい嬉しい。すると、じゃあ、ここにいる私たちもシメオン爺さんとまったく同じですね。私自身と家族とこの世界全部のための救いを、この私たちも、はっきりと見つづけてきました。十分に、満ち足りるほど。それならもういつでも、この私たちも、安らかに晴れ晴れとしてこの世を立ち去ってゆくこともできます。喜びと感謝にあふれて。
それは、救い主イエス・キリストによる救いです。それは神の民とされたイスラエルの栄光であり、それだけでなく神さまを知らなかったはずの遠くに住むすべての外国人たち、人間だけでなくすべての生き物たちをさえその救いの光が照らし出し(創世記9:10-,同12:3,ローマ手紙8:18-23,讃美歌100番「生ける者すべて」)、その光が贈り与えられ、おびただしい数のものたちがやがてその憐れみとゆるしの光の中を歩むことになります(31-32節)。34-35節のシメオンの言葉は、少し分かりにくいです。しかも、とても大切です。この赤ちゃんは、「多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりする。あなた自身も他の多くの人々も、つるぎで胸を差し貫かれる。それは多くの人々とあなた自身の心にある思いが現れるようになるため」。きびしい大嵐の日々がやってきます。若者も勇者も、元気いっぱいの者たちも、大きくて強い者たちも誰も彼もが疲れ果て、つまずき倒れる日々がきます。「私たちを見なさい」という者たちが倒れている者たちの前に立って語りかけるでしょう。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(イザヤ40:28-31,使徒2:36-39,同3:5-6)。信じて受け止め、立ち上がる者たちがいるでしょう。そうではない者たちもいるでしょう。さて、そのとき、あなた自身はどうするのか。あなた自身の心の中に隠してきた思いが、そのとき、はっきりと現れ出るでしょう。そのためにすでに救い主イエスが、この世界に来られ、十字架につけられ、「あなたがたがこのイエスを十字架につけた」と突きつけ、あなたの目の前にもはっきりとその姿を現したのですから(使徒2:36-39,ガラテヤ手紙3:1-5参照)。
◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。それゆえ確かに、私たちの父となってくださり、私たちをあなたの子供たちとして迎え入れてくださいました御父。今日から始まります一週間も、あなたの真実と慈しみとゆるしの中に守られて、自分たち自身の力によってではなく、ただあなたご自身の力によって支えられて、一日ずつのそれぞれの務めに出て行かせてください。貧困と格差が広がってゆく社会で、産みの苦しみの只中に私たちは置かれつづけています。仮設住宅で暮らす人々、有毒な放射能の危険にさらされて生きる人々、沖縄の人々、外国から日本に出稼ぎにきている労働者たちとその家族の毎日の暮らしを顧みてください。アジア諸国からの職業訓練生、農業実習生が人格を重んじられ、正当な十分な扱いを受け、安らかに暮らすことができますように。拉致被害者とその家族と、北朝鮮で生きるすべての人々を憐れんでください。劣悪で過酷な労働条件で働かされ、むさぶり盗られ、使い捨てにされつづける多くのい労働者たちを、そのアリ地獄のような場所から助け出してください。あの彼らは、かつての私たちですから(出エジプト記22:20-25,レビ記19:33-34,申命記10:17-19参照)。また、いつもの職場で働く者たちも、家族や年老いた親の世話をする者も、年老いた者も病いと闘う者も、また若者や子供たちも、それぞれの場所で、そこでそのようにして、あなたにこそ忠実に仕えて働くことができるようにさせてください。
あなたによって上に立てられ責任を持たされ、人々のために働く者たちを、公正な誠実さと熱意をもって務めに当たることができるように助けてください。政治家と役人たちと裁判所職員、警察官、福祉と医療と教育の現場で働く者たちを支えてくださって、精一杯の良い働きができるように励ましてください。子供を養い育てる親たちをよく支え、親の務めを十分に果たせるようにどうか健全に導いてください。 私たち自身のためにも祈ります。この一週間、私たちが語る一つ一つの言葉と行いと心の思いにおきましても、クリスチャンとして生活することができますように。主イエスは私たちとすべての者たちのために、あらゆるこの世の慰めと富と力とご自分の生命をさえお捨てになりました。ですからどうか私たちが、ふたたび自分自身のために生きることがないように、むしろ、あなたと隣人とを精一杯に愛し、尊んで生きることができるようにさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン
+緊急提言 『基本の判断基準と心得。
キリスト教会は何をすべきか。
何をしてはならないか?』
(他の人々はともかくとして、少なくともキリストの教会とクリスチャンにとって)いつも弁えておかなければならないことは、『神さまの御心に従うこと』であり、『福音の道理は何を教えてきたのか』というただ一点です。そのためには、ただただ聖書だけが唯一無二の絶対的な判断基準でありつづけます(*)。生身の人間たちの手を用いて書かれましたが、神さまがそれらをご自分の道具として御心を示してくださったのであり、そのように聖書66巻は『神の言葉』であるからです。私たちの教会は「信仰告白」と「憲法・規則」をも保持していますが、いうまでもなく、それらは聖書と並び立つ権威・基準ではなく、聖書の教えに従うための補助的な手引きであり、補助的な道具にすぎません。なぜなら「信仰告白」も「憲法・規則」も人間が作った、人間の言葉に過ぎないからです。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒4:19)と主イエスの弟子らは当時の宗教的・政治的権威者らに堂々と立ち向かいました。しかも、主イエスの弟子とされた私たち自身も、各自で十分に判断することができるはずです。けれど知らず知らずのうちに、そこに世間的な慣習や一般常識が紛れ込み、神さまの真理を押しのけて幅を効かせることも起こりえます。教会と信仰の世俗化であり、人間中心の価値観の台頭です。教会はしばしばそうしたこの世の波に飲み込まれ、はなはだしく堕落し、生命を失いかけました。何度も何度も。こう警告されています;「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」(コリント手紙(1)15:2-3)。救い主イエスの死と復活とが聖書に書いてあるとおりに起こった、と念を押しています。いたずらに信じるのではなく、思いのままに信じたいように信じるのでもなく、聖書に書いてあるとおりに信じ、受け止め、そのように判断し、選び取りながら生きることができるのかどうか。そうではないなら、主イエスを信じたことが無駄になり、信仰は空虚なものと成り下がり、私たちはすべての人の中で最も哀れむべき、惨めで物悲しい存在となってしまう。本当のことです。それをこそ警戒し、恐れねばなりません。ですから、人間にすぎない者たちとその言葉をただ鵜呑みにするのではなく、立ち止まって、「それは、聖書のどこから出てきた考え方だろうか。それとも、聖書とは別のところからの、この世の知恵や慣習や、単なる一般常識にすぎないだろうか。習い覚えてきた福音の道理にかなっているだろうか、反しているだろうか?」と、よくよく熟慮しつづけること。主のご委託とご命令に従い、御心にかなって生きていきたいと願うことは、建前や机上の理屈であることを豊かに越え出て、このようにして現実化していきます。一個のキリスト教会としても、一人一人のクリスチャンの生涯としても。
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例えば、伝道のことはどうでしょうか? 聖書講演会などは牧師が担うほうがふさわしいでしょう。けれど、伝道集会や伝道活動のあり方は多様です。習い覚えてきた福音理解と、信仰をもって生きる現実生活の只中での葛藤や悩みや希望、喜び、生活現場で贈り与えられた信仰の洞察、主イエスについての証言を、誰がどのように語ることができるでしょう。専門教育を受け、資格や免許を受けた伝道者にだけ、それをさせるべきでしょうか?
(1)聖書自身は、どう語っているでしょう。例えば、主イエスの弟子らは二人ずつ組にされて町々村々へと遣わされていきました。神の国の福音を宣べ伝えるためにです。修行途上で早々と、信仰理解もまだまだ不十分で未熟で、主への信頼も足りないままに! けれど何の不足も不都合もありませんでした。まず12人、次に72人、さらに続々と。主イエスご自身の権威のもとに、無学なただ人らが選び出されました。やがて12弟子が御言葉の業に専念できるようにと、食べ物の配給や兄弟らの世話のために選び出された7人は今日の執事のような存在です。そこに、御言葉を大胆に宣べ伝えたステパノも混じっていました(ルカ9:1-,同10:1-,使徒6:1-6,同7:1-)。主イエスは何者かと問われて、弟子たちは、「来てみなさい。そうしたら分かるから」と他の人々を主のもとへと連れていきました。「イエスを神はよみがえらせた。そして、私たちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである」「私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」と弟子たちは語りつづけました。最初のクリスマスの夜に、羊飼いたちは自分が見聞きしたことを人々に語り伝えました。片田舎の無学な漁師たちも無学なままで語りました。見下され、排除されていた取税人も語りました。自分の町の人々に主イエスと自分自身のことを告げ知らせたサマリヤ人の女性と、かつて墓場で鎖につながれていたゲラサ人の彼は、人々からの権威や資格などではなく、ただただキリストの霊にだけ突き動かされて福音を宣べ伝えました(ヨハネ1:39,使徒2:32-33,同4:20,ヨハネ4:1-,マタイ8:28-)。私たちももちろん、ただのごく普通のサマリヤの女であり、単なるゲラサの墓場の男の一人です。それ以上でもそれ以下でもなく、福音を宣べ伝えるにはもうすでに十分であると弁えましょう。「何の権威と資格によるのか」と問われるなら、「人間たちからの資格や権威や免許などではなく! ただ主イエスご自身からの派遣であり、ただ主イエスの権威のもとにだけ送り出された」と答え、そのように弁えましょう。あの12人、72人の派遣とまったく同じに。私たちに害を及ぼす者はまったくありません。しかも伝道成果に一喜一憂するのでなく、「自分自身の名が天に書き記されてあることをこそ喜べ」と戒められています(ルカ10:17-20)。それぞれの家庭で家族の前で、職場や友人たちの前で、さまざまな場所で、主イエスの弟子とされた私たち皆は! キリストを証言しつつ生きるのです。「私たちを見なさい。金銀は私には無い。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。もし仮に、あなたにもそれ(=ナザレ人イエス・キリストの名によって歩くこと。その名による恵み)があるなら、また贈り与えたい相手がたった一人でもいるならば、あなたも同じことができます。無いなら、黙っていても構いません。別の弟子もまた、「主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」(使徒3:6,コリント手紙(1)11:23)と証言しています。奴隷の国エジプトから連れ出されたとき、すでにそこには「多くの入り混じった群衆」が神の民に新規加入していました。遊女ラハブも、外国人だった義娘ルツも加えられたのは、神の偉大な業と恵みとを聞き及んでいたからです。「主の大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及んで、主の御名のために遠い国から外国人らが来て主の名を呼ばわる日が来る」ことをソロモンも望みみました「諸国民のうちに散らされて生きる、他のどの民とも異なる独特な民族がいる」と、神を神とも思わない傲慢な役人ハマンさえ知っていました。誰かが彼に知らせたのです(出エジプト12:38,ヨシュア記2:8,ルツ記1:16,列王記上8:41-43,エステル記3:8)。彼らに語り聴かせる無数の者たちがありつづける。これが、福音伝道の4000年ほどの連鎖です。主ご自身から受けたのならば、その人は伝えはじめます。もし受けていないのなら、伝えなくてもよいし、伝えることもできないでしょう。
500年前の宗教改革は、神に仕える務めの垣根と隔てを緩やかなものとしました。「預言者、大祭司、王の三職を主イエスが担ってくださった以上は、主に従うすべてのクリスチャンもまた主に率いられて、この同じ『預言者、大祭司、王の三職』を担って働くのだ」と宗教改革の源流のもとに立つプロテスタント教会は教えつづけてきました。それは、世の終わりまで変わることなく伝えられ、担われていきます。主に仕え、神の国を宣べ伝える光栄ある務めは、決して一部の専門家だけに独占されてはならず、どの一人のクリスチャンもその務めから排除されてはなりません。
(2)『伝道』と言われて、そこで今日の私たちは、どういうことを思い描くでしょうか。伝道集会でチラシをまいたり、イベントや催しをしたり、素敵なオルガン・コンサートや餅つき大会をしたり。大勢の前で、何か格調高く学識豊かに、感動的に演説することでしょうか。そうであってもよいかも知れません。あるいは、ずいぶん違っていてもいいかも知れません。けれど私たちは、いったい誰に対して伝道するのでしょう。主に従う格別に幸いな道を、いったい誰に伝えたい、ぜひ手渡したい、と切望しているでしょうか。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなた自身も、あなたの家族も救われます」(使徒16:31)という約束は、いつ、どのようにして果たされ、実を結ぶでしょうか。あなたの家族に、いつ、誰が、主に従う格別に幸いな道を伝えてくれるでしょうか? 神殿の荘厳な礼拝堂でも、地域の文化会館でも道端でも、茶の間でも、大勢がそれを慎んで拝聴していても、そうでなくても、神の民イスラエルとされた私たちにはすべきことが教えられ、はっきりと命じられています。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。・・・・・・あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう」。また、復活の主イエスは、主に従う弟子たちを故郷の山に呼び集めて、そこから送り出されました;「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(申命記6:4-18,マタイ28:18-20)。そこでの、『誰が出ていって、誰が教え、誰が何を宣べ伝えるのか』という選別は単純明快です。主イエスを信じ、主を礼拝し、主に聴き従って生きる主イエスの弟子であるのかどうか。もし弟子であるならば、「せよ」と主から命じられたことをする。「してはならない」と主から禁じられ、戒められたことは、しないでおく。
(3)非常識な伝道。想定外の伝道。このごろは、例えば「伝道」と言っても「教会形成」と言ってみても、いつの間にか中身は似て非なるモノへとすり替えられ、私たち人間に都合の良いことや、人が増えて繁盛してなどということばかりが思い描かれています。ずいぶんと賢く、見栄えのよい伝道、効率的な教会形成。けれど、聖書自身はそこで何を語ったでしょうか。神さまは何をお命じになり、どう働いておられたでしょうか。神の思いは、私たち人間の思いとはずいぶん違っていました。私たちの一般常識を軽々と飛び越え、想的外のことを平気でなさる神なのです(イザヤ書55:8-11参照)。例えば伝道は、「主に従って生きるための道を伝え、その道と歩き方を手渡すこと」であったはずです。アブラハムとサラが結託して主に背いたとき、神さまは、神を知らないはずの外国人の王を用いて、「あなたは何をしたのか」とアブラハムを厳しく叱責なさいました。それは、本来的な意味での伝道そのものでした。ダビデ王がしてはならない極悪非道の罪に手を染めたとき、預言者ナタンは、「あなたがその人です。どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事を行ったのですか」と責め立てました。それは、立ち返るべき道を示す伝道でした。コリントの教会で起こった恥ずかしい不祥事に際して、主の弟子はきびしい発言をしています。「主の裁きの日に救われるようにと、彼をサタンに引き渡した」と。また、兄弟姉妹たちを深く悲しませたことは益であった、とその弟子は語る。「この世の悲しみは死を来らせるが、神の御心にそった悲しみは救いを得させる悔い改めへと導く。あなたがたは悲しんで悔い改めるに至ったではないか」と。クリスチャンこそが、またそれゆえ伝道者自身こそがよくよく主に従う道を伝えられ、掴み取りつづけねばなりません。何人かでも救うためではなく! 自分自身こそが救いにあずかるため。他の人々に伝道しておきながら、自分自身が失格者になってしまわないためにこそ(創世記12:18,サムエル記下12:7-15,コリント手紙(1)5:5,同(2)7:9-10,同(1)9:22-27)。人の心に思い浮かびもしなかったことを、神さまは私たちのために準備しておられます。立ち返りましょう。「教会形成」も「伝道」も、私たちの一般常識と損得勘定と市場論理とは全く別のところにあり、別の方角を向いていたのでした。むしろ、人間的な小賢しさ、効率の良さ、ソロバン勘定をキッパリ排除して、宣教の愚かさ、弱さ、効率の悪さを選び取ってくださいました。なぜなら罪人を救うために神の独り子イエス・キリストが低くくだり、ご自分をむなしく低くなさり、十字架の死に至るまで御父への従順を貫いてくださったからです(コリント手紙(1)1:17-31,ピリピ手紙2:5-11参照)。「せよ」と命じられ、主ご自身から委託された使命が私たちにはあり、けれど、「してはならない」と戒められていたはずの逸脱へとこの私たちは迷い出ようとしつづけます。今日のキリスト教会の衰退、閉塞感、はなはだしい失速の理由はもっぱらそこにこそあります。まずこの私たちこそが、本気になって立ち返りましょう。大慌てで、立ち返りましょう。
――根源的な、基本中の基本の理解です。あなたにも、この福音の道理が十分に理解できますか? 御父と主イエス・キリストからの恵み、憐れみ、平和のうちに、この私共も留まりつづけられますように。
(*)『神さまの御心に従うこと』『福音の道理にかなっているかどうか』。これがクリスチャンであることの弁えであり、基本の心得であるとして、それはいつからいつまでか。言い換えれば、この自分がクリスチャンであることは、いつからいつまでなのか。もちろん朝から晩まで、四六時中、クリスチャンです。どこで何をしていても、誰といっしょのときにも、何の事柄についても。いつもいつも『神さまの御心に従うこと』を願い求め、『福音の道理にかなっているかどうか。それについて、聖書はどう語ってきたか』と問い、熟慮しつづけること。クリスチャンであることの格別な幸いは、ここから始まっていきます。