2020年12月6日日曜日

12/6こども説教「神殿での騒動」使徒21:27-36

 

 12/6 こども説教 使徒行伝21:27-36

 『神殿での騒動』

     +【付録①/クリスチャンの家族の対話。苦しむとき】

 

21:27 七日の期間が終ろうとしていた時、アジヤからきたユダヤ人た ちが、宮の内でパウロを見かけて、群衆全体を煽動しはじめ、パウロに手をかけて叫び立てた、28 「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上、ギリシヤ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」。29 彼らは、前にエペソ人トロピモが、パウロと一緒に町を歩いていたのを見かけて、その人をパウロが宮の内に連れ込んだのだと思ったのである。……33 千卒長は近寄ってきてパウロを捕え、彼を二重の鎖で縛っておくように命じた上、パウロは何者か、また何をしたのか、と尋ねた。34 しかし、群衆がそれぞれ違ったことを叫びつづけるため、騒がしくて、確かなことがわからないので、彼はパウロを兵営に連れて行くように命じた。35 パウロが階段にさしかかった時には、群衆の暴行を避けるため、兵卒たちにかつがれて行くという始末であった。36 大ぜいの民衆が「あれをやっつけてしまえ」と叫びながら、ついてきたからである。 (使徒行伝21:27-36

 

 人間はだれでも自分の心の中でありもしない物語を造り出して、それが本当のことだとついつい思い込んでしまいます。「誰々さんは、なにか恐い顔つきで私をにらんでいた。私のことを怒っているらしい。なにか意地悪なことを私にしようとして、待ち構えているにちがいない」などと。そのとき、その人の心は曇って、本当のことがよく分からなくなっています。同じようなことが誰にでもあります。「パウロが悪い人間で、神に逆らう悪いことをしたり、人々をだましたり、困らせたりする人間だ」と思い込んでいるユダヤ人たちがいました。その人たちが神殿の中でパウロを見かけました。「あいつだ。また、なにか悪いことをしようとしているに違いない。ユダヤ人しか入ってはいけない神聖な場所に外国人をかってに入らせたのかも知れない。さあ大変だ」。この人の呼びかけに惑わされて、他の大勢の人たちもパウロを捕まえようとしました。たいへんな大騒ぎになり、その人たちはパウロを殺してしまおうとさえしました。ローマ帝国の軍隊が出てきて、人々とパウロを引き離しました。その頃はローマの国がユダヤ全体を支配しており、ローマの軍隊が警察の役割をしていたからです。

 さて、このたいへんな騒動の只中で、神さまがどのように生きて働かれ、御心のとおりに世界と人々を動かしておられるのか、よく分かりません。後になってから、それは明らかにされてゆきます。

 

       【付録①/クリスチャンの家族の対話。苦しむとき】

       まわりにいる人間のことばかり思い煩って、神を思うことがなかなかできなくなる日々があります。神さまを長く信じてきた大人や牧師自身も、そのように心を弱らせ、惑わされる日々があります。そのとき家族や友だちが、クリスチャン同士として互いに励まし合うことができます。「神が味方である」と独りで聖書を読むこともできますが、その言葉を生身の人間から語りかけてもらえるなら、とても心強いです。いっしょに祈って、やさしくハグしてもらったり、「神さまがあなたの味方です。私も味方ですよ。だから、とても困ることはありません」「天地を造られた神から、あなたの助けが必ず来ます。本当だよ」(ローマ手紙8:31,詩編121など)と。

2020年11月30日月曜日

11/29「祝宴に誰を招くか」ルカ14:12-14

           みことば/2020,11,29(主日礼拝)  295

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:12-14              日本キリスト教会 上田教会

『祝宴に誰を招くか』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。13 むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。    (ルカ福音書 14:12-14)

                                               

2:17 もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、18 御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、19,20 さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。23 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。27 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。                (ローマ手紙 2:17-29)


(1)神の国の祝宴

「上座に座ってはいけない。いつも末席に、慎み深く座っていなさい」と、救い主イエスが教えはじめました。席順のことばかりでなく、普段のいつもの心得であり、しかも単なる人間同士のつき合いや社交的な礼儀作法を教えようとしているわけではありません。むしろ神の国の祝宴に集うための心得であり、救いに至る狭い道を選び取るための心得です。だからこそ14節で、「正しい人々の復活の際には、あなた方は報いられる」と主イエスが仰り、15節で「神の国で食事をする人は幸いです」とイエスに語りかける者があり、とうとう24節で、「あなたがたに言っておくが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる人はひとりもいないであろう」と仰います。「わたしの晩餐」;神ご自身によって神の国に招かれた人々が終わりの日にあずかるはずの救い主イエスによる晩餐。神の国の祝宴です。誰がどのように、その祝いの席に招かれるのか。この私たちは、その宴にどのようにあずかることができるのか。

 

(2)神は貧しいものたちを招く

 へりくだった心は、何を土台として、どのように人の魂に湧き起ってくるでしょうか。先週も申し上げましたが、へりくだった心の土台とその中身は『正しい知識』です。もしその人が自分自身をよく知り、自分の心の中にいったいどんなものがあるのかを知り、神を知り、神の尊厳とその神聖さを知り、救い主イエスを知り、罪から救い出されることのかけがえのない価値を知るならば、もしそうであるなら、その人は思いあがった傲慢な人間になど決してなれません。その人は、とうとう晴れ晴れとした心になって、『自分自身が神の恵みにまったく価しない人間だ』とつくづくと分かります。「わたしは本当に貧しい者です」とヨブが答え、「わたしは罪人の中のその最も卑しい者です」と主の弟子パウロが答えたようにです(ヨブ記40:4,1テモテ手紙1:15。つまり、それと正反対に自分を誇り、思いあがってしまう理由は、その人が自分自身が何者であるのかをまったく知らず、どんな神なのかも知らず、救い主イエスがこの自分の救いのためにも何をしてくださったのかも少しも知らないためだったのです。自分自身が何者であるのかを知る者は、誇るべきものはこの自分に何一つもないことに、ついにとうとう気づきます。

しかも、神が全能の神であられ、なんでもおできになり、まったく善意のお方であることを知るだけでは、私たちは神にすっかり信頼して、自分の救いを安心して委ねることなどできません。神にすべての信頼を置いて生きるためには、どうしたらよいのか。古い信仰問答は、ぜひとも知っておくべきこの『正しい知識』についてこう答えます、「救いにまったく値しないにもかかわらず、なお神が私たちを愛し、私たちを憐れんで、救ってくださろうとしていることを心から確信する必要があります。そのためには、救い主イエス・キリストにある憐みを知り、神をキリストにおいて知ることです」(ジュネーブ信仰問答 問8-14を参照)

 価なしに、ただ恵みによって、罪人をただ憐れみ、その罪深さと悲惨とをゆるして救う神です。その憐みは救い主イエス・キリストのうちにあり、キリストにおいて私たちに差し出されます。主のもとに罪のゆるしと、罪のあがないがあり、そのゆるしがこの私たちにも差し出されている。そこに希望があります。憐み深い、ゆるしの神に対する希望であり、だからいつでもどんなときにもその神を待ち望むことができます。ところが旧約時代の長い長い日々、神を信じる信仰はただ形ばかりのものとなり、人々は神のことが分からなくなり、神の恵みも憐みも忘れ果ててしまいました。身分が高く、豊かで、賢く偉い自分たちであると思いあがり、神をあなどりつづけました。ちょうど、宴会の席で「上座に座ろうとする人々」のようにです。神を信じて幸いに生きるはずの人々は、神の国の祝宴を忘れ、神をそっちのけにして、ただただ人間同士の宴会を繰り返しているかのように勘違いしてしまいました。次の箇所の15-24節の、神の国の祝宴に招かれながら断り続けて、ついに神の国の祝宴にあずかることのできなかった愚かな人々のようにです。

 12-13節、「また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい」。たとえを用いて語られています。人間同士の付き合いではなく、神さまと私たちとの交わりの中身が教えられています。なによりも、宴会に招いておられる主人は神さまです。私たちはそのお客です。すると、その神ご自身のものである宴会に、もし、『神の友人、その兄弟、親族、金持の隣り人』などのつもりで出席するなら、せっかくのその祝宴は台無しです。かえって、その一回一回の祝宴はあなた自身にとっても大きな災いとなるでしょう。互いに招いたり招かれたり、お返しをしたりされたりして自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いながら、神を思うことも感謝することも、神に信頼して聞き従うこともまったくできないからです。神ご自身のものであるその宴会には、私たちは、ぜひ何としても『貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人』のつもりで集まりましょう。お返しも返礼も何もできません。そうであるならば、その貧しく小さく無力な者たちは、いったい何ができるでしょう。――ただただ感謝し、喜びを噛みしめるばかりです。それなら、その祝宴にあずかった甲斐があります。その一回の祝宴にあずかったことで、私たちは幸いになれるかも知れません。もし、そこで、神ご自身が生きて働いておられて、この私のためにさえ憐みの御業をなしつづけていていてくださると気づくことができるならば。

 もちろん、少しも正しくない私たちですが、神の憐みを知って、神の御心にかなって生きることを願い求めて暮らす中で、神からの憐みの報いを受け取ることができるでしょう。終わりの日の復活の際にも、今、この一日一日の暮らしの只中にあっても。

 

 (3)祝宴にあずかる

 もし、神ご自身の祝宴にあずかり、神からの祝福と幸いをぜひ自分も受け取りたいと願うものがいるなら、その人はいったいどうしたらいいでしょうか。もちろん、神の憐みにただすがりさえすればよいのです。神の憐みは救い主イエス・キリストによって差し出され、分け隔てなく、何の区別もなく与えられます。キリストがいのちとして与えられるのですから、そこでとうとうこの私たちは、『いのちであられるキリストなしには自分が自分自身においてまったく死んでいる』ということを悟ります。「ああ、そうだったのか」と。そこで、私たちが神に差し出すことのできる唯一の、そして最善のふさわしさはこれです。つまり、救い主イエス・キリストの憐みによってふさわしいものとされるために、私たち自身の価値のなさと、ふさわしくなさを、あまりに傲慢であったことを、救い主キリストの御前に差し出すことです。私たちがキリストにおいて慰められるために、自分自身においては絶望することです。私たちがキリストにおいて立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだることです。自分は現に事実とても貧しい者、体の不自由な者、足の悪い者、目の見えない者として、慈しみ深い贈り主のもとに来ること。重い病を患う重病人として良い医者のもとに来ること。神に逆らいつづけるとても頑固で頑なな罪人として義の創始者のもとに来ること。そして最後的には、死んでいる者として、いのちを与えて生かしてくださる御方のもとにくるのだと考えましょう(『キリスト教綱要』41741-42節 Jカルヴァン)

 神から憐れんでいただいた兄弟姉妹たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな召使いの人間に。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならなかったはずのことが起こりました。私たちの主、救い主イエス・キリストは「自分を無にして、しもべの身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(ピリピ手紙2:7-8。救い主イエスは、自分で自分を無になさいました。無にされたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、父なる神さまへの従順を貫き通してくださいました。なぜでしょう。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わい尽くして下さったのでしょうか。

 ここにいる私たちは知らされています。十二分に、よくよく知っています。神から憐れんでいただいた兄弟姉妹たち。それは、「罪人を救うため」(1テモテ手紙1:15でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、最低最悪者の罪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人、最低最悪者の罪人。それがこの私であり、あなた自身です。

 自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神への従順を貫き通してくださった御子イエス・キリストが私たちを神の国の祝宴へと招きます。現に事実とても貧しい者として、体の不自由な者として、足の悪い者として、目の見えない者として。その低さと、へりくだりの、格別な恵みの場所へと招いてくださいました。ですから私たちは、このように自分自身の罪深さと貧しさと傲慢さと心の頑固さを知りながら、だからこそ憐みとゆるしを慕い求めて、救い主イエスへと向かうことができます。自分自身のいたらなさ、身勝手さ、よこしまさを知りながら、救い主イエスへと向かうことができます。なぜなら救い主イエス・キリストは罪人を救うためにこの世界に来られたのですし、この自分こそがその罪人の中の最たる者であり、最低最悪のものであることをよく知っているからです。しかもなお、神は憐み深い神であられ、救い主イエス・キリストのもとにこそ、私たちのためにも憐みとゆるしがあるからです。

 

 


11/29こども説教「律法を守る生活」使徒21:15-26

 11/29 こども説教 使徒行伝21:15-26

 『律法を守る生活』

 

21:21 ……あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に 割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。25 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。26 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた。         (使徒行伝21:15-26

 

 律法の中のこまごました約束事や決まりをどのように守っていくか。そこにはいろいろな理解が入り込んで、誤解したり、互いに相手を悪く思ったりもします。21-24節、「ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう」。とても大切な願い事をするとき、そのしるしに頭の髪の毛をそるしきたりがありました(レビ記19:27参照)。皆の前で、律法を大切にしていることを示すために、彼らはその儀式に参加しました。できるだけ誤解を解き、いらない争いをやめ、皆が律法を重んじ、神の御心にかなって生きようと願うことが大切だったからです。

2020年11月23日月曜日

11/22「高ぶる者は低くされて」ルカ14:7-11

           みことば/2020,11,22(主日礼拝)  294

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:7-11                 日本キリスト教会 上田教会

『高ぶる者は低くされて』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:7 客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。8 「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。9 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。10 むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。  (ルカ福音書 14:7-11)

                                               

2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ手紙2:1-11)

(1)へりくだること

 「上座に座ってはいけない。いつも末席に、慎み深く座っていなさい」と、救い主イエスが教えておられます。宴会の席ばかりでなく、普段のいつもの心得であり、しかも単なる人付き合いや社交的な礼儀作法を教えようとしているわけではありません。神の国の祝宴に集うための心得であり、救いに至る狭い道を選び取るための心得です。慎ましい心になって、へりくだって生きることが出来るなら、その人はとても幸いです。11節、「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。まわりにいる人間たちが私たちをそのように取り扱うだけでなく、なにより神ご自身が私たちを、そのように低くしたり高く引き上げたりなさる。

 「思いあがってはいけない」と、聖書は何度も何度も私たちに厳しく警告を与えます。不思議なことです。なぜ、ほとんどこのことばかりが繰り返して警告されつづけるのか。思い上がり、傲慢になることが、私たちにどんな不都合や災いをもたらすのでしょう。それは、私たちが神の救いにあずかることができるかどうかの、決定的な別れ道です。だからこそ、自分自身の心によくよく気を配っていなければなりません。

 神の救いについて、聖書は、徹底して最初から最後まで、それは「ただ恵みである」と宣言しつづけます。なんの区別も分け隔てもなくと。だからです。だからこそ思い上がりと傲慢は、私たちの目をくらませ、この根本的な救いの道理を分からなくさせます。聖書は証言します、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙3:22-27。神の義、つまり神からのゆるしと救いが、ただ救い主イエスを信じる信仰によって贈り与えられる。そこにはなんの差別も分け隔てもない。なぜなら、誰もが罪を犯して神の栄光を受け取る資格を失い、失格者となってしまったからだというのです。救われる資格のない私たち人間を救おうとするなら、「価なしに、ただ神の恵みによって、キリストによるあがないによって、義とされ、救われるのだと。ただ恵みによる、無条件の救いである理由は、誰も彼もが皆、失格者とされており、そうでなければ救われる者など一人もいなくなるからである」と。『ただ恵みによる』という、驚くべき救いの道筋です。へりくだった謙遜な心をもっていることは、神さまからの他の何よりも素敵な贈り物です。なぜなら、自分自身の罪深さ、弱さや貧しさを知り、それゆえ救い主イエスの助けをこの自分が必要としているとはっきりと感じることができることこそが、『私たち自身を救うことのできる信仰』の最初の第一歩だからです。

 では、へりくだった心は何を土台として、どのように人の魂に湧き起ってくるでしょうか。へりくだった心の土台とその中身は、『正しい知識』です。もしその人が自分自身をよく知り、自分の心の中にいったいどんなものがあるのかを知り、神を知り、神の尊厳とその神聖さを知り、救い主イエスを知り、罪から救い出されることのかけがえのない価値を知るならば、もしそうであるなら、その人は思いあがった傲慢な人間になど決してなれません。つまり、それと正反対に、自分を誇り、思いあがってしまう理由は、その人が自分自身が何者であるのかをまったく知らず、どんな神なのかも知らず、救い主イエスが何をしてくださったのかも少しも知らないためだったのです。自分自身が何者であるのかを知る者は、誇るべきものはこの自分に何一つもないことについにとうとう気づきます。

しかも、神が全能の神であられ、なんでもおできになり、まったく善意のお方であることを知るだけでは、私たちは神にすっかり信頼して、自分の救いを安心して委ねることなどできません。神にすべての信頼を置いて生きるためには、どうしたらよいのか。古い信仰問答は答えます、「救いにまったく値しないにもかかわらず、なお神が私たちを愛し、私たちを憐れんで、救ってくださろうとしていることを心から確信する必要があります。そのためには、救い主イエス・キリストにある憐みを知り、神をキリストにおいて知ることです」(ジュネーブ信仰問答 問8-14を参照)

 

(2)自分を低くしてくださった神

価なしに、ただ恵みによって、罪人をただ憐れんでゆるして救う神です。その憐みは救い主イエス・キリストのうちにあり、キリストにおいて私たちに差し出されます。

ピリピ手紙2:5-11は証言します、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ピリピ教会の人たちは、いつの間にか、自分がどうしてついつい思いあがってしまうのかが分からなくなりました。どうしたらへりくだった思いになれるのかも、なぜそれが必要なのかも分からなくなりました。そこで主イエスの弟子は、そのへりくだりの心をキリストの例によって勧めはじめます。キリストの真似をし、キリストに従い、キリストと同じ心を持つようにと。そのように勧めているのは、救い主イエス・キリストを信じて生きる私たちには誰でも、キリストに従い、キリストと同じ心になることができるからです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」;キリストのへりくだりは、栄光と栄誉の最も高い場所から虚しさと恥の最も低い場所までも身を屈めることでした。それゆえ私たちのへりくだりは、思いあがって自分を高くしてしまわないことです。神の形は、ここでは神であられることの栄光と尊厳です。その中身にふさわしく崇められることです。けれどキリストは、その栄光や尊厳にしがみつこうとはしませんでした。もちろん神であられることのその本質はそのままに、その栄光と尊厳を捨てて、姿形を低く卑しくなさいました。「ご自身をむなしくして」も同様で、神であられることの本質を捨て去ったわけではなく、それをひとたび隠してしまわれました。

「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。「しもべとなる」と約束し、「人々に仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28とおっしゃったとおりに、救い主イエスはしもべとなられ、さらに、罪人としての無残な死を耐え忍ぶまで父なる神への従順を徹底して貫き通してくださいました。御父へのこの従順のささげものこそが、十字架の上で成し遂げた御業の中身でした。この従順こそが、救われた者たちの結ぶ実りです。救い主イエスの死と復活は、これによって神への従順を成し遂げ、それを私たちのためにも差し出してくださったことです。「ご自分の民をそのもろもろの罪から救う」と約束されていました。罪のはじまりとその究極の中身は、神に逆らうことです。こどものための交読文はこう説き明かします、「主イエスは罪を犯さず、神に逆らったことは一度もないのですか」「そうです。私たちも、主イエスに導かれて、神に逆らうことを止めて神に素直に従う者たちとされてゆきます」(こども交読文3)。救い主イエス・キリストのもとに罪のゆるしがあり、だからこそキリストに従い、キリストと同じ心を持つ者とされる私たちです。「罪から救われる・罪からあがなわれる」とは、このことです。しかも救い主イエスがこの世界に降りて来られたのは、ほかの何のためでもなく、「罪人を救うため」(1テモテ手紙1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人をさえ、ぜひとも救い出したい。神の憐れみの子供たちとして迎え入れたいと。極めつけの罪人。罪人の中の罪人。それがこの私であり、あなた自身です。

 自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神への従順を貫き通してくださった御子イエス・キリストが私たちを招きます。高ぶる者がなぜ、なんのために低くされるのか。その低さと、へりくだりの場所に何があるのか。罪のゆるしがあり、罪からのあがないがそこにあります。私たちは、このように自分自身の罪深さと貧しさを知りながら、憐みとゆるしを請い求めて、救い主イエスへと向かうのです。自分自身のいたらなさ、身勝手さ、よこしまさを知りながら、救い主イエスへと向かうのです。救い主イエス・キリストは罪人を救うために世に来られたのですし、この自分こそがその罪人の中の最たるものであり、最低最悪のものであることをこの私たちもよく知っているからです。しかもなお、神は憐み深い神であられ、救い主イエス・キリストのもとにこそ、私たちのためにもゆるしがあるからです。

 

11/22こども説教「主の御心が行われるように」使徒21:7-14

 11/22 こども説教 使徒行伝21:7-14

 主の御心が行われるように

 

21:7 わたしたちは、ツロからの 航行を終ってトレマイに着き、そこの兄弟たちにあいさつをし、彼らのところに一日滞在した。8 翌日そこをたって、カイザリヤに着き、かの七人のひとりである伝道者ピリポの家に行き、そこに泊まった。……アガボという預言者がユダヤから下ってきた。11 そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」。12 わたしたちはこれを聞いて、土地の人たちと一緒になって、エルサレムには上って行かないようにと、パウロに願い続けた。13 その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。14 こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。   (使徒行伝21:7-14

 

13節、「その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった」。伝道者ピリポの家に泊まっていたとき、独りの預言者がやってきて、また、同じ恐ろしい預言をしました、「パウロがエルサレムの都で縛らりあげられ、ローマの兵隊たちの手に渡し、牢獄に閉じ込められることになる」と。それで仲間たちはまた、エルサレムに行かないようにとパウロを説得しようとしました。けれどパウロは、「主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟している」と答えました。人々は説得することを諦めて、「主の御心が行われますように」と言いました。

彼らだけでなく、主イエスを信じて生きる私たちも、「主の御心が行われますように」と言いつづけ、自分自身にも言い聞かせ続けて生きていきます。誰の考えや計画に従ってでもなく、自分自身の願いや考えに従ってでもなく、ただただ主なる神さまの御心に従って生きていきたいと願い、そのように心を定めている私たちです。それこそが、私たちと家族のための幸いでもあるからです。

  

2020年11月16日月曜日

11/15「安息日に何をするのか」ルカ14:1-6

 みことば/2020,11,15(主日礼拝)           293

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:1-6                日本キリスト教会 上田教会

『安息日に何をするのか』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2 するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。3 イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。4 彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。5 それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。6 彼らはこれに対して返す言葉がなかった。           (ルカ福音書 14:1-6)

                                               

16:1 イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、2 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。……8 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。9 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。       (出るエジプト記16:1-12)

1-2節、「ある安息日(口語訳、新改訳は「あんそくにち」と、新共同訳は「あんそくび」と訳している)のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた」。少し説明をします。「水腫(すいしゅ)」とは、皮下組織の隙間や体腔内に組織液やリンパ液がたまる病気で、手足、顔、腹部などが水膨れによってはれてきます。安息日で、パリサイ派の指導者の家に食事に招かれて行った。すると、そこにその水腫を患っている人がいた。たまたま紛れ込んでいた、とは考えにくいのです。なにしろ家の主人の招きや許可がなければ、その食事の席にその人が同席することはありません。安息日に会堂で、主イエスは何度も何度も病人を癒し、その様子を人々に見せていました。もしかしたら、パリサイ人たちは主イエスを罠にかけようと、その病気の人とイエスが出会うように仕組んでいたのかも知れません。だから1節にあるように、その家に入っていくと、「人々はイエスの様子をうかがって」いました。彼らが心に思っている議論の中身に、主イエスは自分から踏み込んでいって、彼らに問いかけます。「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。

 もう1つ、安息日や律法の様々な規定をめぐって主イエスと律法学者やパリサイ人たちはきびしい議論を繰り返します。「主イエスは安息日の決まりや、律法をとても嫌っていたらしい。律法を捨て去って無くしてしまおうと考えていたようだ」などと、うっかり勘違いする人々もいます。それは大間違いです。むしろ逆で、安息日規定を含めて、救い主イエスは神の律法をとても大切に考えておられました(マタイ福音書5:17-20「わたしは律法を廃するためではなく、成就するためにきた」参照)神の律法が、中身のないただ形ばかりのものにすり替えられていたことが大問題でした。律法やそのこまごました規定を振りかざしながら、信仰の指導者たちは、律法の中身と、神を信じて生きることの中身を見失い、神をなおざりにしていました。律法と神を重んじるふうを装いながら、神をあなどり、不正や悪を行い、貧しい人々を慈しんで助けることをすっかり忘れ果てていました。神の律法の本来の目的は、神を信じて生きる人々が御心にかなって生活するように導くためにあります。神の御心は、神を愛し、敬い、神の御心に従って生きることを求め、また隣人を自分自身のように愛し、尊ぶことにありました。ですから律法をめぐる論争をつうじて、救い主イエスは律法の根本の心をもう一度、人々の中に回復させようとしつづけていたのです。

 また、神の律法は私たち自身の正しさやふさわしさを証明するための目印ではなく、むしろ私たちがどんなに神に背いているか、どれほど神の憐みの御心に反して生活しているのかを気づかせるためにありました。少し前の箇所ですが、このルカ福音書13章のはじめの出来事はそのことを私たちに知らせていました。「シロアムの塔が倒れて18人の人が死に、何人ものガリラヤ人が神殿付近で殺されてしまったことを知って、あなたががたはどう思うのか。他の人々よりもその彼らの方が罪が重かったと思うのか。そうではない。あなたがたも、悔い改めなければ滅びる」(ルカ13:1-5。この言葉を、自分自身のこととして聞くことができるなら、その人たちは幸いです。

 信仰が中身を失い、ただ形ばかりのものになってゆくとき、大きな災いにあった人たちに対して「可哀そうに」と同情しながら、けれどその一方で、自分たち自身が何不自由なく暮らしていることを当然のように受け止め、「神の格別な恵みを受け、神から憐れんでいただいているのだ」と私たちは安心してしまいます。神からの厳しい懲らしめを受けていないとき、私たちは、自分自身の罪の只中でウトウトと眠り込んでしまいます。まるで神からの好意や慈しみを受けており、神のゆるしと保護の中に堅く守られている自分であるかのように。そこには、2つの大きな過ちがあります。(1)神が私たちの目の前で誰かを厳しく打ち据え、懲らしめるのを見たとき、神はこの私たちに警告を与えています。自分の胸に手を当ててつくづくと考えてみるようにと。この自分自身は、神の御心にはなはだしく背いてはいないかどうかと。(2)もし神が、私たちにほんの短い猶予のときを与えてくださっているとするならば、私たちは神からの慈しみや憐みに決してふさわしいわけではない。そのつかの間の猶予のときにウトウトと眠り込んでしまうのではなく、「悔い改めて、悪い行いを捨てて、神に立ち返って生きるように」と主なる神さまがこの私を招いてくださっていると気づくべきだと。

5-6節、「それから彼らに言われた、『あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』。彼らはこれに対して返す言葉がなかった」。安息日に何をしてはならないのか。あるいは、何をすべきなのか。救い主イエスは、ここで1つのことを指し示しています。神の御業を、神から託された働きをすることは安息日を汚すことにはならない。また、隣人を憐み慈しむことも、安息日の精神に違反しないと。何度も何度も、こうしたことが繰り返されました。別の時には、「安息日に善を行うことと悪を行うことと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(ルカ6:9などと。救い主イエスに敵対する者たちは悪意に満ちた憎しみに心を支配されて、目も心もすっかり見えなくなっていました。自分自身を恥じて、口を閉ざすほかありませんでした。

 

        ◇

 

  安息日に何をしてはならないのか。あるいは、何をすべきなのか。

 安息日は何のためにあるのか。そこで、私たちはどんな恵みと希望を神ご自身から受け取るのか。その日はまず、世界創造の7日間にさかのぼります。第六日目に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。これが天地創造の由来である」(創世記1:31-2:4第六日目に神がご自分が造られたすべてのものを見られて、「はなはだ良い」と喜んでくださったことを私たちはよく覚えていなければなりません。まず、そのための安息日です。そこで七日目には、「そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された」。聖別(せいべつ)とは、神ご自身のもととされることです。神からの祝福を受け、また聖別されて、この自分がほかの誰のものでもなく、自分自身のものでさえなく、神ご自身のものであることを認め、受け入れて、その幸いを噛みしめることです。そのためには、神がご自身のすべての仕事を終えて休まれたように、私たち自身も、抱え持った自分の仕事や役割や約束、さまざまな計画をいったん脇に置いて、手放す必要がどうしてもあります。そうであるからこそ『安息日』の根本の意味は、活動停止であり、立ち止まることだったのです。立ち止まり、すべてを手放して、では何をするのか。神の存在と働きに目を凝らすことです。神の御心にこそ自分の思いを集中することです。神が生きて働いておられますことをよくよく覚え、その働きに信頼し、感謝をし、神の御声に聴き従って生きることをいよいよ新しくしていただくことです。そのためには、何をおいても私たちは立ち止まり、目を凝らし、耳を傾ける必要がありました。神ご自身のお働きに。神の語りかけに。

 もし、神のお働きと御心に目を凝らし、耳を傾けることの差しさわりになるのならば、あなた自身の手の働きが神を思うことを邪魔するのならば、その心をこめた働きも配慮も一つ一つの労苦も、むしろ大きな災いとなるでしょう。自分自身と人間のことばかり思い煩って、そのあまりに、神を思うことの出来ない私たちとさせるでしょう。それなら、むしろ私たちは何一つもしてはなりません。そうであるなら、指一本も動かしてはなりません。

 世界創造の7日間は、エジプトを連れ出されてさまよった荒野の40年間の旅に引き継がれます。はじめに大喜びしていたはずの人々は、けれど荒れ野の旅をしはじめて二カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。ああ、嫌になった。こんなことならエジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あのまま死んでしまってたほうが、よぽどましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられた。神さまの言うことなんか聞かなければ良かった。ああ、嫌だ嫌だ」。文句を言う彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。主なる神さまが仰います;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう」(出エジプト記16:12。ビックリです。パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこのように取り扱いつづけてくださっています。どんなに良い働きをして人々から認められ、実績をあげるよりも、こういう神であり、このような取り扱いを受けているとよくよく分かっていることのほうが千倍も万倍も大切だからです。

 天からの恵みのパンを受け取り、「一日分ずつ糧を与える、安息日の前の日には二日分ずつを与える」と約束されながら、「何人かは残しておいた」と報告されます。蓄えがあった方がいいと考えることは必ずしも間違っていない。しかし同時に、「それは神を疑うことでもあり、神が訓練なさるその意図を無視し、神抜きに生きようとする」ことでもあります。もし、思いあがって自分が神にでもなったかのように傲慢にふるまい始めるなら、あるいは逆に、他人を恐れてビクビクと言いなりにされてしまうなら、その人生は虚しく惨めなものに成り果ててしまいます。自分自身の普段の有り様をつくづくと振り返って、『神に信頼して生きる』ことと『神抜きに生きる』ことの実態が自分自身のこととして思い当たるなら幸いです。

 また、安息日は7日間全部のためにあり、私たちそれぞれの全生涯を貫いて、大きな意味をもちます。もし、一週間に一度、ほんの少しの時間ずつ、神が生きて働いておられますことをよくよく覚え、立ち止まり、神ご自身のお働きと語りかけに目を凝らし、耳を傾けることができるなら、月曜日にも火曜日にも、朝も昼も晩も、そのように生きることができるかもしれません。神ご自身のお働きとその語りかけに目を凝らして、ずっと一生涯を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。

 


11/15こども説教「祈って送り出す」使徒21:1-6

  11/15 こども説教 使徒行伝21:1-6

 『祈って送り出す』

 

21:1 さて、わたしたちは人々と 別れて船出してから、コスに直航し、次の日はロドスに、そこからパタラに着いた。2 ここでピニケ行きの舟を見つけたので、それに乗り込んで出帆した。3 やがてクプロが見えてきたが、それを左手にして通りすぎ、シリヤへ航行をつづけ、ツロに入港した。ここで積荷が陸上げされることになっていたからである。4 わたしたちは、弟子たちを捜し出して、そこに七日間泊まった。ところが彼らは、御霊の示しを受けて、エルサレムには上って行かないようにと、しきりにパウロに注意した。5 しかし、滞在期間が終った時、わたしたちはまた旅立つことにしたので、みんなの者は、妻や子供を引き連れて、町はずれまで、わたしたちを見送りにきてくれた。そこで、共に海岸にひざまずいて祈り、6 互に別れを告げた。それから、わたしたちは舟に乗り込み、彼らはそれぞれ自分の家に帰った。     (使徒行伝21:1-6

 

 エルサレムの都へと急いで旅を進みながら、パウロたちは主イエスを信じる仲間たちを訪ね、彼らを励ましつづけています。

まず4節で、主イエスの弟子たちが、「御霊の示しを受けて、エルサレムには上って行かないようにと、しきりにパウロに注意した」と書かれています。パウロがエルサレムの都でどんなに厳しく辛い目にあうのかを、聖霊なる神さまがみんなに知らせてくれました。それで、「行ってはいけない。止めなさい、止めなさい」と、彼らは何度も何度も強く注意しつづけました。5-6節、「しかし、滞在期間が終った時、わたしたちはまた旅立つことにしたので、みんなの者は、妻や子供を引き連れて、町はずれまで、わたしたちを見送りにきてくれた。そこで、共に海岸にひざまずいて祈り、互に別れを告げた。それから、わたしたちは舟に乗り込み、彼らはそれぞれ自分の家に帰った」。仲間たちは、「エルサレムの都に行ってはいけない、止めなさい」と言うのを、とうとう止めました。パウロが頑固で、どうしても聞き入れなかったからではありません。都に行って、辛く苦しいことを味わうこともまた、彼のために神さまが決めておられる計画だと分かったからです。その計画と、神ご自身の御心に自分たちも逆らわずに従おうと、とうとう心を定めることができたからです。私たちも、同じように神さまから教育をうけます。「神さま。どうか、辛いことや嫌なことが起こらないようにしてください。けれど私たちの願いや思いどおりではなく、あなたの御心のとおりにしてください。その御心に聴き従って生きる私たちとならせてください」(マルコ福音書14:36参照)と。