2019年3月18日月曜日

3/17「権威と力をもつ者」ルカ4:31-37


             みことば/2019,2,17(受難節第2主日の礼拝)  206
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:31-37                         日本キリスト教会 上田教会
『権威と力によって』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:31 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、32 その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。33 すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、34 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。35 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。36 みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。37 こうしてイエスの評判が、その地方のいたる所にひろまっていった。              (ルカ福音書 4:31-37)
 
 救い主イエスはふたたびガリラヤの町カペナウムに戻って、安息日には人々に神の国の福音を教えました。神の国の福音。神はどういう神であり、その神を信じてどのように生きることができるかについてです。語られるその言葉には、神からの権威があって、聴いた人々は驚きました。驚きながらも、その教えを喜んで受け入れる者もおれば、そうではなく拒んで嫌な気持ちになる者たちもいました。いつも、その正反対の二種類の反応が起こされつづけます。
 その会堂に汚れた悪霊につかれた人がいて、大声で叫びだしました。34節、「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言いました。すると悪霊は彼を人々の中に投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行きました。そこに集まっていた人々は皆が驚いて、互いに語り合って言いました、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。聖書の中に「汚れた霊」「悪霊」の存在がたびたび報告され、それは悪の力をもっており、人間の中にとりついて様々な苦しみをもたらします。主イエスはそれらを何度も追い出しつづけます。主イエスが弟子たちを町や村へと遣わす際に、「すべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威をお授けになり、神の国を宣べ伝えさせた」(ルカ福音書9:1-2と報告されています。
  32節で、「その言葉に権威があった」と報告されています。神の国の福音を宣べ伝え、それを教える権威であり、神ご自身からの権威です。やがて復活の主イエスが弟子たちを世界中へと遣わすとき、こう仰いました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20 天の御父から授けられた権威をもって、主イエスは弟子たちを遣わします。その権威は神の国を宣べ伝えて、教える神ご自身の権威であり、聴いた人々がそれによって神を信じて生きることができる権威です。主イエスは弟子たちを励まして語りかけました、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。また、こう仰いました、「あなたがたは、わたしが語った言葉によってすでに清くされている」(ヨハネ福音書8:31-32,15:3と。その約束と共に神の言葉が語られ続け、救い主イエスを信じる弟子たちに神の真理によって自由を得させ、御心に従って毎日の暮らしを生きることができるように、御言葉を聴きつづける弟子たち一人一人を清くしつづけています。それが、キリスト教会とクリスチャンの中で起こっている出来事の中身です。
 聖書は証言しました、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:8-11と。神の言葉は、天から降る雨や雪のように地を潤して、植物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、主なる神の口から出る言葉も、むなしく神のもとに帰らない。神の喜ぶところのことをなし、神が命じ送った事を果す。主なる神が喜ぶところのことをなし、主が命じ送ったことを成し遂げる。それは、その言葉によって、神を信じる芽を人間の心に芽生えさせ、成長させ、根をその大地に張り巡らさせ、幹や枝を茂らせ、神を信じて生きるという実を結ばせることです。「私の口から出る私の言葉」と言われます。聖書の一言一言が「主なる神の口から出る神ご自身の言葉」です。それを説き明かす伝道者たちの一つ一つの言葉もまた、「主なる神の口から出る神ご自身の言葉」です。神さまがそのようにし、そのように取り扱いつづけると約束なさっているからです。神学生のとき、そのように教えられ、励まされました。ほか多くのおびただしい数の伝道者たちと共に、ぼくもそれを信じて語り続けています。生身の貧しい伝道者たちの語る説教の一言一言もまた、粗末で乏しいながら、それでもなお「私の口から出る私の言葉」とされている。神ご自身からの約束です。それならどうぞ、天から降る雨や雪のようにこの大地と人々の魂を潤して、そこに植物を生えさせ、芽を出させて、その言葉の種によって、神さまを信じる芽を人々の心に芽生えさせ、すくすくと成長させ、根をその大地に張り巡らさせ、幹や枝を葉を茂らせ、神を信じてその御心にかなって生きるという実を結ばせてくださいますように。どうぞ、よろしくお願いたしますと。
 さて、神からの権威と力は、見たり聴いたりして「ああ、そうか」とすぐ簡単に分かる場合もあれば、そうではなく、それが果たして神からの権威と力なのか、それともただ人間から出た人間の権威と力にすぎないのかがなかなか区別できない場合もあるでしょう。主イエスの弟子の一人が、伝道者としての自分自身の働きの中で神ご自身の権威と力がどのように発揮されたのか、どんなふうに実を結んでいったのかを打ち明けています、「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(コリント手紙(1)2:3-5。パウロという名前の弟子で、その彼の働きの最初の頃のことです。実は、この人は人一倍有能で、口も達者で頭もよく回る切れ者でした。しかも何年も何十年も他の誰よりもよく学んで、学識もたっぷりで。ところがその町に辿り着いて神の国を宣べ伝えようとしはじめたとき、それまで味わってきた苦しいことや辛いことが積もり積もって、もうボロボロでした。本人が打ち明けているとおりに、弱くかつ恐れ、はなはだしい不安にとりつかれていました。いつもの彼なら立て板に水とペラペラペラ福音の道理を断固として、美しく格調高く、厳かに語りきかせるはずが、そうしたくても出来ませんでした。巧みな知恵の言葉など、どこを探しても何一つ出てきませんでした。すきま風のようにモゴモゴモゴモゴと、突っかかり突っかかり、しどろもどろになって喋りました。だからこそ彼自身の知恵と力によってではなく、ただただ神ご自身の知恵と力によったのだと誰にでも分かりました。つまり そのために、神さまの側で、わざわざ彼を打ち叩いて弱くし、恐れさせ、はなはだしい不安にとりつかれさせました。そんな中で、一人また一人と神を信じて生きはじめる者たちが出てきました。雨や雪に潤された大地から芽が出たようにです。さすがの彼にも、もう私のおかげでなどと口が裂けても言えません。信じたその人々も、「ご立派なパウロ大先生のおかげで、こんな私もクリスチャンになれましたあ」などと言いません。その代わりに、「全部、何から何まですっかり神さまのおかげで~す」と、皆共々に大喜びに喜び合いました。皆共々に、「人の知恵や力などによらないで、ただただ神ご自身の権威と力によって、神を信じて生きる者とされた」と喜び合いました。神を信じて生きはじめたその最初の出来事は、神への信頼として彼らの魂に深々と刻まれました。
 しかも私たちはたびたび弱くされました。恐れさせられ、はなはだしい不安にとりつかれさせられました。何度も何度も何度も。「しっかりした自分が頼りだ」と自信をもって、自分自身に信頼できるくらいでは全然足りません。だって、何が起こっても平気だと胸を張れるような、本当に心底からしっかりした人など一人もいないからです。頼りになる○○さんがいてくれるから安心だ。いえいえ、それもあんまり当てにできません。親兄弟も、誰も彼もほどほどの助けでしかありません。だって、たかだか生身の人間にすぎないのですから。強がって見せても、誰でも心細くて心配で心配で仕方がない生き物なんですから。けれど、もし神さまに十分に信頼できるなら、それなら、ついにとうとう安心です。しばらくして、あの彼がふたたびはなはだしい恐れに取り付かれたとき、するとある夜、主が彼に語りかけました、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒18:9-10。あなたには私が付いているじゃないかと、何度も何度も語りかけていただいて、恐れを一つ、また一つと取り除いていただいて、そのようにして、神に十分に信頼を寄せて生きるようにされてゆく私たちです。だんだんと、少しずつ。

             ◇

  「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」と救い主イエスが私たちに命じておられます。神ご自身の権威の下に立って、神にこそ十分に信頼を寄せ、聞き従って生命を得よ。受け取りつづけよと。汚れた悪霊さえ救い主に従って、その権威に服従しました。それなら、このお独りの方を信じる私たちはどうしましょう。神を知ろうとしても自分自身の知恵や力や賢さが邪魔して、なかなか神を知ることが出来ずにいる私たちに、神は働きかけます。後の者を先にしながら。力を奪って弱くしながら、富める者を追い返しながら。賢くて知恵あるつもりだった者たちに恥をかかせながら。「偉くなりたい。誉められたい、支配したい」と渇望する人々を引き下ろして皆に仕える者とさせながら。小さな子供のようになれ、と諭しながら。この同じ主旋律が、聖書66巻をとおして響き続けます(申命記7:6-8,8:11-18,9:4-6,士師記7:2-4,イザヤ書10:12-16,マタイ福音書18:1-5,19:30,20:16,ルカ福音書1:47-55,72-79,コリント手紙(1)26-31,2:1-5,(2)12:7-10)伝道者パウロ自身にとっても、人一倍うぬぼれの強い、ついつい図に乗って高ぶりやすい優秀な彼が「誇る者は主を誇れ」と福音を告げ、ただ人にそう告げるだけでなく自分自身でもそれを「ああ。本当にそうだ」とよくよく心に噛みしめ味わうことは至難の業でした。自分自身が打ちのめされ、低く身を屈めさせられ、そこでようやく福音を語り、福音に生きる準備が整えられたのでした。その後も、高ぶる思いは折々に鎌首をもたげました。しばらく後になってから、彼はこう告白します;「主が仰った、『わたしの恵みはあなたに十分である。(神の)力は(私たち人間の)弱さの中でこそ十分に発揮される。(自分自身のおごり昂ぶりと)強さの中では、邪魔されて、なかなか発揮しにくい』と。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント手紙(2)12:9)。かつては神の民でなかった彼であり、私たちです。今、神の民とされていることの本質は『憐れみを受けて、受けたその憐れみをしっかりと抱えている』ことにあります(ペトロ手紙(1)2:10)。道端に座り込んだ貧しい乞食の心です。そして、良い恵みの贈り物を受け取って喜ぶ幸せな乞食の心。これです。これが、神の国の福音に生きるクリスチャンのための「イロハのイ」です。






2019年3月14日木曜日

3/10こども説教「ステパノの証言①」使徒6:8-15


 3/10 こども説教 使徒6:8-15
 『ステパノの証言①』
                ~救い主イエスの最重要証言について~

     6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。9 すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが、10 彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。11 そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。12 その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。13 それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。14 『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。15 議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。
(使徒行伝6:8-15
 
主の働き人ととして新しく立てられたステパノは「モーセと神とを汚す言葉を吐いた」と言いがかりをつけられ、議会に連れてこられました。13-14節、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。救い主イエスが仰ったことと成し遂げようとしたことは、このとおりです。古い神殿を打ち壊し、人間の手で造ったのではない神が造るまったく新しい神殿を三日で建てると約束し、その通りにイエスご自身が神の新しい神殿を造ってくださいました(ヨハネ福音書2:19-22,マタイ福音書26:61,27:40。この上田教会も、その新しい神殿の一つです。死んで復活なさった救い主イエス・キリストを土台として建てられた神殿であり、建物だけでなく、救い主イエスを信じるクリスチャンの体さえも神が住まう神殿とされました。この私たち一人一人もまた、神が住んでくださる神殿の一つ一つです(コリント手紙(1)3:16-17,6:6:19-20。それはまた、神を信じる人々が心を頑固にして神に従わなかったからでした。神からの律法を捻じ曲げて、ただ形ばかりの中身のない偽物の律法にしてしまったからです。ただただ人間同士のためだけの、ただ都合が良いだけの慣例にすり替えてしまったからでした。「そのとおりか」と議会で問われて、ステパノの証言がいよいよ始まります。


3/10「つまずく人々」ルカ4:22-30


             みことば/2019,3,10(受難節第1主日の礼拝)  205
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:22-30                       日本キリスト教会 上田教会
『つまずく人々』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。23 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。24 それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。25 よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、26 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。27 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。28 会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。30 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。   (ルカ福音書 4:22-30)

 救い主イエスは、自分の故郷であるナザレ村の礼拝堂で、聖書を読み上げ、その説き明かしをしました。主の恵みである福音を告げ知らされる相手には、この時ばかりではなく、いつもはっきりした特徴があります。貧しい人々、囚人、目が見えない人、打ちひしがれている者たち。あの故郷の人々は貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちです。あの彼らばかりではなく、今日ここに集められた私たち自身こそがとても貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている哀れな囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちです。神の国の福音を差し出され、神さまからの恵みを受け取るべきこの私たち一人一人は、だからこそ同時に、罪深さと悲惨さを抱えもった、憐れまれるべきとても惨めで可哀想な存在でもあります。救い主イエスは、「罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15、マタイ福音書1:21からです。その自分自身の罪と悲惨さを認めることは、苦しく、また自分の性分にも合わない、とても気に入らない嫌なことでもあります。
 だからこそ、「無学で貧しい大工ヨセフの子にすぎないのに、どうして」22節)と彼らは救い主を見下しながら驚き、「自分の故郷の私たちには、他の人々に対してよりももっと親切に、多くの幸いを与えてくれるだろう。その権利がある」23節)などと思い上がってもいました。つまり、自分が貧しいなどとは少しも思っていませんでした。物質的にも精神的にも、かなり豊かで、優れていて、格式も高くて立派だと思い込んでいたのでしょう。彼らの密かな自尊心がかなり傷つけられました。こうして神の国の福音を聴く人々の中にはいつも二種類の反応が呼び起こされます。「ワァ~嬉しい」と大喜びで喜ぶ者たちと、もう一方には嫌な気持ちになって顔を背ける者たちと。なぜなら、告げ知らされる救いの言葉は貧しい人々には福音の良い知らせ、けれどその同じ知らせが豊かな者には何の意味もないからです。重い病気を患っている人々には格別に良い医者からの薬、けれど自分は正しくて健康でと思い込み、言い張りつづけている人々にはいつまでもただ虚しい戯言として聞き流されつづけます。この自分自身こそが「貧しく、大切なものが見えておらず、罪深さと肉の欲望、腹の思いにがんじがらめに縛られ、その牢獄に囚われている。ああ本当に」と気づくことから、そこから、この私たちのための恵みのときが始まっていきます。さらに救い主イエスは語り続けます。24-27節、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。旧約聖書の時代の二つの実例を出して、彼らの思い違いについて、主イエスはさらに説き明かします。まず預言者エリヤの時代にイスラエル全土に3年6ヶ月に及ぶ飢饉が起こり、皆が飢え乾き、大きな苦難を味わった。けれどイスラエルの多くの未亡人たちがいたのに、その誰でもなく、どのユダヤ人でもなく、外国人の一人の未亡人だけが神の憐れみに預かった。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのユダヤ人の誰一人も癒されず、ただ外国人の一人の人だけが癒された(列王記上17:9,列王記下10:10参照)。要点は明らかです。自分たちは神の民イスラエルであり、神を信じて生きている。しかも偉大な預言者であるらしい救い主イエスの故郷の人間たちだ。だから当然、恵みをたくさん受け取る権利があるなどと思い込んでいました。とんだ大間違いです。もしかしたら今日のクリスチャンも、この私たち自身も、全く同じ心得違いをしているかも知れません。
 大切なことを、ここでお話しておきましょう。もし神を信じて生きていきたいと願うのならば、神さまに十分な信頼を寄せる必要があります。そのために知るべきことは二つです。(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、助けと支えをいただきつづけているということ。この両方ともがよく分かっていなければ、神に十分に信頼を寄せることができません。「価値がない。ふさわしくない」。言い換えれば、「私たち自身に価値があるのかないのか、ふさわしいかどうかとは何の関係もなく」、神は愛し、助け、支えてくださる。これなら受け入れることができますか。皆さんは、父さん母さんからどんなふうに愛されてきたでしょうか? また、自分の子供たちをどんなふうに愛してきましたか? お腹を痛めて産んだ、苦楽を共にして一緒に暮らして愛しつづけてきた我が子なので、だから愛しています。そのように、親がその子を愛するようにです。その子が親孝行で老後の面倒をよくみてくれるかどうか、素直で優しい、仕事もできる優秀な子なのかどうかと関係なしに、なにしろ手塩にかけて養い育ててきた愛する子供なのでと。私たちを愛する神の愛は、そういう親の愛によく似ています(ローマ手紙3:21-27,5:6-10,8:31-32,11:30-32,エゼキエル書18:23-32。なぜなら、自分自身のふさわしさや価値とはなんの関係もなく神が愛してくださると知るまでは、「自分はふさわしいかふさわしくないか。恵みに値する私かどうか」などと自分と周囲の人間たちのことばかりを、ただ虚しく思い煩いつづけてしまうからです。(3)それらは聖書によってはっきりと証言されており、救い主イエスによって、神は憐れんで私たち罪人を救うからです。救い主イエス・キリストのうちに神を知るなら、神に十分に信頼を寄せることができます。そうでなければ、神を知ることも、信じて十分に信頼を寄せて生きることも誰にも決してできません(『ジュネーブ信仰問答 問7-141542年)。これこそが、あの故郷の人々が救い主イエスを軽んじたり、あなどったり腹を立てたり、はなはだしい不信仰に陥ってしまった理由であり、その中身です。また私たちが、「信じている。信じている」と言いながら、なお度々不信仰に陥って、十分に神に信頼を寄せることができなくなって、その結果、心細くなったり惨めになったりしつづけている理由と中身も同じです。ここです。ここが、神を信じて生きることの肝心要の急所です。
  貧しい人々、囚人、目が見えない人、重すぎる重荷を背負わされて打ちひしがれている者たちに、神の国の福音が告げ知らされ続けます。これまでもそうでした。今も、これからもそうです。貧しい人のその貧しさは、『乞食』の心です。ボロを着て地べたに座り込んで、明日の食べ物にも事欠いて、「哀れな乞食にお恵みを~」などと施しを求めます。自分の力や甲斐性など当てにできません。神さまからの憐れみと恵みだけが頼りです。そのへりくだった低い心こそが、「ありがとうございます。ありがとうございます」と神さまからの良い贈り物を受け取らせます。牢獄に囚われている囚人のその牢獄は、魂の牢獄です。欲望や肉の思い、自分の腹の思いという牢獄です。まわりの人たちからどう思われるだろう、どう見られているだろうかと評判や世間体を気に病み、自分自身とまわりにいる人間たちのことばかりウジウジクヨクヨと思い煩いつづける牢獄です。目が見えない人は、心細く惨めな暗闇の中をさまよいつづけています。本当のものは何なのか、何があれば満たされて幸せになれるのかが分からずにいます。それは心の目のことです。惑わせるものに取り囲まれて、ぜひとも見るべきものが見えなくされています。打ちひしがれている者たちとは、背負いきれない重荷を負わされて、その重荷で今にも押しつぶされそうになっている者たちです。だからこそ、「すべて重荷を負うて苦労している者は来なさい」(マタイ福音書11:28)と招かれるのです。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、背負いきれない重荷を背負わされ、今にも押しつぶされそうにうなっている者たちです。もし、そうでもなく、何も困っていないなら、ちょうどいい荷物をラクラク持ち運んでいるだけなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを休ませるためだからです。私たちの重荷を降ろさせてあげたいからです。救い主イエスのもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主なる神ご自身が私の代わりに背負ってくださっている。だから軽いのです。救い主イエスご自身がはっきりと太鼓判を押してくださっています、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。おさらいです;(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、憐れんで助けと支えをいただきつづけているということ。(3)聖書によって、救い主イエスを知ることによって神を知る。その神は、罪人を憐れんで救う神です。神さまに全信頼を寄せて生きることを、この私たちはだんだんと習い覚えてゆく私たちです。

              ◇

  28-30節、「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた」。人々はみな憤りに満ちて、イエスを町の外へ追い出し、丘のがけまでひっぱって行って突き落そうとしました。彼らの罪深さがすっかりあばかれてしまったからです。それは、救い主をさえ殺してしまいたくなるほどの激しい怒りとして燃え上がりました。故郷の人々のように、また弟を殺したカインのように、この私たちもまた隠していた罪深さをあばかれて、激しい怒りに顔を伏せるときがあります。何度も何度も。そのとき、こう語りかけられます、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7罪が私たちを慕い求めて、私たちを待ち伏せしています。しかももちろん、それを治めたり飼い慣らしたりなど誰にも決してできません。だからこそ、苦々しい思いを噛み締めてうつむくとき、私たちは顔を上げねばなりません。そのときこそ顔を上げて、ゆるしと憐れみを求めて、神さまにこそ助けを願い求めねばなりません。今度こそ本気になって、心を絞り出して。





2019年3月4日月曜日

3/3こども説教「主に仕える働き人を立てる」使徒6:1-7


 3/3 こども説教 使徒行伝6:1-6
 『主に仕える働き人を立てる』

     6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。2 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。3 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、4 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。5 この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。             (使徒行伝6:1-6

  主イエスの弟子たちの中で日々の暮らしのための必要物品を配ったり分けたりすることで揉め事が起き、苦情や不平不満が申し立てられました。そこで日々の暮らしのための必要物品や食卓の食料品などの世話をしてもらうために、主に仕える働き人を7人を選び出しました。3節、「御霊と知恵に満ちた、評判のよい人を」ということです。むしろその中身は、聖霊なる神の導きのもとに置かれて、もっぱら神の御心にこそ聞き従って生きていこうとされている人をということです。ですから新しく選ばれた7人もまた、神の言をさしおいて他の仕事や用事をするわけではありません。決してそうではありません。祈りと御言のもとに堅く据え置かれつづけるからこそ、暮らしのための必要物品や食卓の食料品などの世話も、いいえ それだけではなく、どこで誰と何をするにも、その一つ一つを神さまの御心にかなってしようと努めつづけることができます。12人と新しい7人だけではなく、すべてのクリスチャンがそのように神さまから選ばれ、それぞれの働きに立てられています。家でも学校でもいつもの職場でも、そこでそのようにして主にこそ仕えて生きる私たちです。しかも祈られ、手を置かれて、あなたも私も、主に仕えて生きるための御霊を注がれているではありませんか。あの最初の日に、神を信じて生きる者とされた洗礼のときから。すると、はじめの12人と新しく立てられた7人と私たちすべてのクリスチャンとは、あまり区別がなくなることになります。まったく同じですね。はい、そのとおり。だからこそ、そこから、ステパノやピリポなどの神の言葉を宣べ伝える者たちが生み出されていきます。



3/3「貧しい人々への福音」ルカ4:14-23


                       みことば/2019,3,3(主日礼拝)  204
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:14-23                    日本キリスト教会 上田教会
『貧しい人々への福音』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:14 それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。15 イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
18 「主の御霊がわたしに宿っている。
貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、
囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
打ちひしがれている者に自由を得させ、
19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。23 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。                   (ルカ福音書 4:14-23)
 救い主イエスは、荒野で4040夜さまよって悪魔からの3つ誘惑すべてを退け(ルカ4:1-13、いよいよ神の国について宣べ伝えはじめました。神さまがどういう神さまで、私たちがどういう者であり、神さまを信じてどんなふうに生きてゆくことができるのかということをです。礼拝のための会堂に出入りし、そこで聖書を読み、聖書を説き明かすこともしはじめました。自分の故郷であるナザレ村でも同じように、安息日に礼拝堂に入って聖書の中のある一箇所を取り上げて朗読し、その説き明かしをしました。そのときの様子を、今日と来週の2回の礼拝で味わいます。まず今日は、その一回目。17節、「すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された」。聖書がいまの手軽な形になるためには、薄くて丈夫で長持ちする紙が作られ、印刷技術が発明されねばなりませんでした。けれども2000年ほど前には、例えば羊などの皮を縫い合わせた着物の反物のような、こんなくらいの何本もの大きな巻物に分けられて、それぞれの巻物に文字が刻まれていました。そのような「預言者イザヤの書」の巻物が手渡され、主イエスはその書を開いて読み上げました。18-19節、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。これはイザヤ書611-2節です。貧しい人々に神さまからの良い知らせを告げ知らせるためにわたしは選び出された。つまり、狭い場所に無理矢理に閉じ込められている人がその牢獄から外に出され、目の不自由な人が目がよく見えるようにされ、打ちひしがれている者は自由で晴れ晴れした心が回復させられる。そのような主の恵みの年がくることを告げ知らせる。そして21節。「しかも聖書のこの言葉は、あなたがたが耳にしたこの日に、今ここで成し遂げられた」と、主イエスは聖書を説き明かしはじめたと。「説きはじめられた」と書かれています。つまり、説き明かしの全部ではなくて、そのごく最初のところだけが記録されています。「あなたがたが耳にしたこの日に成し遂げられた」。なぜ、そうなのか。また、どのように成し遂げられたというのでしょう。
  一つの大きな手がかりは、説き明かしを聴いた故郷の人々が救い主イエスを誉めたり、「すばらしい」などと感嘆しながら、けれど22節、「あの大工のヨセフの息子なのに」と言い出していることです。また28-29節、説き明かしを聴いた後では、町外れの崖っぷちまで無理矢理に主イエスを引きずっていき、突き落として殺してしまおうとしたほど最後には全員がひどく腹を立てて、あまりに腹が立って憎らしくて仕方がなかったことです。どうしてバカにして見下したくなったのか、どうして殺したいほどにも腹を立てたのか、どこがどう、そんなに気に入らなかったのでしょうか。
  18節。イザヤ書611-2節からの引用の中身ですが、主の恵みである福音を告げ知らされる相手にははっきりした特徴があります。貧しい人々、囚人、目が見えない人、打ちひしがれている者。しかもこの箇所ばかりではなく、聖書はいつも、こういう人々にばかり良い知らせを告げつづけます。しかも21節、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と語りかけた。①語りかけている救い主イエスご自身が神の霊の力にあふれて貧しい人々に福音を宣べ伝え、囚人を解放し、目の見えない人を見えるようにし、自由を得させ、主の恵みを成し遂げる方であるからです。また、②目の前で聞いている故郷の人々こそが貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちであるからです。あの彼らばかりではなく、今日ここに集められた私たち自身こそがとても貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている哀れな囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちだからです。福音を差し出され、神さまからの恵みを受け取るべきこの私たち一人一人は、だからこそ同時に、罪深さと悲惨さを抱えもった、憐れまれるべきとても惨めで可哀想な存在でもあったのです。救い主イエスは、「罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15、マタイ福音書1:21からです。その自分自身の罪と悲惨さを認めることは、苦しく、また自分の性分にも合わない、気に入らない嫌なことでもあったのです。だからこそ、22節、「無学で貧しい大工ヨセフの子にすぎないのに、どうして」と彼らは救い主を見下しながら驚き、23節、「自分の故郷の私たちには、他の人々に対してよりももっと親切に、多くの幸いを与えてくれるだろう。その権利がある」と思い上がってもいました。つまり、自分が貧しいなどとは少しも思っていませんでした。物質的にも精神的にも、かなり豊かで、優れていて、自分はとても品格が高くて清らかだと思い込んでいたのでしょう。彼らの密かな自尊心がかなり傷つけられました。こうして神の国の福音を聴く人々の中にはいつも二種類の反応が呼び起こされます。「ワァ~嬉しい」と大喜びで喜ぶ者たちと、もう一方には嫌な気持ちになって顔を背ける者たちと。なぜなら貧しい人々には福音の良い知らせ、けれどその同じ知らせが豊かな者には何の意味もないからです。重い病気を患っている人々には格別に良い医者からの薬、けれど自分は正しくて健康でと思い込み、言い張りつづけている人々にはいつまでもただ虚しい戯言として聞き流されつづけます。皆さんは、いかがですか? この自分自身こそが「貧しく、大切なものが見えておらず、罪深さと肉の欲望、腹の思いにがんじがらめに縛られ、その牢獄に囚われている。ああ本当に」と気づくことから、そこから恵みのときが始まっていきます。
  どうぞ聴いてください。貧しい人のその貧しさは、『乞食』の心です。ボロを着て地べたに座り込んで、明日の食べ物にも事欠いて、「哀れな乞食にお恵みを~」などと施しを求めます。自分の力や甲斐性など当てにできません。神さまからの憐れみと恵みだけが頼りです。そのへりくだった低い心こそが、「ありがとうございます。ありがとうございます」と神さまからの良い贈り物を受け取らせます。
  牢獄に囚われている囚人のその牢獄は、魂の牢獄です。欲望や肉の思い、自分の腹の思いという牢獄です。まわりの人たちからどう思われるだろう、どう見られているだろうかと評判や世間体を気に病み、自分自身とまわりにいる人間たちのことばかりウジウジクヨクヨと思い煩いつづける、あまりに惨めな牢獄です。
 目が見えない人は、心細く惨めな暗闇の中をさまよいつづけています。本当のものは何なのか、何があれば満たされて幸せになれるのかが分からずにいます。それは心の目のことです。惑わせるものに取り囲まれて、ぜひとも見るべき大切なものが見えなくされています。
 打ちひしがれている者たちとは、背負いきれない重荷を負わされて、その重荷で今にも押しつぶされそうになっている者たちです。だからこそ、「すべて重荷を負うて苦労している者は来なさい」(マタイ福音書11:28)と招かれるのです。誰でも皆、例外なく、一人残らずと招かれますが、ただし、それは「疲れた者と重荷を負っている者」でなければならないのです。豊かな者ではなく「貧しい人よ」と。目が見える見える、何でもよく分かっていると言い張る人ではなく、「見るべきものがよく見えず、よく分かっていない者たちよ」と。同じように、「さあ渇いている者は、みな水に来たれ」(イザヤ書55:1)と招かれます。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、「ああノドがカラカラに渇いた。苦しい。水が飲みたい、飲みたい」と困っている者なら誰でも来なさい。つまり、ノドが渇いていないなら、おいしくて冷たい水を飲みたい、飲みたい、飲みたいと困っていないなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを休ませるためだからです。私たちの重荷を降ろさせてあげたいからです。ノドと魂の渇きを覚えている私たちを「さあ、いらっしゃい。あなたも、あなたもあなたも」と招くのは、冷たくおいしい水を腹一杯に飲ませてくださるためです。しかも無料で(イザヤ55:1-3,黙示録21:6,ローマ3:21-24。あまりに出来すぎたうまい話なので、私たちにはなかなか信じられませんでした。何か裏があるんじゃないかと思っていました。リスチャンの中にさえ、今なお、それを疑う人々がいます。実にまったく、私たち人間は荷車を引っ張る牛や馬のようです。誰もが、それぞれの横木を首にかけられて、それぞれの荷車を引っ張りつづけて生きていきます。喜んで荷物を引っ張っている牛もいれば、そうではない牛もいます。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「自分はなんであんなひどいことをしてしまったんだろう。だめな私だ。どうしようもない私だ」という自責の念や後悔を引っ張って歩いている者たちもいます。「人様に恥ずかしくないような立派な生活をし、立派な仕事を成し遂げ、恥ずかしくない人間にならなければ」「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」と大きな荷物を歯を食いしばって引っ張りつづけている牛もいます。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物を、無数の牛や馬達が必死に懸命に引っ張りつづけています。それがこの世界です。「私の荷物は重すぎて、到底もう担いきれない。疲れ果てた。もう今にも押しつぶされてしまいそうだ」と溜め息をついている牛や馬たちがいます。その中のほんの何頭かが主イエスの招きの声を聞き届けました。この私たち一人一人も、救い主イエスのもとに来てみました。
  救い主イエスのもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主が私の代わりに背負ってくださっている。

だから 軽いのです。私たちは働いてもいいし、休んでもいい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。けれど、一つだけルールがあります。ここは憐れみの王国であるというルールです。《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国でありつづけるというルールです。何をおいても何としてでも、この一つのルールだけは死守しなくてはなりません。それが嘘いつわりにならない範囲でなら、もし働きたいというなら、あなたは精一杯に思う存分に働くこともでき、誰に遠慮することもなく満ち足りるまで休むこともゆるされます。だから時々、特に働いたり担ったりするときに自分の顔つきを鏡で見て確かめてみる必要があります。仲間の牛や馬たちの顔つきや足取りにも目を留める必要もあるでしょう。眉間にシワを寄せて、困ったような物淋しいような難しい顔をしはじめるなら、一声かけてあげましょう。「いいから安め。余計な荷物をおろして横になれ」と。いつの間にか重くなってしまったその荷物を降ろさせてあげねばなりません。救い主イエスご自身がはっきりと太鼓判を押しているからです、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは、本当のことです。

2019年2月25日月曜日

2/24こども説教「もし、神から出たものならば」使徒5:33-42


 2/24 こども説教 使徒5:33-42
 『もし、神から出たものならば』

5:33 これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。34 ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。・・・・・・37 そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、40 使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。41 使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。42 そして、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした。      (使徒行伝 5:33-42

 小さな子供も大人の方々も、どうぞよく聴いてください。
  「人間に従うよりは神に従うべきだ」(使徒5:29と救い主イエスの弟子たちは議会で証言しました。人々は激しく怒って、彼らを殺そうとしました。それを諌めて、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい」と皆に語りかける人がいました。後で分かりますが、このガマリエルという律法学者は主の弟子パウロに信仰を教えた先生です(使徒23:2を参照。ここでも道理にかなった、誰にでも分かる、とてもきちんとしたことを語っています。38-39節、「そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。その通りです。この一つのキリスト教会と、自分自身と家族の暮らしのこととしても十分にはっきりと分かるなら、私たちはとても幸いです。神から出たものか、それとも人間から出たものなのかと考えてみてください。もし、「神さまがこの教会を建て、私たちの信仰の歩みを始めさせてくださり、神さまご自身が支え、養い、保ってくださっている。本当にそうだ」と知るならば、その人には、どんな心配も恐れもありません。もし、それがちっとも分からなければ、するとその人には、恐ろしいことだらけで心細くて心配で仕方がないでしょう。