みことば/2019,3,3(主日礼拝) № 204
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:14-23 日本キリスト教会 上田教会
『貧しい人々への福音』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
4:14 それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。15
イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。17
すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
18 「主の御霊がわたしに宿っている。
貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、
囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
打ちひしがれている者に自由を得させ、
19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。21
そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。23
そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。 (ルカ福音書 4:14-23)
救い主イエスは、荒野で40日40夜さまよって悪魔からの3つ誘惑すべてを退け(ルカ4:1-13)、いよいよ神の国について宣べ伝えはじめました。神さまがどういう神さまで、私たちがどういう者であり、神さまを信じてどんなふうに生きてゆくことができるのかということをです。礼拝のための会堂に出入りし、そこで聖書を読み、聖書を説き明かすこともしはじめました。自分の故郷であるナザレ村でも同じように、安息日に礼拝堂に入って聖書の中のある一箇所を取り上げて朗読し、その説き明かしをしました。そのときの様子を、今日と来週の2回の礼拝で味わいます。まず今日は、その一回目。17節、「すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された」。聖書がいまの手軽な形になるためには、薄くて丈夫で長持ちする紙が作られ、印刷技術が発明されねばなりませんでした。けれども2000年ほど前には、例えば羊などの皮を縫い合わせた着物の反物のような、こんなくらいの何本もの大きな巻物に分けられて、それぞれの巻物に文字が刻まれていました。そのような「預言者イザヤの書」の巻物が手渡され、主イエスはその書を開いて読み上げました。18-19節、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。これはイザヤ書61章1-2節です。貧しい人々に神さまからの良い知らせを告げ知らせるためにわたしは選び出された。つまり、狭い場所に無理矢理に閉じ込められている人がその牢獄から外に出され、目の不自由な人が目がよく見えるようにされ、打ちひしがれている者は自由で晴れ晴れした心が回復させられる。そのような主の恵みの年がくることを告げ知らせる。そして21節。「しかも聖書のこの言葉は、あなたがたが耳にしたこの日に、今ここで成し遂げられた」と、主イエスは聖書を説き明かしはじめたと。「説きはじめられた」と書かれています。つまり、説き明かしの全部ではなくて、そのごく最初のところだけが記録されています。「あなたがたが耳にしたこの日に成し遂げられた」。なぜ、そうなのか。また、どのように成し遂げられたというのでしょう。
一つの大きな手がかりは、説き明かしを聴いた故郷の人々が救い主イエスを誉めたり、「すばらしい」などと感嘆しながら、けれど22節、「あの大工のヨセフの息子なのに」と言い出していることです。また28-29節、説き明かしを聴いた後では、町外れの崖っぷちまで無理矢理に主イエスを引きずっていき、突き落として殺してしまおうとしたほど最後には全員がひどく腹を立てて、あまりに腹が立って憎らしくて仕方がなかったことです。どうしてバカにして見下したくなったのか、どうして殺したいほどにも腹を立てたのか、どこがどう、そんなに気に入らなかったのでしょうか。
18節。イザヤ書61章1-2節からの引用の中身ですが、主の恵みである福音を告げ知らされる相手にははっきりした特徴があります。貧しい人々、囚人、目が見えない人、打ちひしがれている者。しかもこの箇所ばかりではなく、聖書はいつも、こういう人々にばかり良い知らせを告げつづけます。しかも21節、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と語りかけた。①語りかけている救い主イエスご自身が神の霊の力にあふれて貧しい人々に福音を宣べ伝え、囚人を解放し、目の見えない人を見えるようにし、自由を得させ、主の恵みを成し遂げる方であるからです。また、②目の前で聞いている故郷の人々こそが貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちであるからです。あの彼らばかりではなく、今日ここに集められた私たち自身こそがとても貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている哀れな囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちだからです。福音を差し出され、神さまからの恵みを受け取るべきこの私たち一人一人は、だからこそ同時に、罪深さと悲惨さを抱えもった、憐れまれるべきとても惨めで可哀想な存在でもあったのです。救い主イエスは、「罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15、マタイ福音書1:21)からです。その自分自身の罪と悲惨さを認めることは、苦しく、また自分の性分にも合わない、気に入らない嫌なことでもあったのです。だからこそ、22節、「無学で貧しい大工ヨセフの子にすぎないのに、どうして」と彼らは救い主を見下しながら驚き、23節、「自分の故郷の私たちには、他の人々に対してよりももっと親切に、多くの幸いを与えてくれるだろう。その権利がある」と思い上がってもいました。つまり、自分が貧しいなどとは少しも思っていませんでした。物質的にも精神的にも、かなり豊かで、優れていて、自分はとても品格が高くて清らかだと思い込んでいたのでしょう。彼らの密かな自尊心がかなり傷つけられました。こうして神の国の福音を聴く人々の中にはいつも二種類の反応が呼び起こされます。「ワァ~嬉しい」と大喜びで喜ぶ者たちと、もう一方には嫌な気持ちになって顔を背ける者たちと。なぜなら貧しい人々には福音の良い知らせ、けれどその同じ知らせが豊かな者には何の意味もないからです。重い病気を患っている人々には格別に良い医者からの薬、けれど自分は正しくて健康でと思い込み、言い張りつづけている人々にはいつまでもただ虚しい戯言として聞き流されつづけます。皆さんは、いかがですか? この自分自身こそが「貧しく、大切なものが見えておらず、罪深さと肉の欲望、腹の思いにがんじがらめに縛られ、その牢獄に囚われている。ああ本当に」と気づくことから、そこから恵みのときが始まっていきます。
どうぞ聴いてください。貧しい人のその貧しさは、『乞食』の心です。ボロを着て地べたに座り込んで、明日の食べ物にも事欠いて、「哀れな乞食にお恵みを~」などと施しを求めます。自分の力や甲斐性など当てにできません。神さまからの憐れみと恵みだけが頼りです。そのへりくだった低い心こそが、「ありがとうございます。ありがとうございます」と神さまからの良い贈り物を受け取らせます。
牢獄に囚われている囚人のその牢獄は、魂の牢獄です。欲望や肉の思い、自分の腹の思いという牢獄です。まわりの人たちからどう思われるだろう、どう見られているだろうかと評判や世間体を気に病み、自分自身とまわりにいる人間たちのことばかりウジウジクヨクヨと思い煩いつづける、あまりに惨めな牢獄です。
目が見えない人は、心細く惨めな暗闇の中をさまよいつづけています。本当のものは何なのか、何があれば満たされて幸せになれるのかが分からずにいます。それは心の目のことです。惑わせるものに取り囲まれて、ぜひとも見るべき大切なものが見えなくされています。
打ちひしがれている者たちとは、背負いきれない重荷を負わされて、その重荷で今にも押しつぶされそうになっている者たちです。だからこそ、「すべて重荷を負うて苦労している者は来なさい」(マタイ福音書11:28)と招かれるのです。誰でも皆、例外なく、一人残らずと招かれますが、ただし、それは「疲れた者と重荷を負っている者」でなければならないのです。豊かな者ではなく「貧しい人よ」と。目が見える見える、何でもよく分かっていると言い張る人ではなく、「見るべきものがよく見えず、よく分かっていない者たちよ」と。同じように、「さあ渇いている者は、みな水に来たれ」(イザヤ書55:1)と招かれます。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、「ああノドがカラカラに渇いた。苦しい。水が飲みたい、飲みたい」と困っている者なら誰でも来なさい。つまり、ノドが渇いていないなら、おいしくて冷たい水を飲みたい、飲みたい、飲みたいと困っていないなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを休ませるためだからです。私たちの重荷を降ろさせてあげたいからです。ノドと魂の渇きを覚えている私たちを「さあ、いらっしゃい。あなたも、あなたもあなたも」と招くのは、冷たくおいしい水を腹一杯に飲ませてくださるためです。しかも無料で(イザヤ55:1-3,黙示録21:6,ローマ3:21-24)。あまりに出来すぎたうまい話なので、私たちにはなかなか信じられませんでした。何か裏があるんじゃないかと思っていました。リスチャンの中にさえ、今なお、それを疑う人々がいます。実にまったく、私たち人間は荷車を引っ張る牛や馬のようです。誰もが、それぞれの横木を首にかけられて、それぞれの荷車を引っ張りつづけて生きていきます。喜んで荷物を引っ張っている牛もいれば、そうではない牛もいます。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「自分はなんであんなひどいことをしてしまったんだろう。だめな私だ。どうしようもない私だ」という自責の念や後悔を引っ張って歩いている者たちもいます。「人様に恥ずかしくないような立派な生活をし、立派な仕事を成し遂げ、恥ずかしくない人間にならなければ」「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」と大きな荷物を歯を食いしばって引っ張りつづけている牛もいます。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物を、無数の牛や馬達が必死に懸命に引っ張りつづけています。それがこの世界です。「私の荷物は重すぎて、到底もう担いきれない。疲れ果てた。もう今にも押しつぶされてしまいそうだ」と溜め息をついている牛や馬たちがいます。その中のほんの何頭かが主イエスの招きの声を聞き届けました。この私たち一人一人も、救い主イエスのもとに来てみました。
救い主イエスのもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主が私の代わりに背負ってくださっている。
だから! 軽いのです。私たちは働いてもいいし、休んでもいい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。けれど、一つだけルールがあります。ここは憐れみの王国であるというルールです。《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国でありつづけるというルールです。何をおいても何としてでも、この一つのルールだけは死守しなくてはなりません。それが嘘いつわりにならない範囲でなら、もし働きたいというなら、あなたは精一杯に思う存分に働くこともでき、誰に遠慮することもなく満ち足りるまで休むこともゆるされます。だから時々、特に働いたり担ったりするときに自分の顔つきを鏡で見て確かめてみる必要があります。仲間の牛や馬たちの顔つきや足取りにも目を留める必要もあるでしょう。眉間にシワを寄せて、困ったような物淋しいような難しい顔をしはじめるなら、一声かけてあげましょう。「いいから安め。余計な荷物をおろして横になれ」と。いつの間にか重くなってしまったその荷物を降ろさせてあげねばなりません。救い主イエスご自身がはっきりと太鼓判を押しているからです、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは、本当のことです。