みことば/2019,3,10(受難節第1主日の礼拝) № 205
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:22-30 日本キリスト教会 上田教会
『つまずく人々』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
4:22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。23
そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。24
それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。25 よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、26
エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。27 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。28
会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。30
しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。 (ルカ福音書 4:22-30)
救い主イエスは、自分の故郷であるナザレ村の礼拝堂で、聖書を読み上げ、その説き明かしをしました。主の恵みである福音を告げ知らされる相手には、この時ばかりではなく、いつもはっきりした特徴があります。貧しい人々、囚人、目が見えない人、打ちひしがれている者たち。あの故郷の人々は貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちです。あの彼らばかりではなく、今日ここに集められた私たち自身こそがとても貧しい人々そのものであり、牢獄に囚われている哀れな囚人であり、目が見えない人であり、背負いきれない重荷を負わされて打ちひしがれている者たちです。神の国の福音を差し出され、神さまからの恵みを受け取るべきこの私たち一人一人は、だからこそ同時に、罪深さと悲惨さを抱えもった、憐れまれるべきとても惨めで可哀想な存在でもあります。救い主イエスは、「罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15、マタイ福音書1:21)からです。その自分自身の罪と悲惨さを認めることは、苦しく、また自分の性分にも合わない、とても気に入らない嫌なことでもあります。
だからこそ、「無学で貧しい大工ヨセフの子にすぎないのに、どうして」(22節)と彼らは救い主を見下しながら驚き、「自分の故郷の私たちには、他の人々に対してよりももっと親切に、多くの幸いを与えてくれるだろう。その権利がある」(23節)などと思い上がってもいました。つまり、自分が貧しいなどとは少しも思っていませんでした。物質的にも精神的にも、かなり豊かで、優れていて、格式も高くて立派だと思い込んでいたのでしょう。彼らの密かな自尊心がかなり傷つけられました。こうして神の国の福音を聴く人々の中にはいつも二種類の反応が呼び起こされます。「ワァ~嬉しい」と大喜びで喜ぶ者たちと、もう一方には嫌な気持ちになって顔を背ける者たちと。なぜなら、告げ知らされる救いの言葉は貧しい人々には福音の良い知らせ、けれどその同じ知らせが豊かな者には何の意味もないからです。重い病気を患っている人々には格別に良い医者からの薬、けれど自分は正しくて健康でと思い込み、言い張りつづけている人々にはいつまでもただ虚しい戯言として聞き流されつづけます。この自分自身こそが「貧しく、大切なものが見えておらず、罪深さと肉の欲望、腹の思いにがんじがらめに縛られ、その牢獄に囚われている。ああ本当に」と気づくことから、そこから、この私たちのための恵みのときが始まっていきます。さらに救い主イエスは語り続けます。24-27節、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。旧約聖書の時代の二つの実例を出して、彼らの思い違いについて、主イエスはさらに説き明かします。まず預言者エリヤの時代にイスラエル全土に3年6ヶ月に及ぶ飢饉が起こり、皆が飢え乾き、大きな苦難を味わった。けれどイスラエルの多くの未亡人たちがいたのに、その誰でもなく、どのユダヤ人でもなく、外国人の一人の未亡人だけが神の憐れみに預かった。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのユダヤ人の誰一人も癒されず、ただ外国人の一人の人だけが癒された(列王記上17:9,列王記下10:10参照)。要点は明らかです。自分たちは神の民イスラエルであり、神を信じて生きている。しかも偉大な預言者であるらしい救い主イエスの故郷の人間たちだ。だから当然、恵みをたくさん受け取る権利があるなどと思い込んでいました。とんだ大間違いです。もしかしたら今日のクリスチャンも、この私たち自身も、全く同じ心得違いをしているかも知れません。
大切なことを、ここでお話しておきましょう。もし神を信じて生きていきたいと願うのならば、神さまに十分な信頼を寄せる必要があります。そのために知るべきことは二つです。(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、助けと支えをいただきつづけているということ。この両方ともがよく分かっていなければ、神に十分に信頼を寄せることができません。「価値がない。ふさわしくない」。言い換えれば、「私たち自身に価値があるのかないのか、ふさわしいかどうかとは何の関係もなく」、神は愛し、助け、支えてくださる。これなら受け入れることができますか。皆さんは、父さん母さんからどんなふうに愛されてきたでしょうか? また、自分の子供たちをどんなふうに愛してきましたか? お腹を痛めて産んだ、苦楽を共にして一緒に暮らして愛しつづけてきた我が子なので、だから愛しています。そのように、親がその子を愛するようにです。その子が親孝行で老後の面倒をよくみてくれるかどうか、素直で優しい、仕事もできる優秀な子なのかどうかと関係なしに、なにしろ手塩にかけて養い育ててきた愛する子供なのでと。私たちを愛する神の愛は、そういう親の愛によく似ています(ローマ手紙3:21-27,同5:6-10,同8:31-32,同11:30-32,エゼキエル書18:23-32)。なぜなら、自分自身のふさわしさや価値とはなんの関係もなく神が愛してくださると知るまでは、「自分はふさわしいかふさわしくないか。恵みに値する私かどうか」などと自分と周囲の人間たちのことばかりを、ただ虚しく思い煩いつづけてしまうからです。(3)それらは聖書によってはっきりと証言されており、救い主イエスによって、神は憐れんで私たち罪人を救うからです。救い主イエス・キリストのうちに神を知るなら、神に十分に信頼を寄せることができます。そうでなければ、神を知ることも、信じて十分に信頼を寄せて生きることも誰にも決してできません(『ジュネーブ信仰問答 問7-14』1542年)。これこそが、あの故郷の人々が救い主イエスを軽んじたり、あなどったり腹を立てたり、はなはだしい不信仰に陥ってしまった理由であり、その中身です。また私たちが、「信じている。信じている」と言いながら、なお度々不信仰に陥って、十分に神に信頼を寄せることができなくなって、その結果、心細くなったり惨めになったりしつづけている理由と中身も同じです。ここです。ここが、神を信じて生きることの肝心要の急所です。
貧しい人々、囚人、目が見えない人、重すぎる重荷を背負わされて打ちひしがれている者たちに、神の国の福音が告げ知らされ続けます。これまでもそうでした。今も、これからもそうです。貧しい人のその貧しさは、『乞食』の心です。ボロを着て地べたに座り込んで、明日の食べ物にも事欠いて、「哀れな乞食にお恵みを~」などと施しを求めます。自分の力や甲斐性など当てにできません。神さまからの憐れみと恵みだけが頼りです。そのへりくだった低い心こそが、「ありがとうございます。ありがとうございます」と神さまからの良い贈り物を受け取らせます。牢獄に囚われている囚人のその牢獄は、魂の牢獄です。欲望や肉の思い、自分の腹の思いという牢獄です。まわりの人たちからどう思われるだろう、どう見られているだろうかと評判や世間体を気に病み、自分自身とまわりにいる人間たちのことばかりウジウジクヨクヨと思い煩いつづける牢獄です。目が見えない人は、心細く惨めな暗闇の中をさまよいつづけています。本当のものは何なのか、何があれば満たされて幸せになれるのかが分からずにいます。それは心の目のことです。惑わせるものに取り囲まれて、ぜひとも見るべきものが見えなくされています。打ちひしがれている者たちとは、背負いきれない重荷を負わされて、その重荷で今にも押しつぶされそうになっている者たちです。だからこそ、「すべて重荷を負うて苦労している者は来なさい」(マタイ福音書11:28)と招かれるのです。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、背負いきれない重荷を背負わされ、今にも押しつぶされそうにうなっている者たちです。もし、そうでもなく、何も困っていないなら、ちょうどいい荷物をラクラク持ち運んでいるだけなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを休ませるためだからです。私たちの重荷を降ろさせてあげたいからです。救い主イエスのもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主なる神ご自身が私の代わりに背負ってくださっている。だから軽いのです。救い主イエスご自身がはっきりと太鼓判を押してくださっています、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。おさらいです;(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、憐れんで助けと支えをいただきつづけているということ。(3)聖書によって、救い主イエスを知ることによって神を知る。その神は、罪人を憐れんで救う神です。神さまに全信頼を寄せて生きることを、この私たちはだんだんと習い覚えてゆく私たちです。
◇ ◇
28-30節、「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた」。人々はみな憤りに満ちて、イエスを町の外へ追い出し、丘のがけまでひっぱって行って突き落そうとしました。彼らの罪深さがすっかりあばかれてしまったからです。それは、救い主をさえ殺してしまいたくなるほどの激しい怒りとして燃え上がりました。故郷の人々のように、また弟を殺したカインのように、この私たちもまた隠していた罪深さをあばかれて、激しい怒りに顔を伏せるときがあります。何度も何度も。そのとき、こう語りかけられます、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7)。罪が私たちを慕い求めて、私たちを待ち伏せしています。しかももちろん、それを治めたり飼い慣らしたりなど誰にも決してできません。だからこそ、苦々しい思いを噛み締めてうつむくとき、私たちは顔を上げねばなりません。そのときこそ顔を上げて、ゆるしと憐れみを求めて、神さまにこそ助けを願い求めねばなりません。今度こそ本気になって、心を絞り出して。