2022年1月24日月曜日

1/23「財布と剣を持て」ルカ22:35-38

           みことば/2022,1,23(主日礼拝)  355

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:35-38       日本キリスト教会 上田教会

『財布と剣を持て』 


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:35 そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。36 そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。37 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。38 弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。ルカ福音書 22:35-38

 

10:1 その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。2 そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。3 さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。4 財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。……17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。19 わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。20 しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。    (ルカ福音書 10:1-20)

35-37節、「そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。ここは、やや理解が難しい箇所で、それぞれに違ったいくつかの受け止め方がありえます。35節と36節の、互いに相反するような、正反対に思える内容が主イエスご自身の口から弟子たちに命じられていることです。まず35節で、主イエスは、ご自身の弟子たちを二人一組にして町や村に送り出したときのこと(ルカ9章と10章)を思い起こさせます。「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。神の国の福音を主イエスから教えられている途中で、まだ信仰も知識も経験も足りず、主イエスに従って生きる決心も覚悟もまったく足りないまま、あまりにも未熟なままに、しかも準備も装備もほとんど持たず手ぶらで、弟子たちは実地訓練へと送り出されます。それでもなお、困ったことは何一つもなかった。それは、「小羊を狼の群れの中に送るようなものだ」と主イエスご自身からも前もって言われてもいました。しかも準備も必要な装備もほとんど持たず手ぶらで出かけて行って、どうして困ることがなにも無かったのか。主イエスから、「すべての悪霊を制し、病気を癒す力と権威を授けられた」からです。「へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無い」(ルカ9:1,10:19と主イエスから保証され、太鼓判を押されていたからです。主イエスご自身からの力と権威を授けられ、主イエスの保護と支えの下にこそ、彼らは出かけて行き、主の元へと帰ってきたからです。これこそが、困ることが何一つもなかったことの只一つの理由です。復活の主イエスによって世界宣教へと送り出されたときも同じでした、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20。さらに、イスカリオテのユダが主イエスを裏切って滅びの運命に定められたことについて、主イスご自身がこう証言しています、「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」(ヨハネ福音書17:12。つまり、ユダ以外の誰も滅びなかったのは、彼ら自身の清さや信仰の強さ、忍耐深さといった自分自身の何かでなく、ただただ主イエスご自身がその者たちを守り、保護しつづけておられたからだと。もちろん、この私たちも、すべてのキリスト教会とクリスチャンも、救い主イエスご自身からのこの同じ保護と支えの下に置かれつづけています。

36節、「そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」。財布、袋、剣。それらは、自分自身のいのちを支え守るための装備です。これらは皆、霊的な事柄として受け取らねばなりません。お金や財産、あるいは武器は、ほどほどの支えにしかなりませんし、やがて朽ちたりしぼんだり、盗まれたりするほかない虚しい支えだからです。もし、それらを当てにするほかないなら、この私たちは絶望する他ありません。しかももし、神ご自身からの助けと支えがないならば、どんな備えも財産も道具もなんの役にも立ちません。私たちは、どうして、何をもって、今日こうしてあるを得ているのか。今しがた申し上げたばかりです。自分自身の何かによってではなく、ただただ主イエスご自身がその者たちを守り、保護しつづけておられたからだと。もちろん、この私たちも、すべてのキリスト教会とクリスチャンも、救い主イエスご自身からのこの同じ保護と支えの下に置かれつづけています。だから、こうして折々に神からの支えと助けを贈りお与えられ、神からの幸いと祝福を受け取りながら生きてきた。すると、それらを頼みとすることが出来ない、有り得ないほどの緊急事態が起こっている。「しかし今は」、自分自身で、自分のいのちを守るための装備と用意を整えなさいと。

「しかし今は」という「今」とは、いつからいつまでなのか、どういう時なのか。ある人々は、「救い主イエスが天に昇っていかれて、やがてふたたび世の終わりにもう一度来られるときまでの間だ」と考えます。けれど、それは間違いです。先ほど確かめたばかりです。マタイ福音書の末尾、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。天に昇っていかれた後でも、世の終わりまで、いつも私たちと共にいつづけてくださる。これが、ご自身からの揺るぎない確かな約束です。聖霊なる神のお働きにおいて、主イエスは、私たちと共におられます。聖霊なる神は、御子イエスの霊とも呼ばれ、私たちの体のうちに宿って生きて働き続けます。聖書は証言します、「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(ローマ手紙8:9-11

「しかし今は」と、自分自身で、自分のいのちを守るための装備と用意を整えなければならないような時。神からの支えと助けを頼みとすることが出来ない緊急事態のときなど、ほとんど有り得ないことが分かります。けれど、そう警告されている。37節、「あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。これが、謎を解くための最後のヒントです。救い主イエスが『罪人のひとりに数えられる』とき、救い主について聖書が預言しつづけてきた約束。それは彼が、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」ことです。十字架の苦しみを受け、罪人として殺され、墓に葬られ、その三日目に墓からよみがえるときまで、神であられる救い主の力はひととき封じられていました。ただその間だけは、救い主イエスは彼らや私たちを守り、また保護することができませんでした。墓からよみがえらされた後では、終わりの日まで、片時も止むことなく、救い主イエスは私たちを守り、保護しつづけてくださいます。12人の弟子たちを、つづいて72人の弟子たちを町々村々へと遣わしたときと同じに、また世界宣教へと彼らを送り出した時と同じに、いつも、私たちがどこでなにをしているときにも、共にいてくださる主イエスこそが私たちを保護し、助け、守りつづけてくださいます。これこそが、私たちが最後まで苦難を耐え忍んで、主イエスを信じて生涯を歩むことのできる唯一の理由であり、根拠です。

38節、「弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」」。あのときは、弟子たちはまだ、救い主イエスを信じることも、神の国がどのように実現していくのかも、神を信じてどのように生きることができるのかも、まだまだ、よく分かりませんでした。たとえ剣が二振りあっても、2000本、3000本あっても、何の役にも立ちません。彼らや私たちがあまりに愚かでも、心がとても鈍くても、神さまはそれを軽蔑したり呆れたり、ガッカリしたりはしません。あの彼らと私たちはだいたい同じようなものです。よくよく分かった上で、その彼らと私たちの弱さと貧しさを憐れんでくださる神さまです。何があれば十分なのかをあの彼らが知るのは、まだもう少し先のことです。この直後、主イエスが捕らえられるとき、ご自身が「剣を取る者は剣で滅びる」と仰ったとおりに。ただ、その剣によってペテロが相手のしもべの一人の耳を切り落としたとき、その哀れなしもべの耳に手を触れて癒してあげて、私たちへの憐みを示すためにだけ、その剣は役に立ちました(マタイ26;52,ルカ22:50-51

必要なことを、すべて語り終えました。救い主イエスの助けと保護の手が及ばない、ほんのつかの間の緊急事態の時がありました。十字架の苦しみと死、葬り、三日目によみがえるまでの、救い主イエスの力とお働きがほんのひととき封じられていた間です。つまり、それ以外のすべてのときは、救い主イエスの保護と支えにこそ全幅の信頼を寄せつづけて、私たちは生きることができます。イスカリオテのユダとほぼ同罪の私たちです。他11人の弟子たちも皆すべて、イエスを見捨てて散り散りに逃げ去りました。けれどなお、主イエスは私たちを見捨てることも見離すこともなさいません。私たちの弱さを思いやることができるお方だからです。生きて働いておられます神を信じる私たちです。私たちの信仰と希望とは、ただただ神にこそかかっています。だからこそ私たちは、もはや私たち自身の強さによって生きるのではありません。私たち自身の賢さによって生きるのでもありません。それらは取り除かれました。日毎に、1つまた1つと取り除かれつづけます(ローマ手紙3:27,コリント手紙(1)1:26-31)。私たちは、ただただ、主なる神さまの強さと憐み深さにすがってこそ生きるのです。主なる神ご自身の賢さと豊かさに信頼し、期待し、そこに願い求めて、私たちは生きるのです。誰かを恐れることも恥じることもなく、また誰かを恐れさせることも恥じ入らせることもなく、互いに晴々清々としてです。

 

1/23こども説教「正しいものが10人いたら」創世記18:16-33

1/23 こども説教 創世記18:16-33

 正しい者が10人いたら

 

18:16 その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。……32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。                    (創世記18:16-33

 

 

 【こども説教】

 ソドムとゴモラの町の人々は神に逆らいつづける、とても悪い人々でした。その人々をどう取り扱うのかを、神はアブラハムにわざわざ知らせています。神の正しさと憐み深さがどれほどのものなのかを教えるためにです。27-28節、「アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。神さまが、アブラハムに、憐み深い優しい心を贈り与えています。正しい人が50人いたらどうするのか。45人、40人、30人、20人、10人ではどうですかと。ここで最も大切なことは、アブラハムが問いかけたから神が憐れみ深い扱いをしようと思い直した、わけではないことです。もともと最初から、神ご自身は救いに価しない罪人をゆるして救おうとなさる神です。その神の憐れみの心を知らせるために、とても悪い人々のいるソドムとゴモラの町を、アブラハムに見せています。ほんのわずかな正しい人々のために、ソドムとゴモラの町を滅ぼさない。神さまに従う道は、神の正しさと憐み深さを知って、そのように人々を取り扱おうとする道であるからです。アブラハムも私たちも気づかされます。むしろ、この自分自身が、ソドムとゴモラの町のようだった。その人々は私自身だ。けれど、神さまが憐れんで、なんとかして私たちの滅びを免れさせたいと心から願っておられます。塵や灰にすぎない私たちが神さまに立ち帰って生きることを、神は願っておられます。

 

 

 【大人のための留意点】

 アブラハムの信仰を彼の功績とみなして讃美することはできません。彼の勇気や忍耐について、ただの一言たりとも誉めそやしたり、「執成し人アブラハム」を高く評価することはできません。神がこの人物にご自身のご計画をお知らせになったればこそ、彼はそういう行動をとる者となったのであり、そして、神はまた彼の心に執成しの霊をも賜ったのでした。ここで、罪人の死を欲せずにかえって罪人が悔い改めて救われることをお望みになるひとりのかたを他にして、それ以外の誰かを誉めたたえようとすることは愚かであり、僭越(せんえつ=身分を越えて出過ぎたことをすること)のそしりを免れません。すなわち、そこに働いておられる神そのかたを他にしては(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年1月16日日曜日

1/16「あなたが立ち直ったら」ルカ22:31-34

              みことば/2022,1,16(主日礼拝)  354

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:31-34               日本キリスト教会 上田教会

『あなたが立ち直ったら』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。ルカ福音書 22:31-34

 

1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。17 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。20 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。21 あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。(1ペテロ手紙 1:13-21)


主イエスが十字架におかかりになる前の晩のことです。

この箇所もまた、大きな驚きに満ちています。31節、主イエスは仰います。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞きいれられた」。なぜそうであるのかと問うてみても、十分な答えを見出すことは難しい。むしろ、これがこの世界と私たちが生きることの現実であると受け止めたい。試練と悩みが、世界と私共の人生を襲います。しばしばあまりに激しく、情け容赦もなく。私たちは小麦のようにふるいにかけられます。小さな子供たちも、若者たちも、お父さんお母さんたちも、年配の人たちも、それぞれの不安と寂しさや心細さの只中に置かれます。「神によって造られたものたちがすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ手紙8:22)と聖書は告げました。

救い主イエスの弟子たち。主イエスはさらに続けて、こう仰います;「しかし私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。もちろんシモン・ペテロのためばかりではなく、そのあなたのためにも「しかし私は」と。苦しみと悩みの現実が確かにあるとして、けれどなお主イエスのこの言葉をこそ、私たちはぜひとも聞き分けたい。この私たちのためにも、主イエスご自身が祈っておられます。切に祈りつづけておられます。

あるとき気がつくと、苦しみと悩みの只中に据え置かれた1人のクリスチャンの胸に、神さまからの恵みがなお消えずに残っています。それは不思議なことです。その人の目の前に立ち塞がる困難と障害は大きく、とても力強い。その人自身は小さくて、あまりに弱々しい。その人を取り囲む世界は厳しく、情け容赦ないものであるかも知れません。その1人の人は不安に思い、自信を失って打ち砕かれ、たびたび怖気づいてしまいます。心がポッキリと折れそうになります。やがて神の国へ辿り着くことなど、こんな自分にはとうてい無理なように思えて。けれど、それならなぜ、あのペテロは辿り着くことができたのでしょう。あるいは、この私たち自身は。

弱く小さな1人のクリスチャンが、けれどなおその信仰を失ってしまうことなく、神さまから与えられた短く限りある生涯を晴々としてまっとうする。主イエスへの信仰を抱き続けて生きて、やがて主イエスへの信仰に抱かれて世を去っていく。それがどのようにして成し遂げられてゆくのかを、この箇所ははっきりと説明しています。主イエスご自身が、その1人の人のために祈っておられる。だからこそ苦しみと悩みの只中に置かれながらも、なもその信仰は消えずに残り、その信仰こそがその人自身を救う。その幸いな1人のクリスチャンは、心強い1人の友だちを持っています。その格別な、ごくごく親しく身近な友だちは、天におられる御父の右に座り、そこで、その人のためにも執り成しつづけてくださいます。この格別な飛びっきりの友だちを、私たちも持っています。私たちの救い主イエス・キリスト。どんな方であるのかを、私たちもよく知っています。この方は常に生きておられ、その人のためにも私たちのためにも執り成しつづけていてくださいます。ご自分を通して神に近づこうとする人たちを、完全に、すっかり十分に救うことがお出来になります(ヘブル手紙7:25)。あの格別な、飛びっきりの友だちが、私たちにこう語りかけます。「私は、あなたのために、信仰が無くならないように祈った。今も変わらず祈りつづけている。だから」と。

祈りとは何でしょうか。聖書の中にも、祈りは満ちあふれます。例えば、一番最初に神に向けて祈った人間はセツという名前の男でした。創世記4:26。小麦のようにふるいにかけられる、恐るべき嵐の時代は、すでにセツの周囲にも始まっていました。アダムとエバの3人目の子供であるセツは、ちょうどいま私たちが住んでいる世界とよく似た世界に住んでいました。さまざまな道具が生み出され、豊かな町が建てられ、芸術と文化が花開き、人々は豊かさと楽しみを味わいはじめていました。その一方で、心痛む出来事も次々に起こりました。自由を謳歌し、豊かに満たされる一方で、人々は自惚れて図に乗りました。とても頑固になり、わがままに身勝手になっていきました。その自由な世界の只中で、セツは結婚して自分の家庭を築き、子供の親とされました。そのときそこで、彼は主の御名を呼ばわりはじめたのです(創世記4:26)。それが、人類最初の祈りでした。あの彼は何をどんなふうに祈ったでしょう。家庭を築き、子供の親とされたことの格別な幸いを、神さまに感謝したでしょう。恐れと不安に包まれる度毎に、あの彼は、「助けてください。どうぞ、私と私の家族を、友人たちを守ってください」と神さまに願い求めたでしょう。1人の夫として、また子供の親として、どんなふうに家族と共に生きてゆくことができるだろうかと思い悩み、「私たちが生きる道を示してください」と神に問いかけたでしょう。神さまに向けて呼ばわるその折々の姿を見て、彼の妻が、やがて一緒に祈りはじめたかも知れません。子供たちも、見よう見まねで、たどたどしく、その祈りの輪に加わり始めたかもしれません。それが、人間の最初の祈りでした。セツの祈りから始まって黙示録に至るまで、神に向けて呼ばわる人間たちの切なる祈りが続きます。ここにいるこの私たち自身も折々にそれぞれに祈り、また2人、3人ずつと祈りを合わせました。神さまに向かって祈り求めながら生きることを積み重ねてきました。

祈りつつ、懸命に必死に生きる人たちよ。けれど忘れてはなりません。私たち人間が祈ってきただけではなかったことを。「私のために祈って」と頼まれて、互いに祈り合いつづけてきただけではないことを。それだけではなく神ご自身こそが、この私たちのためにも心を注ぎ出しつづけます。私たちと親しく心を通わせることを、神ご自身が、切に願い求めつづけてこられました。「神が御心に留めた」「神がご覧になった」「神が顧みて、御目を留められた」などと聖書が手短にごく簡単に報告するとき、その所々で、神の憐れみと慈しみの心があふれて注ぎ出されています。そのことを、私たちも自分自身の心に留めたいのです。

さて、小麦のようにふるいにかけられ、追い散らされ、打ち砕かれたペテロたちは、その後いったいどうなったでしょうか。打ち砕かれて倒れたままではありませんでした。倒れた者は抱え起こされ、追い散らされた者たちは再び主イエスのもとへと集められました。あの最後の晩餐の席で、主イエスご自身が語っておられました。「しかし私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32)。信仰が無くならないように、主イエスが祈りつづけてくださった。そうでなければ、あの彼の信仰ももみ殻のように吹き飛ばされて、跡形もなく消えて無くなっていたかも知れません。もちろん、主イエスを信じるあなたの信仰も私の信仰もそうです。「強い信仰、弱い信仰、大きな信仰、小さな貧しい信仰」などと言いたくなる度毎に、どうぞ、ここに立ち戻ってきてください。ルカ福音書22:31-32に。そのあなたのためにも信仰が無くならないように祈ってくださっているお独りの方があり、その支えと慈しみのもとに、とても貧しい、ちっぽけな信仰のあなたでさえ今日こうしてあるを得ています。そのことを思い起こしてください。「立ち直ったら、その後で、兄弟たちを力づけてやりなさい」。立ち直ったら、その後でなら。あなたが兄弟たちを力づけてやることができるのは、それは、あなたが立ち直ったその後のことです。つまずいて倒れる体験の前には、立ち直る以前には、あの彼もまた、「兄弟たちを慰めなさい。励まし、力づけてあげなさい」とは一切命じられませんでした。そうしたくても出来ません。自信に溢れた強くしっかりした大きな人間であるつもりの、その傲慢な彼には、誰かを慰めることも、励ますこともできなかったのです。

聖書は、主に仕える働き人たちの弱さとつまづきと挫折とを繰り返し報告してきました。弱さをさらし、つまづいて挫折する度毎に、けれど彼らはゆるされ、忍耐され、助け起こされ、心強く支えられつづけました。倒れる度毎に、抱え起こされました。つまずいて立ち直る前と後とでは、ペテロはまったく別人のようになっています。主イエスの弟子たちよ、ついに立ち上がった無力で小さな人たちをご覧ください。「はい。私が戦います」と言いながら、あの彼らは、「私ではなく他の誰彼でもなく、主ご自身こそが先頭を切って第一に戦ってくださる」と知っています。「私が担います」と言いながら、「主こそが全面的に、最後の最後まで担い通してくださる」と知っています。《神が生きて働いておられる》と、ついにようやく、今初めてのようにして気づいたのです。立ち直らせていただいたペテロなので、彼はようやく、ついにとうとう自分が何者であるのかを知りました。「かつては神の民ではなかったが、今は、神の民である。憐れみを受けなかったが、今は、憐れみを受けている」(ペテロ手紙(1)2:10)。「本当にそうだ」と心底から噛みしめることができます。何しろ、神の憐れみを受けている。それが、新しく生まれた彼の中身です。新しく生まれさせていただいたこの私たちの中身です。立ち直らせていただいたペテロであり私たちなので、今や、自分自身をも兄弟をも力づけることのできる飛びきりの1つを手にしています。それを、がっちりと握りしめています。今ではもう私たちは、打ちひしがれている兄弟を励まし、心を挫けさせている家族や大切な友人たちを慰めたり、力づけたり、支えたりすることもできるようにされました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。何しろこの私も、そうして立ち直らせていただき、歩きはじめさせていただいた。ただイエスの名によってこそ、今もこれからも、心強く晴々として歩き続けている。それはとても心強い。それは、晴々清々している。「もし良かったら、あなたもどうぞ」。

 


1/16こども説教「サラの不信仰」創世記18:1-15

 1/16 こども説教 創世記 18:1-15

 『サラの不信仰』

 

 18:1 主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。……9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。              (創世記 18:1-15

 

 

 【こども説教】

 アブラハムとサラ夫婦に、しかも90歳になろうとするサラのお腹から子供が生まれると神から告げられて、アブラハムはその言葉を信じることができませんでした。アブラハムばかりではなく、妻サラもまた神からの言葉を信じられませんでした。夫婦2人ともが不信仰に陥って、神の言葉と神ご自身を疑ってしまいました。10-15節、「そのひとりが言った、『来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう』。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った、『わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか』。主はアブラハムに言われた、『なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう』。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、『わたしは笑いません』。主は言われた、『いや、あなたは笑いました』」。

2人は同じ過ちをしてしまいました。嬉しくて笑ったのではなく、悲しんで、そんなことがあるものかと神の約束をバカにして、苦々しく笑いました。しかも、「笑っていません」と嘘をついて取り繕おうとしました。けれど、「いや、あなたは笑いました」と念を押されました。その自分自身の不信仰と罪深さをはっきりと認め、ちゃんと分かる必要があったからです。その不信仰から信仰へと連れ戻していただくために。その罪深さから神への信頼へと心の向きを変えていただくためにです。

 

 

 【大人のための留意点】

 なぜサラは笑うのでしょうか。なぜサラは言うのでしょうか。「そんなことを本気にするものか」と。なぜサラは信じることができないのでしょうか。まず第一に、時間観念というものがあります。われわれは自分なりの時間観念をもち、自分なりのカレンダーに執着し、自分なりの時計で事柄を計ります。神がこれとは別の時間観念をお持ちになっていることを忘れているのです。そしてすぐさま早計に判断を下して、神は役に立たないと断じてしまうのです。その場合、役に立たないのは、われわれの忍耐の方なのですが。 

 第二のことがあります。成功、不成功についての観念です。けれども、神はわれわれに強く求めます。その(労働の)成果についての疑問、憂慮、不安などは、神をたしかに信頼することを通して、すべてを神におゆだねするようにと、求められます。

 サラは笑ったことについて釈明を求められると、言い逃れをして嘘を言います。私は笑いませんでした。「(なぜなら)サラは恐れたので」と説明されます。サラは不信仰のゆえに笑いました。ところが、彼女はその失敗からすぐさま信仰へと移行しました。そして「神を恐れた」。神にはそれで十分です(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

2022年1月10日月曜日

1/9「仕える者になりなさい」ルカ22:21-30

              みことば/2022,1,9(主日礼拝)  353

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:21-30            日本キリスト教会 上田教会

『仕える者になりなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:21 しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22 人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。23 弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。     ルカ福音書 22:21-30

 

16:13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。                        (ルカ福音書 16:13)


まず21-26節;「しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである」。救い主イエスが十字架におかかりになるその数時間前、一番最初になされた聖晩餐の食卓に、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが一緒に座っており、他の弟子たちと共にパンを食べ、杯の飲み物を飲んだことが報告されています。驚くべきことです。パンと杯の聖なる食卓に集う者の皆が御心にかなう心を抱いているわけではなく、皆が皆、救い主イエスを十分に信じているわけでもなく、御心に背いて、救い主イエスを裏切ってしまう者も、そこで共にパンと杯にあずかることをゆるされている。救い主イエスご自身が、それを受け入れ、お許しになっています。

もし仮に、その聖なる晩餐の食卓に、御心に背く者も混じって一緒に食卓に集い、パンと杯にふさわしくない者も他の弟子たちと共にパンを食べ、杯の飲み物を飲んでいるとしても、それでもなお主の晩餐にあずかることを避けたり、あるいはその集団から遠ざかろうとしなくても良いのです。『小麦と毒麦とが収穫のときまで一緒に育てられる』(マタイ13:25と主イエスご自身から私たちは諭されているからです。しかも毒麦を探して抜いてしまおうとするしもべは主人からこう命じられます。「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ」。私たちの誰にも、麦と毒麦との見分けがつきません。神さまにしか分かりません。ですから、よく分からないままに早合点をし、軽はずみに兄弟姉妹を裁いてしまってはならないのです。慎み深く、謙虚であるようにと戒められます。なぜなら、私たちは神ではないからであり、神よりも賢くあろうとしてはならないからです(1コリント手紙1:18-25参照)

さて、弟子たちは虚しい議論に心を奪われてしまいました。誰が一番えらいだろうか、誰が一番よく仕事ができるだろうか。「自分自身とまわりの人間たちを見比べて、朝から晩まで四六時中、ただただ人間のことばかり思い煩い続ける」という病気にかかってしまうからです。この病気こそ危険です。このおかげで、せっかく神さまを信じて生きてきたはずの人々が、神様のことをすっかり分からなくなり、目をくらまされて、あちらへこちらへとさまよい続けます。しかも彼らが「1番偉い者、2番目に偉い者、3番目4番目」という自惚れ競争にうつつを抜かしていた、そのタイミング。最初の聖晩餐の席で、パンと杯を受け取ったその直後です。「これは私の体。私の血による新しい契約」と告げられ、心に噛みしめ、自分の腹に収めたその大きな祝福の直後にです。この後、弟子たちのつまずきと裏切りの予告がなされ、オリーブ山での祈りが続き、裁判と十字架の死が主イエスを捕らえようとするその矢先に、です。もし、この信仰の本質と中身を本当に理解し、受け止め、神さまを信じて生きることの祝福と幸いを自分自身の血とし肉としようと願うなら、もしそれを本気で願うならば、それは今この瞬間です。今こそ本気になって必死に目を凝らし、精一杯に考え巡らせるべきときでした。けれど彼らは心が鈍くなっていました。

27-30節、「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう」。あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちであると、主イエスは仰います。主イエスが、あの弟子たちを喜んでくださっています。主イエスの地上の全生涯の宣教の働きを貫いて、あの弟子たちが弱さや不完全さをさらしつづけたことを私たちもよく知っています。とても弱々しく、ふつつかでありつづけた彼らです。彼らの無知や信仰の足りなさを、主イエスはしばしば厳しく叱りつけておられました。ほんの数時間後に、その彼ら皆がご自身を見捨てて、散り散りに逃げ去ってしまうことも、あらかじめ主イエスはよくご存知でした。けれどもなお、ダメなところやふさわしくないところが山ほどある中で、なお彼らの振る舞いの1つの良い点に目を留め、誉めてくださり、キリストの教会がそれに目を留めるようにと指し示しておられます。数多くあった失敗や欠点にもかかわらず、なおあの彼らは自分たちの主人であるイエス・キリストに対して、とても忠実であったと。どんなに多くの間違いがあったとしてもなお、彼らは主イエスを心から信じていた。彼らは、主イエスが低くされ、恥とあざけりにさらされていた間も、主イエスにしがみつきつづけていました。受け取った恵みが彼らを駆り立てて止まなかったからです。

主イエスにこそ仕えて生きる私たちです。なぜなら、「あなたは神からの救いと共に他からの救いも望みますか」と問われて、「いいえ。ただ神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます」と答えたからです。このことを習い覚えてきました。では、『すべての人に仕える』ことと『主なる神さまに仕える』こととは、どう帳尻が合い、どのように両立するでしょうか。また『隣人を愛し、重んじる』ことと『主を愛する』こととは。「主を愛することは難しくて、あまりよく分からないし私の性分にも合わないから、だから私はこれからはもっぱら隣人や自分の家族や、いろんな人々に仕えたり、愛したりすることに専念しますよ」と親しいクリスチャンが言い始めるとき、あなたはその人に何と言ってあげることができるでしょう。主なる神さまをこそ心から愛し、敬い、尊ぶこと。これこそ最も重要な第一の掟です。第二の掟は、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと(マタイ22:34-参照)。なにしろ第1の掟。その後で、それに続いて、第2の掟。この優先順位こそ大事です。けれどその区別や順序がいつの間にか紛れて、あやふやにされました。「主よ主よ」と口では言いながら、主ではない他様々なモノを取っかえ引っ変え主人としている私たちです。信仰も何もかも、あまりに人間中心なものにスリ替えられていきます。気がつくと、いつの間にか、主に仕えるよりも、連れ合いや家族に仕え、職場の同僚や上司に仕え、自分自身の気持ちや願いや腹の思いに仕えることを先立てて、それらを優先してしまっている自分がいます。気がつくと、主に仕えて生き、主の御心にかなうことを願うことが、二の次、三の次にされているかも知れません。恐ろしいことです。だからこそ心が鈍くなると、その証拠に、「誰が一番偉いだろうか。2番目は、3番目は。だれが一番働きが少なくて、役立たずだろうか。2番目は、3番目は」と眺め渡したくなります。神さまのことを忘れ、神さまこそが一番偉くて、よくよく働いてくださることも、分からなくなったからです。心細くなったり、惨めな恐ろしい気持ちになるときも同じです。思い煩うあまりにすっかり心が鈍くされてしまいました。いつの間にか、天に主人がおられることをすっかり忘れている。それなら心細いのも惨めなのも恐ろしくて仕方がないのも当たり前です。さあ、目を覚ましましょう。心淋しい兄弟たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ手紙 2:6-)ことを。そのへりくだりの神さまこそが私たちの唯一の主人であることを。

あの弟子たちと同じように、この失敗だらけの、ふつつかな、信仰がとても足りない、愚かなこの私たちに対しても、その間違いや失敗についてよりも、私たちが受け取っている恵みにこそ、主イエスは目を凝らしていて下さいます。私たちの弱さを憐れみ、私たちの罪深さや頑固さに応じてではなく、神ご自身の憐れみに照らして私たちを扱いつづけていてくださいます。このことをこそ、私たちはよくよく覚えておきましょう。そのように私たちが弱く、貧しいしもべであるとしてもなお、私たちの弱さや貧しさを憐れんでくださる主人がいてくださいます。ですから、主イエスにこそ私たちは必要なだけ十分に信頼を寄せ、主イエスにこそよくよく聴き従いましょう。主イエスをこそ自分自身のためのただお独りの主人としつづけましょう。このお独りの方から十分に聴いてきた私たちなので、何が主の御心にかなっているのか。何をどうすればいいのかを、私たちは分かっています。「どんな召使も2人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(ルカ16:13参照)。イエスこそ主であると、私たちは教えられ、習い覚えてきました。救い主イエスによって神の憐れみを知らされ、その憐みを受け取ってきた私たちです。すべての信頼をただ神に置く私たちです。神の御意志に服従し、神にだけ仕えて日々を生きる私たちです。どんな困窮の只中にあっても、そこで神に呼ばわって、救いとすべての幸いをただ神の中に願い求める私たちです。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認め続ける私たちですJカルヴァン『ジュネーブ教会信仰問答』問答7 1545年を参照)。祈りましょう。

 

1/9こども説教「アブラハムの不信仰」創世記17:1-19

1/9 こども説教 創世記 17:1-19

 『アブラハムの不信仰』

 

17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。2 わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」。3 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。……9 神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち10 男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。11 あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。12 あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。13 あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。14 割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。18 そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。19 神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。 (創世記 17:1-19

 

 

 【こども説教】

 ここで神さまからのご命令によって、アブラムはアブラハムへ、サライはサラへと名前が変えられます。また男の子供たちは皆、神の民の一員に加えられたしるしとして「割礼(かつれい)」を受けることになります。。この割礼は、後に「洗礼」へと変えられ、受け継がれつづけます。救いの契約のしるしとしてです。

 さて、アブラムはもうすぐ100歳、妻のサラは90歳になります。その2人に赤ちゃんが生まれると神から告げられて、アブラハムは信じることが出来ませんでした。17-18節、「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』。そしてアブラハムは神に言った、『どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように』」。100歳と90歳のおじいさんとおばあさんに、どうして赤ちゃんが生まれるでしょう。生まれるはずがありませんと、アブラハムは神の言葉をバカにして笑い飛ばしてしまいます。アブラハムは私たちの信仰の父であり、神を信じて生きることの手本とされる人です。「彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められた」(ローマ手紙4:19-20と証言されます。それは、とても寛大で心優しい受け止め方です。実際には、彼の信仰も私たちの信仰もたびたび何度も何度も弱くなり、誰でも、何度も不信仰に陥って神の約束を疑います。けれど心優しく温かい神さまは、弱い私たちを放っておかず、信仰が弱くされるたびに強めてくださり、疑うたびにその疑いを拭い去り、その信仰がなくなってしまわないように守って、その信仰を強くしてださいます。

 

 【大人のための留意点】

 アブラハムは思わず失笑を禁じえませんでした。神はそのしもべの笑いをお聞きになります。だが意外なことに、神は彼をそのことでお咎めになりません。そのしもべの発作的な笑いを寛大な心で受け止められます(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年1月3日月曜日

1/2「聖晩餐のパンと杯」ルカ22:14-22

            みことば/2022,1,2(主日礼拝)  352

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:14-22         日本キリスト教会 上田教会

『聖晩餐のパンと杯』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。21 しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22 人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。ルカ福音書 22:14-22

 

10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。              (1コリント手紙 10:16-17)

聖晩餐のパンと杯についての、救い主イエスご自身からの直々の指図であり、教えです。なぜ世々の教会が、「こうしなさい」と救い主イエスから命じられたとおりに、このパンと杯の食卓を守りつづけてきたのか、どうしてこれからも、それをしつづけるのか。救い主イエスを信じて生きるクリスチャンであるとはどういうことなのか、どんな希望と慰め、支えがあるのか。その言葉の中に何があるのかが告げられています。

14-16節、「時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。聖晩餐のパンと杯の食事は、この夜の救い主イエスと弟子たちの食事を再現して、味わいます。それによって、そのほんの数時間後になされた主イエスの十字架の苦しみと死を思い起こし、心に刻みつけ、それを覚えて毎日の暮らしを生きるために、大切に繰り返されつづけます。主イエスの十字架の苦しみと死は、恵みに価しない罪人を神に逆らう罪から救い出して、神の祝福と恵みにあずからせるために成し遂げられました。「苦しみを受ける前に」とは、目前に迫った、その十字架の苦しみと死の前に、という意味です。「自分の弟子たちと一緒にこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」のは、なぜ十字架につけられ、苦しんで死んでいくのか。その意味と中身をぜひ弟子たちに教えておきたい。罪人を憐れんで救う神の御心であること、そのようにして神のゆるしの下に生きる新しいいのちが差し出されていることをはっきりと覚え込ませてあげたいと。「あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。かつてエジプトで神の民とされたイスラエルの人々は奴隷にされて惨めで辛い生活を耐え忍んでいました。苦しみ嘆く彼らの声が神に届き、神はその彼らをエジプトから連れ出します(出エジプト記3:7-10参照)。そのエジプトでの奴隷生活の最後の夜、エジプト全土を大きな災いが襲います。その中で、小羊の血を家の戸口に塗った彼らの家の中だけは、その大きな災いから免れました。神の憐れみの配慮によって、災いが彼らを過ぎ越していったからです。これが、過ぎ越しの祭りの発端となった出来事です(出エジプト記12:1-13:16参照)。かつてエジプトで神の民を救うために、小羊がほふられ、その血が流され、それによって彼らは災いを過ぎ越すことが出来た。やがて長い年月の後、このときに、罪人と世界を救うために、世界の罪を取り除く神の小羊であられる救い主イエスの十字架の死と復活我が成し遂げられた。救い主イエスの死と復活を、それゆえ世々の教会は『第二の過ぎ越し』と呼び習わし、心に刻みつづけてきました。これからもそうです。

「あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。終わりの日に、罪人たちとこの世界の救いがまったく成し遂げられることを、救い主は心から待ち望んでおられます。そのためにこそ、十字架の苦しみと死を耐え忍び、新しい命の道筋を切り開こうと堅く決心しておられます。この世界と、私たち罪人のために。

17-20節、「そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」。主の聖晩餐の食卓でクリスチャンが食べるパンは、十字架の上で罪人たちのその罪のあがないのために死に渡された救い主イエスの体を私たちに思い起こさせます。ブドウの実で作った飲み物は、私たちの罪をあがなうために流された救い主イエスの尊い血潮を思い起こさせます。

さて、救い主イエスはパンを取って、弟子たちに渡し、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」と言われた。杯も同じように弟子たちに渡し、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と。パンが、いったいどのようにして、主イエスの体になるのか。杯の中のブドウの実の飲み物が、どのように主イエスの血潮になるのか。さまざまな議論がなされつづけました。パンを食べ、杯の飲み物を飲み干しながら、どのようにして主イエスの体を食べ、その血潮を飲むことになるのか。それは、ただただ、主イエスを信じる信仰によってである。これが、キリストの教会が受け止めてきた答えです。なによりも、救い主イエスご自身が、「これは私の体である」、「私の血による新しい契約である」とおっしゃった。だから、言われるままに、信じて受け取ります。ただ信仰によってしか、その秘儀を受け取るすべがありません。主イエスを信じる信仰によってだけ、そのパンと飲み物を、主イエスの十字架の上で引き裂かれた体、流された血潮として、受け取り、飲み食いすることができます。

聖晩餐は主イエスとあの弟子たちの最後の晩餐を再現し、そのパンと杯とは主イエスの十字架の死をわたしたちの体と魂に深々と刻みつけます。そのパンと杯のうちに、自分たちを『神のもの』とさせる根源の生命を私たちは見出します。「わたしは、あなたの罪を贖うために十字架を負ったのだ」。この言葉が聖餐式の中に込められます。小さな杯に注がれた赤い飲み物と、小さなひと切れのパン。それらが自分の手元にまで差し出されるとき、十字架のゆるしが確実にこの自分にまで差し出され、届けられた。そのことを、確信してよいのです。

「あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。神の国が、神ご自身がご支配なさり、生きて働いてくださる神の現実が、差し迫って近づいています。そのことを私たちは覚えさせられます。また同時に、主イエスの御心をもこの言葉は告げます。ぶどうの実から作ったものを、今、弟子たちと共に飲んでいる。やがて、御父の国で共に新たに飲むことになる。やがてと願ってくださった主は、『今、弟子たちと飲み食いする』ことをも心から願ってくださいました。そのときそこでの晩餐を願った主は、そのパンと杯が指し示す苦しみと死をも「ぜひそうしたい」と、同じく心から願ってくださいました。「この過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と。ゲッセマネの園で「この杯を過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈られたとき、十字架の苦しみと死という杯の苦さは、掛け値なく、まったく真実でした。しかもなお、そのご自身の苦しみと死を、主イエスは心から願っておられた。私たち罪人らの救いのために、ぜひそうしたいと。

21-22節、「しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。あらかじめ滅びに定められていた者がいました。心が痛みます。主ご自身は、私たちを見放すことも見捨てることもなさらなかった。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを、この私たちのためにすると。もちろんパウロも誰も彼もが皆、この私自身も、やましい所は山ほどあります。誰かから裁かれても、ちょっと批判されても陰口きかれても、簡単にへこたれてしまいます。他の誰も何も文句を言わなくたって、自分で自分にガッカリして呆れ返ってしまうことも度々です。もし口に出そうとするなら、互いに不平や不満を山ほど抱え、注文も要求も苦情も互いに山ほど突きつけ合いたくなりますね。それはそうです。けれど何回か深呼吸をして、心を鎮めましょう。私たちはクリスチャンです。ゆるされた罪人。ゆるされてなお、まだまだ罪深さと、ふつつかさいたらなさを山ほど抱える者同士だからです。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを受け続けている私たちだからです。憐れみを受け、ゆるされて、私たちはまるで何一つも罪を犯さなかったもののように取り扱われています(ハイデルベルグ信仰問答,問601563)。その神のなさりように、ただただ驚くばかりです。ただただ、感謝があふれるばかりです。それは、この私のことであり、他でもない、あなた自身のことでした。だからこそ、「特にあなたがたに向かっては、はっきり言っておく」(21)と主イエスは仰ったのです。あの弟子たちと、ここにいるこの私たちに向かって。この私たちのためにさえも。なんということでしょう。それで、この食事が目の前に用意されています。弟子たちにも、ここにいるこの私たちにもよくよく分かってもらおうとして、あのむごたらしい十字架の死を、天の御父と救い主イエスご自身が用意してくださいました。パンをちぎり分けながら、主イエスは「こうやってわたしの体も、十字架の上でちぎり分けられる。誰かから無理矢理にではなく、自分で自分の体をあなたに手渡す。だから取って食べなさい。このように私も私の体をあなたを救うために与える」「この杯の赤い飲み物のように、十字架の上で私の血も流される。あなたと神さまとの新しい契約として、わたしの命をあなたに与える。こうやって、わたしはあなたの救いを保証する。このわたしが太鼓判を押す」と。主イエスが十字架にかかって殺されてしまうその前の晩の食事です。しかも主イエスは、「わたしはぜひ十字架にかかって殺されたい」と心から願ってくださった。弟子たちといっしょにその食事をぜひにと願った主は、同じくまったく、『わたしたちを救うためにご自分で苦しみと死を受けとる』ことをも心から願っておられました。ぜひ、私はそうしたいと。

 

1/2こども説教「憐れんでくださる神」創世記16:1-16

1/2 こども説教 創世記16:1-16

 『憐れんでくださる神』

 

16:1 アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。2 サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。3 アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。4 彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。5 そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。6 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。……9 主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。10 主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。      

(創世記16:1-16

 

 【こども説教】

 ここでは、ただアブラム、サライ、ハガルの互いの人間同士の裏切りではなく、神への裏切りと不信仰こそが報告されています。

アブラムは、「あなたの身から出る者があなたの後継ぎとなる」(創世記15:4と神から約束されていました。彼も妻もずいぶん年を取ってしまい、けれど、なかなか妻のサラに子供が与えられません。そこで女奴隷のハガルによって子供を与えられようと2人は考えました。ハガルから、アブラムの子が生まれました。それで思い上がったハガルはサライを見下しました。するとサライはハガルを厳しく扱い、とても苦しめました。アブラムに責任がありましたが、彼は、ハガルに「サライを見下してはいけない」とも注意しませんでしたし、サライがハガルにひどい意地悪をしつづけることにも知らんぷりをして、そのまま放っておきました。困り果てて、ハガルはアブラムとサライ夫婦の前から逃げ出しました。主の使いが現れて、ハガルとお腹の子を助けます。9節、「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』」。アブラムは無責任でズルくて自分勝手でした。なにより、「ハガルによって子を得ましょう」とサライに誘われたときにも、「ハガルとその子はお前のものだ。好きにしなさい」と投げ出したときにも、救いの約束と神ご自身とを彼は見下して、踏みつけにしていました。サライはひがみっぽくて、とても意地悪でした。ハガルは思い上がって他人を見下しました(「サライの手に身を任せよ」(16:9)という神からの命令をハガルはなお聞き流しつづけたために、ハガルイとイシュマエル母子はふたたびアブラム、サライ夫婦のもとを去る他なかった。異母兄弟の和解には長い年月がかかった)。3人ともがみな神に逆らい、人間を見下すだけではなく神をこそ見下しており、とても悪かったのです。この私たちも同じで、彼らとそっくりです。けれど神さまが、あの彼らも私たちも可哀そうに思って、助けてくださいました。そのことを、私たちは、よくよく覚えておきましょう。

 

 【大人のための留意点】

 神はその普遍的な慈しみをイシュマエルの上にも豊かに及ぼされるでありましょう。自分の不従順や絶望の中にあって、この逃亡者(=ハガル)は立ち戻ることを決心します。神が、すなわちアブラハムとサラの神が、自分の身を親しく引き受けてくださり、自分のことを顧慮してくださったという事実に、ハガルは感動します。彼女は神をエル・ロイ、すなわち「わたしを見ていられる」神と呼びます。彼女が神そのかたを見る以前に、神が彼女をごらんになり、彼女の身を引き受けてくださったのです(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記講解説教集』該当箇所)