2021年10月26日火曜日

10/24「生きている者のための神」ルカ20:27-40

             みことば/2021,10,24(主日礼拝)  342

◎礼拝説教 ルカ福音書 20:27-40            日本キリスト教会 上田教会

『生きている者のための神』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:27 復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、28 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。29 ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、30 そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、31 七人とも同様に、子をもうけずに死にました。32 のちに、その女も死にました。33 さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。34 イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。37 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。39 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。ルカ福音書 20:27-40

 

 15:12 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。……16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。(1コリント手紙15:12-20)

当時の社会では、ユダヤ教徒には大きな勢力を持つ2つのグループがありました。サドカイ派の人々とパリサイ派の人々。サドカイ派の人々は「死人がよみがえることはない」教えられ、そう信じていました。パリサイ派の人々は「死人がよみがえる。死者の復活がある」と教えられ、そう信じていました。けれど、サドカイ派の人々を悪く言うことは出来ません。

なぜなら旧約聖書の中で、死人がよみがえることをはっきりと証言している箇所はごくわずかしかありません(ダニエル書12:1-2,イザヤ書26:19,ヨブ記19:25-27。旧約聖書の教えの大多数は、「死人がよみがえることはない」と告げています(詩115:17「死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない」)しかも彼らは真理を知るための確かな知識の根拠として旧約聖書しか持っておらず、救い主イエスの死と復活さえまだ知りません。ですから、この点について彼らには落ち度がほとんどありません。死人がよみがえることをはっきりと信じるためには、死んで復活した救い主イエスを信じる必要があり、その信仰によって新約聖書の証言に耳をよく傾けなければならないからです。しかも救い主イエスを信じるためには、神ご自身の助けと導きとがどうしても必要です(1コリント12:3「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言うことができない」,ヨハネ6:44,65「父が与えてくださった者でなければ、わたしに来ることができない」)

 

まず27-33節。サドカイ人たちが復活ということはないと言い張っていたのは、そのように教えられ、そのように習い覚えてきたからです。「もし死んで生き返るなら、何度も何度も再婚して7人の夫をもった妻は、生き返ってから、どの夫と、どういう生活を送ることになるのか」などと言い出して、主イエスをやり込めようとします。

34-40節、「イエスは彼らに言われた、『この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである』。律法学者のうちのある人々が答えて言った、『先生、仰せのとおりです』。彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった」。その新しい人間関係・夫婦や家族の関係については、私たちはあまり十分には理解できず、はっきりとは思い浮かべることができないかも知れません。けれどなにしろ主イエスがそう仰るので、そのまま受け入れます。すっかり丸ごと、お任せして、言われるとおりにそのまま信じて聞き従います。「主であられます神」と言い習わしつづけてきました。「イエスこそ主であり、私たちは主人に仕えるしもべであり弟子たちである」と習い覚えつづけてきました。それは、このことです。

37-38節は少し難しいです。「死人がよみがえることは、モーセも柴の篇(出エジプト記3:6,16で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。しかも、もし万一、アブラハム、イサク、ヤコブらが死んでしまったままであるならば、「アブラハム、イサク、ヤコブらが生きていた間には、あの彼らのための神だったが、彼らは死んでしまったので、もう彼らの神ではなく、彼らのための神としての役割は終わった」などと仰ったでしょう。この私たち自身も、神さまが決めておられるあり方と順番で、やがて次々と必ず死んでいきます。けれど、死んで、それで終わりではない。死んだあとにも、私たちの生命はつづく。そのことは、よくよく分かっている必要があります。実は、クリスチャンの中にも、あのサドカイ人たちと同じようなことを言い出して仲間たちを惑わせる者たちがいました。しかも使徒パウロによって養い育てられたはずの、あのコリント教会の中にです。またテサロニケ教会でも、死んだあとのことについてあまりよく分からずに、心細くなったり悩んだり困ったりする兄弟姉妹たちが多くいました。そういうわけでコリント人への第一の手紙15章の全体は、とくに復活の希望について詳しく説き明かし続けています。15:12-20、「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。・・・・・・もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。聖書の神を信じて生きる者たちにとって、ここが最も大きな分かれ道となります。死者の復活を本気で心底から信じることができるのかどうか。救い主イエス・キリストが死んで三日目に墓からよみがえったように、この私自身も、決して、死んでそれで終わりではなく、さらにその先へと生命がつづく。神の御前に生きる新しい生命を、神さまご自身がこの私のためにも必ずきっと成し遂げてくださる。そのことを信じられるのかどうか。

ただこの世の生活の中でだけ、ただ頭の中でだけ信じているだけなら、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな、あわれむべき者」だと聖書は語ります。あなた自身は何をどう信じているのか、と問われています。救い主イエス・キリストは復活したのか、しなかったのかと。復活したのなら、このお独りの方を『初穂』として、私たちもまた新しい生命に生きることになる。私たちは、キリストに望みをかけている。その望みは、どこにまで及ぶでしょう。自分自身で答えねばなりません。聖書の別の箇所は、(テサロニケ手紙(1)4:13-14「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」。いつまでも好きなだけ生きるように、とは定められていません。例外なく、誰もが死ぬし、その時やあり方を自分自身では選べません。「はい。分かりました」と受け入れるほかありません。かつて土の塵から造られ、鼻に命の息を吹き入れられて生きる者とされた私たちです。そのように、「土から造られたあなたは、やがて土に還れ」(創世記2:7,90:3)と命じられています。やがていつか、あなたの愛する連れ合いや子供たちがこのことを腹に収めることができる日が来るでしょうか。いいえ、その前に、この私たち自身こそが。限りある、一回だけの人生であり、だからこそそれを惜しみながら魂に刻みながら、1日1日と精一杯に生きるのです。「日毎の糧を、主よ、どうか今日もお与えください。贈り与えてくださってありがとうございます」と。その日毎の糧の中に、1日分ずつの生命も入っています。さて、『死んで、それで終わりじゃない』という確かな希望をあなたも私も聞き届けてきたし、必要なだけ十分に知らされてきました。もし、その希望を思い起こせないなら、私たちも他の人々同様にただただ嘆き悲しむ他ありません。告げられ、そして信じてきた中身は、「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さる」ということです。主と共にいる。目覚めていても眠っていても、生きていても死んだあとでも。元気ハツラツとした日々にも、そうでもない日々にも。しかも、『共にいる主』はただ共にいるというだけではなく、私たちを顧み、私たちのためにも良い業を成し遂げようと生きて働いておられる主です。主とは、最後の最後まで責任を負いとおしてくださる方、という意味です。

聖書と救い主イエスご自身は証言します、(ヨハネ福音書14:1-7「『あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。……わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』」。はっきりしたことが明確に語られていました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と主イエスは、私たちのためにも、あなたの愛する連れ合いや家族皆のためにも仰ったし、はっきりと約束してくださいました。心が騒ぐし、たびたびザワザワと波立ちます。だからこそ主イエスを、この言葉を心底から信じて、なんとしてでも、魂に深々と刻み込む必要があります。なぜなら、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、ついにとうとう、あなたは救われる」(ローマ手紙10:9参照)からです。