2021,10,12 号外
◎葬儀説教 創世記 2:4-18 日本キリスト教会 上田教会
『人が独りでいるのは良くない』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。6
しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。9
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。……15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18
また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 (創世記 2:4-18)
世界が造られた初めのとき、この地上は草一本も生えない荒涼とした不毛の大地だったと報告されます。なぜなら、雨がまだ大地に降り注いでおらず、またその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がいなかったからと。雨、そして土を耕す人。造り主なる神は、私たちの予想を裏切って、不思議な仕方でこの問題を解決していかれます。まず空からではなく、地下から水が湧き出て土の面が潤されます。そして土を耕す人を、神は、土の塵をもって形づくります。どうして、土を耕す人を、わざわざ土の塵から形づくったのか? 人は、固い石や鉄やダイヤモンドから造られたのではなく、泥をこねて土の泥によって造られたのでした。それはまったく危うい生き物であり、それぞれに貧しさと欠けと弱さを抱えもち、自分自身の限界に悩む存在だということでしょう。そして面白いことに、耕す人とこの大地とは『土の塵でできている』という大きな共通点をもっています。恵みの雨が降り注いで潤されなければ、また雨を受けとめて土を耕す人がいなければ、この大地は草一本も生えない荒涼として荒れ果てた不毛の土地でありつづけたように、それとまったく同じく、私たち人間にも恵みの雨が降り注いで潤されなければ、また私たちを耕してくれる別の『耕す人』がいてくれなければ、この私たちも草一本も生えない荒涼として荒れ果てた不毛の存在になり果ててしまうということでしょう。恵みの雨、そして私たちを耕し守ってくれる別の働き人。しかもどの1人の働き人も例外なく、石や鉄やダイヤモンドでできた働き人など1人もおらず、皆それぞれに貧しさと欠けと弱さを抱え持った、危うさと限界に悩みつづける働き人たちだったのです。もし手荒に乱暴に扱えば、かんたんに心も体も壊れてしまうほどに脆い存在です。
7節「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神が吹き入れてくださった命の息、それは神からの恵みと祝福です。それぞれに貧しさや欠けをもち、いたらなさやふつつかさを山ほど抱え、乏しく危うい存在であり、けれどそれだけでなく神からの祝福を受け、恵みを贈り与えられている。だから生きる者とされた。これが私たち人間の本質です。
18節の言葉はよく知られています。結婚式のときによく語られるし、キリスト教のことをよく知らない人たちでも、この言葉をどこかで耳にします。「人が独りでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。この18節は、ただそれだけで語られているのではなく、15節からのつながりの中に置かれています。「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と。エデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。 (1)その土地を耕し守って生きるという使命と役割が与えられたのです。(2)すべての木から取って食べよ、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。使命と役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め。しかも土で造られた私たちはあまりに不完全で、未熟でふつつかでした。だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りではそのその土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。独りでは、『これだけはしてはいけない』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどできないからです。助ける者がいてくれるなら、その人はその土地を耕して守りながら生きることができます。その人は祝福と恵みを受け取って喜び祝い、感謝にあふれて生きることができます。助ける者がいてくれるなら、その人々は戒めのうちに身を慎んで留まることができます。
ふさわしく助け合う者の輪が、少しずつ少しずつ広がって大きくなっていきます。2人から3人へ、やがて4人、5人、6人と。さらに10人、20人へと。私たちを助けてくれるふさわしい助け手。それは究極には、主であられる神さまです。神はご自身を信じて生きる者たちのためにこう約束しておられます、「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行ってもあなたをまもり、あなたを連れ帰る。私は決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行う」(創世記28:15)。それぞれに暮らしているその場所が、あなたのためのエデンの園です。心を込めて精一杯に耕し守りなさい。恵みと祝福の実を取って食べなさい。けれど、「これだけはしてはいけない」と戒められていることの内に身を慎んで留まっていなさい。大丈夫、あなたにはできます。神が味方であって下さいます。ふさわしい飛びっきりの助け手がいてくださいますので。救い主イエスが私たちの助け手として、今や私たちの傍らに立っていてくださいますから。
【式順序】
招きの言葉 詩篇139篇 8節
讃美歌 12番 ♪めぐみゆたけき主を (1,2節)
聖書 創世記 2章4-18節
葬儀の辞
祈り
故人略歴
頌栄 539番 ♪ああめつち こぞりて
祝福 申命記 31章8節
当教会では、「葬儀説教」(葬儀の辞)と「故人略歴」とをはっきり区別して扱っています。故人を過度にほめたたえて美化してしまわないために。また、聖書の説き明かしに集中するために。コロナウィルス警戒中でもあり、ごく少人数、また全体で25分程度の短縮版。基本的には、いつもの礼拝と同じです。