10/24 こども説教 創世記 4:3-16
『なぜ怒るのか?』(後篇)
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。……8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。 (創世記
4:3-15)
【こども説教】
兄のカインと弟のアベルは、それぞれ神さまに捧げものをささげました。神さまは弟の捧げものは喜んで受け取ってくださったのに、兄さんからのささげものを喜びませんでした。それで、兄さんは弟のことが妬ましくなりました。神さまに対してとても腹を立て、神の顔を見ることが出来ず、自分の顔を地面に伏せました。
聖書の中で神が人間に質問しているとき、よく気をつけていなければなりません。何でも知っている神がわざわざ質問しているからです。その質問で、いつも、神さまがその人に大切なことに気づかせようとしています。まず6節でカインに、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか」と質問しています。本当は、それは神さまへの感謝のささげものだったはずでした。腹を立てる前から、そのささげものは神への感謝ではなくなり、誉められたり、認められるための道具や手段になりさがっていました。神への感謝の心とはずいぶん違うものにすり替わっていました。神から顔を背けたとき、神さまは兄さんに、「危ない。気をつけるんだよ」と知らせてあげようとしていました。神に背く罪の心が荒々しい獣のように、あなたを待ち伏せしている。恐ろしい罪の力に飲み込まれ、喰い尽くされてしまいますよと。
ささげものをし、神の御声を聴いた礼拝の帰り道、カインはアベルを殺してしまいました。そこで、神からの2つめの質問、9-10節、「弟アベルは、どこにいますか。あなたは何をしたのです」。共に生きる兄弟姉妹や隣人や友達が安心して生きていくことのために、私たちには責任があります。「わたしの罰は重くて負いきれません」と悲しみ嘆くカインを神さまはとても可哀そうに思って、カインが生きていくことが出来るように『しるし』をつけてあげました。神が彼を可哀そうに思って、必ずきっと守ってくださるというしるしです。
【大人のための留意点 ①②】
(1)9節「あなたの弟はどこにいますか」
「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」;神に顔をあげなかったカインは、弟を知らないと言う人間になっていきます。助け手なしには生きていくことのできない人間が、共に生きるべき兄弟・隣人を失い、ひいては自己の存在自体を破綻させていきます(高松牧人『旧約聖書に聴く。原初史が語る人間と世界(6)』福音時報 2021年6月号)。
(2)15節「しるし」;確かなことは、それが神の忍耐と憐みのしるしであること。(そのしるしは)殺人者の立場に身をお置きになったなった方のしるしであったとしても不思議ではない。かれ(十字架につけられた方)はカインの弟殺しを贖われる。われわれのうちなるカインにまさる方、世界の歴史と教会の歴史の中にいるカインにまさる方がおられる。それゆえに、カインのしるしは十字架のしるしです。(Wリュティ創世記講解説教『アダム』該当箇所)
そう、救い主イエスの御人格と御業によって、私たちに対する神の忍耐と憐みを知り、ついに私たちは神ご自身を知る(ヨハネ1:18「ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」,同14:9-10「わたしを見た者は、父を見たのである」)。
ウィリアム・ブレイク画