2021年10月18日月曜日

10/17「神のものは神に返しなさい」ルカ20:19-26

           みことば/2021,10,17(主日礼拝)  341

◎礼拝説教 ルカ福音書 20:19-26         日本キリスト教会 上田教会

『神のものは神に返しなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

20:19 このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。20 そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。21 彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。22 ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。23 イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、24 「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。25 するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。26 そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答えに驚嘆して、黙ってしまった。ルカ福音書 20:19-26

 

11:3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。ルカ福音書 11:3

 

8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。……17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。                                       (申命記 8:3-18)


主イエスの敵対者たちが近づいてきます。言葉尻をとらえて主を捕まえようとして、こう質問します。22節、「ところで、カイザル(=ローマ皇帝)に貢ぎ(=この国を支配しているローマ帝国への税金)を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。つまり私たちがローマ皇帝に税金を納めるこのは、神の律法にかなっているだろうか。かなっていないだろうかと。主イエスの弟子とされた私たちもまた、しばしばまったく同じ難しい質問を突きつけられます。当時、この国は強大なローマ帝国に支配され、その植民地とされて、首根っこを押さえ込まれていました。当時のユダヤ人たちは税金をローマ帝国に納めることは間違っていると十分に分かりながら、嫌々渋々と納めつづけ、その税金を取り立てる取税人を「罪人。裏切り者」と言って軽蔑し、憎みました。八つ当たりでした。本当は、支配者であるローマ帝国に腹を立てていたのですし、言いなりにされ身を屈めさせられている自分たち自身のふがいなさを軽蔑し、憎みたかった。この同じ憎しみと怒りが、主イエスに向かって今にも燃え上がろうとしていました。

24節。主イエスは、自分の手に持っている銀貨を出して確かめてみなさいと命じます。それは勿論、ローマ帝国銀行発行の銀貨です。「それにあるのは、誰の肖像、誰の記号なのか」。彼らは「カイザル(=ローマ皇帝)のです」と答えます。「それなら、カイザルのものはカイザル皇に。神のものは神に返しなさい」。

この地上の私たちの周囲には、いまや多種多様の大小様々な権威が立てられています。国には大統領や政府や総理大臣が立てられ、あるいは王様や天皇陛下が立てられました。都道府県や町や村には、県知事や村長や議会やその議員たちが立てられました。学校には校長や教頭や主任たちが立てられました。それぞれの町内会には、世話役が立てられました。それぞれの職場には管理職や上司がいます。一軒の家にも、お父さんお母さんがいます。一家の主人がおり、親戚のものたちがおり、共に暮す家族がいます。小学生や幼稚園児たちの中にさえ、他の仲間たちよりほんのちょっと強くて賢いボスがいて、まるで皇帝のように「あれをしろ。これはしちゃいけない」と指図し、思いのままに自分より小さく弱そうに見える他の子たちを操ろうとします。そんなふうにして大きな皇帝がおり、中くらいの皇帝がおり、すごく小さな皇帝たちもウジャウジャいて互いに命令したりされたり、従わせたり従ったりして、私たちの上に現実的な権威と影響力を持っています。困りました。私たちは、その大小様々な皇帝たちとの共存の仕方を問われつづけています。彼らの権威と影響力のどこからどこまでを受け入れ、どこをどう退けるべきか。どこを認め、どこをどう拒むことができるか。そして、私たち自身の何を大切にし、何を捨て去り、何にこだわり、何を明け渡してよいのかと。

ここで私たち全員は、ではそれならば、《神に返すべき神ご自身のもの》とは一体何なのかと問われます。それぞれ、自分の手の中に持っている豊かなものの一つ一つを吟味し、よくよく検討し、《神に返すべき、神ご自身のもの。神からのもの》を自分自身で見極めなければなりません。神ご自身の栄光は、神に返されねばなりません。神が感謝され、神こそが信頼を寄せられ、神がほめたたえられること。例えば、主の祈りは「御名をあがめさせてください」と祈り求め、「国と力と栄光とは限りなく、つまり何から何まで全部あなたのものだからです」と讃美しました。神に信頼と感謝を寄せること。神をこそ尊び、神に聞き従うこと。神にこそ願い求めること。それは義務である以上に、私たちが生きて死ぬことにとって生命線でありつづけます。私たちを心強く晴れ晴れとして生かしてくれる肝心要です。《この世の務めや責任を果たすこと》と《神のものを神に返すこと》とが対立し、矛盾することが度々あります。どちらかを選び取り、他方を後回しにし、退けねばならない時があります。

さて、主イエスが教えてくださったあの大切な祈り、主の祈りの中の第4の祈願です。「私たちに必要な毎日の糧を、どうぞ今日も与えてください」と私たちは祈ります。その願いは何でしょうか。「私たちに必要な毎日の糧。それは霊的な、とても高級な糧のことだろう」と推測した人々がいました。まさか、私たちが毎日食べるあのパンや米や味噌などといった取るに足りない、小さくささいなもののことではないだろうと。いいえ、とんでもない。違います。私たちの生活のすべての領域が、小さなことから大きなことまで、ごくささいなことから深刻で重大なことまですべて一切が、神の恵みのご支配の下に据え置かれています。そのことを弁えておくようにと命じられています。

「必要な糧を今日も」と願い求めるとき、私たちが生きることと死ぬことの一切がただ神にかかっていることに気づかされ、直面させられます。私たちの必要を満たすことのできるのは、ただ、ひとえに神さまだったのです。《日毎の糧》は、元々は戦いに出た兵隊たちに支給される1人分1日分の携帯食料のことを言い表しました。3人分4人分まとめてではなく、3日分4日分まとめてではなく、1人分ずつ1日分ずつ支給されます。そのように、私たちの必要が満たされることの一つ一つがまったく神にこそ依存しています。ほんの少し前の時代には、こういう事情について、人々はもっと敏感だったかも知れません。長雨や日照りや害虫の発生に悩まされる度毎に、空を見て、地面に目をこらしながら、彼らは「よい収穫を与えてください。どうか、よろしくお願いします」と神に願い求めました。生活の糧と生きる基盤とがまったく神ご自身によって据えられていることを、彼らは、ひしひしと実感することができたのです。今日では、うっかりすると、たとえ神を知り信じてもいるはずのクリスチャンであっても、神の力よりも人間の力にばかり目を奪われてしまうかも知れません。神さまに感謝や信頼が寄せられ権威をもっていてくださることよりも、自分自身や周囲の誰彼の栄光や権威にばかり心を惑わされてしまうかも知れません。それは、ありえます。それをこそ私たちは恐れ、十分に警戒しなければなりません。「米や味噌や生活費のことまで神に願い求めなくたって、私は困らない。そんなことまで神さまの世話になるつもりはない」と思う人がいるかも知れません。食べることや生活することくらい自分でやっている、と。自分で働いて生活費を稼いで、それで米と味噌を買っている。この家を建てたのも自分の甲斐性だし、毎月のローンを支払っているのも自分だし、家賃や光熱費を支払っているのも自分だしと。じゃあ、それなら、どういう領域の何について、あなたは神さまの世話になっているのかと問われて、私たちは何と答えましょう。

思い出しましょう。エジプトの奴隷の家から連れ出されたとき、荒れ野をゆく旅路がはじまってほんの数ヶ月で私たちが不平不満をつぶやきはじめたとき、主なる神は、私たちにこうおっしゃいました;「わたしはイスラエルの人々の不平を聞いた。彼らにこう伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と」(出エジプト16:12)。あの彼らも私たちも、《神がわたしたちの主である》ことを、度々すっかり忘れました。多くの思い煩いの中で、しなければならない多くのことの間で心が引き裂かれて、神を忘れました。皇帝のものは皇帝に、私のものは私に、あの彼らのものは彼らにと選り分けつづけて返すうちに、気がつくと、いつの間にか《神に返すべき、神ご自身のもの。神からのもの》がとてもとても少なくなってしまいました。さて、私の手の中にあった中の、何と何が神からのものだったか。どこからどこまでが、神ご自身のものだったでしょうか。それとも、神から来たものなど、元々、何一つなかったのでしょうか。この世界は私たち人間の世界でしょうか。私たちが生きて働いている、私たちによる、私たちのための世界だったのでしょうか。思い出すためには、天から降ってくる夕暮れの肉と、天からの朝のパンが必要でした。あの彼らも私たちも、そのようにして神が主であることを知ります。神から与えられた恵みの肉とパンを受け取って、驚いて、食べて、「ありがとうございます」と感謝して、そこで初めて、神が私にとっても主であってくださることを、ああ本当にそうだと知る。つまり、それまでは、あの彼らにも私たちにも、なかなか主を知ることができませんでした。約束の地に入るときを目前にして、モーセが告別の長い説教の中で語りつづけた福音も、ただこの一点でした。あなたの神、主が、あなたを導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい;「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申命記8:10)。そうです。あの彼らも私たちも、こうして主をたたえます。食べて満足し、よい土地を与えてくださったことを思うのでなければ、その満足と幸いの一つ一つがただ神さまから贈り与えられたと知るのでなければ、そうでなければ私たちは、神に信頼することも喜びたたえることも、慎み深く聴き従うこともできないでしょう。私たちは晴れ晴れとして働くことができ、それだけでなく、すっかり手離して安心して休むことができます。その理由は、天の御父がこんな私のためにさえ先頭を切って、第一に、生きて働いていてくださるからです。私たちが主を主とする理由も、主が主であってくださることを喜ぶ理由も、ここにあります。

わたしたちの手の中にある一つ一つのものに刻まれている肖像と記号を、改めて確かめてみましょう。あなたの食べる毎日の米と味噌、肉と野菜と魚、月々の生活費、そこにはっきりと《神からの贈り物》と書いてあります。あなたの夫、あなたの妻、子供たち、友人たち、あなたに与えられている仕事や役割、そこにも《神からの恵みの贈り物》と書いてあります。あなたの健康、あなたの1日分ずつの生命、そこにも《神からの贈り物》と書いてあります。不思議なことです。あなたのまとう着物は少しも古びず、擦り切れず、あなたの足がはれることもありませんでした。どうしてでしょう。主によって担われ、支えられ、養われてきたからです。主の口から出るすべての言葉によって生きてきたあなたは、それだけでなく、たしかに現にパンによっても生きてきました。そのパンの一つ一つさえ、主のあわれみと恵みの御手から差し出されてきたものでした(申命記8:3-18参照)。主からのあわれみと恵みと、そして具体的な支えや養いがあって、確かにあって、私たちは今日ここにあるを得ております。なんという恵み、なんという喜びか。

















「晩鐘」ミレー