みことば/2021,7,25(主日礼拝) № 329
◎礼拝説教 ルカ福音書 18:15-17
日本キリスト教会 上田教会
『小さな子供のように
なりなさい』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
18:15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。16
するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。 (ルカ福音書 18:15-17)
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。12
それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16
御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
(ローマ手紙
8:11-16,マルコ福音書 14:36「アバ父よ」)
15-17節、「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。人々が小さな子供たちを主イエスのそば近くへと連れてきました。その人々と小さな子供たちを追い払おうとした弟子たちが主イエスから厳しく叱られました。「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない」。注意して読むべきは、特に小さな子供たちだけを優先的に迎え入れようとする判断ではないということ。救い主イエスにとっては、小さな子供も若者も大人も年配の方々も、皆、分け隔ても区別もなく、まったく同等です。むしろ、誰も彼もが幼子のようになって、『神の国を受け入れようとする者たち』であってほしいと願っておられます。これが、救い主イエスの変わることのない本意です。「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。また別の福音書でも主イエスご自身が、同じように、「幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(マルコ10:15)と断固としておっしゃいます。とても難しい内容です。幼子とは何なのか、どういう存在なのか。神の国に入る、神の国を受け入れるとは、どういうことなのか。確かな判断材料を手にしているのでなければ、主イエスご自身が何を差し出そうとしているのかが分かりません。まず『神の国』とは、たとえのような、聖書独特の表現です。神ご自身がその力を発揮しておられる、神のご支配の領域。それを受け入れる、それに入るとは、神への十分な信頼であり、神に聴き従って生きることです。それを、幼子がどうやって、どのように受け入れ、入るのか。その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。救い主イエスこそが、わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子であることの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書14:36)と。「アバ」お父ちゃん、おっとうと、救い主イエスは小さな子供の言葉と心で御父への信頼と従順を言い表しています。「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。「私自身の考えでするのではなく私を遣わされた御父の御旨を求めている。自分の心のままを行うのではなく、私を遣わされた天の御父の御心を行うために来た」(ヨハネ5:30,同6:38)と自分の魂に刻みつづけた心です。御父への信頼と深い結びつき。その幸いな小さな子供の心をこの私たちも贈り与えられ、神の子供たちである身分と中身を受けました。聖霊なる神を自分の身体の中に受け、その御霊に導かれつづけて。
聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16)と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。それならば、たとえ70、80、90歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である自分』をついにとうとう思い出して、自分自身の心の中にも日頃の在り方にもそれをはっきりと取り戻して、晴れ晴れワクワクしながら、神の国に留まりつづけることができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。救い主イエス・キリスト。ほかの誰によっても、救いはない。私たちを救うことができる名は、天下に、この名のほか人間には与えられていない(使徒4:12)。そして、このお独りの方、救い主イエスがちゃんと与えられております。もちろんこの私にも、あなたにも。
神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の居場所を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。「自分の働き。自分の役割。自分の働き。自分の役割」と呪文のように唱えつづけて。けれど今では、その虚しさや愚かさの代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさを、私たちもようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちはとてもとても貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。
主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今までは、ずいぶん長い間、何か他のことを喜び祝っていました。自分自身の長所や短所をこね回して、それで喜んだり悲しんだりしていました。自分のまわりにいる他の誰彼の良い働きや悪い行いに一喜一憂し、泣いたり笑ったり、苛立ったりホッとしたり気を揉んだり。周囲の人々や私自身のいたらなさや貧しさや不足を嘆き悲しみ、そこに閉じ込められて上がったり下がったりしていました。「人様にご迷惑をかけて申し訳ない」などと人間のことばかり思い煩うあまりに、神ご自身こそが私たちの誰よりも、その千倍も万倍も生きて働いておられることをすっかり忘れ去ってしまいました。ある夜更けに、主イエスの前で、ニコデモという名前のおじいさんが苦々しく、悲しく物寂しく言い張っていました。「人は年をとってからもう一度生まれることがどうしてできますか。そんなことができるわけがない。そんなタワ言を信じられるわけがない」と。なんて可哀想で憐れな、惨めな惨めなおじいさんでしょう。主イエスは、分かったつもりになって何も分かっていなかった、分かろうともしなかったあのおじいさんと、そしてここにいる私たちに向かっても仰います。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、新しくもう一度、小さな子供になるのでなければ、神の国を見ることはできない。そこに入ることも、そこで幸いに喜びにあふれて暮らすこともできない」(ヨハネ福音書3:3参照)と。その私たちが、けれどこれからは主の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食い、回り道をしてしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。多分、まだ間に合います。
さて十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と主イエスは必死に祈っていました。天の御父への信頼にしがみつき、それを改めて受け取ろうとしていました。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、この私たちは同じように、小さな子供たち同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。天の御父への十分な信頼。幼な子のようになるという、その幼な子の中身はこれです。神への信頼が健やかにすくすくと育ってゆくのかどうか、信仰の中身もこれです。ですから主イエスは弟子たちに仰いました。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:31-33)と。『神の国』、それは神が全世界の王として力を十分に発揮してくださることであり、その領域の中にこの自分自身も住まわせていただくことです。『神の義』、それは王の中の王であるその神が正しく真実であり、慈しみ深くあってくださること。『まず神の国と神の義を求めよ』とは、最初にはそうしなさいということでなく、最初から最後までずっと、いつでもどこでもどういう場合にも、神が慈しみ深い真実な王として力を十分に発揮してくださることを求め続けよ。他一切はすべて添えて与えられると約束されているのですから、他のことは願うまでもないということです。神を知り、神に十分に信頼を寄せ続けて生きることができるなら、それで十分です。小さな子供たちよ。とても幸いな小さな子供たちよ、そのとおりです。そのようにして、神さまとの格別な出会いを一回また一回と積み重ねてきました。ですから私たちも、「わたしの思いではなく、他の誰の思いや願いや考えでもなくて、ただただ御心のままになさってください」と天の御父に信頼しています。すっかり全部をお任せし、安心して、この私たちも、もう小さな子供です。なぜなら神の憐れみのもとに、神の子供たちとされているからです。