みことば/2021,7,4(主日礼拝) № 326
◎礼拝説教 ルカ福音書 17:26-37
日本キリスト教会 上田教会
『終わりの日に』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
17:26 そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。27 ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。28
ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。30
人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。31 その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。32
ロトの妻のことを思い出しなさい。33 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。34 あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。35
ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。36 〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。37
弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。 (ルカ福音書 17:26-37)
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。26
互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。 (ガラテヤ手紙 5:24-26)
26-31節、「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな」。この世界の終わりの日に、救い主イエスが審判を行い、世界のための救いをまったく成し遂げるために、やがてふたたび来られます。「ノアと家族が箱舟に入ったとき、大洪水が起こって、すべてを滅ぼし尽くした日のように」、その日は来る。「ソドムの町が滅ぼされたとき、ロトとその妻と娘たちが逃げ延びようとして、けれどその妻と、他すべての住民たちが滅ぼされたその日のように」、その日はやってくる。とても厳しい光景を描き出しながら、そのときキリストの教会と私たち自身を含めて、この世界にどんなことが起こるのかを、救い主イスご自身が語り聞かせておられます。別のところで聖書は証言します、「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、……突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう」(1テサロニケ手紙5:3-6)。
平和と豊かさを楽しんでいたはずの、この日本も含めて世界中の国々が、救い主イエスがふたたび来られる終わりの日に、ここまで徹底して打ち砕かれ、ひっくり返される。その姿が、あからさまに描き出されています。救い主イエスがふたたび来られるとき、この世界と多くの人々は、なお悔い改めておらず、神へと立ち返っていません。主であられる神を知る知識に満たされてもおらず、神との平和はなおまだ、この地上に築きあげられてもいません。神を信じて、その御心にかなって生きようとする者たちは、ノアやロトの時代と同じように、その日にも、また今日でも、ほんのわずかしかいません。
だからこそ私たちは、自分自身に気をつけていなければなりません。この自分がいったい何を思い、何を願い求め、どのように一日ずつを生きているのかと。神を知らず、信じることもしない人々と同じように、「食べたり、飲んだり、ものを売り買いし、食物を植え、家を建て」て、ただそういうことのためだけに生きて死ぬのであれば、もし、そうであるならば、それはまったく不十分です。ソドムの町とその暮らしから逃れて、この私たちも、ロトとその家族のように生きのびる必要があります。大洪水が迫る日に、ノアと家族と生き物たちのように、神の箱舟に避難する必要があります。そうでなければ、この私たちも滅び去ってしまうからです。救い主イエスがふたたび来られる日に、その日は、ノアが箱舟にはいった日のようにやってきます。ロトと家族がソドムの町から出ていった日のように、やってきます。
32-36節、「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。「ロトの妻のことを思い起こしなさい。あの彼女がどう振る舞い、どのように去っていったのかを覚えていなさい」と命じられます。彼女は、神を信じて生きる人の妻であり、その家族でした。夫ロトを通して、アブラハムとも深い結びつきの中に生きていました。神の命令によって夫ロトが自分と家族のいのちを救うためにソドムの町を出たとき、あの彼女も夫や娘たちと共にその町を逃れ出ました。けれども、彼女は後ろに残してきた町と親しい人々と、そこでの暮らしに、ついつい自分の心を残してしまいました。神の御使いは、あのとき彼らに厳しく言い渡していました、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」(創世記19:17)。後ろを振り返ってはならないときつく戒められていましたが、あの彼女は振り返ってソドムの町を見て、すると直ちに死んで塩の柱に変えられてしまいました。「ロトの妻のことを思い起こしなさい」と私たちも、救い主イエスご自身の口によって戒められます。彼女に起こった出来事は、神を信じて生きるすべてのクリスチャンのための戒めであり、警告です。救い主イエス・キリストがふたたび来られるとき、多くのクリスチャンがその同じ誘惑にさらされるのかも知れません。ソドムの町と、その日々の暮らしと、そこで慣れ親しんだ人々に引かれる心を、この私たち自身も自分の胸に持っているからです。救い主イエスに仕えながら、自分の連れ合いや家族に仕え、救い主イエスに喜んでもらいたいと願いながら、正直なところ、自分の家族や親族や親しい友人たちにも喜んでもらいたい、また自分自身の心をも喜ばせたいと願う私たちです。この世界とソドムの町々と、そこでの暮らしと人々に心魅かれつづける私たちです。それで、こどものための信仰問答はこう語りかけます、「あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか」。「いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます」。
33節、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」。エルサレムの都に向かって、そこに待ち構えている十字架上での死と、葬りと、復活に向かって上って行かれるとき、主イエスは弟子たちに繰り返し、同じ一つのことを語り聞かせていました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ9:23-25)。救い主イエスに従って生きてゆくためには、自分を捨て去る必要がありました。「自分がしたいこと。したくないこと。自分の欲望や願い」、それらを「捨て去るべき自分。自分のいのち」と言い表されていました。それに執着し、こだわりつづけて抱え持っている間は、主イエスに従うことができないと。自分自身を捨て去り、自分を退け、否定すること。神を自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分自身のための働きを後ろへ退けて、脇に控える必要があります。「私が私が」と我を張って、いつまでもどこまでも私が自分のための主人であり、中心であり続けている間は、神の御心とそのお働きは邪魔されつづけています。主イエスに従っていくこともできません。主イエスにご主人さまとして力を発揮していただくためには、その邪魔をしている自分の一切の欲望を投げ捨てる必要があります。そのようにして初めて、そこでようやく、私たちは幸いに生きることができます。神に信頼し、聞き従い、神への従順のうちに日々の生活を生きること。ここに、私たちのための格別な幸いがあります。なぜ、この私たちは、自分のために用意されている十字架を背負い、苦しみと悩みに耐えなければならないのか。それこそが、神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練であるからです。自分自身の弱さや危うさを、私たちはよくよく知らねばなりません。しかも私たちはとても思い上がりやすい性分をもっていて、ついつい他の人間たちに対しても神さまに対しても頑固に自惚れて、思い上がってしまうからです。恥を受け、重い病に苦しみ、さまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びはじめます。聖書は証言します、「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない」(ガラテヤ手紙5:24-26)。だからこそ主イエスは仰います。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救う」と。そうか。自分の命だと思い込まされていたものは自分の肉と情と欲の誘惑にすぎず、ただ虚しいだけの偽りの命でした。本当の生命は、救い主イエスによって、ただ神から贈り与えられます。
37節で、「主よ、それはどこであるのですか」と弟子たちが問いかけたのは、語られた主イエスの言葉によって彼らがひどく混乱し、心を乱していたからです。さて、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。「死体」とは何なのか。そこに集まってくる「はげたか」とは何か。はげたかたちは死体に何をしようとするのか。多くの解釈と議論がなされつづけて、この発言の意味はよく分かりません。ただ、「罪の中で死んでいた私たち」であり、「神の恵みによるのでなければ、罪に死んでいた者は誰も神の国に入ることはできない」と、世々の教会は習い覚えてきました(エペソ2:8,ヨハネ3:5,使徒4:12,ローマ5:6-12,同8:11)。私たち自身の心とその普段の生活の只中で、なお罪が力を発揮し、私たちを『罪の中に死んでいる人間』へと連れ戻そうと狙いつづけます。だからこそ神の恵みによって、新しく御心にかなって生きる者であらせていただきたいのです。御霊の働きによって生かされ、その御霊によって進んでゆくことができますように。しかも、キリストに属する私たちであるので、そのように生きることができるからです。神ご自身が、そうさせてくださるからです。